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記憶の眠る街  作者: 叶 響希
3/7

 俺の右目は、俺が九歳になる直前に機械になった。


 生身の両目で見た最後の映像は、目の前に迫る鉄の柱だった。立ち入り禁止の軍用地へ探検に出かけた、その帰りのことだ。雨が降り出したことも覚えている。鉄柵によじ登り、敷地の外に出ようとしたときに、俺は足を滑らせた。柵にしがみつこうとしたせいで余計にバランスを崩し、顔面から柱の角に激突したのだ。ちょうど太いネジが飛び出していて俺の目を抉った。

 一緒にいた兄貴や友達の悲鳴が、激痛の寸前、鼓膜に届いたような気がする。

 右目を失ったのは他の誰のせいでもない。俺自身が招いた事故で、悪い偶然の結果だろう。

 気がついたら、俺は軍の医療施設にいた。そして朦朧とした意識の中、軍の関係者が両親に説明する声を聞いた。


 この子には、特別な処置を施すことにしましたよ。息子さんは運がいい。義眼との相性次第では以前より視力も上がっているはずです。……いえ、一定期間の訓練は必要ですが、日常生活に差し支えはないでしょう。この先数年は経過を記録させてもらいたい……症例は多いほうが今後の我々の……。


 ガキだった俺が会話のすべてを理解したわけではなかったが、自分の身に特別な事が起こったことだけは感じていた。

 軍人だった父親は恩恵だと喜び、母親は俺が失明を免れたことを喜んだ。

 義眼の照準を合わせるコツを覚えてしまえば、暗闇の中でもよく見え、遥か遠くの対象物をズームアップさせることもできる新しい右目は便利なものだった。定期的に検査を受けさせられることを除けば不自由はなく、俺自身ですら、最初は自分を幸運だと思った。

 ところが数年後のある日、定期検査を終えて廊下を歩いているときに聞いてしまった。


 訓練次第では、優秀な兵士になるでしょうな。ああ、検体にしておくには惜しい。……いやいや、いっそ左目も取り替えて完全な狙撃手に育ててはどうだ。なに、脳手術をすれば自我など失われる。養成所の子供は皆、そうやって戦場へ送り出されるのだから。


 それから――その瞬間から、右目は世の中で最も忌まわしいものになった。



 外を歩くとき、俺はなるべく人の顔を見ないようにする。俺の見え過ぎる右目は、疲れきった表情の奥にある悲しみも、無表情の底に横たわる苦痛も、笑顔の裏にある虚無さえ見抜いてしまうように思えるからだ。


 寝床から這い出た俺は、小さな店が密集して並んでいる裏路地に向かった。どの店も古くて清潔感に欠け、一様に胡散臭いが、そもそもこの界隈にはそういう場所が似合いな連中しか寄りつかない。今では俺にも、ここでの生活がしっかり染みついている。

 俺は背中を丸めてズボンのポケットに両手を突っ込み、ポケットの中の小銭を指先で弄びながら通りを歩いていた。煙草を買うか、食料を買うか。リゼットに言われたからではないが、今日のところは何か腹に入れて、修理にとりかかるべきなのだろう。たいした報酬を期待しているわけではないが、煙草をひと箱買うくらいの修理代を想像しても罰は当たるまい。


 この界隈を構成する色は、ほとんど灰色や茶色の類で占められている。鮮やかなものといったら、喧嘩で流れる血の色くらいか。ここに集まる者は皆、何かに苛立っているか、苛立つことにさえ飽きている。前者同士が些細なことでぶつかり合って血を流すのは日常茶飯事で、後者は死人でも出ない限りは傍観を決め込むのが常だった。


「生き残りらしいぞ」

 唐突にそんな声が届いて、俺は視線だけを上げる。

 まだ店を開けていない酒場の入り口に数人が集まって、ひとりの人物の周りを囲んでいた。脅しているわけでも暴行しているわけでもなく、話を聞いているのだ。この界隈には色々な過去の持ち主がいる。犯罪者や脱走兵、ただの家出人まで様々で、よそ者から得られる情報に一喜一憂したり、この街から逃げ出したり、逆に居直ったりする。


「申し訳ありませんが、軍のことはあまり詳しく知らないのです」

 人だかりの中から落ち着いた声がして、素通りしようとしていた俺は足を止めた。男にしては柔らかい声だが、軟弱そうな印象ではない。顔を見てやろうと背筋を伸ばしたが、体の大きな奴に邪魔されて俺からは見えなかった。

「怪我を負った際に、昔の記憶が曖昧になってしまって……」

 癖のない話しかたに誘われるように近づいた俺は、ついにその横顔を見た。

 栗色の髪と色白の肌が、一瞬、俺の中で懐かしい顔と重なる。

「それに僕は、軍人という職業も好きではないので」


 ――僕は軍人になりたいなんて思ったことはありません。


「ルン……!」

 気がついたら、俺は周りを押しのけてそいつの目の前に飛び出していた。俺の大きな声に驚いてこちらを見た男と、真っ直ぐに目が合った。

 よそ者の男は、俺よりも年上に見えた。ルンとは瞳の色が違うし、ルンにはあった左眉の上のホクロがなく、唇や鼻の印象も記憶とは合致しない。

「わ……悪かった。人違いだ」

 俺は正真正銘の馬鹿だ。見れば見るほど別人だというのに。誰よりも優れているはずの目も、使う脳味噌次第では人並み以下らしい。


「どなたかをお探しなんですか?」

 それでも、取り成すような柔らかい声に俺は縋った。乞食が残飯さえねだるように。

「あんた……一年半前に北の国境付近で起きた反戦デモの関係者?」

「いえ、僕はその頃、東の国境側を旅していました」


 あっけなく否定された言葉に、俺は捨てられた看板みたいに立ち尽くすしかない。そんな都合のいい偶然なんて、起こるはずがない。起こるはずがないと頭の端ではわかっていたのに、俺は自分を笑うこともできなかった。

「ルンを知らないか? いや――エミールっていうんだ、本当は」

 男は黙って首を振る。それでもう十分だった。

 呼び止めようとする声を無視して、俺は踵を返した。


 いまさら、だ。いまさらあいつのことを思い出しても、面影を探しても、それがいったい何になるのか。俺はどこかで道を誤って、坂道を下りながら生きている。坂の上にあったはずの何かは、いつの間にか形すらわからなくなった。

 じゃあなんで、こんなにも息が詰まるのか。

 いっそ喚いて当たり散らして、誰かの傷つく顔を見ることで溜飲を下げることができるほどガキならよかった。悪友達と問題ばかり起こしていた、あの頃のように。



 結局俺は、硬いパンと干し肉を買って廃工場に戻った。

 道具を引き寄せて頼まれた時計の修理を始めると、腐って渦を巻いていた気持ちが少しずつ楽になっていく。分解し、緻密な細工に感嘆し、熱中すればするほど思い知る。

 俺はこの仕事が好きだ。

 腹いっぱい飯を食うよりも、まともな住居を手に入れるよりも、上等な女を抱くよりも。俺はきっと、こうしていることが幸せなんだろう。


 右目のおかげで、俺はほんのささいなネジの緩みや接着ミスも見逃さない。他の奴なら見落とすような汚れや傷も見える。そればかりか、温度や特殊な光を感知する機能さえある。日常生活では左目との折り合いをつけることに意識を払う必要があるが、この仕事をしている間は、存分に右目の機能を活かすことができる。右目を誇りに思える。

 本来は、軍事的な意味を持つ人殺しの道具であったとしても。自分がそんな部品になってしまうことから、俺はなにがなんでも逃げたかった。いくら暴れても、それで自分が癒されないことは、俺自身が一番知っていた。だから、巨大要塞のような壁の外へ出ることを願ったのだ。


 内側から外の世界へ飛び出した俺は、ひと月近くあちこちを放浪して、やっとある村に辿り着いた。白い壁の見えない遠い場所にある、時計職人達が形成する集落だ。

 俺を受け入れてくれた親方は、俺の父親よりも二十歳は年上だった。いわゆる職人気質の頑固者ではなく、話好きで陽気で、酒と冗談が好きな爺さんだ。四十年来連れ添っている妻と二人で暮らしている。子供はいない。戦争に取られて死んだらしい。

 十五歳からずっと、俺は親方夫婦の家の離れで寝起きをしていた。今から一年ほど前――あの事件と遭遇するまで、村を離れる日のことなど考えもしなかった。


     *  *  *


 村外れに脱走兵が住み着いたという噂は、すぐに村中に知れ渡った。だが、誰も積極的に軍に知らせようとはしなかった。口にこそ出さないが、誰しも戦争を憎んでいる。そしてできることなら、その男が自分達の関与しない場所で幸せになって欲しいと思っていた。

 俺は、自分と同じ年頃に見えるそいつと話をしたことがあるわけじゃない。ただ、村の中心にある大きな仕掛け時計の前で姿を見かけただけだ。


「……ここはいい村だな」

 俺の耳に届いたそれは、独り言だっただろうか。


 午後六時になると、仕掛けが動き出した。

 誰が作曲したのか知らない、これといって特徴のないメロディが流れ、時計台の本体からは子供の人形達が飛び出して、くるくる回り始める。淡いオレンジ色の光が子供達を包み、やがて六回の鐘が鳴り終えると共に、人形達は一斉に時計台の中へ戻っていくという、ただそれだけの仕掛けだ。子供達の表情が生き生きと変化することを除けば、古典的と言えるくらいに単純な構造で、とても古くからここにあるものらしい。


 今では当たり前になって誰も立ち止まったりしないその時計台の前で、俺も村に来た最初の数日間は飽きもせずに立ち尽くしていた覚えがある。

 だからなのか。俺はつい、口を開きかけた。

「お前……」

「おいディル!」

 道の反対側から顔見知りの職人に声を掛けられなければ、俺はたぶん、そんなところに堂々と立っていたら危険だと、そんなことを言おうとしたのだと思う。


 泣き顔のような微笑みを浮かべたそいつが、ちらりと俺を見た。汚れきった軍服が不似合いで、夕陽を映した瞳がやけに穏やかで静かで、そして悲しかった。

 そいつと俺との違いは、生まれた場所だけだったように思う。俺は軍人になることを拒否する自由があったが、きっとそいつにはなかったのだ。


 真夜中近くになって、事件は起こった。

 酒場で酔いつぶれた親方を迎えに行っていた俺は、偶然にも外にいた。そして見てしまった。

 静まり返った夜闇の中、仕掛け時計の前に誰かがいるのがわかった。

 銃声が響いたのは、そのときだ。


 人影の左ふくらはぎを、銃弾が貫通するのを見た。影が大きくよろめく。

「――っ!」

 横道に突っ立ったままの俺を、酔っ払っていたはずの親方が引き倒した。親方の節くれだった手が、声をあげそうになった俺の口をふさぐ。意志とは無関係に全身が震える。


 俺の右目は見た。立て続けに闇を貫く銃声に合わせて、人影の右肩、背中、首筋が次々と血を吹く様を。

 大きく仰け反った体が石畳に倒れ、数秒の間、細かく痙攣して止まった。見開いた両目は、まるで俺の存在を知っていたかのようにこちらを向いていた。

 事切れる寸前にその瞳が流した涙まで――俺の右目は、見てしまった。


 翌日、石畳の上には血痕だけが残っていた。誰が掃除したのか、すぐにそれも消えた。

 見る者のいなくなった時計台からはいつもの明るい光景と音楽が吐き出され、人形達がくるくる回り、滑稽なまでに日常を演出していた。まるで、夜の間に起こったことのほうが作り物めいて感じられるほどに。

 噂では、脱走兵がいることを通報したのは村長だという。村長には村を守る義務がある。俺にはその判断を責める権利はない。


「焦るこたぁないさ。なあ、ディル」

 以来、思うように作品が作れなくなった俺を、親方はそう言って慰めた。義眼のことを知っている親方は、俺が人並外れて夜目が利くことも知っていた。

 恨むわけじゃないが、親方はあのとき、俺の口よりも右目を塞いでくれるべきだった。


 そして俺は――それから半年後。

 内側の世界から逃げ出したように、村からも逃げ出した。俺を実の息子のように可愛がってくれた親方夫婦に、素っ気ない置手紙だけを残して。


     *  *  *


 そいつの代わりに俺が死ねばよかったなんていう、安っぽい正義感は持ち合わせちゃいない。

 わかっている。俺に何かできたはずもないし、仮に俺があいつを匿ったとしても――せめて銃が発砲される前に知らせてやることができたとしても、結果は同じだっただろう。

 俺はただ、耐えられなくなったのだ。

 罪の意識と呼べばいかにも陳腐な、けれど他にうまい言葉も見当たらない感情に、すっかり追い詰められてしまった。そしてなにより、絶望したのかもしれない。


 俺が唯一憧れた仕掛け時計職人の道が、ただの平凡であじけない、どこにでも転がっている普通の職業に思えてしまった。誰かを幸福な気分にするものだと思っていた仕掛け時計は、魔法でもなければ夢でもない。機械の寄せ集めにしか過ぎなかったのだ、と。


 俺には見えていた。明確な意識の中で見殺しにした。

 人影を発見するのと同時に、銃の照準が狙っていることにも気づいていた。あの脱走兵が生存を諦めていることも、最初に目が合ったときに感じていた。そして誰よりも、俺は自分が少しも特別なんかじゃないということを知っていた。


 俺はいつも、自分自身の弱さに怯えて生きている。そのくせ根拠もなく自信過剰で、いざというときには自分でも知らない力を出すのではないかという妄想を抱いてもいる。けれど何がどうなろうとも、俺はただ人より目がいいというだけの、紛れもない凡人でしかない。


 ――その目がディルのものになってよかったって、僕は思います。


 自分の機械の目を呪い、大人達を非難し、拒絶し続けた俺の本音から、ルンだけが目を逸らさなかった。きっと、俺が臆病者だと知っていた。

 昔から、俺は甘ったれている。今でもあいつがそう言ってくれるならと、ときどき思う。

「……クソったれ」

 手を止めて、舌打ちをする。まだやり直したいと思っている、そんな自分に嫌気がした。


 床の上の吸殻から吸えそうな煙草を拾い上げ、火をつけながら立ち上がる。壊れた窓のほうに歩きながら、心底呆れ、それでも自覚するしかない。


 俺は今でも忘れられないでいる。俺が作ったガラクタ達のように、捨てられないでいる。

 生まれ育った街に、いつか誰もが息を飲むような仕掛け時計を建てることを。軍の技術で生まれた俺の右目で、嫌味なくらいに明るい光を作り出して見せつけてやると、そう誓った日を、今でも心の底から引き剥がすことができない。


 薄暗い窓の外に広がる廃墟のようなこの一帯の向こうに、白い壁がある。その壁一枚隔てた場所に、俺が七年間戻っていない世界が存在する。

 今になって、ようやくわかったような気がした。親方の元で生活するようになっても、年に一度はこのあたりに足を向けていた理由が――そしてまた、ここに戻ってしまった理由も。

 俺はきっと、自分が思っているよりもずっと往生際が悪い。


 吸えないほど短くなった煙草を窓枠に押し付け、俺は少しずつ夜を増していく空を仰いだ。

 酒を飲まずに夜を迎えるのは、ここを根城にしてから初めてのことだった。


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