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記憶の眠る街  作者: 叶 響希
2/7

 目覚めは最悪だった。耳鳴りがして、身体が重い。

 俺は寝転がったまま、ぼんやりと天井を見ていた。


 もともとは工場だっただけあって、天井はやたらと高く、鉄筋の梁があちらこちらに走っている。どれも赤茶けた錆び色をしていて、いかにも捨て置かれた廃墟といった風体だ。錆びついた機材が放置され、コンクリートの床には汚れや亀裂も目立つ。

 壊れてうまく閉まらない窓からは、外の風が無遠慮に入り込んでくる。今はまだいいが、もう少し寒い季節になったら、ここでの寝起きは辛いだろう。

 動くのも面倒だ。今日は陽が翳るまでずっと寝ていようかと思った、その矢先。


「いい加減に起きたら? もうお昼になっちゃう」

 耳元で響いた高い声に、俺は両目を見開いて飛び起きた。上半身を勢いよく起こした途端に頭痛を感じ、顔をしかめながら声の主を見る。

 腰に届くほどの長い髪を二つに結んだ娘だ。まだ幼い印象の、十二、三歳の少女が立っている。黒いワンピースに白い肌、蜂蜜色の長い髪。廃工場には場違いな存在だった。


「誰だ、お前……?」

「わたしはリゼットよ。あなたがディルク? ディルク・アルトナー?」

 いきなり名前を呼ばれて、俺は片手で髪の毛を掻き回した。

「……だったらなんだよ」

 フルネームで呼ばれるのは、好きじゃない。名前そのものが嫌いというよりは、教師や軍人に呼び止められる瞬間を連想してしまうからだ。つまり、いっぺんで気に食わない気分になる。


「ねえ、ルンって誰?」

 ただでさえ気分の悪い俺は、この質問で一気に不機嫌の底まで落とされた。

「昨日、寝言みたいに呼んでたわ。恋人?」

「関係ねえだろ。ここはお嬢ちゃんの出入りする場所じゃねえし、俺はガキに興味もねえよ!」


 俺は怒鳴るように吐き捨てると、腹の辺りでもたついている毛布を肩まで引き上げ、背を向けて横になった。――と、そこで気がついた。昨晩、寝袋の上に倒れ込んだところまではおぼろげに覚えているが、毛布を掛けた記憶はない。

 ごめんなさい、と声がした。

「勝手に入ったのは、どこからが入っちゃいけないのか、ドアも線もなかったからで……あと、勝手に毛布を引っ張り出したのも、気に障った? でも、何も盗ってないし、悪気はなかったの。だってね、寒そうだったし……」

「――ルンは、俺の昔の親友だ。……死んだらしい。昨日知った」


 長くなりそうな言い訳を遮るように、気づいたら口走っていた。

 声に出して初めて、自分がルンをどう思っていたか気づく。あまりにもいまさらなのが、痛かった。二日酔いのせいではなく、喉の奥が重い。

 それきり黙った俺の耳元に、少女がしゃがみ込む気配がする。


「綺麗な色。ミルクティみたい」

 なんのことかと思ったら、俺の髪の毛のことらしい。ミルクティというのがいかにも少女趣味だが、実際はほんの少し灰色がかった薄茶色の髪、という意味だ。

「ずっと前にいた街に、こういう毛色の猫がいたわ。生意気で、でも人懐っこい猫だったの」

 細い指がゆっくり伸びてきて、俺の髪に軽く触った。無視していると少し大胆になって、いい加減伸びすぎた髪を撫でるように梳いていく。

 俺は猫じゃない。

 当たり前のことを当然のように思ったが、わざわざ抗議するのも馬鹿らしく感じて、俺は横向きの身体を仰向けに反転させた。本音を言えば、まるで慰められているようで癪だったのだ。


「……お前、一晩中ここにいたのか?」

「ううん。夜は話ができなかったから、今朝、出直したの。そうしたら、まだ寝てた」

 ニキビに悩まされたことなどないだろう頬を軽く膨らませ、少女は俺の顔を覗き込む。

「もう、起きる気になった?」

「俺になんの用だ? お前……ええと」

「リゼット。ちゃんと自己紹介したのに」


 ぞんざいな俺の態度に気を悪くした様子もなく、少女――リゼットは、ポケットから楕円形の小箱を取り出した。見るからに金属製で、なめらかな表面をしている。


「宝物を直してもらおうと思って」

「なんで俺に?」

「この辺りで、精密機械に詳しくてお金に困っていそうで友達の少ない人を探したの」


 どうやらリゼットは、良い意味でも悪い意味でも、思ったことをそのまま口にしてしまう性質らしい。子供故の率直さとマセガキ特有の生意気さが半々、といったところか。まあ、何を考えているのかまったくわからない輩よりはましだろうが。

 ようやく回転を始めた頭でそんなことを考えながら、俺は上半身を起こした。

「ちょっと貸してみな」

 手のひらの上に乗せられた箱は、思ったよりも重量がある。全体的に丸みを帯びた楕円形の箱を開けた俺は、思わず息を呑んだ。


 それは、小さな仕掛け時計だ。

 文字盤の周囲には金属製の動物や人間のオブジェが配置され、立体映像と音楽を流す仕組みになっている。規模は違うが、考え方は巨大な仕掛け時計と変わらない。この種の小さな時計は、時間を知ることそのものよりも、金持ちのステイタスとして用いられることが多い。

 驚いたのは、この時計は内側の人間――それも、特権階級の者でなければ持ち得ないような精巧な代物だったからだ。それでも俺は興奮を抑えて、時計を目の高さに持ち上げた。


「……ぶつけたか? それとも落としたのか?」

「大急ぎで荷物をまとめていたときに、机から落としちゃったの」

「一度分解してみないと駄目だろうな。ちゃんとした店に持ち込んだほうがいいぜ」


 リゼットは下唇を突き出して、それができないとわかっていて言う俺を恨むように見る。

 厄介事はご免だ。――そう思うのに、断る選択肢が浮かばなかった。


「ふ……ん、訳ありか。いつまでに修理すればいい?」

「できるだけ早く」

「早くても二、三日はかかるぜ。ここじゃあ部品が揃うかもわからねえし」

「修理代を払えるかどうか、聞かないの?」

「その気があるなら払える分だけ置いていけ。それに、修理できるっていう保証もねえ」


 俺は箱を脇に置くと、胸のポケットを探って潰れた煙草を取り出した。床に転がっていたライターで火をつけ、深く吸い込む。

「これをどこで手に入れた?」

「マティアスからもらったの。マティアスっていうのは、わたしの愛する人よ」


「……愛する人、ねえ」

 煙を遠くに吐き出しながら、俺はしらけた声を出す。恋すら知らないような少女が当然のように誰かを愛するなどと発言することが滑稽に思えたのだ。ぬいぐるみや洋服を一番大事だと言うなら、笑って済ませただろうが。

「意味わかって言ってんだか」

「わたしの家族で、わたしの恋人で、わたしの故郷。――わたしのすべてよ」


 淀みなく告げられた台詞に、俺は危うく煙で咽そうになった。

 真っ直ぐにこちらを見ている瞳は真剣そのもので、俺はその大きな青い目に射竦められたように背筋を伸ばしてしまう。どきりとした。

 ガキのくせして女みたいな目をしやがる。


「リゼット、お前……歳は?」

「十三歳と七ヶ月と五日。もう子供じゃないわ。……まだ、大人でもないかもしれないけど」


 煙草をくわえたまま、俺は笑った。

 リゼットくらいの歳の頃には、俺も自分を子供じゃないと思っていた。そして、同じくらい大人でもないことを知っていたような気がする。子供扱いされることを嫌い、かといって大人に敵わないことがあると、大人になれば自分にだってできるはずだと捨て台詞を吐いた。

 実際は、リゼットの歳から九年経った姿が今の自分なのだ。年月が過ぎるだけで憧れの大人になれると思った馬鹿なガキは、結局、酒と煙草を常習する馬鹿な大人にしかなれなかった。


「右と左で少し瞳の色が違う。片方は義眼なのね。ディルクは、もともとは内側の人?」

「……だったらどうした」

 突然、目の前に顔を突き出して、リゼットは首を傾げる。俺は機械の右目を、長い前髪でそれとなく隠した。

「どうして出たの? 内側はなにもかも素晴らしい場所なんでしょう?」

「行ったことがないのか?」

「わたし、IDを持っていないの。小さい頃にマティアスが助けてくれなかったら、養成所に入れられて戦場にいたかもしれない」


 あどけない唇から零れる台詞は、この世界の絶望の象徴だ。

 庇護者を失った十歳以下の子供は、国の管理する養成所に送られる。そこで、あらゆる教育を受けさせられるのだ――主に軍で活躍するための人材として。

 もしリゼットの言うことが本当なら、国の目を逃れた子供だということになる。


「ねえ、どうして? どうして内側の人がこんなところで寝てるの?」

「それは……仕掛け時計を作りたかったからさ。内側にも時計屋はあるが、もともと仕掛け時計の技術は外側で受け継がれてきたものだからな。……俺は、本物の職人になりたかったんだ」


 初対面の少女を相手に真面目な返事をしている自分を滑稽に思いながら、俺は内心で認めてもいた。俺の言っていることは事実ではあるが真実でもない、と。

 俺は、夢を理由にして内側の世界からの逃亡を図っただけなのかもしれない。自分でも気づかないうちに、俺は夢を利用していただけなのかもしれない。


「じゃあ、ディルクはとても勇気のある人なのね。マティアスが言っていたわ。自分の信じる道のためにそれまでの生活を変えることは、とても勇気のいることだって」

「……その、マティアスとかっていう奴は」

 何者かと訊こうとした俺の声は、能天気な明るい声に掻き消された。

「ねえこれ、全部ディルクが作ったの?」


 子供らしいちょこまかとした動きで、リゼットは壁際に並ぶ俺の残骸達の前に移動している。

 十を超えるガラクタと、そしてここにある唯一の完成品だ。特別な装置も部品もないこの廃工場で作った鉄屑以上仕掛け時計未満のガラクタ達さえ、俺は自分の周囲から遠ざけることができない。じっと見ていれば叩き割りたい衝動に駆られるくせに、側に置いておかないと不安になる。そうやって俺は、やっと今の状態にしがみついているのだ。


「動くの? 人形? 機械? あ、これは時計ね! 仕掛け時計」

「無闇に触んなよ」

「ね、これが一番綺麗。なんていう名前?」

「……『帰還のとき』」


 ――夢を叶えてくれるんでしょう? ディルには、僕らにはない特別な力があるんだから。


 夢から見放されることが怖くて背を向けるような俺に、何ができたというのだろう。

 ルンは俺に何を期待して、何を信じてデモに参加し、軍の銃弾を浴びたのか。

 あいつは意識を手放す寸前まで、俺がいつか約束を守ることを疑わなかっただろうか。

 俺は――どうして。


「今度、この時計が動くところを見せてね!」

 暗い感情に引き込まれそうになったところを、リゼットに強引に引き戻された。それを救いだと感じてしまったのだから、今朝の俺はどうかしている。

 俺は苦笑いしたい気分で、根元まで燃え尽きたタバコを床で揉み消した。

「身体は食料で育つけど、心は愛が無きゃ育たないの。この時計には心があるわ。心のある人は、きっと愛のある人」

「……なんだって……?」

 本当に、子供なのか大人なのかわからない。

 ほとんど呆気にとられている俺の前に戻ると、リゼットはカラフルな薄紙に包まれた飴玉をポケットから取り出した。

「ちゃんと食事を摂りなさい。とりあえずわたしのおやつをあげるから」

 じゃあまたね、と言い残し、リゼットは手を振って背を向けた。

「……マセガキ……」


 長い髪が蝶々のように背中で躍る様子を見送りながら、俺はやっと悪態を吐く。

 ためしに口の中に放り込んでみた飴玉は、気絶しそうなほど甘ったるくて、なぜか妙に懐かしく――脳裏に一瞬浮かんだガキの頃の自分を打ち消すように、噛み砕いていた。


 ――俺がいつか、お前らの度肝を抜くような時計台を建ててやるよ。


 残り一本になった煙草に火をつけ、吐き出した煙の行き先をぼんやりと目で追いながら、俺は目を細めた。そこに、あいつがいるかのように。


「なあ……」

 もしもお前ともう一度会えるなら。

 俺は懺悔するだろうか。そうしたらお前は、今度こそ俺を断罪するだろうか。

 俺は――人殺しだ。

 俺の特別な右目は、夢を叶えるために存在したんじゃない。

 それでも俺は、まだ呼吸をしている。お前さえ命を落とした、掃き溜めのようなこの世界で。


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