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記憶の眠る街  作者: 叶 響希
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 忘れていたはずの記憶に心を切り刻まれるほど、間抜けなことはないだろう。身構える余裕もなく無防備な部分を一突きにされた衝撃と、だらだらと血を流していてもおかしくないほどの痛みに、俺はただ、呆然とするしかないのだ。前夜までベッドを共にしていた女に翌朝いきなり別れを告げられたときよりも、それはずっとこたえた。



「よお、生きてたか」

 数年ぶりに見た悪友の笑顔は、昔のままだった。俺が故郷を離れてから、前にも一度道端でばったり出会ったことがあるから、こいつとはそういう縁があるのだろう。


 寂れた界隈の一角にあるこの酒場は、夕方になるとお互いに無関心な常連客で溢れる。いつものように独りで店に入ろうとした俺は、ひょっこり現れたそいつに声を掛けられたのだ。

 店の中は薄暗い。板張りの壁は、何年前からそこにあるのかわからない尋ね人の貼り紙や裸の女の写真、特権階級を嘲笑うような卑屈で下品な落書きで埋め尽くされている。


「お前、あれから一度も戻ってねえの? ええと、七年近く?」

 薄汚れたカウンターで奴は安酒をロックで注文し、その後で俺のほうに首をひねった。

「なんで?」

「――と、言われてもな」


 俺は煙を吐き出し、グラスを一気に空けた。店の親父に同じものを頼み、横目で奴を見遣る。

 昔は俺と一緒に悪さをしていたそいつは、今は衣料品を扱う実家の商売を手伝っているという。いずれはその店を継ぐのだろう。俺ではなく客を相手にするときは、丁寧な話し方をするのかもしれない。着ているものも悪くないし、腕時計にいたっては通信機能付きの最新型だ。

 まだ無謀な夢を持ち続けていた数年前とは違う俺の姿が、今のこいつの目にはどう映るのだろうか。


「仕事は順調なのか? 職人ってのは大変なんだろ?」

「親方と喧嘩して辞めた。半年前」

「でもお前、三年ちょっと前に会ったときには、作品が品評会に出展されたとか――」

「ああ。……そんなこともあったな」

「今はどこに住んでるんだ? ちゃんと食えてんのか?」

「なんだよ。久しぶりに会ったと思ったら、俺の素行調査でもする気か?」


 なるべく不機嫌に聞こえないよう、俺はわざとおどけた声を出した。

 きっとこいつには、今の俺のことが放っておけないほど惨めか、同情するほど哀れに見えるのだろう。無理もないことだった。


 手先も器用で映像技術にも興味のあった俺が仕掛け時計職人を目指したのは、十五のときだ。母親と妹を残して、ひとり家を出た。父親と俺より四つ年上の兄は、前の年に揃って死んでいた。べつに生活が苦しかったわけでもない。軍人だった二人が戦死した後、国からはまとまった金が支払われたし、母親は国立学校の教師という職業についていたからだ。どちらかというと恵まれた環境に育ったと思う。それなのに俺は、絵に描いたように出来の悪い息子だった。

 成績も素行も悪かった。なにより軍人が嫌いだった。親父や兄貴みたいな国の犬にはなりたくねえと、口汚く喚いたこともある。当時の俺には、夫や息子を死なせることを誇りだと思える母親の――大人の、国の、世の中の、すべてが許せなかったのだ。


「お前のほうこそ、今はどうなんだ?」

「ああ……そうだな」


 俺の質問に愛想笑いのような笑みをくっつけて、かつての悪友は自分の近況を手短に語った。

 将来を約束した女がいること、店の仕事は思ったよりも自分の性に合っているということ、新しい車を買おうか迷っているということ。

 俺は適当に相槌をうったが、そいつが現状に満足しているのだとわかればわかるほど、しらけるのと同時に自分の落ちぶれた様を見せつけられた気がした。

 話題を変えようと煙草を勧めたが、奴は受け取らなかった。やめたのだと言うが怪しいものだ。単に、俺の残り少ない煙草を取り上げては悪いと思ったのかもしれない。


「なあ……ルンのこと、覚えてるだろ? お前とはとくに仲よかった」

「ああ。久しぶりに聞いたな、その名前」


 断わられた煙草を一本抜き出して口にくわえながら、俺は思わず笑った。突如、強烈な懐かしさが腹の底から湧き上がる。そいつは俺にとって、少しばかり特別な存在だったのだ。

 俺達の間でルンと呼ばれていたのは、俺よりひとつ年下の、小柄で色白の奴だった。読書が好きで勉強ができて、俺達とつるんでいるのが不思議なくらいの優等生だ。しかし、ある意味では頑固な問題児でもあった。


 俺とは違う意味で、ルンは頑なに軍人を嫌っていた。正確には、士官学校への編入試験を拒否し続けていた。成績優秀者だけに与えられる特権階級への道を、白い顔を紅潮させ、指先を震わせながら、木っ端微塵に叩き割ってしまったのだ。特権階級のIDは、それを持たない者にとっては宝石より金塊より、場合によっては命より重いというのに。


 ――僕は医者になるんです。命を救う仕事を志す者が、どうして人を殺す指揮官を目指さなくちゃならないんですか!


「あいつのことだから、いい医者を目指してるだろうな。いや、もうなっている頃か」

「……死んだよ」


 やっぱり知らなかったのか、と。悪友は呟いて、それまでちびちびとやっていた酒を呷る。

 火をつける寸前の煙草を、俺は唇と指から取り落としていた。

「一年半ほど前らしい。商売上の知り合いから聞いて……俺も、知ったのは最近なんだ」

 俺は馬鹿みたいに固まったまま、こいつの声はいつからこんなに聞き取り難くなったのだろうかと、見当違いなことを思った。


「あいつが死ぬちょっと前……二年くらい前に俺の店に来たことがあって、お前とこの街で偶然会った話をしてやったんだ。お前の作品が品評会に出展されたってことを教えてやったら、嬉しそうに、そんなことくらいではまだ驚いたりしませんよ、なんて言いやがる」

 俺は、十四歳のままのルンの姿を想った。優等生ぶった物言いはあいつの悪い癖だ。

「あいつ、日付や空の色まで覚えてたんだぜ。いつか広場に時計台を建ててやるって、お前が宣言した日のことを。それで俺……初めてわかったんだ。あいつがお前と親しくしていたのは、お前が怖かったからでもお前を利用していたからでもなくて、あいつ――ルンは、ちゃんとお前と友達やってたんだなあってさ」


「……な……んだよ、それ」

 やっとのことで、俺は声を出した。滑稽なくらい、震えていた。

 久しぶりにその名を聞いた瞬間、俺は疑いようもなく想像したのだ。あの細かったルンも俺と同じように声変わりをして、髭も生えて、女を部屋に連れ込んで――俺とは違って家族を作り、俺よりはましな生活をして、周囲を認めさせて、もしかしたら大きな功績を挙げるのではないか、と。そうしたら俺は、たとえ地べたを這うような生活をしていても、垢にまみれた硬貨で新聞を買うに違いないのに。


「なんであいつが死ぬんだよっ!」

 遅れて声を荒げた俺に向けられたのは、今度こそ完璧な哀れみの視線だった。

「北の国境付近で大きな反戦デモがあったことは、お前だって知ってるだろ? ……ルンは、その中に医者の卵として参加していたらしい。軍が発砲して……それで」


 この世界は腐っている。極端に階層化されたこの国を支配するのは、一握りの特権階級だ。そして奴らが命令を下せば、軍は武器を持たない女子供にすら容赦なく銃口を向ける。

 本当に、腐ってやがる。

 けれど、俺のほうが――その死を信じたくない一方で、ガキの頃からの意志を貫いて逝ったに違いないルンをほんの少しでも羨ましいと感じた俺のほうが、きっともっと腐りきっている。


「……なあ、ディル。一度くらい家に帰ったらどうだ。せめて連絡くらいしてやれ」

 それでようやく理解した。こいつはこれを言うために、俺に会いに来たのだと。

「お前、こんなとこで終わっちゃいけねえよ。……ルンのためにも」


 俺は答えることができずに、震える手でグラスを握りしめていた。

 余計なお世話だと思う反面、俺を取り巻くすべてからまだ完全に見放されたわけではないことに安堵している自分自身が、なおのこと惨めだった。



 シティは、幾つもの領域に区分されている。生活水準や職業によって居住する場所が制限され、下層の者が上層の領域に出入りするには特別の許可証が必要になる。シティの中心には白亜に輝く巨大な要塞が築かれ、その内側と外側で世界は違った。外側の世界は、内側に比べれば文化的に遅れているし、町並みも古く治安も悪い。内側の世界は完全に整備された都市で、その中にはさらに、特権階級のための住居区が用意されている。


 特権階級ではないにしろ、俺も家を出るまでは内側の住人だった。今でもID登録が抹消されていない限りは、戻ることはできるはずだ――ただ、その意思がないというだけで。

 俺の今の住処は、廃工場の一角にある。転がり込んでいた女の部屋を一週間前に追い出されてから、それまで材料探しに訪れていた場所を根城にしてしまったというわけだ。今の俺には、雨露さえ凌げればどこで寝起きしようと同じことだった。


 そして俺は、廃材の中から材料を探しては、未だに時計を作っている。

 馬鹿げていると、自分でも思うのに。


 ――すごいですね、ディル。あなたにはこんな才能があったんだ。


 廃工場の暗闇に、あいつの声が聞こえたような気がした。まだ変声期前の、女みたいな声だ。

 本当にどうかしている。

 俺は酔った頭の中で自嘲しながら、窓から射す月明かりだけを頼りに寝袋まで歩み寄った。

 冷たいコンクリートの上に膝を折り、崩れるように寝袋にうつ伏せる。


「……ねえ」

 声が聞こえた気がして重い瞼を上げると、月明かりの差し込む窓辺に人影があった。

「ディルク・アルトナー?」

 影がしゃべった。夢なのか現実なのか、それさえわからない。

「……ルン……」

 そんなはずはないとわかっているのに、思わずその名が口をついて出た。

「お酒臭いなあ、もう」

 影が、何か言っている。


 ――時計職人なんて、夢のある仕事ですよ。僕、すごくいいと思います。


 俺も、そう思っていた。本当に、そう信じていたんだ。

 この腐った世界を、仕掛け時計の音楽や立体映像や人形細工で、少しでも明るく照らせると思った。そんな馬鹿みたいな夢を、自分なら叶えられると信じていたんだ、昔の俺は。


 でも――でも、ルン。

「……ごめ……な」


 お前が死んだと知っても、涙すら浮かばない。

 機械の目も生身の目も、すっかり乾いたままで。

 なあ、俺はいつから何を失っちまったんだろう。

 お前のために泣くことさえ、俺にはもう、できなくなってしまったんだろうか――。


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