第9回 先輩は僕をほんとうに殺したい
四月も終わりかけた月曜日のこと。昼休みに入ってすぐ、我が1年4組の教室に訪問者があった。クライスメイトたちが三々五々集まって弁当を広げたり談笑したりしていると、教室の後ろのドアが開いて女の声が聞こえてくる。
「小宮真白くんって、いますか?」
僕はびっくりしてそちらを見た。他にも近場にいた何人かの視線が集まる。
背の高い女子生徒が戸口のすぐ外の廊下に立っていた。ブレザーの襟章を見るに、高等部三年生だ。ショートボブに眼鏡で押しの強そうなきりっとした目が特徴的な人だった。戸のすぐそばにいたクラスメイト男子が「小宮なら……」と言って振り返り、僕を指さす。
その三年女子と目が合い、僕はわけがわからないまま目礼する。
彼女は大股で歩み寄ってきて言った。
「小宮くん? あの、奈鳥さんと同じ部活の」
奈鳥――。紫衣子先輩のことだ。僕はうなずいた。
「ああよかった」とその人は大げさに天井を仰いだ。「ほんとにいたんだ。助かった」
「ええと……僕になにか……」
「奈鳥さんに渡してもらいたいものがあるの。クラスには全然来ないし、あの建物は怖くて近づきたくないし、お願いできる?」
そう言ってA4プリントを差し出してきた。進路調査票、とある。見憶えのある先輩の字で3年1組奈鳥紫衣子と署名してあり、第三希望までの欄がきちんと埋められていた。
ただし――
「先生が、さすがにこれはなに考えてるんだ書き直せ、って言ってて」
三年女子が第一希望と第二希望の欄を指さして言う。それからプリントの下に重ねられていたもう一枚をずらして見せた。同じ調査票だ。こちらはまだ名前も志望先も書き込まれていないまっさらなやつ。
「第三希望は奈鳥さんなら余裕だと思うからこれを普通に第一希望にすれば、って。伝えておいてくれる?」
* * *
その日の放課後、部室に行って二枚の調査票を先輩に渡した。
「髪が短くて眼鏡の人? ああ、たぶんクラス委員の栗倉さんね」
紫衣子先輩はそう言ってプリントを受け取り、一瞥してため息をつく。
「進路調査なんてどうでもいいのに……。学校側には関係ないんだから」
コーヒーテーブルに投げ出された調査票を僕はあらためて見る。
第一希望、「殺人家」。
第二希望、「殺人評論家」。
先生が書き直せと言ってくるのも当然である。
「あの、第三希望なら余裕だからそれを第一希望にすれば、って言ってましたけど」
第三希望、「京都大学」。
京大が余裕なのか、と僕は感心してしまう。授業に全然出てないわりに成績優秀だとは噂で聞いていたけれど。
「第一希望にするほど進学したいわけではないわ。わたしの学びたい学科もないし」
「そりゃ殺人を学ぶところなんて京大に限らずないでしょうけど。ていうか評論家はともかくとして、『殺人家』ってなんですか」
「職業的な殺人者のこと」
「それって……ええと、つまり、殺し屋?」
「少しちがうわね。殺し屋というのは依頼を受けて対象を殺害するでしょう。殺人家は自らの作品として殺人を行うの」
「それでどうやって生計を立てるんですか」
「わたしとか小宮くんみたいな趣味の人間が世界中で一億人くらいいれば市場が成り立つんじゃないかと思うのだけれど……」
「殺人マニアが一億人もいたら人類滅びるんじゃないですかね……」
「それもそうね」と先輩はまだ書き込まれていない新しい方の調査票を取り上げてボールペンを握った。「現実的に考えると――」
第一希望欄に「推理作家」、第二希望欄に「推理小説評論家」と書き込む。第三希望は少し迷ってから変わらず「京都大学」。署名して僕に手渡した。
「それじゃ栗倉さんに渡しておいてくれる?」
「けっきょくこれしかないってことですか」
「そうね。創作の中で殺して欲求を満たすしかないでしょうね。わたしも宗像先輩に逢う前は小説家なんて選択肢があるとは想像もしていなかった」
宗像恭史郎。この『キラー・クイーン・サークル』の創設者であり、今は売れっ子の推理作家である大先輩。
「第三希望が京都大学というのも、つまり学問が目的ではなくてミス研に入りたいだけ?」
「そう。さすが小宮くん、わかっているわね」
京都大学推理小説研究会といえば、日本の本格ミステリを支える才気煥発な作家を次々と輩出してきた名門サークルだ。業界にさほど詳しくない僕も京大ミス研の名は知っていた。
「京大ミス研出身作家はわたしのお気に入りばかりなの。傑物たちを続々と生み出した空気を体感してみたいわ」
「作家を目指すってことは、今もうすでに小説書いてるってことですか?」
なにげなく訊ねてみると、先輩は予想外の反応を見せた。恥ずかしそうに口ごもり、うつむいてしまったのだ。
「……ええ。……書いているわ」
読ませてください、と即座には言えない雰囲気だった。当たり障りのなさそうな質問でしばらく様子をうかがうことにする。
「どのくらい書いたんですか。短編? 長編? 完成してるんですか?」
「宗像先輩が卒業してすぐに小説の勉強を始めて、少しずつ書きためてきたから、今は文庫本にして十冊分くらいあると思う」
「すごいじゃないですか。先輩の作品っていうとやっぱり本格で、連続殺人ですよね」
「え、ええ、もちろん」
読ませてください、と言い出すタイミングがなかなかつかめない。言っていいんだろうか。それともなにかしらの理由から僕には読ませたくないだろうか?
「読みたい……の?」
上目遣いで訊かれる。僕はためらいがちにうなずいた。
「そうよね。読者の意見は大切だから読んでもらわなきゃだめよね」
「はい。心して読みます。いちばん自信のある一本をまず読ませてください」
先輩は少し迷ってから言った。
「一本……しか書き上げていないのだけれど」
「え? ……でもさっき十冊分くらいって」
「だから、それで一本なの」
「は?」
先輩はキャビネットの下段の引き出しから一抱えほどの段ボール箱を取り出してきて僕の膝の上にどんと置いた。蓋を開いてみると、中にはA4のプリントアウトがぎっしり詰め込まれている。何枚かめくってみた。だいたい文庫本見開きに相当する文章量が一枚ずつに印刷されており、箱全体の重量からして何千枚あるのか見当もつかない。
「これで一本の長編。わたしの処女作」
僕は天井を仰いだ。
でも、読むと言ってしまったからには後には退けない。
「わかりました。先輩の処女……ありがたくいただきます」
「処女作よっ? 変なところで口ごもらないで!」と先輩は真っ赤になって指摘した。いつもいつも素敵な反応ありがとうございます。
さて、と僕は段ボール箱の中身のうち五分の一ほどを引っぱり出した。
タイトルは『燦然かつ暗澹たる百万業年の記憶』。もうこの時点でだいぶ腰が引ける。三回深呼吸して最初のページをめくった。
小説はこんな書き出しで始まっていた――
『私が肉体的な意味で人間だったのは紀元前四百年、ペロポネソス戦争の終わり頃までであった。ソクラテスが毒杯を仰いで自死したのとちょうど同じ頃、私の定命の人生もまた終わり、永遠の黄昏の生が始まることになった』
そうして不老不死の殺人鬼である《私》は、物語は古代ギリシャからローマ、ペルシア、インド、中国など、時を駆け地を渡り全世界を縦横無尽に飛び回り、ありとあらゆる時代と場所で殺人を犯していく。そこにアレクサンドロス三世の死、イエス・キリストの死など歴史上の様々な謎が登場し、さらに視点は突然に現代のジャーナリストや警察関係者に移り、世界中で頻発する奇怪な焼死事件が語られ、その裏で《私》の苦悩が併行して描かれ、有史以来連綿と続く《私》の犯した殺人の記録の共通点に気づく数学者があらわれ、犯行の日付と場所とがなぜかリーマンゼータ関数と符合することを発見し、物語は哲学と数学を孕んだより深遠な謎の中へと――
二百ページほどまで読んだあたりで僕は「ぷぁっ」と変な音をたてて息を吐いた。紫衣子先輩が隣に座ってじっと僕を見つめていたので驚いてのけぞる。
「……どう?」と先輩は不安そうに訊いてきた。
「ええと。ああ、はい。まだ途中なので、その」
「途中まででもいいので感想を聞かせてくれると嬉しい。最後まで読むのに一週間はかかっちゃうと思うし」
そりゃそうですよね、と僕は箱の中にまだまだたっぷり残ったプリントアウトの山を見下ろして思う。
「すごく興味深かったですけど、僕が読んだところまでですでに人類史に関わるような謎が十個くらい出てきてて、あのぅ、これ最後までに全部ちゃんと片付くんですか?」
先輩は気まずそうに目をそらした。
片付かないんだ! 風呂敷広げるだけ広げて畳めなかったんだ!
「……書きたいことがありすぎて。知っている殺害法も全部盛り込みたかったし……」
それは言われなくてもびんびん伝わってきました。
「思ったことがあったらなんでも率直に言って」
先輩にそう言われたので僕は遠慮を捨てることにした。進路第一希望に作家と書いているのだから甘い身内びいきの意見なぞ無意味だろう。
「これ、ミステリなんですよね?」
「もちろん」
「じゃあ片付けきれない話を入れちゃだめじゃないですか。もうちょっと……いや、ちょっとというか、だいぶ絞って、書き切れるネタひとつかふたつに集中した方が」
「そう……よね……」
先輩は肩を落とした。
「い、いや、あの、これはこれで面白そうなので、ほら、あの、ライフワークとしてじっくり整理して書き進めていけばいつか傑作になるんじゃ」
「いいのよ、気を遣ってくれなくても。自分でも薄々わかっていた。今のわたしにこんなのを書き切る力はない、って。ありがとう小宮くん、はっきり言ってくれて」
「はあ……」
「実は、小宮くんが言ったような小さなアイディアひとつを扱ったのも考えてはいるの。書き上げたわけではないのだけれど――」
* * *
二人分の紅茶を淹れてきた先輩は、僕の隣に座ってアイディアを語り出した。
「舞台は、とある全寮制の中高一貫校。敷地がとても広くて、戦前に使われていた風格ある校舎が今も保存されているの」
「……うちの学校がモデルなんですね。地に足がついてる感じでいいと思います」
「その旧校舎の一室を部室にしているサークルがあるの。ミステリ小説を研究しているサークルで、部員は高等部三年生の女子が一人と一年生男子が一人、たった二人だけ」
「あ、登場人物も僕ら二人がモデルですか。なんかこう、こそばゆいです」
「部長のC子はミステリのみならず殺人全般が大好物、自分でも人を殺してみたいと日常的に言うくらい」
「名前もそのまんまですね……」
「後輩部員の《僕》は、可愛らしくて小賢しくて気が利いて皮肉屋でつっこみが素早くて心優しい男の子で、C子のとんでもない頼み事も毎回聞いてくれるの」
僕は顔が熱くなるのを感じた。
「そ、そうですか……。はあ、いや、あの、面映ゆいです、へえ、そっちが視点キャラなわけですね、はい」
「それでC子はある日、《僕》にこんな提案をするの」
先輩はいったん言葉を切って立ち上がり、ソファの背もたれの後ろに置いてあった木箱からなにかを取り出してきて僕の目の前に置いた。手のひらサイズの茶色いガラス小瓶だ。貼ってあるラベルには《ストリキニーネ硝酸塩 C21H22N2O2・HNO3》とある。
ストリキニーネ。古くからミステリでよく登場する猛毒だ。
「心中してみたい、って」と紫衣子先輩は僕の耳に吐きかけるように囁いた。
僕はぽかんとして先輩の顔を見る。口元にはかすかな微笑みが浮かんでいる。目だけは笑っておらず、湖の底に積もった苔みたいな闇色が湛えられている。
「えっと、あ、はい。そういう話なんですね?」
「そういう話なの」と先輩は言って、瓶の蓋をひねり、中身をティーカップのまだ熱い紅茶の中にざらっと流し入れた。スプーンでかき混ぜると、琥珀色の液体の中で白い結晶たちが少しずつ小さくなっていく。
僕は先輩の顔とティーカップとを三回見比べた。
「……これは、つまり、いつもの実習ですか。執筆のために心中する人間の気分を形だけでも味わってみよう、っていう」
先輩は首を振る。
「そうじゃなくて。心中してみたい、って言ってるの。わたしが」
背筋がぞわりとした。
先輩の瞳から逃げられない。顔もそむけられない。身体もこわばって動けない。先輩がティーカップを持ち上げて唇にあて、ぐっとあおるところを見ていることしかできない。
カップを置いた先輩は唇をすぼめたまま顔を寄せてきた。僕の頬が先輩の冷たい手のひらにからめとられる。自分の体温が焼けるように感じられる。息を詰めた僕の唇に、先輩の唇が押し当てられた。吸い付いてくる柔らかい肉の感触で僕の意識は爆散しそうになる。そのままソファに押し倒されたかと思うと、歯の間から熱いものが流れ込んできた。口の中の粘膜が残らず干上がりそうなくらいの苦味が襲ってくる。
「――っ?」
僕は我に返って両手をばたつかせ、先輩の身体を押しのけようとした。でも抵抗がきかない。先輩が僕の鼻を強くつまむので息が詰まり、呼吸を取り戻すためには口中に流し込まれたものを飲み下すしかなかった。
ようやく解放された僕は激しくむせながらソファから転がり落ちて絨毯の床に腹ばいになった。頭の奥の方がまだ過熱していて自分の身に起きたことを把握しきれていなかった。先輩がいきなり――白い粉末を溶かし込んだ紅茶を口移して無理矢理……
電柱で口から尻まで串刺しにされたかのような太い激痛が僕を貫いた。
僕は反吐をまき散らしながら絨毯の上を転げ回り、絶命した。
* * *
「――って、ええええええ?」
原稿を握りしめたまま僕は素っ頓狂な声をあげる。作中の《僕》がストリキニーネ中毒で死んだところで話はぶっつりと終わっていた。
「ぼ、僕、死んでるんですけどっ?」と隣の紫衣子先輩を見る。僕が読んでる間じゅう、あいかわらず二の腕が触れ合いそうなくらいの距離で僕を観察していたのだ。「死んだところで終わってるし、こ、これなんなんですかっ?」
「だから、書き上げたわけじゃないって言ったのに」
そう言いながら先輩は上機嫌だった。僕を驚かせることに成功したからだろう。
「これはね、外枠の物語を前後に追加して作中作にする予定なの。今のわたしみたいに、これから書こうとしている小説の構想について話している――というふりをしてそれとなく作中作に入り、今の小宮くんみたいなサプライズを演出するわけね」
「はあ……」
重たい疲労感をおぼえた僕はソファの背もたれに身体を預けた。
「もちろん作中作であるという証拠はちゃんと忍ばせてあるわ。ストリキニーネ中毒の様子が明らかに嘘だから殺人の基礎知識がある人間が読めばこれは現実パートではないのだなとすぐに気づく」
基礎知識とか言われても。知ってる読者ほとんどいないと思いますが。
喉が渇いたけれど、テーブルに置いてあるティーカップにはどうしても手をつけられない。僕がこの原稿を読み始める前に先輩が淹れてくれてそのまま置かれているものだ。なにも混入されていないはずだ。それでも。
「どう……かしら? こっちの話は」
先輩がまたも不安そうに訊いてくる。僕は呼吸を整えてからゆっくり答えた。
「……ええ、あの、はい、『燦然かつ暗澹たる百万業年の記憶』よりはずっといいと思います。身近な題材だし、きれいにまとめられそうですよね」
「そう? よかった」
先輩は顔をほころばせた。色々と大変な一日だったけれど、この笑顔を見られただけでお釣りがくるくらいだ。
「それじゃ、書き上がったらあらためて小宮くんに読んでもらうからね」
「楽しみにしてます。……あ、もうこんな時間ですね」
ずっと小説を読んでいたせいで時が経つのを忘れていた。時計を見るともう寮の門限が迫っている。急がないと。
鞄を肩にかけて部室を出ようとしたとき、先輩のうわずった声が背中に飛んでくる。
「小宮くんっ」
振り向くと、さっきまで僕が読んでいた原稿を手に駆け寄ってくるところだった。ラストのページを指さして言う。
「こ、こ、これ、キスしてるじゃないっ?」
「いま気づいたんですかっ? 自分で書いたんでしょうっ?」
先輩は青ざめて絨毯の床にへたり込む。
「毒物とわかっているものをどうやって飲ませようかって考えて、きっとこの方法なら小宮くんも喜んで飲むだろうからってなんとなく決めてしまって……」
そりゃ大喜びでなんでも飲みますけれども。
「い、いけないわ、小説の中のこととはいえこんなはしたない。書き直さなくちゃ」
「だめです」
僕は先輩の前にかがみこんで目の高さを合わせてきっぱり言った。
「そこだけは変えちゃだめです。核心的なリアリティにかかわります」
「……そ、そう?」
「ここを書き直してしまったら先輩の作家としての誇りを捨てることになります。下手をしたら職業作家には一生なれないかもしれない、それくらいの急所ですよ」
先輩は思い詰めた顔でうなずいた。
「……そうよね。キスをしたら赤ちゃんができてしまうけれど、この場合二人は心中するわけだから妊娠の心配の必要はないわけよね……」
その安心のしかたは人間としてどうかと思うが、僕も安堵して部室を出た。旧校舎を囲む林を抜けてひんやりと暗い遊歩道まで来たところで息をつく。
完璧に下心のみで先輩の作家人生を決めつけてしまった……。
まあいい。後悔はない。次はもっとがんばって、場面再現の実習をしたい、と言い出すように仕向けるぞ。僕は決意を固くして寮への道を足早に歩き出した。