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第8回 先輩は唐揚げにレモンをかけない

 珍しく、僕が部室に来たときに先輩が不在だった。

 コーヒーテーブルの上には飲みかけの紅茶と、真っ黒な想定の分厚いハードカバーが置いてあった。和紙の栞が挟んである。

 タイトルは白抜き文字でこう書かれていた。『実録 世界殺人百科事典』。

 ……んん? これは――先輩が読んでいた本、だよな?

 どう見ても小説じゃない。実際に起きた殺人事件を集めた本、だろうか。実録って銘打たれているし。でも先輩はたしか現実の事件録は腹立たしいから読まない、みたいなことを言っていた気がする。

 背後でドアが開く音がした。


「ああ小宮くん来てたの、いらっしゃい」


 振り向くと先輩がレースのハンカチで手を拭きながらこちらに歩み寄ってくるところだった。トイレだろうか。


「こんにちは」


 僕は挨拶しながらもコーヒーテーブルの本に目を走らせる。察したのか、先輩は「あっ」と小さく声をあげ、そそくさとコーヒーテーブルに駆け寄って本をひっくり返しタイトルが見えないようにしてしまった。

 それから上目遣いで僕の顔をうかがう。


「これは、ね、ええと」

 先輩は言いよどむ。


「あの、中身は見てないですよ、タイトルだけです」と僕は言ってみた。でも先輩は肩を落として細く息を吐く。落胆の表情だ。


「たまによ、たまに、読みたくなるの。フィクションではどうしても出しづらい殺害法がいくつもあるでしょう、そういうのを勉強したくて、しかたなく」


「出しづらいっていうと」


「たとえば今日調べていたのは爆殺」


 なるほど。フィクション、とくにミステリにおいてはなかなか出てこない殺し方だ。まず爆発物の入手手段が限られているからそれだけで設定が窮屈になってしまうし、死体も現場もあらかた吹っ飛ぶのでその後の話が作りにくい。


「でもこれは特例中の特例だから、普段はこんなの読まないから」


 べつに僕は先輩がなにを読もうと前言をどれだけ翻そうと気にしないのだけれど、必死に言い訳する先輩がやたらと可愛いのでしばらく黙って聞いている。


「それに爆殺はどうしてもエレガントさに欠けるからわたしの好みではないわね。事件例もテロリストのものばかりだし、対象も無差別。なんの罪もない子供を巻き込んで殺すなんてほんとうに最悪よ」


 僕は思わず先輩の口元を凝視してしまう。


「……なあに?」


 僕の視線を訝しんだ先輩が眉をひそめて言う。


「ああ、いえ。……先輩がそういう常識的なこと言うのは意外だなって思って。罪のない人間を殺すなんて――ってよく言われますけど、じゃあ罪のある人間は殺してもいいのか、って話になりませんか」


 先輩はあきれた顔になる。


「前に言ったでしょう、してもいい、してはいけない、というのはただの命令。従わせるためにまるで普遍的な事実であるかのように言い換えてるだけよ。わたしはそんな話はしてない」


「でも、最悪だってさっき言ってましたよね。それじゃ罪のない人間を殺すことのなにが悪いんですか」


わたしの気分が悪い(・・・・・・・・・)のよ」


 先輩はきっぱり言った。


「純粋に感情の問題よ。いい、小宮くん。よく憶えておいて。善悪というのは好悪のことに他ならないの。殺人をよしとするかどうかと、唐揚げにレモンをかけるかどうかは、完全に同列。本来は個人のものであるはずの好き嫌いを他人に強要しようとするとき、善悪だとか倫理だとか道徳なんていう偉そうな言葉でデコレイトするの。罪のある人間が殺されたと聞いたとき、わたしは――罪の重さにもよるけれど――罪のない人間のときよりは気分がましになる。でもあなたがどう思うかはあなたが決めなさい」


 ああ、僕はこの人のこんなところを最初に好きになったのだ、と思う。今ではもうなにからなにまで好きだけれど。


「わかりました。先輩と同じにします。爆弾テロ最悪ですね! 罪のない子供を巻き込むなんて絶対にゆるせません」


「ちょっと、なによそれはっ? どうして今の話を聞いてわたしに合わせるなんて言い出すの、自分で決めろって言ったのよ!」


「はい。だから先輩に合わせるって決めました」


「もっと主体性持って!」


「ちなみに先輩は唐揚げにレモンかけるんですか」


 いきなり話を微妙に曲げられて先輩は気勢を削がれたらしく目をしばたたいた。


「……かけないけれど」


「毎日一緒に食事をする家族がレモンかける派だと困りますよね?」


「それは……まあ、かけない派の方が楽でしょうね」


「殺人についても同列なんですよね。だから先輩に合わせます。あ、もちろん唐揚げも。ほんとはポッカのキッチンレモンをポケットに入れて持ち歩くくらいのレモン派なんですけど先輩のためにレモン断ちします」


「べつにいいわよそんなの、だいたい家族でもない――あ……」


 先輩は言葉の途中で真っ赤になって僕の顔を二度見した。この、意味に気づくまでの微妙なタイムラグがほんとうに愛おしい。先輩は顔を伏せ、乱れてもいないスカートの裾をわざとらしく何度も手で払って整えた。


「話を戻しましょう! 唐揚げのこととか結婚生活のこととかは部活には関係ないんだから、殺人の話!」


 結婚生活、って僕が一言も言ってないのに先輩の方から言っちゃったよ。嬉しすぎて耳からレモン果汁が噴き出そうだ。


「せっかく爆殺について話していたのに小宮くんはことあるごとにわたしへのプロポーズにつなげようとするんだから!」


 ことあるごとにプロポーズ、ってすごいせりふだな。その通りですけど。


「でも実際に起きた爆殺事件はみんなエレガントじゃないって、あんまり話を続けたくなさそうな雰囲気でしたけど」


「みんな、じゃなくて、ほとんど、ね。読んだ中ではひとつだけとても興味深い爆殺の事例があったわ。2003年にアメリカで起きた、時限爆弾つきの首輪をはめられた銀行強盗の事件よ。映画化までされているとても有名な事件だから小宮くんも知ってるわよね?」


「いや初耳です」

 殺人マニア業界では超有名なのかもしれないが知ってて当然みたいな言われ方をされても困る。

「首輪に時限爆弾? えっと、そういう設定の映画ってことですよね?」


「ちがうわ。実際にあった事件。映画はそれを元ネタにしたものや、主犯に取材したドキュメンタリー」

「はあ……強盗犯が首輪爆弾つけられてたんですか? 一体どういう――」


 紫衣子先輩は目をきらきらさせて語り出す。


「実行犯はピザの配達員。この男はピザの注文を受けて配達した先で主犯グループに拘束され、銃で脅されて首輪をつけられ、詳細な犯行指示書とショットガンを渡されたの。指示の通りに銀行強盗を遂行すれば首輪を外す鍵のありかを教える、と言われて、その通りに銀行を襲う。そして警察に捕まる。この手の事件だと、爆弾は偽物というのが相場なのだけれど」


「本物だったわけですか」


「そう。爆発物処理班の到着前に首輪が爆発、配達員の男は死亡。警察の調べでは、配達員の男がどれだけ完璧に犯行指示を遂行したとしてもどのみち首輪は爆発するようになっていたことが判明したわ。主犯グループは最初からこの哀れな実行犯を殺すつもりだったわけね」


「その主犯グループってのは捕まったんですか?」


「ええ。主犯とされる人物はそれまで何件もの不審死事件に関わっていて当局にマークされていた女性で、別件で懲役刑を受けている間にこの首輪爆弾事件についても自白したの。その後の調査ではピザ配達員の男も実は事前に強盗計画を知っていて参加したという事実が明るみに出ているわ」


「え? 死ぬ役をわざわざ引き受けたんですか」


「彼は爆弾を偽物だと思っていたらしいのよ。つまり実行犯だけはこれを狂言犯罪だと思い込んでいて、裏切られたわけね」


「うわあ、ひでええ……」


「他にも何人か共犯が捕まったり時効後に自白したりで、一応この事件は決着したことになっているのだけれど、いくつも謎を残したまま主犯女性は癌で獄死。真実は闇の中――ね」


「はあああ」


 エレガント……うん、まあ、少なくともさっき紫衣子先輩が口にしていた殺人のNGポイントはすべて避けている。爆殺なのに一般人を巻き込んでいないし、警察の捜査結果が正しいとすれば被害者も罪のある人間だ。


「なんかもうやたらめったら山盛りの事件ですね。映画にしたくなるのもわかります。まさに事実は小説よりも奇なりっていうか」


 僕がそう言ったとたん、ぎょっとすることが起きた。先輩の顔からいきなり表情が抜け落ちたのだ。無表情、と表現しても足りないほどの虚無だった。先輩に対して恐怖をおぼえたのはこのときがはじめてだった。

 先輩は無言でソファから立ち上がり、キチネットまで行って冷蔵庫からなにかを取り出して戻ってきた。皿にのっているシュークリームだ。僕の目の前に置かれる。


「食べて、小宮くん」


 顔と同じくらい無表情な声で言う。


「……え、あ、はあ」


 なんで怒ってるの? 怒ってるんだよね? 僕なにかまずいことした?

 これ以上怒らせたくなかったので素直にシュークリームにかぶりついた。火柱が脳天を撃ち抜き、僕はもんどり打ってソファーの背もたれに後頭部をしたたかにぶつけた。


「……、……ッ?」


 舌も喉も焼けて声にならない。また唐辛子かなにかがクリームの中に仕込まれていたのだ。悶える僕を冷ややかに見下ろし、先輩はレモネードの入ったグラスを差し出してくる。ありがたく飲み干した。


「よく聞いて、小宮くん」


 先輩の声にはようやく感情が戻っていた。予想通りそれは張り詰めた怒りだったけれど、あんなぞっとするような虚無よりはずっとましだ。


「わたしがどうしても赦せない言葉というものがいくつかある。あなたがさっき口にしたのはその最たるもの」


「さっき? ……ええと、どれのことなのか……」


「『事実は小説よりも――』というあれよ」


 苦り切った顔で口元を歪める先輩は、ほんとうに心底そのフレーズを憎んでいるようだった。でも、どうして。


「小説のことをよくわかっていない一般人が口にするのはしかたがないわ。でも、小説に深く関わり、小説を深く愛するわたしたちのような人間は絶対に使うべきではない」


 僕はまだひりひりする口の中で転がしていた空気を吐き出し、背筋を伸ばして座り直した。


「理由を教えてもらっていいですか」


 先輩はうなずく。


「『事実は小説よりも――』という言葉はバイロンの詩からの引用だという説が有力だけれど、元の文脈が意識されることはなくなっているから原典については考えなくていいわね。ともかくこの言葉は、現実世界でなにか驚くべき事件が起きたときにきまってしたり顔で持ち出される。前提として、小説では現実に起きないような奇なことが書かれる、という常識がまずあって、それを覆してみせることで知的ぶりたい、という発言意図でしょう」


 先輩の言い方があまりにも棘だらけなので僕は首をすくめるしかない。たしかにそんな感じの軽い気持ちで口にした文句だけれど。


「この言葉の愚かしいところは、まずその前提が完全に間違っているところ。小説は奇なことを書くものではないの。なぜって、簡単に書けてしまうから。たとえば飛行機墜落事故で全員助かった、0対18の9回裏で逆転した、貧しい孤児が拾った宝くじで一億ドル当てた――。実際にあったのなら、奇蹟よね。みんな驚くし、感動もするし、語る価値もあるわ。でもこれが小説に書かれていることだったら? 小説において作者は神よ。なんでもできる。だからどんなに起こり得ないようなことを書いたところで奇蹟でもなんでもない。稀なこと、成しがたいこと、多大な苦労を必要とすること、そういったものに人は感動するのよ」


 小さな全能の神である小説家が、その支配下である小さな世界――作品世界で全能の力をふるったところで、当たり前の作業であり、だれも感心してはくれない。そういうことか。


「小説家は読者を感動させるためにどうするか。納得させられるだけの設定を組み上げ、伏線を敷いてそれをたしかに回収し、シーンの連続を物語の主題という一本の確固たる串で貫いてまっすぐにつなげ、美しさを創り出す。人間が美しいと感じるものは秩序と必然の中からしか生まれない。小説には奇なことなど入り込む余地は一ページたりとも、一行たりとも、一文字たりともない。だから事実が小説よりも奇なのは当たり前なの」


 僕は冥府よりも深く恥じ入った。両の手のひらに顔を埋める。

 先輩に言われたことを自分なりの考え方でかみ砕こうとする。『事実は小説よりも奇なり』とは、言うなれば、『海水はラーメンよりもしょっぱい』と言っているのと同じだ。

 料理人は、やろうと思えばいくらでも簡単にスープをしょっぱくすることができる。塩をぶち込むだけだ。でも、やらない。しょっぱいものを目指して作っているわけじゃないからだ。そんなものだれも喜ばない。美味しいものを作るために日夜心を砕いているのだ。

 ところがここに料理のことを毛ほどもわかっていない子供が登場する。彼は自分の大発見に目を輝かせている。なんと、いくらでも塩を投入できるはずの人為的な創作物であるラーメンよりも、自然のままに存在する海水の方がしょっぱいのだ! あまりにも意外な真実、全世界に向けて発表してやらなきゃ!

 ……恥ずかしい。これは恥ずかしすぎる。


「生まれてきてごめんなさい……」


 萎れた声が喉から漏れる。


「ちょ、ちょっと小宮くんっ?」


 先輩の声が焦ってうわずっている。


「ごめんなさい、きつく言い過ぎたわ。わたし、夢中になるとセーブがきかなくて」


「いえ、先輩が悪いんじゃないです。僕が浅はかだっただけです。死んでお詫びしたいです。先輩さえよければ今すぐ殺してください」


「なに言ってるの小宮くんっ」


「先輩と僕の間の子供として生まれ変わって人生やり直したいです……」


「そんな、人生そのものを反省するほどのことじゃ――ってなんでわたしたちが子供つくる前提なのっ? というかどうやって自分の子供として生まれ変わるのっ?」


 プロポーズポイントに気づかれるのがいつもに比べてやけに早い上に二箇所連続でずばずばとつっこまれてしまった。どうにも調子が出ない。


「先輩、前に僕のことを殺したいとか、殺すところを毎日想像するとか言っていましたけれど、さっき殺してくれって言ったときになにかとてもいやそうでしたよね」


 僕がおずおずと指摘すると、先輩ははっとなり、それから気恥ずかしそうに視線を書架の上の方へと逃がした。


「それは……そう、ね。小宮くんが入部してすぐの頃はね」


「今はちがうんですか」


「今は……」

 先輩はスカートの上で両手の組み合わせ方を何度も変える。

「小宮くんとこうして部活動するのが予想以上に楽しいと知ってしまったから。……殺してしまったら、この放課後の幸せな時間が終わってしまうでしょう」


「そう……ですか」


 落胆するふりをしてみたけれど、どうしても顔がゆるんでしまう。

 がっかりしたのは100%嘘というわけでもない。出逢ったばかりの頃のような、ほんとうに僕を殺しそうな先輩もとても魅力的だった。でもあれは鮮烈すぎて、味わい続けていたら感覚がおかしくなっていたかもしれない。毎日一緒にいるなら、今の先輩がいい。


「わたしの責め方も大人げなかったわ。反省している。わたしの方も小宮くんに歩み寄らなくてはだめね。そう、たとえば、唐揚げにレモンをかけるのは認めるわ。仲直りのしるしに今ここでご馳走したいのだけれど、さすがに唐揚げは用意していないし――」


 先ほどのレモン大好き発言は先輩にぐいぐい迫るために話を盛っただけであってほんとうは《唐揚げにレモンをかけられても怒りはしないが自分から積極的にはかけない》派なのだけれど、先輩が「あ、そうだ」と言って立ち上がりキチネットの方に行ってしまったので言い出すタイミングを完全に逸した。

 シュークリームを四つ載せた皿を手に先輩が戻ってくる。


「さっきの激辛を食べさせちゃったお詫びも兼ねて、辛くないまともなシュークリームの中に小宮くんの大好きなレモン果汁をたっぷり注入したからどうぞ召し上がれ」


 この流れで要りませんなんて言えるわけがない。僕は涙を流しながら四つ完食した。愛があればたいていのことは成せるのだ。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 先輩に対して恐怖をおぼえたのはこのときがはじめてだった。 とあるのでまだあるんですか? [一言] 先輩こ、怖い レモンについては自業自得 やっぱり作者さんはすごいですねこんな面白い小説…
2020/01/30 16:41 取り残された髪の毛
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