第6回 先輩は胸のサイズを隠せない
翌日の放課後、いつものように『キラー・クイーン・サークル』の部室に顔を出すと、珍しいことに紫衣子先輩が漫画を読んでいた。田村由美の『ミステリと言う勿れ』だ。こんなタイトルだが立派なミステリ漫画である。
「小宮くん、いらっしゃい。遅かったわね」
「今日は補習があって……すみません」
先輩は読みさしの漫画をコーヒーテーブルに置くと、キチネットに行って紅茶を二人分淹れて戻ってきた。僕の視線に気づいて言う。
「知ってるの? この漫画」
「あ、ええと、一巻だけ読んだことありますけど。先輩、漫画も読むんですね」
「ミステリなら媒体を問わずチェックするのは当然よ」
そう言って先輩は部屋の三面の壁を埋め尽くす書架の一角に歩み寄り、スライド式の棚のひとつをぐっと右側に動かした。普段は表に出ていない奥側の棚がまるまるひとつ完全に漫画で占められていた。
「……知らなかった……こんなに漫画の蔵書あったんですね」
「コミックスの背表紙はどうしても書架の雰囲気の調和を乱してしまうから普段は目につかないところにまとめてあるの。決して自分を知的に見せたいとか難しそうな蔵書のラインアップで訪問者を威圧したいとかそういう意図ではないの」
そういう意図だったんだな……。
「……でも、有名どころがないですね。金田一とかコナンとか」
僕は漫画棚を見上げてつぶやく。最上段からずらっと三段分を埋め尽くしているのは加藤元浩の『Q.E.D.』と『C.M.B.』。その下には清水玲子の『秘密』シリーズ。ゆうきまさみの『白暮のクロニクル』……。知らないタイトルばかりだ。
「ミステリ漫画と聞いて思い浮かぶのはやっぱり金田一とコナンなの?」と先輩。
「え、ええ。一番有名ですし……」
「そうね。金田一少年は別格ね。コナンの連載開始は金田一の二年後だから、金田一がなければコナンはなかったかもしれない」
別格、なのか。ちょっと意外だった。あまりに有名で大衆的で俗っぽすぎるから棚に置いていないのかと思ってしまった。
「金田一少年の登場はミステリ界にとっては衝撃だったわ。なぜかというと、漫画でミステリを大ヒットさせたから」
僕は目をしばたたいた。
「その言い方だと、ミステリ漫画はヒットしないのが当然みたいに聞こえるんですけど?」
「その通りよ。漫画はミステリの媒体にはとても不向きなの。絵で描けてしまうから」
ますますわからない。絵で描けるのは便利なことばかりじゃないだろうか。小説のミステリだってたとえば犯行現場とかは図の説明が入ることがよくあるし。
「トリックはミステリの命なんて言われるけれど、ミステリのほんとうの命はロジックなの。論理のアクロバットこそがミステリの醍醐味、トリックは論理を飛躍させるための道具のひとつに過ぎない。そして、ロジックというのは要するに言葉だから、読者に集中してもらうためには論理の流れに沿って文章で書くのがいちばんいい。漫画の豊富な視覚情報はむしろ妨げになることが多い」
「わかる、ような、わからないような……?」
「特にミステリにおいては、ある事実が『あった』ことと同じくらい、『なかった』ことも重要になる。アリバイや消去法の推理ね。『なかった』ことを伝えるのに最適な方法はやっぱり文章で『なかった』と素直に書くこと。絵は不向きでしょう」
「あっ、なんかちょっとわかります」
「好例は『HUNTER×HUNTER』ね。あの漫画はミステリ要素を多分に含むのだけれど、推理パートで律儀に可能性をひとつひとつ考慮しては打ち消していくというプロセスを踏むから、コマがほとんど文章だらけになる。小説でやれよと思うでしょう」
「ああっ、なんか一気にわかりやすくなりました」
「それくらい漫画でのミステリは難しいの。事実として、ミステリ漫画のヒット作はまったくと言っていいほどなかった――金田一少年の登場までは、ね」
紫衣子先輩は言葉を区切って背後の書架を見上げ、また口を開く。
「金田一少年は華々しいスタートを飾った。週刊少年マガジンというメジャー少年漫画誌で、トップの人気と売り上げを勝ち得た。何度も映像化され、日本のミステリ史に金字塔をうちたてたわ。漫画で、よ。革命的な作品だった。これはもちろん漫画向きのミステリプロットを選び抜いた原作者の功績も大きいけれど、それ以上にさとうふみやの壮絶なまでに整理された作画力の賜物ね」
「はあ……」
紫衣子先輩がここまで絶賛したことがこれまであっただろうか。僕も飛び飛びでしか読んでいないので、あらためて全巻読み直したくなってきた。
「でも」と僕も書架を振り仰ぐ。「先輩がそこまで大絶賛する金田一が、置いてないですよね。他の棚に隠してあるのかな……?」
「いえ、置いてないわ。だってちゃんと読んだことがないし」
「なッ?」
ソファからずり落ちかけた。
「ど、どういう、だってあんなにべた褒めで」
「わたしくらいのミステリマニアともなれば少しぱら読みしただけであれくらいの評論を並べることなど造作もないの」
「自慢できることじゃないと思いますけどっ? ……なんで読んでないんですか?」
「読めば面白いのはわかっているのだけれど……」
先輩は腕組みしてため息をつく。
「漫画がミステリに向いていない理由がもうひとつあるの。それはね、『描かない』ということができない」
「……えっと? どういう意味ですか」
「ミステリでは演出の都合上、犯行の様子を犯人の正体を隠しつつ描写する必要が出てくるわね。物語の途中で犯行が行われる場面や、探偵役が犯人を名指しする前に犯行の具体的な手順を説明する場面――なにをやったのかははっきり描きたいけれど、だれがやったのかは伏せたい、そんなケースが多々ある。小説なら簡単ね、人物を描写しなければいい。主語を『その人物』とでもしておけばごく自然にその場面を書ける。犯人に向かって犯行を告白しつつクライマックスまで犯人を伏せておくような演出であれば、二人称を使い、地の文で聞き手をまったく描写しなければいい。ところが漫画ではこれができない。描けてしまうから」
「あー、なるほど」
「もちろんコマ枠外に犯人を見切れさせて隠すことはできなくもないわ。でもそうすると犯行の様子をわかりやすく読者に伝えるという本来の目的が達成できない。そこでどうするか」
「全身真っ黒にする……?」
「そう。犯人に関する情報を読者にまったく与えないように全身が黒い影、髪型でも判別できないようにつるりとした頭部、服装でも判別できないようにボディラインそのままの輪郭の、仮想表現を使う」
「コナンでもそれ出てきますよね、黒塗り犯人」
「わたしはあれを見ると笑ってしまうの! もうミステリを楽しむどころじゃなくなる」
僕は唖然とした。
「……そ、そんな理由ですか……?」
「深刻な理由よ! 作品世界にせっかく没頭していたのに弾き出されてしまうのよ? その先がどんなに素晴らしくても読み進められないわ」
全然気にしたことがなかった。
「それは、あの、そういうものだって割り切って読むものなんじゃ」
「どうしても割り切れないの、こういう許容ラインは個人差が大きいのよ! たとえばね小宮くん、実写のミステリ映画で犯行シーンに全身黒タイツをまとった俳優が犯人として出てくるところを想像してみて? 無理でしょう?」
「……無理ですね。映画館出ますね」
「ほらみなさい」
「でもそれは実写だからじゃ」
「だから小宮くんの許容ラインが実写よりは下で漫画より上、わたしのは漫画より下にあるというだけのこと。もっと低い人もいるわよ、小説ですら許容できない人。探偵が犯人を伏せて犯行の様子だけ語るのに対して、すぐ名前を言わないのはおかしいって怒る人」
それはもうそういう小説を読むなよと言うしかない。……ああなるほど、同じ論法が先輩にも僕にも当てはまる。そういう漫画読むなよ。そういう映画観るなよ。
じゃあこの部屋の棚にあるのはそういうのじゃない漫画なのかな、と思って『Q.E.D.』の1巻を抜き出し、ぱらぱらと読んでみると、第一話から黒塗り犯人が出てきた。
「これにも黒塗り出てきますけど……」
「『Q.E.D.』はいいの! 名作だから! それに、黒塗りが出てこないエピソードもたくさんあってそっちの方がよくできてて、その巻なら次の話がすごく良いし」
「まあつまり絶対だめってことでもないんですね。要は慣れの問題なんじゃないかなあ」
そう言うと紫衣子先輩は片手を口元にあててしばらく考え込んだ。
「……そうね。慣れの問題で名作を読めずにいるのはミステリ研究家としては好ましくないわね。慣れましょう。手伝って、小宮くん」
「へっ?」
先輩がキャビネットから取り出して持ってきたのは、一抱えほどの黒い布だった。手渡されたので広げてみると、全身タイツだ。
「こんなこともあろうかと用意しておいたの」
「どんなことがあると思ってたんですか……」
「わざわざ漫画を読みながら小宮くんが来るのを待っていたのよ。そしたら漫画の話題になるでしょう。そこから注意深く話の流れを黒塗り犯人まで誘導したの。気づかなかった?」
ショックだった。全然気づいてなかった。
「というわけで、ぴっちりとした黒タイツに身を包んだ小宮くんをじっくり観察するわ。実写で目を慣れさせれば漫画は許容できるかもしれない」
「僕はその役目を許容できないですけどっ?」
先輩の哀しげな目が僕の胸を深くえぐる。
「……そう。ごめんなさい、ちゃんと金田一を読めるようになって小宮くんと深く語り合いたかったのだけれど。ソファで隣り合って座って同じ一冊を読んだり、小宮くんがページをめくっている間にわたしがクッキーを食べさせてあげたり」
「タイツ着ます!」
「そう? ちゃんと地肌の上から着てね。少しでも服の輪郭が出てしまうとその情報で犯人が特定されてしまうから」
哀しげな表情を一瞬で消して注文をつけてくる先輩だった。しょげている僕を見て不甲斐なく思ったのか、こう付け加えてくる。
「『探偵と助手』実習の話のときに察してほしかったわ。コスプレ実習は我が『キラー・クイーン・サークル』の重要な活動なのよ。創設者たる宗像恭史郎先生が生み出した伝統なのだから今後も守っていかないと」
先輩がコスプレするなら素晴らしい伝統だと思うけど、僕がやるのかよ。
トイレで着替えてから部室に戻った。
「まあ」
全身ぴったり黒タイツ姿の僕を見て紫衣子先輩はとても品良く感嘆した。
「すごいわ小宮くん。全然笑えないわ」
「……僕も全然笑えないです……」
いや、あの、笑えないってのはね、先輩が漫画に出てくる黒塗り犯人見て笑っちゃうからこんなかっこうさせたわけで笑えないのは良い結果なんですよ、べつに変質者過ぎてしゃれになってなくて笑えないって意味じゃなくてね? いやそういう意味かもしれないけどね?
「顔も隠していないと意味がないのじゃないかしら」
「顔まで覆ったら後戻りできなそうっていうか……あと、前が見えなくて危ないです」
「それなら目のすぐ下あたりまで襟を引き上げて隠せば」
「もっとだめです!」
なんとかクリニック的な意味で!
「とにかく全然笑えなかったということは効き目があったのかもしれない。さっそく金田一少年を読んでみるわ。小宮くんもその笑えない格好で見守っていてね」
え……もう着替えちゃだめですか?
しかたなく僕はソファのそばに立ち、コミックスのページを繰る紫衣子先輩を寄る辺なく見守った。でも先輩はすぐに本を閉じてしまう。
「無理ね。やっぱり黒塗りが出てくると笑ってしまう」
それから僕に目を移す。
「あらためて見ると小宮くんのそれも笑えてきた」
「僕ももう笑うしかないかなって思えてきました」
あと十五分くらい経過したら今度は泣けてくると思う……。
「どうやったら慣れるのかしらね……」
「……先輩が自分で着てみるとか」
ふと思いついて言ってみた。先輩はきょとんとした。あわてて僕は手を振ってごまかす。
「あっ、いえ、特に深い意味はなくて、その、自分で着てみたら犯人の気持ちもわかるようになって笑わずに読めるようになるんじゃないかと」
口からでまかせを重ねていると先輩がいきなりソファから立ち上がってブレザーを脱ぎ、首のリボンを抜き取ってブラウスのボタンを上からひとつずつ外し始めた。僕は泡を食って腰を浮かせる。
「ちょっ、先輩っ? なにもここで着替えなくてもっ」
声が裏返った。僕の脳裏では、黙っておけば先輩の生着替えをガン見できるぞという欲望と止めなければ先輩の品性が汚れてしまうという理性とが必死で戦っていたが、そんな熾烈な闘争は先輩がブラウスの前を開いたとたんに休戦した。すでに黒タイツを中に着ていたのだ。
「こんなこともあろうかと着ておいたの」
どんなことがあると思ってたんですかほんとに?
「わたしも、自分で着てみればなにか効果があるんじゃないかと思っていたの。小宮くんと同じことを考えていたなんて嬉しい」
先輩が嬉しいなら僕も嬉しいが、不審者そのもののかっこうをしていると喜びを素直に噛みしめられなかった。
「でも……このコスチュームは読者に見せるために着るものなのだから制服の下に着ていても無意味よね。早く気づくべきだったわ」
そう言って先輩はブラウスも完全に脱ぎ、さらにはスカートのホックにまで手をかけたところで僕の冷却しかけた頭が再び過熱し始めた。いやいやいやいや中に着てるっていってもめっちゃ性的なんですけど? 脱いでる様子も見える輪郭も! 下乳のラインも下腹のスロープも腰のカーブも全部くっきりですけど?
スカートは盛夏のひまわりの如く開いて回転しながらふうわりと絨毯の上に落ちた。
「どう? 小宮くん。わたしの犯人ぶりは」
どうかと訊かれても眼福過ぎて直視できない。
「……ええと。その。……先輩だとちょっと無理がありますね」
「どうして? ああそうね、わたしも顔を隠さないと」
「いえ顔を隠しても、つまり、性別がわかってしまうので……とくに胸のあたりで……」
先輩は言われてはっとなり自分の胸に両手をやった。その顔がみるみる朱に染まる。
「……こ、こ、このかっこう、裸同然じゃないっ」
「脱ぐときに気づけよ!」
「小宮くんも裸同然じゃないっ」
ええそうですよ十五分くらい前からね!
紫衣子先輩はほおずきのように色づいた顔を両手で包んでおたおたと時計回りに三回転した後であわてて床のスカートを拾い上げた。
「いけないわ婚前の男女が密室でお互い裸同然なんて、だれかに見られでもしたら既成事実になってしまう、早く着ないと、小宮くんも」
こんな場所に他のだれかが来るわけもないだろうと思ったけれど自分が恥ずかしいのには変わりがなかったので僕は扉に向かった。
ところがそのとき、ノックの音がする。
僕も先輩も凍りついた。ノブが回って扉の片側が引かれる。
「失礼します、こちらの部室で不適切な活動が行われているという報告が――」
入ってきたのは一人の女子生徒だった。彼女もまた僕らを見て目を剥き、硬直した。
「これはっ、ちがうのっ」
紫衣子先輩があわてふためいて言った。
「わたしたち結納もまだなんだからっ」
なんのフォローにもなっていないというか割と最悪な言い訳だった。なお悪いことに訪問者は《風紀委員》と刺繍された腕章をつけていた。