第5回 先輩は日常ミステリを許さない
「今日の実習は『探偵と助手』がテーマだ」
そう言う先輩は学校の制服ではなく、大正時代の書生ふうの着物と袴にカーキ色のインバネスコートを合わせるという和洋折衷スタイルで、口調もわざとらしく硬質さを装った男言葉だった。
「私が探偵役なのだから当然きみが助手ということになるね」
腕組みしたまま人差し指をぴんと立てる仕草は、傲岸不遜な探偵をイメージしてのものだろうけれど、先輩が麗しい女子高生である事実は変わっていないので最高に似合っておらず最高に可愛かった。
「ところで私の理想の探偵助手は京極夏彦の妖怪シリーズに登場する精神不安定小説家の関口巽だ。京極夏彦は読んでいるよね?」
「はい。同じく大好きです」
「それはよかった。じゃあ、関口巽のようにしょっちゅう『ぼ、僕は……』という感じでうじうじおどおどしているようにね」
そのキャラクター評は正直どうかと思ったけれど、なにしろ先輩の無理に背伸びした感じのレトロ探偵装束が素晴らしすぎたため、従わないわけにはいかなかった。
「わかりました。それで先輩、……僕は、今日はなにをすればいいんですか」
「先輩……ううん、その呼び方も……今の私は探偵なわけだし。私はきみを助手くんと呼ぶから、それにあわせて――」
「……『先生』?」
「それはそれで占い師か政治家みたいで気に入らないね……。まあしかたない、探偵の名前もまだ思いついていないし先輩でいいよ」
よかった。口調だけならともかく先輩への呼び方まで変えろなんて言われたら気恥ずかしくてたまらない。
先輩はつややかな長い黒髪をインバネスコートの襟から手の甲ですくいあげて背中に解放し、ふうと息をついて話し始めた。
「さて、助手くん。ミステリにおける探偵助手の第一の役割はなにかわかる?」
「それは……」
しばし口ごもって考える。先輩の質問なのだ、迂闊な答えは返せない。
「探偵の補佐ですよね。メモにとった情報を整理したりとか、手足になって実地調査をしたりとか。……ちがうんですか?」
「素晴らしい」と先輩は抱きついてきた。顔がかあっと熱くなる。「誤答だけれど満点の模範解答だよ。もちろん探偵助手の職務はまず、間の抜けた推測、凡庸な見解、小市民的な願望などを述べて読者の心情を代弁し、疑問点をわかりやすく浮かび上がらせ、探偵の説明を円滑に引き出すことだよ。今のきみの回答のようにね。とくに最後に付け加えた『……ちがうんですか?』が見事。話を進める呼び水になるから」
絶賛をいただいて面映ゆかった。ミステリについても先輩についてもちゃんと知っていればこのような二段構えの難問もクリアできる。
「それじゃあ探偵助手の第二の役割は? ここからは普通に回答して大丈夫」
ふむ、ひねらずに答えていいとなれば――
「探偵の活躍を小説に書くこと、ですよね」
今度は自信を持って即答した。先輩は先ほどよりも強くハグしてきた。耳まで熱くなってくる。今日はいつになくスキンシップが積極的だった。
「またまた素晴らしい。ミステリは探偵助手の一人称で書くと利点がとても多い。なにもわかっていない読者と同じ視点で描けるし、探偵の推理を恣意的に伏せることでサプライズを効果的に演出できるからね。その代表格は言うまでもなくジョン・ワトスン。それからヘイスティングズ大尉。もちろん私の愛する関口巽もそうだね」
「そうすると先輩は、……僕にも小説を書け、っていうんですか」
「書きたいの?」
「いえ……」
どうしても目を伏せてしまう。
「一本くらい書いてみたい気持ちはありますけれど、先輩の前でそんなこと言うのはおこがましいというか……」
「一本くらい書いてみたい、という気持ちしかない人間は一本も書けないよ」
先輩にずばり言われ、縮こまる。まったくその通りだった。ミステリを愛する人間として恥ずかしい。
「でも、書いてみたいと思ってくれていること自体はとても嬉しい」と先輩。
「必ず書いて先輩に読んでもらいますから!」
「ありがとう。でも、探偵助手のほんとうに大切な仕事は、第三の役割だよ」
第三? 他にあるの? 無知蒙昧な発言をして探偵の推理の説明をわかりやすく引き出す役目と、それを小説に書いて読者に届ける役目と――その他にもうひとつ? もっと大事な役割がある?
……だめだ、全然思いつかない。
「ふふ、わからない?」
先輩は艶然と微笑む。そのさくらんぼ色の唇が、十六夜の月みたいにわずかに細められた目が、あまりにも魅力的すぎてますます頭が回らなくなる。
「探偵はその頭脳リソースをすべて推理に割いているから、日常的な能力に欠けていることが多いよね。これがヒントになる」
「え……と、探偵の生活の面倒を見る、という役割ですか。洗濯とか掃除とか?」
「その答えでは60点」と先輩は言って、手をこちらに伸ばしてきて、その細く冷たい指先でいきなり唇をなぞった。動けない。身体が火照って痺れていうことをきかない。「家事だけならメイドにだってできる。探偵はもっと深く助手に依存するべきだと思う」
「もっと深く? それは、あの、精神面でもケアしろ、みたいな話ですか? 悩み相談に乗ったりとか……?」
「すごくいい。でも足りない。探偵はさみしがり屋が多いからもっと親密で手厚いケアが必要だよ。夜、悪い夢を見ないように添い寝するとかね」
「そ、そんなことまで? それって、ええと」
「それに探偵はひとりでディズニーランドに行けないから付き添って一日中いっしょに楽しんであげなければいけない」
「……は? それは、あの……」
「おまけに探偵はひとりで新婚旅行に行けないから」
「探偵じゃなくても行けませんよ! ひとりで行ってたら心の病気です!」
「まとめると、探偵と助手は結婚するのが理想的という結論になるね」
なぜそうなる?
* * *
紫衣子先輩が部室に帰ってきたので、僕は日誌を閉じてペンを置いた。
先輩の服装は、制服のブレザーとスカート。……うん、現実に戻っている。先輩は僕と日誌の表紙とを見比べ、頬を染めてうつむき、上目遣いで訊いてくる。
「……その、……どう思った?」
いちばん困る質問が来てしまった。
「……ええと。そうですね。あの、先輩の新しい一面が見られて嬉しかったです」
先輩の顔は急激なグラデーションを経て朱色から真紅に変わった。
「それはっ、あのっ、わたしだって常時ああいうことをしていたわけではなくて、週に一回だけよ、水曜日は『探偵と助手』活動っていうのがこの部の伝統なの」
僕を含めて歴代の部員がやっと三人という部に伝統もなにもあったものではないと思うが。
「週一ってことは、五回に一回やるわけですか」
「そう……なるわね。あ、あの、もし小宮くんがつらそうならやめても」
そう言って先輩は僕の膝の上の日誌に手を伸ばしてくるので、あわてて僕は手のひらで遮って言った。
「いや、大丈夫ですよ。やります。せっかく仕事を任せてもらったんだし」
「そう? ……あの、あのね、わかっていると思うけれど結婚がどうこうというのは探偵と助手を演じる上での想定であって実際にわたし自身がどうこうというわけではなくて」
「大丈夫です、わかってますって」
先輩自身がどうこうという話にしか見えなかったし僕も全然大丈夫ではなかったけれど、狭量な人間だと思われたくなかったので僕は虚勢を張った。
「それならよかった」
先輩はようやくほっこりした顔になってくれる。複雑な気持ちだった。五回に一回、つまり日々の部活動に番号を振るとすると一の位が5と0の回にはこのもやついた気分を味わわされるわけか。先輩の新鮮な可愛さも一緒だから悪いことばかりではないけれど。というか悪いことなんて一つもないのだけれど。
「ところで関口巽ってだれですか?」
「知らないの?」
紫衣子先輩は目を丸くする。
「京極夏彦、読んでいなかったの?」
「すみません、読まなきゃいけないなとは思っていたんですけれど、あの分厚さを見るとどうしても踏ん切りがつかなくて。といって、知ったかぶりして恥を重ねるのも情けないし……」
僕は本棚の一角をちらと見やる。京極夏彦の『姑獲鳥の夏』『魍魎の匣』『狂骨の夢』『鉄鼠の檻』『絡新婦の理』といったシリーズがずらりとならんでいる。たしか分冊版も出ていたと思うのだけれど、この部室の蔵書は分冊されていない文庫で、シリーズが進むにつれてセンチ単位で増していく表紙の幅は異様な威圧感を放っている。
でも先輩は目を輝かせて意気込んで言う。
「大丈夫よ。いったん読み始めれば厚さなんて全然気にならなくなるから! もちろんシリーズ最初から全部読まなくてはだめよ、特に『塗仏の宴』は『絡新婦の理』の重大なネタバレを含んでいるから――」
「あ、はい、わかりました、読みます読みます」
お気に入りの本を他人に勧めるときのミステリマニアというのはこの世でいちばん危険な肉食獣なのである。この部に入って痛感させられた。
「それでね、シリーズ通しての探偵役は京極堂こと中禅寺秋彦なのだけれど出番はかなり少なくて、ずうっと出ずっぱりで語り手をつとめるのが京極堂の友人の売れない純文学作家、関口巽なの。この関くんが最高にかわいいの、鬱病持ちで、劣等感の塊で、いつも周囲からひどい扱いを受けていて」
どこにかわいいポイントがあるんだろう……?
「その関口って人、純文学なんですか。推理作家じゃなくて? べつに自分が遭遇した事件を小説に書いてるわけじゃないってことですか」
「事件を題材に執筆したことも少しはあるけれど、基本的にはただ語っているだけね。関口巽が書いている、という設定の小説ではないわ。他の人物の視点で書かれた文章もたくさん出てくる。というより、関口巽の一人称で通して書かれた長編は『姑獲鳥の夏』くらいね」
「それだとワトスン役とは言えないんじゃ……?」
「そもそもね、小宮くん」
先輩は僕の側のソファに移ってきて隣に腰を下ろした。
「助手が語り手となって探偵の活躍を書くという形式のミステリはさほど多くないの。世界初のミステリであるポーの『モルグ街の殺人』が、名探偵オーギュスト・デュパンの推理を凡庸な語り部である『私』が記述するという形式をとり、それをコナン・ドイルがシャーロック・ホームズとワトスンによって踏襲したせいで、まるでワトスン形式がミステリの書き方の本道みたいに誤解されがちだけれど、ミステリ全体から見ればごく少数派」
「そ……そうなんですか?」
言われてみれば、ホームズ以外にぱっと思いつかない。先ほど話に出ていたヘイスティングズ大尉はエルキュール・ポワロの相棒だけれど、僕が読んだことのあるポワロ作品で大尉が出てくるのは二、三冊だけだった。他はみんな三人称叙述だ。
「助手の一人称ではおのずと書ける展開にも限界があるでしょう。助手が見聞きしたことしか書けないのだから」
「あー、そうですね……。そういや『ABC殺人事件』でも、ヘイスティングズ大尉がわざわざいきなり『いくつかの章は三人称で書かれているけれど全部真実だと約束します』なんて弁明をしてましたね」
「助手の一人称で通していたのでは書き切れないアイディアを思いついてしまったので採用した苦肉の策でしょうね。そしてじきに助手の一人称そのものを捨ててしまう。さよならヘイスティングズ。かわいそう」先輩はほんとうに涙ぐんでハンカチで目元を押さえた。「でも彼はべつに推理作家という設定でもないし、いなくてもポワロシリーズは書き続けられたわけだから捨てられるのも無理はないわ」
「あ、そうだ。登場人物に本物の推理作家が出てきて、その人が書いている本である――って設定のミステリはけっこうありますよね。そのタイプに限定すれば、助手兼語り手形式は多数派じゃないですか?」
「いえ。やっぱりそこまで多くはないわね」
「えっ。そ、そうですか?」
「たとえば、著者名と同名の作家が出てくるミステリで最も有名なものといえばやはりエラリイ・クイーンでしょう。彼は助手ではなく探偵その人よね」
「あー、そういえば……」
「そのクイーンに範を取った法月綸太郞も自分自身が探偵でしょう」
「ううっ、言われてみれば」
「小宮くんの言っている作家=助手タイプの小説はたぶん有栖川有栖を想定しているのでしょうけれど」
その通りです。大好きなんです。
「あれがむしろ特殊例。まあそもそも著者と同名の作家を語り手として自作に出すという蛮勇の持ち主がそうそういないのだけれど」
蛮勇とはまたずいぶんな言い方だった。わからなくもないが。……ううん、クイーンが有名すぎてミステリではよくあることのように錯覚していたけれど、たしかに列挙できるほど例を思いつかない。二階堂黎人……は、あれは同名だけど作家キャラではないんだっけ?
「著者と同名ではないにしろ、ミステリに出てくる推理作家は助手ではなくそのまま探偵であることが多いわ。たとえばジェシカ・フレッチャーとか、鹿谷門実とか。これは当然のことなのだけれど、ミステリを自分で書けるくらいの頭脳があるのなら、間抜けで凡庸な質問役である助手なんて立場におさまるわけがないのよ。自分で探偵をする方が自然だわ」
「そ、それは……その通りでしょうけど言わないでおくのが礼儀ってもんじゃ……」
「この問題に真正面から取り組んだ作品としては麻耶雄嵩の『名探偵 木更津悠也』があるわ。語り手が作家かつ探偵助手という構図なのだけれど、相方の探偵の頭脳がとても残念で間違った推理を連発するのに対して、助手の方が天才で真相をあっさり看破しちゃうの」
「……それ、探偵要らないんじゃ?」
「ところがこの助手は探偵を大活躍させることが自分の使命だと決めているから、看破した真相は胸の内におさめて探偵を応援するし、推理が間違った方向に進んでいるときにはそれとなく口を挟んで軌道修正してあげるの。だから探偵はずっと自分が天才的な名探偵だと思い込み続けている」
「す、すごい設定の小説もあるもんですね……。でもそれって要するに作家=探偵タイプのバリエーションのひとつですよね」
僕の指摘に紫衣子先輩は肩をすくめた。
「そう言えなくもないわね。けっきょくのところ、凡庸な助手を語り手に据えるのはメリット以上にたくさんの問題があるから、ホームズとワトスンがうまくやっているからといってそうそう安易に真似できるものでもないのよ」
「そうなんですか。でも、僕が読んだミステリってその形式のがいっぱいあった気がするんですけど、なんでだろう」
少し考えてから先輩は訊いてきた。
「小宮くんがよく読むのは最近の国内ミステリ? 少年向けも多い?」
「……はい。そうですね、だいたい」
「それなら納得。ワトスン形式には、あまたの問題点を度外視できるほどに大きなメリットがひとつあるの。ラブコメが書きやすいのよ」
僕はぽかんとして先輩の唇を見つめた。きなり想定外の単語が飛び出てきたからだ。
……ラブコメ?
「主役を二人にするからには当然しょっちゅう二人のやりとりを描けるわけよね。推理の合間に甘酸っぱいトークを挟むのも自然にできるわ。しかも、ラブコメというのは両想いになるとそこで話が終わってしまうからのらりくらりと想いが通じないようにするのだけれど、ワトスン形式ならこの生殺し展開も自然に書けるのよ。なぜなら探偵助手が鈍感だから」
思わずほうとため息をついてしまった。たしかに、そういうのをいっぱい読んだことがある。どれも探偵役が魅力的な女性で、助手の男の一人称で、探偵はどう見ても助手が大好きなのに当人は鈍感すぎて――
「現代日本ではありとあらゆるジャンルのフィクションにラブコメが導入できるし、需要もあるでしょう。だからミステリにかこつけて推理部分よりラブコメをメインにしたものばかり書いている作家もいるわね。ひきこもりの幼女が探偵だとか女子高生の生徒会役員が探偵だとかそういうやつ。でもね小宮くん、はっきり言っておくけれど、わたしは個人的には許しがたいわ。そういう作家が書くものはミステリ要素がほんの隠し味程度だし、だいいち殺人が起きないことがほとんどだもの!」
「は、はあ……」
僕はけっこう好きですけどね? とは言えない空気だった。
「それに正直なところわたしは鈍感な男性というのがそもそも好きじゃないし」
そう聞いて僕はすかさず言った。
「あの、僕は大丈夫ですよ。間は抜けてるかもしれないけど、少なくとも鈍感ではないです。のらりくらりもしません。紫衣子先輩が大好きなのは何度でもはっきり言いますし、先輩が僕に好意を持ってくれてることもしっかりわかってますし両想いになる準備はいつでもばっちりできてますから」
先輩はかあっと赤くなってそっぽを向いた。
「ば、ばかっ。わたしたちの話なんてしていないでしょうっ!」
しかし、繰り返すが僕は鈍感ではないので、僕らの話だったこともちゃんとわかっていたのである。