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第4回 先輩は不倫の味を知らない

「小宮くんは人を殺したいと思ったことはないの?」


 その日の放課後の部活動は、紫衣子先輩のそんな一言から始まった。


「ええと……そうですね……」


 こんなサークルなのだから良識的な嘘で取り繕ってもしょうがないだろうなと思う。


「何度か、突発的に、そういう気分になったことは、もちろんありますけど」


「でも殺さなかったのはどうして?」


 僕はしばらく口ごもったが、余計なことは言わない方がいいだろうなと思い直す。代わりに常識的な意見を口にした。


「だってそれは……法律で禁止されてますし」


「日本の法律では殺人は禁止されていないわよ」


「えっ? ……ええええっ?」

 思わず二度驚いてしまった。そんな馬鹿な。


 紫衣子先輩はマグカップを置いてソファから立ち上がり、部室の壁を埋める書架の一角に歩み寄ると、一冊を抜き取って僕のところに戻ってきた。どっちが表紙でどっちが背表紙かよくわからないくらい分厚い本だ。『六法全書』とある。

 ざっとページを開いた先輩は一箇所を指さす。

 刑法第2編第26章、殺人の罪。

 第199条、「人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する」。


「……ね?」と先輩は僕に身を寄せてきてささやく。「人殺しは禁止なんてどこにも書いていないでしょう」


「い、いや、でも、刑罰が書いてありますよね。だから、死刑とか懲役とか食らわされたくなかったら殺すなよ、って意味で、実質的に禁止してるんじゃ」


「保護法益、という観点からはあなたの言っている通りよ。でもそんな一面的な見方だけでは本質を見誤るわ」


「はあ」

 なんだか今日はひときわ難しい話になりそうな予感だった。


「そもそも法というのは、強制力を伴った命令なわけよね。命令であるからには対象者が決められている。その法がだれを対象としているかは、『その法に違反できる可能性がある者はだれか』を考えるとわかるわ。たとえば会社法。これは会社を設立・運営する者を対象としている法よね。起業者以外の人間は、『株式会社を設立するには、発起人が定款を作成し、その全員がこれに署名し、又は記名押印しなければならない』という命令には従うことも違反することもできない。たとえば放送法。これは放送事業者への命令だから、放送事業に携わっていない人間は、『放送事業者は、対価を得て広告放送を行う場合には、その放送を受信する者がその放送が広告放送であることを明らかに識別することができるようにしなければならない』という命令には従うことも違反することもできない。……ここまではいい?」


「……なんとか」


「じゃあクイズ。刑法はだれを対象とした命令でしょう?」


 紫衣子先輩は開きっぱなしの六法全書のページを指でとんとんと叩いて言った。

 僕は目をしばたたいた。だれを対象? だれだって罪を犯せば罰せられるのだから――


「それは、だから、日本にいる人全員……」


「さっきも言ったでしょう。刑法は犯罪とされる行為を禁止していないの。ニュースで『刑法違反で逮捕』なんて聞いたことないでしょう? そんな記事文を書いたら法曹関係者から総突っ込みを受けるでしょうね」


「あ……そうか。ええと、いや、でも……」


 僕は思案に暮れる。『人を殺した者は、死刑又は無期若しくは五年以上の懲役に処する』という命令に違反? それっていったいどういうこと? この条文に反するということは、つまり人を殺した者が目の前にいても――死刑あるいは懲役に、処さない、ということか。


「あ」

 ようやくぴんときたので声が漏れた。

「刑罰を決める人――が対象ですか」


「正解」


 先輩は微笑んで僕の頭をなでた。もうそのしぐさだけで最高のご褒美だった。


「刑法に違反できるのは、刑罰を決める権限を持つ人間、つまり裁判官だけ。だから刑法は裁判官に対する命令なの。この観点を持たなければ、刑法の大切な二面性が見えてこない。一つ目の面は、小宮くんがさっき言った通り、『刑を受けたくなければ罪を犯すな』という実質的な禁止命令。これは小学生でもわかる」


「もう一つ意味があるんですか」

 小学生レベルですみません……。


「ええ。裁判官がたとえば刑法199条に違反するケースを考えてみて。殺人者が裁判にかけられたのに、刑を科さなかった。これは当然刑法違反よね。では、殺人者に『研究施設に閉じ込めて生涯を人体実験の被験者として過ごす』刑を科したとしたら?」


「……それも違反、ですね」


「そう。規定されていない刑罰を与えることもまた禁じられている。つまりこれは罪刑法定主義の精神ね。あらかじめ法に規定された罪と量刑によってのみ罰されなければならない。そうでないと国家権力が恣意的に刑罰という暴力を振るって国民を圧迫できてしまう。権力の暴走から国民を守るという側面も刑法は持っているわけね」


「知りませんでした……。学校で教えませんよね、それ」


「日本の法律で殺人が禁止されていない、なんて話をしたら無知な親から抗議が殺到するでしょうからね」


 それはありそう。先輩ほどにじゅうぶんに説明できる教師もそうそういないだろうし。


「さて、殺人は法で禁じられていないとわかったところで最初の質問に戻るけれど、それでも小宮くんは殺さないの?」


 戻るのかよ。すっかり忘れてたよ。


「罪刑法定主義があなたを守ってくれるわ。どんなに重くても死刑で済むの。さあさあ、それでもやっぱり殺さない?」


 死刑は『済むの』で済む話じゃねえだろが。


「懲役下限は五年だけれど情状酌量で三年以下に減刑されれば執行猶予もあり得るわ。とってもお得でしょう、複数殺しちゃったら難しいけれど一人くらいならいけるいける。それでも殺さないの?」


 隣に座られてそんなふうに頬を色づかせてにじり寄られるとハイわかりました喜んで殺しますと言いそうになってしまう。


「いや、あのですね、法律だけの問題じゃない気が……つまり、その、殺したら人生色々めちゃくちゃになるわけで」


「まあそうよね」


 先輩はあっさり態度を平静に戻して身を引いた。


「けっきょくのところね、小宮くん。殺人というのはとても愚かしい行為なのよ」


「……はあ。先輩がそれを言っちゃいますか」

 部の存在意義にかかわりませんか?


「日本の警察はとても優秀だし、その警察を敵に回して真相を巧妙に隠蔽できるような知性の持ち主は、そもそも殺人という愚行を選ばないはずなの。それでも殺人に至らせるためには、リスクに釣り合うだけのとてつもなく強い理由が必要になる。現代を舞台にミステリを書くときには厄介な障害ね」


「あ、僕もそれよく気になってました」と僕は膝を打つ。「昔のミステリだと全然気にならないんですよね。クリスティなんてだいたい動機が遺産目当てじゃないですか。まあ人命が今ほどは重くなかった時代だし、外国だし、そんなもんだろうなあって読み進められるんですけど、最近の日本のミステリだと、なんかこうそれらしい動機を設定するのに苦労してるんだなあっていうのが伝わってきちゃって」


「そう、そうなの!」

 紫衣子先輩はソファの上で飛び跳ねた。

「わたしも解決篇で犯人が動機を自白する場面が苦手でしょうがないの。わたしが好きなのはとにかく登場人物が凄惨に殺されまくる連続殺人ものなのだけれど、大量連続殺人の動機なんて復讐か頭がおかしいかのどちらかしかあり得ないのよ。告白シーンは過去を回想してのお涙頂戴にするか、狂気を剥き出しにさせてキャラクター崩壊の勢いで駆け抜けるか……どちらを読んでも、なんというか、動機を明らかにしておかないと義理が立たないから――みたいな白々しい儀式めいたものを感じてしまって冷めるの」


「……じゃあ動機は一切語らないとかどうですか」


「それはそれでもやもやするでしょ!」


 かように読者はわがままなものなのである。いかんともしがたい。


「だから動機は本人以外の口からさらりと語られて終わってくれるのがいいわ。復讐よりは、もう常人には完全に理解できないマニアックな嗜好が動機の方が好みね」


「憎しみだけじゃなくて、愛情で殺すパターンもありますよね。あるいは愛憎合わせ技とか。ああいうのはどうですか」


「愛情? ふうむ」


 あれ、と思った。先輩の反応がなんだか鈍い。


「現代日本だと、遺産狙いとかより男女間のもつれの方がリアリティあるじゃないですか。よく不倫関係が出てくるし」


「そう? うん、そうね、不倫ね」


「妊娠とかまで絡んでたら真っ黒でどろどろになるから殺意にも説得力が出ますよね」


「に、妊娠? え、ええ、知ってる。キスしてレモン味なら赤ちゃんができてしまうのよね、結婚していなくても」


 そういやこの人こっち方面の知識が壊滅的なんだった。絶好のチャンスだ。あれこれいじくり回してたっぷりあわてさせよう。


「先輩は経験豊富だから僕よりも不倫とかには詳しいですよね、きっと」


「なっ、なにを言っているのっ? 経験なんてないわ! 積もったばかりの雪のようにまっさらで真っ白よ!」


「そうなんですか。でもそれじゃ見識不足で、殺人研究家としてはちょっとまずいんじゃ」


 先輩はすっくと立ち上がって僕をにらみ据えた。


「わかった。このままじゃ実践派を信条とする『キラー・クイーン・サークル』の名が廃るわ。わたしと小宮くんで不倫しましょう」


 ……なんか変な方向に行っちゃったぞ?


「いやあの、不倫て、まず正式な相手が他にいないとできないわけで」


「そっ、それもそうね……」

 先輩はまたソファに腰を下ろし、上目遣いで続ける。

「小宮くんは、そういう相手はいるの?」


 なにその質問?


「……いるといえばいますけど」

 先輩の反応を伺いたくてつい言ってしまう。


「いるのっ? だれなの、クラスメイト?」

 腰を浮かせて食いついてくる。期待以上の反応だったので顔が緩むのを隠すのに必死だった。


「紫衣子先輩ですよ。当たり前じゃないですか」


 僕が答えると、先輩の顔の色はほんの三秒ほど白々と呆けた後で一気に紅潮した。


「……っ? ……っ!」


 もはや言葉にならない言葉を唇から漏れさせながら先輩は両手をぱたぱたとあたりの空間に羽ばたかせてあわてふためく。やりすぎたかと思った僕がなにか言おうとすると、先輩は咳払いで僕を遮ってソファに腰を落ち着けた。


「……つまり、……これはあくまでも犯罪心理研究の実習のための仮の設定よ? そこはわかっているわね? 小宮くんは正式にわたしと婚姻関係にありつつ、わたしと不倫をする、そういう設定なわけね?」


 どういう思考過程でそうなるのかはさっぱりわからなかったけれど「はい、そういうことですね」と僕は答えてしまった。なにしろ立場的に美味しすぎるので。


「では実践を始めましょう」


「実践って、……不倫するんですか」


「もちろんそうよ。不倫が殺意につながるかどうかを実体験するの」


 不倫を実践? 二人きりの部屋で? こんなおあつらえ向きのばかでかいソファがある場所でですか? 具体的にどんなことをいたすのでしょうか? 興奮する僕に先輩は訊いてくる。


「キスが何味だと不倫ということになるのかしら」


 僕は口を半開きにしてしばし固まり思案に暮れた後で、てきとうに答えた。


「……プリン味ですかね」


「こんなこともあろうかとプリンを買ってあるわ」


 先輩はキチネットの冷蔵庫から白い紙箱を持ってきた。中にはホイップクリームでデコレートされた高級そうなカスタードプリンが二つ入っている。

 食べ終わってから先輩は言った。


「これで小宮くんの唇からプリンの味がしたら不倫成立ということね?」


「はあ。そういうことになるんですか」

 なんでだ? 話がうますぎないか? と思いきや、先輩はいきなりがばと立ち上がった。


「キスなんてそんな、はしたないわっ! まだ結婚もしていないのになに考えているのっ?」


 なに考えているのはこっちのせりふですが。これまで我に返ってもいいポイントが十五箇所くらいあったのにそれは全部スルーして今このタイミングなのかよ。どうせならもうちょっと後まで気づかなければよかったのに。


「この実践はわたしたちには早すぎたわね……まだ十八歳になっていないのだし」


 十八歳になったらいいんですかっ? あと三年ですよ、真に受けてバイトして指輪も買っちゃいますよ?


「でも失敗もまた実体験のうちよ。小宮くん、今日の結果を日誌にまとめておいて」


「……なんですか日誌って」


 先輩は書架の端から分厚いファイルを引っぱりだして持ってくると、僕の膝の上にのせて開いた。ルーズリーフのページに丁寧な文字がびっしり書き付けられている。


「我が部の活動日誌。今日みたいな実習をしたら、下級生がその結果をまとめて書くのが伝統なの」


「へえ……って、伝統? ここって紫衣子先輩が創った部じゃないんですか」


 たしか新入部員は僕がはじめて、とか言っていなかったっけ。だいたいこんな珍妙な活動に青春を費やせる人間が僕らの他に存在しうるのか?


「創設者はわたしの先代の部長よ。わたしが二人目の部員、小宮くんが三人目」


「ああそうか、先輩が迎えるはじめての新入部員が僕っていう意味だったんですね」


「そう。部長はわたしが中一のとき高三だったから、一年で卒業してしまったの。一緒に活動できたのはたったの一年間。それからずっとひとり。小宮くんが来てくれるまでほんとうにさみしかった」


「これから一生さみしい思いはさせませんから!」


「部長も同じことを言っていたけれど卒業以来一度も遊びにきてくれないの」


「はあっ? そんなプロポーズ同然のこと高校生のくせに言ってたんですか?」と自分を完全に棚に上げて僕は憤った。「ゆるせませんよ、どんな人なんですかその先代部長って、紫衣子先輩と釣り合うようなやつなんですか?」


「宗像恭史郎って知ってる?」と先輩はいきなり言った。僕はきょとんとしてうなずく。


「……はい。最近売れてる推理作家ですよね」


 二年前くらいに文壇に登場してデビュー作からいきなりベストセラー三連発、大型新人と騒がれている書き手だった。骨太な警察ものながら本格ミステリとしても高水準で、僕も好きな作家だ。


「その宗像恭史郎がわたしの先輩。ここの初代部長」


「えええええええええええ」


 ガマガエルを絞め殺したときみたいな声が漏れる。紫衣子先輩が中一のときに高三ということは五歳年上、今は二十二歳か二十三歳? あの作家そんなに若かったの? 横山秀夫ばりの重厚な作風なので絶対に人生経験豊富な中高年だろうと思っていたのに。


「処女作は高校在学中に書いて、担当編集もすでについていたらしいわ。でも著者のキャラクターを前面に押し出した売り方をされて色眼鏡で見られるのがいやで、プロフィールを一切公開していないのだそうよ」


「……はあ……そうだったんですか……」


 言われてみれば、あれだけ売れているのにインタビューなどで露出しているのを見たことがない。


「作風は硬派だけれど本人はとても茶目っ気たっぷりで面白い素敵な人よ。わたしは昔はがちがちの本格ミステリ原理主義者だったけれど、一方で宗像先輩は社会派も変格もホラーもサスペンスもなんでも詳しかった。あの人のおかげでたくさんの名作に巡り逢えたし殺人観も変わったわ」


 頭がぐらぐらしてきた。先輩がここまで人をほめることなんてあっただろうか。

 てっきりこの部屋は紫衣子先輩と僕だけの愛の巣だと思っていたのに、そんな強力な敵が先に棲み着いていたとは。現役の売れっ子ミステリ作家なんて、勝てる要素がない。


「あっ、でも小宮くんが心配しているような関係ではないわよ?」と先輩があわてて言う。


「いえ、慰めはいいです、僕が先輩にふさわしい男になればそれで済む話なんですから」と僕はしょんぼりしながらつぶやいた。


「小宮くんのその奇妙な角度のついた向上心は素晴らしいと思う」


「お褒めにあずかり光栄です……」

 無性に泣けてくる。


「それじゃあ今日から日誌お願いね。宗像先輩がいた頃にわたしが書いたのがあるから参考にして」


 わかりました、と言ってファイルの前の方のページを開いた僕は、さっそく紫衣子先輩が宗像恭史郎をべた褒めしている記述にぶちあたり、卒倒した。鼻の穴から蜂蜜を流し込まれたような気分だった。

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― 新着の感想 ―
[一言] 今回も面白かったです! またよみます
2020/01/26 11:21 取り残された髪の毛
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