第3回 先輩は僕と一緒に百歳まで生きたい
「いちばん嫌な殺され方はなに?」
入部してから何日目かの議題がこれだった。よほど楽しみにしていた話題だったのか、うきうきしているのが表情の端々でわかる。
「殺されるの自体が嫌ですけど、ううん、いちばん嫌となると……痛いのとか苦しいのはとにかくかんべんしてほしいですね」
「痛みだけで人間を殺した毒物の例としてはフッ化水素酸があるわ。皮膚に触れるだけで激痛が走って肉に浸潤して骨を腐蝕させ――」
「あっ、あの、そのへんで」
「苦しいのというと、たとえば溺殺とかかしら。水で窒息させる殺し方ね」
「溺殺って言葉もあるんですね……。僕、実際に小学生のときに海で溺れ死にしかけたことがあって、奇蹟的に助かったんですけれど、もう二度とあんな目には遭いたくないです。死んでも嫌ですね。あれ? 死んでも嫌っていうのは変か、死ぬ話なんだから」
僕の妙な言い草に紫衣子先輩はくすくす笑った。それから、「その事故って冬だったんじゃない?」と訊いてくる。
「え? ああ、事故……って、……僕が溺れたやつですか。……はい、一月でしたけど。海水も、もう全部氷なんじゃないかってくらい冷たくて、なんで生きてたのか不思議で」
「哺乳類の身体は、冷水に浸かったりすると一時的に心拍数を下げて身体全体の酸素消費量を下げ、酸素供給を脳に集中させる機能があるそうよ。加えて幼い子供は脳が未発達だから酸欠に強いのだとか。小宮くんが助かったのはそのせいかも」
「はあ……そんな原因だったんですか。じゃあ、もう少し年上だったら助からない……」
「かもしれない。他にも様々な条件があるし、助かりやすいといっても蘇生可能な時間がいくらか延びるというだけだもの。とにかく生きていてくれてよかったわ、おかげで今こうして入部してわたしと楽しいおしゃべりができるのだし」
僕も心底そう思った。生きててよかった。先輩に逢えたから。
「そうだ、殺し方を研究する以上は生かし方、助け方も研究するべきだというのがわたしのポリシーなの」
「先輩にしてはまとも――あ、いえ、良い考えだと思います」
「それじゃあ溺れた話も出たことだし心肺蘇生法を実践してみましょう。小宮くん、ソファに横になって」
僕が溺れた人間の役なの?
言われた通りにソファに仰向けになる。先輩が僕の傍らにやってきて腰をかがめ、重ねた両手をブレザーの胸のあたりに押しつけてきた。
「胸骨圧迫を三十回、人工呼吸を二回。この繰り返しよ。まず胸骨圧迫は強くリズミカルに、だいたい五センチは沈み込むくらい」
けっこう痛いんですけど? 先輩が僕にずっと触っているという悦びも帳消しになりそうなくらいの圧迫感なんですけど?
「次に人工呼吸は額とあごに手をあてて顔をやや上向きにして気道確保し――」
紫衣子先輩は膝をついて僕の頭を両手でしっかりつかむと、顔を寄せてきた。潤って光沢を帯びた薔薇色の唇が――え、ちょっと待って、ほんとにやるんですか? いいの? どうしよう歯磨きちゃんとしたっけ? 息は止めてないとだめ? 目は閉じた方が――
迫り来る先輩の顔がぴたりと止まり、真っ赤に染まった。
「――って、これじゃキスじゃないっ」
「いま気づいたんですかっ?」
「いけないわ、キスなんてしたら赤ちゃんができてしまう」
殺す方の知識は専門家並みなのに生む方の知識はなんで幼稚園児レベルなんだよ?
「こんなはしたない行為を部活動としてやるわけにはいかないわ、交替しましょう。わたしが溺れた役をやるから小宮くんが救助役。これで大丈夫」
そう言って先輩は僕を押しのけてソファに仰向けになった。なにが大丈夫なのかさっぱりわからない。
「まずは胸骨圧迫三十回よ、一分間に百回くらいのテンポ、具体的には『懐かしのラヴァーボーイ』くらいの速さで」
クイーンの曲で胸骨圧迫の速さを指定されても。いや、わかりますけれど。
「どうしたの、小宮くん。心臓マッサージなんだからもっと強く、あともう少し下の方でないと心臓に力が届かないわ。そんなふにふにした押し方じゃ助かるものも助からないわよ」
いやその、ふにふにしているのは先輩の胸部がふにふにしているからであり、もっと下の方に位置がずれたらもっとふにふにしてしまうのでは。
「ほら、三十回圧迫したら人工呼吸二回よ。そう、額を手のひらでおさえて顎をぐっと上に向けて口を――ってこれもキスじゃないっ?」
「いま気づいたんですかッ?」
先輩は真っ赤になったまま座り直してスカートの乱れを直す。もう少し気づくのが遅れればよかったのに。
「救助法の学習はこのくらいにしましょう、やはりわたしたちは殺す方が専門なのだし」
しきりに咳払いしながら先輩は言った。
「そ、そうですね……」
千載一遇のチャンスをもっと有効に生かす方法があったのでは、とその日一日後悔することになる僕だったが、さておき先輩の話は続いた。
「嫌な殺され方の話をしたから、次は好きな殺され方ね」
「えええええー……殺されるのは全部嫌ですけど」
「でもいつかは殺されるわけだから、いちばんましなのはどれかって考えてみて」
「そうですねえ、たしかにいつかは……って、なんで殺されるの確定なんですか? 安らかに死なせてくださいよ、老衰とかで!」
「老衰殺というのはさすがに聞いたことがないわね。かなり難しそう」
「難しいっていうか殺し方じゃないんじゃ……」
「他の原因で死なれては困るから毎日の生活に気配りして栄養バランスの取れた三食を提供し安眠できる環境を整え収入も安定させ定期的な健康診断を受けさせ精神的ケアも怠りなく不慮の事故にも遭わないように常に共に行動し共に笑い共に泣き共に迷い共に誓いながら共に年を重ね百歳まで生きて最期の日には子供や孫たちと一緒に床を囲んで手を握りながら逝くのを見守るのね。完全犯罪ね」
「ただの幸せな夫婦じゃないですか」
「で、小宮くんは老衰殺がいいわけね?」
「え? あ、はい。先輩が僕を殺すなら、ぜひ老衰殺でお願いします」
「他ならぬ小宮くん本人からのリクエストとなると無碍にはできないわね。かなり高いハードルを課せられてしまったわ。一緒に在校している間には絶対に達成できないし、まずは成人して職を見つけて生活を安定させてから共同の住居を探して……って、これってプロポーズじゃないっ?」
「いま気づいたんですか」
これは気づかれないと哀しいですけど。
先輩はもう首筋まで赤くなっておたおたとあたりを探し回り、とりあえずコーヒーを飲んで落ち着こうとする。
「い、いけないわ小宮くん、そういうのは色々と段取りが必要でしょう」
「段取りっていうと」
お付き合いを深めたりご両親に挨拶に行ったりとかでしょうか。
「そうね、小宮くんに生命保険をかけたりとかアリバイ工作をしたりとか」
「先輩がするっと平常運転に戻ってくれて安心しました」
あたふたする先輩をいじり回すのはたしかに最高のごちそうだけれど、そればかりいただき続けていては胃もたれしてしまう。普段はクールで知的な殺人マニアでいてほしかった。
「もう少し現実的な、ぜんぜん苦しまない殺し方ってないんですか」
質問することによって先輩がプロポーズのことをさっさと忘れるように誘導する。
「そうね……」と先輩は両目を天井にさまよわせた。「最も苦しまないのは凍死だといわれている。体温が平熱を1・7度下回ると脳が正常な思考能力を失って錯乱を始め、やがて眠くなり、そのまま死ぬから。ただし殺害法としてはかなり難易度が高いけれど」
「たしかに、凍殺って聞いたことないですね」
「外気温を利用するとなると対象を拘束して屋外に放置でしょうけれどこれは気象条件がそろっていることが必要だし不安要素も多いわ。確実性を求めるとなると業務用冷凍庫に閉じ込めるのがいちばんだけれどこちらも実行可能な人間は限られているわね。そのわりに足はつきやすいしメリットはほとんどない。強いて言うなら――」
そこで先輩は言葉を切って、僕の身体を頭から足先まで眺め回した。
「死体がとてもきれいだという点くらいね」
「というと、殺したいけれど相手を愛しているから醜い死に様にしたくない、というときには凍死させるのがいいってことですか」
「そうなるわ」
「そして先輩は僕を凍死させてくれるわけですね」
「そうね、小宮くんは殺したいけれど愛し――って、なにを言わせるのっ?」
耳まで赤くなりながらも途中までちゃんと言ってくれる先輩が愛おしい。
「ここは東京だし今は春だしわたしは小宮くんが入るような冷凍庫も持っていないし無理よ、他のを考えて!」
「他の……。他に苦しくないやつはあるんですか?」
「ううん……。わたしにも今すぐ簡単にできるやつだと、首吊りでしょうね」
僕は驚いて目を剥く。
「首吊り? って、あれ窒息死ですよね? 苦しいですよね?」
先輩は首を振った。
「首吊り、正確には縊死というのだけれど、これには二つの死因があり得るの。一つ目は気道圧迫による呼吸阻害、小宮くんがいま想像しているやつ。これは苦しいでしょうね。でも縊死において気道圧迫が死因になることはほとんどなくて、大多数は二つ目の理由、つまり頸動脈や頸静脈、椎骨動脈の圧迫によって脳への血流が阻害されて死に至る」
「へえ……窒息死じゃなかったんですか」
「脳細胞の酸欠だから広義の窒息死ではあるけれど、それを言ってしまうと人間の死というのは突き詰めればほぼ脳細胞の酸欠によるものだから全部窒息死になってしまう。それはさておき、首吊りによる気道圧迫はおよそ15kgほどの重量を首にかける必要があるのだけれど、頸動脈は5kgほどで圧迫できてしまうの。そして頚動脈洞反射と呼ばれる反応で気絶し、そのまま脳細胞が死滅する。だから、足が完全に地面から完全に離れる吊るし方ではなく、接地している吊るし方の方が苦しまずに死ねるわけね。ドアノブで首を吊ったみたいな話もよく聞くでしょう」
「ああ、そういえば……柔道の絞め技なんかも上手い人がやると全然苦しくなくてほんの数秒で落ちちゃうって聞きますね」
「わたしも指先だけで素早く頸動脈を探り当てて圧迫するのを練習しているわ。見かけ上は扼殺だけれど実際にはごく小さな力だけで殺せるというのが素敵」
「いや、相手が抵抗するからけっきょく力は必要なんじゃ」
「そう? じゃあ小宮くんで試してみる」
先輩は僕をソファに押し倒した。顔がすぐ真上にあってつややかな髪が僕の頬に落ちかかる。さらには僕の腹にまたがってくる先輩の太ももの感触で頭が一気に過熱する。
「抵抗していいからね? わたしの練習の成果を見せてあげる」
そう言って先輩は両手を僕の頸に巻きつけた。手のひらはしんと冷たく、僕の肌との温度差でのぼせていることをさらに自覚させられる。本気で抵抗すれば体重の軽い先輩なんて簡単に払いのけられただろうけれど、嬉しすぎてとてもじゃないが抵抗できなかった。もうずっと馬乗りになっていてほしかった。このまま死んでもいい。……あれ? けっこう苦しくなってきたぞ。首を絞められているというか親指と人差し指が強めに押しつけられているだけなんだけれど、意外につらい。息苦しいのではなく――呼吸はできている――なんだかこう虚無が腹からせりあがってきて頭を呑み込もうとしているようなそんな苦しさだ。耐えがたいほどではないけれど……
「ううん、なかなか落ちないわね。やっぱり気道も同時にふさいだ方がいいのかしら」
先輩が柳眉をひそめて言う。
「でも両手は使ってしまっているし、どうやって口をふさげば……、ああ、そうね、わたしも口を使ってふさげばいい――ってこれじゃキスじゃないっ?」
「さすがに話の流れに無理ないですかっ?」
先輩はあわてて腰を浮かせ、僕から離れて向かい側のソファに戻ってしまう。僕の至福の圧迫タイムはあっさり終わってしまった。
「けっきょく小宮くんを落とせなかったわ。力不足ね」
「いやもうとっくに落ちてます」
「え? そうは見えなかったけれど」
「先輩には落とされまくりです。なんなら出逢ったときにすでに落とされてますから」
「いまひとつ意味がわからないのだけれど、わたしにそんな能力があるというの? 目だけで人を落とせるような」
「ありますあります。目を合わせただけでいちころですよ」
「そのわりに小宮くんは元気そうだけれど」
「元気です! 先輩にはいつも元気をもらっています、生きる糧です」
「ふうん……」
紫衣子先輩は不思議そうな顔をしている。きっと時間差で意味に気づいて盛大に赤面してくれるだろう。しかし今日の部活動中にその瞬間がやってくるかどうか。
話が一区切りついたので、先輩は新しくコーヒーを淹れるためにキチネットに行った。お茶汲みはじきに僕の仕事になるのだけれど、入部して間もないこの頃はまだ先輩にやってもらっていたのだ。
トレイを手に戻ってきた先輩が物憂げに言う。
「苦しくない殺し方というのも難しいものね。けっきょくのところ死というのは痛くて苦しいものだから」
「殺す側からしたらどうなんですか。苦しませたいか、苦しませたくないか」
「わたしはそこにはこだわらないけれど」と先輩はコーヒーを一口。「でも、そうね、やっぱり死体は発見時に美しくあってほしい。人相が変わってしまうくらいの苦悶の表情とか、血以外の体液で汚れているとかは望ましくない。となると苦しませない方がいいわね。だいいち自分が殺されるとしても苦痛が大きいのは嫌だもの。自分が望まないことは他人にもすべきではないでしょう」
じゃあそもそも殺すなよ? という当たり前のつっこみは口にしない。そういうつまらないことを言うやつは紫衣子先輩のそばにいる資格がない。
「それじゃ先輩の理想の殺され方は……」
「そうね。やっぱり小宮くんと一緒で老衰殺がいいわね」
そう言って柔らかく笑ってから、不意に先輩はコーヒーカップを置いてあわてた様子で腰を浮かせる。
「今の『一緒で』は『同様に』という意味よっ? 小宮くんと一緒に暮らして一緒に幸せになって一緒に歳を重ねて一緒に孫に囲まれてという意味じゃないわよっ? だいたい孫なんてそんな、子供もまだなのに、あ、いえ、子供をまず作りましょうという意味でもなくてっ」
先輩のあまりの可愛さに僕は死んだ。この殺し方は可愛殺と名づけることにする。