第18回 先輩の帰還
先輩との再会は、何年も後のことだった。
その日、久しぶりに旧校舎の部室に顔を出してみると、キチネットのそばに人影があった。ベージュ色のインバネスコートの背中だったので、息を呑む。
彼女は鹿撃ち帽を手で押さえて振り向いた。もう卒業してだいぶたつので顔立ちは思い出の中のそれよりもだいぶ大人びているけれど、可憐で蠱惑的な微笑みは変わらない。帽子の縁からこぼれ落ちて広がる長い黒髪も昔のままだ。
「先輩……」
それしか言葉が出てこない。
「やあ、助手くん。久しぶり」と先輩は笑う。インバネスコートの下は灰色の着物だ。『探偵と助手』実習のときにいつも着ていた服装。何年越しだろう?
「……お久しぶりです。お逢いしたかったですよ。もっと早くに遊びにきてくれるものかと思っていましたけれど……。卒業してからずっと執筆でお忙しかったんでしょうね」
「忙しかったのはその通りだけれど、今日までご無沙汰だったのは他の理由があるんだよ」
「他の理由……?」
「ほんとうは四日前に来ていたんだ。ところがきみが学校を休んでいたものだから出直さなければいけなかった。最善の日和を逃してしまったのは悔しいよ」
「ええ、一週間ほど旅行に行っていて……日和というのはなんですか?」
「きみの十八歳の誕生日だよ! きまっているじゃないか」
「あ……」
たしかに、四日前だ。急な旅行のせいでばたばたしていて、すっかり忘れていた。
というとまさか先輩、誕生日を祝うためにわざわざ来てくれたのか。
「もちろん誕生日祝いという目的もあったよ」と先輩はインバネスコートのポケットから小さな青いものを取り出した。ベルベット材の宝飾箱だ。先輩が箱を開くと、中にはダイヤモンドをあしらった指輪が入っている。
「え? いや、こんな高いものは――」
「贈るのはこれだけじゃない。もうひとつがメイン」
そう言って先輩は指輪ケースをテーブルに置くと、反対側のポケットから四つ折りにした紙を取り出した。
広げて見せつけてくる。
「……婚姻届?」
唖然とする他ない。
「そうだよ。これのために十八歳まで待ったんだ。結婚しよう」
「い、いえ、あの、ちょっと待ってください」
婚姻届を手に迫りくる先輩から離れようと後ずさる。
「いつも言っていたじゃないか。探偵と助手は結婚するものだって。まさか冗談だと思っていたの?」
「本気だったんですかっ?」
「きみのようなかわいらしい助手に本気にならないわけがないだろう。きみだって私のことは大好きだったじゃないか。愛し合う二人は結ばれるのが自然だよ」
「自然じゃないです、無理です!」
「なにが無理なの? 私たちの結婚になんの問題がある?」
「問題しかありません、まず第一に! わたしたち二人とも女でしょうっ!」
時間が凍りついたような不気味な沈黙が訪れた。
先輩は大きく目を見開き、手元の婚姻届の『夫になる人』と『妻になる人』の欄をしばらく凝視した後で、軽く笑った。
「……ああ、そんな問題? つまり私ときみのどっちが夫でどっちが妻になるか決めかねるということ? それなら私としてはどちらでも――」
「そんな問題じゃありません、日本は同性婚できないんですよ!」
「大丈夫、愛があれば民法なんてどうとでもなるから」
「どうにもなりません! だいたい、その」
先輩の顔が不意にこわばる。
「ひょっとしてきみは――私がいない間に、だれか特定の男性と特別な関係を築いてしまったということ?」
ぎくりとした。
「……いえっ、そういう――わけでも……」
わたしが言いよどみ、先輩にぐいぐいと壁際へ追い詰められているときだった。
ドアノブが回る音がして、少年の弾んだ声が聞こえてきた。
「紫衣子先輩、旅行から帰ってきてたんですね!」
部屋に入ってきた人物の方を先輩も見た。
初対面の二人――小宮真白くんと宗像先輩とは、見つめ合ってしばらく固まっていた。
* * *
「……どうも、はじめまして、小宮真白です」
僕は縮こまりながら挨拶した。
向かいのソファに足を組んで座っているのは、着物の上にインバネスコートという珍妙な探偵スタイルの若い女性だ。しんと冷えて澄み渡る夜の美しさを持つ紫衣子先輩とは対照的な、直視しがたいぎらつく太陽の美しさを備えている。僕をねめつける目つきにも一片の優しさもない。
話には聞いていたし、日誌でも何度も読んでいたが、実物と対面してみると想像をはるかに超えるすさまじい威圧感の持ち主だった。
この女性が――我が部の創設者にして現役ベストセラー作家、宗像恭史郎か。
「本、三冊とも読みました。あの、全部すっごい面白かったです。大ファンです」
僕が正直にそう言うと、宗像先輩はいきなり相好を崩した。
「うん? そうか。うん。それはよかった、ありがとう。サインは要る?」
「え? あ、はい、ぜひお願いします」
ちょうど部室に持ってきていた『殺意の均衡点』の表紙裏にサインをもらう。達筆すぎてなにが書いてあるのかわからないが、とにかく大作家のにおいがするサインだった。
「それにしても」と宗像先輩は僕の顔をまじまじと見ながら言う。「私の読者なのに、私が女だと知って驚かないんだね。編集者や同業者はきまって驚くのだけれど」
「ああ、ええと……紫衣子先輩に話聞いてましたし、活動日誌も読んでましたし」
口調もわりと日誌に書いてあるままなのだけれど、これは探偵コスチュームを着ているからわざとそうしているのか、あるいは日頃からこうなのだろうか?
「活動日誌。ああ」と宗像先輩は書架の一角を見やった。「紫衣子が熱心に書き残していたやつだね。探偵助手は記録をつけるものだ、と適当に言ってみたら真に受けて毎回几帳面に書いていたっけ」
「適当に言っただけだったんですかっ」と紫衣子先輩は僕の隣で眉をつり上げる。
「いや、あの、でも、おかげで二人の昔の活動を僕が知ることができたので、ありがたかったですよ」
僕はあわてて横からフォローを入れる。
「助手っていわれても、なにをしていいのか全然わからなかったし」
「というと、今は紫衣子が探偵役できみが助手役なの?」と宗像先輩が僕に訊いてくる。
「あ、はい。毎週水曜日はまた『探偵と助手』実習をやるって……。でも、まだ実際にやることが決まってないから、日誌でお二人の実習の記録を読んで参考にできるところを探してる段階です」
紫衣子先輩と宗像先輩がいちゃいちゃしているだけでまるで参考にならないのだけれど、それは本人の前では黙っておく。
「小宮くんはまだまだ不勉強だから」と紫衣子先輩は手厳しい。「関口巽も知らなかったなんて、実習をやる段階じゃないわ。もっと予習してもらわないと」
「精進します……」と僕は首をすくめる。
「私たちの実習、というと……」
宗像先輩は宙をにらむ。
「ああ、うん、思い出した。あれか。探偵助手の役割の話をしたりとか。そういえば関口巽の話もした気がする」
「あ、はい。それ読みました。第5回ですね。ほんとにお二人でディズニーランド行ったんですか?」
「もちろん行ったよ。あんな与太話、ディズニーデートに誘うための口実だったんだから」
「与太話だったんですかっ?」と紫衣子先輩は怒るが宗像先輩は気にせずに記憶を探るのを続ける。
「あと、あれか。探偵助手の推理の間違い方を講習したりとかか」
「あ、はい。それも読みました。第10回ですね。後々作家になるほどの人でもとっさに漢字が思い出せないことってあるんだなあと驚いてたら、最後まで読んでちがう意味で驚きました」
「わたしもあれ読み返してみてほんとに恥ずかしかったですよ」と紫衣子先輩。「恥ずかしすぎるから小宮くんが日誌を読んでる間は同じ部屋にいられなくて、いつも隣の部屋で時間を潰してたんです」
「作家というのは恥ずかしいことを堂々と書く仕事なんだよ。高校在学中から私は作家としての資質にあふれていたという証拠だね。あと……あれか。明智小五郎と怪人二十面相の真似をしたときもあったっけ」
「あ、それも読みました。第15回ですね」
「あのときは勇気を出して小宮くんの隣で一緒に読んだのよね……」と紫衣子先輩。「あれは内容も相まってとくに恥ずかしかったわ」
「あのときは痛快だったね。最終的に私演ずる探偵が私演ずる怪人を月面軌道上の宇宙船で打ち倒して見事に大気圏突入したんだっけ」
え、そんなとんでもねえ展開になってたの? すみません、あの回はさすがに恥ずかしすぎて最後まで読めませんでした。
「あとは、そうだ、まだ水曜日になっていないのに紫衣子の可愛い助手っぷりを見たくなってインバネスコートだけ着て実習を始めてしまったこともあったっけ」
「それも読みました。第17回ですね。あの後すぐ先輩が旅行にいっちゃったからびっくりしましたよ。なんだか深刻な感じで出ていったから、僕のことがいやになって、もう戻ってこないんじゃないかと心配しました」
「そんなわけないじゃない……」
紫衣子先輩は気まずそうに顔を伏せて言う。
それじゃあ、いったいどういう理由でいきなり旅に出てしまったんだろう?
訊きたかったけれど、宗像先輩の前ではどうにも勇気が出てこなかった。僕と紫衣子先輩はしばらく黙ってちらちらともどかしい視線を交わしていた。
僕ら二人をじっと見つめていた宗像先輩は、やがてふうぅっと深く息をつき、口を開いた。
「ふむ。色々と合点がいった。つまり紫衣子は、この小宮少年と結婚するから私とは結婚できない、ということなんだね?」
「なんでそういうことになるんですかっ?」
紫衣子先輩は腰を浮かせて宗像先輩に食ってかかった。
「だって私は財力も社会的地位も性的魅力も有り余るほど持っている。おまけに在学中の一年間、睦まじい関係を築いてきた。そんな人間の求婚を拒む理由があるとしたらひとつしか考えられないよ。他に好きな人ができたんだ」
「そ、それはっ」
ほおずきのように耳まで茜色に染まって言葉を詰まらせる紫衣子先輩は凄絶にかわいらしく、僕はしばらくなんのフォローも入れずに観察することにした。というか宗像先輩の言う通りであってほしかった。がんばれ宗像先輩! そのまま紫衣子先輩を納得させて言葉を事実に変えてしまってください! 作家なんだからそれくらいできますよね! まあ求婚を拒むほんとうの理由は同性だからだろうけど。僕は宗像先輩を女性として創ってくれた天に深く深く感謝しないわけにはいかなかった。紫衣子先輩をとられずにすむ上に、紫衣子先輩に勝るとも劣らない麗しさをこうして堪能できる。
「こうなれば、小宮少年」
宗像先輩がテーブルに身を乗り出して僕の顔に手を伸ばしてくる。
「私と結婚しよう。そしてきみが紫衣子と結婚すれば私と紫衣子も同じ戸籍に入ることになるから実質的に結婚しているのと同じ」
「だめ、だめですっ」
紫衣子先輩が僕の首根っこをつかんでぐいと宗像先輩から引き離した。
「いくら宗像先輩でも、小宮くんはだめです!」
こんなに幸せなことがあるだろうか。今日このまま死んでもよかった。いや、死んだらだめか。紫衣子先輩と結婚できないし子供も作れない。
やがて宗像先輩は嘆息し、立ち上がった。
「わかったよ。しかたない。今日のところは退散する」
指輪ケースと婚姻届をポケットに戻し、鹿撃ち帽をかぶり直した。
「この腹いせに、次回作の最初の被害者は小宮という名前にしてやるからね」
うわあ、大人げない。でもファンとしてはむしろ名誉なことだった。作品登場権をただでいただいてしまった。
「それじゃあ紫衣子、小宮少年、また遊びにくるよ」
「あっ、先輩……」
部室を出ていく宗像先輩を、紫衣子先輩は追いかけていった。どうやら校舎の外まで見送りにいったようだ。一人だけになると、疲労が身体中からどっぷりと染み出てくるのを感じた。ほんの十数分間会話していただけなのに、くたびれきっていた。宗像恭史郎、人間としての引力があまりにも強すぎる。
* * *
紫衣子先輩はすぐに部室に戻ってきた。
僕の隣に気まずそうな表情で腰を下ろし、乱れてもいないスカートやブレザーの裾を手で何度も払って直しながら言う。
「その、……驚かせたわね。……変な人だったでしょう。今日来るなんてわたしも聞いていなくて。卒業以来逢っていなかったもので、わたしもびっくりして……」
「いや、ほんとに逢えてうれしかったですよ。めちゃくちゃ素敵な人でしたね」
一片の偽りもなく僕は言った。
「でももちろん、紫衣子先輩に逢えたことの方が一万倍くらいうれしいです。お帰りなさい。一週間ぶりですよね」
旅に出るから、と言い残して先輩はほんとうに海外旅行に出かけていたらしいのである。学期中ではあるけれどもともと授業に一切出席しないのでそのような突然のわがままも特に問題にはならないのだ――僕がさみしい思いをする以外は。
「旅行って、どこに行っていたんですか?」
「フランスとイタリアに服を買いにいっていたのよ」と先輩は部室の隅を振り返る。大量の段ボール箱が積んである。航空便で届けられたものらしい。
「服……ですか? どうしてまた突然」
「実習で使うコスチュームのバリエーションを増やすためよ。倉庫に置いてあるのはほとんどみんな宗像先輩のだし。このあいだの水着も、先輩が買ってきてけっきょく着ずに置いていったものだし、自分のをそろえておかなきゃと思って」
「水着まで買ってきたんですか」
「水着は三着だけよっ? それも、この間みたいな海に関係した実習をやるときのためであって小宮くんとプールに遊びにいくとかそういう目的ではないわよっ?」
三着も買ってきたのかよ。うれしすぎるのだが。
その後、紫衣子先輩は航空便の箱を次々に開封し、買い込んだ衣類を実際に見せてくれた。きわどいチューブトップとか本場の格式高いメイド服とかきらびやかなカクテルドレスとかが出てきて僕はもう感激の絶頂だった。どういう実習で使うことになるのかはさっぱり想定できなかったけれど。
「……ウェディングドレスは買わなかったんですか?」
ふといたずら心を起こして訊いてみる。
「そういうのは早いっていつも言っているでしょう、ばか!」
先輩は真っ赤になって怒った。
でもその後で、荷ほどきを続けながら、「そういうのは二人で選ぶものでしょ……」と小さくつぶやいたのを僕は聞き逃さなかった。
この人になら殺されてもいいな――と僕はあらためて思った。