第17回 先輩の失踪
「最近のわたしたちの活動はマンネリ化していないかしら」
その日の部活で紫衣子先輩がふとそんなことを言い出した。
「マンネリって言われても……。基本的には読書しておしゃべりするだけの部ですよね。たまに実習もしますけど。それじゃだめなんですか」
紫衣子先輩はティーカップを置いて物憂げなため息をつく。
「それでは鈍ってしまう。宗像先輩が卒業してからの四年間、ひとりきりでいる間のわたしはもっとアグレッシブだったわ」
「……どういう活動をしていたんですか?」
ひとりきりだったのだから今よりもさらに活動の幅が狭いのではないか、と思った僕が甘かった。先輩は指を折りながら言う。
「拳銃の分解・整備・組み立てをひとりで練習、様々な毒物を飲んだときの苦しむ演技をひとりで練習、東尋坊に追い詰められた真犯人の独白をひとりで練習」
「ちょっ、先輩、さみしすぎて泣けるからやめてください!」
「ひとりでロシアンルーレットもやったわ」
「ただの時間がかかる自殺じゃないですか!」
「リボルバーをどれくらい回転させるかの心理戦がたまらなくひりつくのよね……」
「なにと戦ってるんですかッ?」
「デスゲーム系は大好きだから、他にもひとりで色々試したわ。不正解三回で地上六十メートルの高さから落とされるデスクイズゲーム、最下位が硫酸の海に飲み込まれるデス棒登り、チップを失うたびに回転鋸が近づいてくるデスポーカー……などなど、仕掛けの製作から実プレイまですべてひとりだけでやったわ」
……なにが楽しいんだ……?
「でもね、小宮くん。どうしてもやりたいデスゲーム向きのカードゲームがあるのだけれど、さすがに一人では面白くなさそうなの。でも今は二人いるし」
「……なんていうゲームですか」
「《人狼》っていう」
「二人でも全然面白くないです!」
知っている人も多いだろうが一応説明しておくと、《村人》や《人狼》といった様々な役職名が書いてあるカードを参加者にランダムに一枚ずつ配って割り当て、会話で腹の探り合いをしながら敵陣営の殲滅を目指すゲームである。面白いのが各自の役職が完全な非公開情報であることで、いかに嘘をつくか、それを見破るか、が重要になってくる。が――
「一対一でなにが面白いんですか、最初の夜に人狼が村人を食い殺してそれでおしまいじゃないですかッ」
「そうかしら。やってみなければわからないわよ」
「わかりますよ!」
僕の反駁を無視して、先輩は一組のカードデッキを取り出してきた。
「さあ一枚引いて」
言われるままに引いてみると《村人B》と書いてある。先輩も一枚引いてにんまりと笑って言った。
「じゃあ人狼を引いた人! はい、わたしでした!」
喜色満面で《人狼》のカードを見せるのだがちょっと待て。
「人狼が命令するわ、村人AとBはキスしなさい!」
「全然ちがうゲームですけどっ?」
先輩の顔に困惑の表情が浮かぶ。
「ちがうの? おかしいわね、お父さまに聞いたルール通りなのだけれど」
親父さん、大切な娘になぜ王様ゲームを教え込むんですか……? いいんですか、この好機にのっかって色々しちゃいますよ?
「だいたいこのルールでも二人じゃだめじゃないですか。村人Aどこにいるんですか」と僕は自分の《村人B》を見せる。
「そういえばそうね……じゃあ人狼と村人Bがキスしなさい」
いいんですかっ?
「って、これじゃわたしと小宮くんじゃない!」
先輩は顔を真っ赤にする。もう少し気づくのが遅れてくれればよかったのに。
「だいたいこのルールでは殺人が起きないわ……」
そこも今気づいたの?
「先輩、これって僕らの毎度のマンネリそのものじゃないですか」
「言われてみれば……」
先輩は額に手をあててため息をつく。まあ僕はそれでもかまわないというか、むしろそれがいいんだけど。
「なんの向上心も発展性もないわ。これじゃわたしと小宮くんがひたすら毎日仲良くなっていくだけの部じゃない……」
けっこうなことではないですか? 素晴らしいことだらけではないですか?
「このままではいけないわ、小宮くん。以前はもっと多様な活動をしていたはずよ」
先輩は意気込んでソファから立ち上がった。
「わたしは隣の倉庫を探してくるから小宮くんは昔の日誌をチェックして」
「……はあ」
僕は気の抜けた返事をして、部室を出ていく先輩を見送った。チェックしろと言われても、と思いながら日誌を棚からとってくる。宗像先輩と紫衣子先輩が、今の僕ら二人みたいなことをずっとやってるだけですけど?
* * *
部室に戻ってきた先輩は、なぜかインバネスコートに鹿撃ち帽という探偵装束だった。
「え? ……『探偵と助手』実習は水曜日ですよね?」
「うん。でもこの服を見たら今日もまた『探偵と助手』をやりたくなってしまってね」きざな男言葉で先輩は言う。「きみをあんまり待たせるわけにもいかないから制服の上に着てきてしまったけれど」
インバネスコートの下はブレザーとスカートだ。これはこれで、なんというか、背伸びしている感じがしてたまらなく愛らしい。
「でも、ええと……」
自分の服装を見下ろす。同じ制服姿。
「僕も助手のコスチュームじゃありませんけれど」
「胸元のあたりを見ればだいたい助手コスじゃないか」
「一致してるのそこだけじゃないですか!」
「可愛いところも一致している。探偵助手であるということは可愛いということだから」
意味がわからなかった。先輩の方が何万倍も可愛いのでその論法では先輩も探偵助手だということになってしまう。
「この『探偵と助手』実習も新機軸を打ち出すためにアイディアを絞りたいと思う。たとえばそう、名探偵はみんな飲食物に関して奇妙な嗜好を持っていてキャラを立てているね」
「飲食物……? そう――でしたっけ?」
「有名なところだと、シャーロック・ホームズはコカインが大好きだ」
「コカインは飲食物じゃないですよっ?」
「エルキュール・ポワロもカボチャ好きだし」
「あれは老後に育てていただけで食べるのが好きだったわけでは……」
「ピカチュウはケチャップを偏愛しているよね」
「ピカチュウは名探偵じゃ――あ、いや、名探偵もやってましたけれどっ」
「ドクターペッパーばかり飲んで生活している探偵というのもいる」
「それってひきこもりの幼女でハッキングして事件解決、みたいなのですよね。そういうのってどうかと……ドクターペッパーというのも、その具体的でニッチなところがなんというか狙い過ぎな感じで」
「それくらい狙わなければ広いミステリ業界では埋没してしまう。これまでになかった斬新な好物となると、これはもうコカイン以上に入手困難かつ不道徳なものに設定するしかない」
「そんな無理をしなくても。たとえばどんなのですか」
先輩は腕組みして少し考えてから言った。
「たとえば人の血液」
「さっぱり意味がわかりませんけれど……探偵が吸血鬼ということですか」
「そう。血を大量に飲めば飲むほどその相手の思考がわかるので、食事と捜査を兼ねていることになるね」
「それは、ううん……ミステリとしてどうなんですか……?」
「奇怪な惨殺事件の捜査に乗り出す吸血鬼探偵。捜査ライン上に浮かんだ容疑者を片っ端から真夜中に襲っては血を吸い、思考を読み取って犯人ではないと確認していく。次々と失血死していく事件関係者、果たして真犯人はだれなのか……?」
「その吸血鬼探偵ですよ! 逮捕してください!」
「助手くん、正しい推理を披露してはだめだといつも言っているだろう」
「今ので正解だったんですか? もうほんとうになにもかもだめじゃないですか。好物くらいで奇をてらわない方がいいですよ」
「奇をてらわない好物って? 助手くんならなににするの」
先輩はちょっと怒って言う。
「そうですね……」
テーブルを見ると、さっきまで二人でいただいていたティーセットとケーキ皿がまだ片付けられずに置きっぱなしだ。
「エクレアとかシュークリームとか」
「そんなの、まるで私が女子高生みたいじゃないか」
「女子高生ですよ!」
先輩はむうっとむくれて言う。
「女子高生だから甘いものが好きという安易な発想は感心しないな!」
「でも実際に先輩は大好きじゃないですか」
しばらく口をもぐもぐさせた後で、先輩は急にいたずらっぽい笑みをつくって言った。
「甘いものよりもっと好きなものがある」
「なんですか? あ、紅茶ですか。紅茶好きはさらに安易でキャラかぶりも多そうな」
「ちがうちがう。私の好きなものといったら決まってるじゃないか、助手くんだよ」
「……はい?」
「探偵と助手は結婚することが規定されているんだから探偵は当然ながら助手が大好き。これまでも何度も言っていたことだよね」
「……僕は飲食物じゃありませんけれどっ?」
「そうだろうか?」と先輩は舌なめずりしてにじり寄ってくる。「吸血鬼探偵の話を無理矢理に持ちだしてきたあたりでこの展開の伏線だと察してほしかったね」
わりと真剣に身の危険を感じたのでドアに走った。先輩が「いただきます」と言いながら大股で追いかけてくる。ドアノブに手をかけた瞬間、肩をつかまれた。
そのまま胴をひねって先輩と体を入れ替える。向こうも女子高生なので体重が軽く、簡単に振り回すことができた。そのままの勢いでドアの外に追い出し、すぐに閉める。
「外でしばらく頭冷やしてくださいっ!」
そう叫び、ドアに背中を押しつけて息をついた。色々なものの危機だった……。
* * *
倉庫から戻ってきた制服姿の先輩は、僕の手にしていた日誌を横からおそるおそる覗き、耳まで真っ赤にして両手で顔を覆い、ソファに深く身を沈めた。
さすがにしばらくかける言葉が思いつかない。
「……あの、……よく素に戻らずに演技を続けられたな、って思いました……」
言ってしまってから、これはフォローになっていないんじゃないか、むしろ追い打ちをかけてしまったんじゃないか、と思い始めた。
「だって、わたしが普段の口調に戻ったら興ざめでしょう」
「そりゃそうですけど」
「こういうのって片方だけ現実に戻ったら残されたもう一方がものすごくみじめでしょう」
「それもわかりますけど……なんかすみません」
「いえ、いいのよ」
先輩は顔をブレザーの肩にはりついた長い髪を手で払って整えた。
「小宮くんが謝るようなことじゃないわ。むしろ恥ずかしがっているわたしが間違っている。わたしは部活動として演技をしていたのだから、堂々と小宮くんに見てもらうべきなのよ」
「……わかりました。堂々と先輩の恥ずかしいところを凝視します」
「だからそういう言い方はやめてっ」と先輩はまた頬を染める。
「でも、あのう、先輩が潔く決意したところ申し訳ないんですけど、マンネリの解消にはなっていないというか、とくになんの参考にもならなかったというか」
「そうよね……」
先輩はくたびれきったため息をついた。今日はなんだか元気がない。そもそもマンネリがどうのと言い出したこと自体がちょっとおかしい。今さら気にするようなことじゃないだろうに。僕が入部してからおよそ一ヶ月、代わり映えのしない毎日を楽しく過ごしてきたのに。
「けっきょく小宮くんがいけないのよ」
「……えっ?」
聞き間違いかと思った。さっき、僕が謝るようなことじゃない、と言っていなかったか?
「ずっとわたしひとりの部だったのに、小宮くんが入ってくれて、毎日通ってくれて、いつもおしゃべりにつきあってくれて。楽しくてしょうがなかったわ」
「僕もですよ。いいことじゃないですか。毎日だべってましょうよ」
「いえ、小宮くん。いやしくも、人を殺すことを芸術にまで昇華させようと考える人間が、ただ心地よいだけの日常に浸って動くのをやめてしまってはいけないと思う」
先輩はソファから立ち上がった。
羽化して飛び立つ直前の蝶を思わせる凛とした寂しげで美しい横顔が、ふと翳る。
「それじゃあ、小宮くん。わたしは旅に出るから」
そう言い残し、先輩は部室を出ていった。
両開きのドアが閉じ、呆然としたままの僕の膝から活動日誌が滑り落ちた。
その日から――
長い間、先輩は学校に現れなかった。