第15回 先輩は夫婦生活がわからない
「助手くん、きみの半ズボンとジャケットとベストというスタイルはかの明智小五郎の助手である小林少年がモデルなわけだが」
大正浪漫あふれる探偵スタイルの先輩はそう言って、書架の一角に並ぶ『怪人二十面相』や『妖怪博士』『青銅の魔人』といったタイトルの背表紙を手で示す。
「我が国が誇る名探偵、明智小五郎には、古今東西の名探偵を見渡しても類するもののない美点がひとつある。なんだかわかる?」
明智小五郎の美点……? それはもういくらでもあると思うけれど、他に類するものがないと言われると、すぐには思い浮かばない。しかし先輩はこういうクイズ形式の会話が大好きであり(先輩以外の人間にやられたら面倒なので会話を打ち切るが)その麗しい顔をほころばせるためにもなんとか気の利いた答えを返さなくてはいけない。
しばらく考えてから言った。
「奥さんがいること、でしょうか」
先輩は目を見開いた。それからひとつ咳払いをする。
「……うん、なかなか、つまりその、いい着眼点だ」
どうやら想定外の回答だったみたいだ。
「たしかに明智小五郎は名探偵としては珍しく妻帯者だ。なにしろ名探偵はきまって奇人変人だからまともな人間関係を維持することが苦手で、独り身が圧倒的に多い」
明智小五郎は最初、乱歩の本格ミステリに探偵役として登場し、この頃は金田一耕助に雰囲気がよく似たもじゃもじゃ髪の変人として描かれていた。ところが後に乱歩が連載する少年探偵団シリーズに探偵団の後見人として出演した際には顔も頭も性格も良く腕っ節も強い完璧超人としてキャラ付けされ、文代という美人の妻もいることにされたのである。
「そこに着目するなんて、私がかねてから提唱している『探偵と助手は結婚すべき』という説に諸手を挙げて賛成してくれるということかな」
「いえ、全然そういう話ではないです」
しまった。そっち方面に話を持っていかれるのは火を見るより明らかだった。水曜日に開かれるこの『探偵と助手』コスプレ実習も今回で三回目だけれど、先輩は毎回無理矢理にでも結婚に話をつなげて迫ってきてるじゃないか。気をつけないと。
「ええと、その……小林少年がモデルだったんですね。でも先輩は以前、理想の探偵助手は京極夏彦の書く関口巽だって言ってませんでしたっけ」
「口調や性格はあれが理想だよ」と先輩はうなずく。「でも容姿は別問題だ。よれよれの中年純文学作家のかっこうをするには、きみは若すぎるし可愛すぎる」
面と向かってそんなことを言われると悶えるほど照れる。だいたい先輩だって女子高生なのだから明智小五郎スタイルをするには若すぎるし可愛すぎるのではないだろうか。
「話を戻そう。世界中の名探偵の中で、明智小五郎だけが持っているものについてだ。妻、はいい線をいっていたが、残念ながら不正解。今の話で思い出したけれど京極堂こと中禅寺秋彦だって妻帯者だからね」
「ああ、そういえば。というか関口巽にも奥さんいましたっけ」
「ヒントは小林少年、だよ」
ぴんときた。
「……怪人二十面相、ですか」
「正解」と先輩は手を伸ばして頬をなでてくるので頭のてっぺんがかあっと熱くなる。「明智小五郎だけが持っているもの、それは探偵と同じくらい目立つライバルの存在だ。怪人二十面相ほどの強烈なライバルキャラがいる探偵はミステリ界広しといえど明智小五郎だけだよ」
「そう……ですね。言われてみれば。ホームズにはモリアーティ教授っていうライバルがいますけど、出番はそんなにないし……」
そもそも本格ミステリは犯人がだれかという謎を解き明かしていくのが基本なので、探偵の宿敵なんてものは出しづらいのだ。その宿敵キャラが犯人なのだとしたら出てきたところですぐに読者に見当をつけられてしまうし、犯人ではないのだとしたらなにをしに出てきたのかという話になってしまう。その点、少年探偵団シリーズは本格ミステリではなく子供向けの怪奇冒険小説なので、怪事件の黒幕が怪人二十面相であることは早々に明らかになる。
「ということで私たちの実習にも宿命のライバルが必要だと思うんだ」
「……でも、だれがそのライバル役をやるんですか。うちの部は二人しかいないし。僕が助手役をやめてライバル役になるんですか?」
「そんなことはしない。助手くんにはまだまだやってもらうことがある。実は、ライバル役はもうこの部屋に来てもらっている」
「え……?」
部室を見回しても、余人の気配はない。壁を埋める何千冊もの本の背表紙がこちらを見つめ返すだけだ。
「わからない? 私だよ」
先輩は自分の胸のあたりを得意げに指さした。
「はあ」
「その反応を見るに、どれほどの事態か理解していないようだね、助手くん」
先輩はソファから立ってにじり寄ってくる。
「怪人二十面相といえば変装の達人だ。明智小五郎その人にさえ何度も化けたことがあり、助手の小林少年もだまされた経験がある」
「……ええと、つまり、今の先輩は実は探偵ではなく探偵の変装をしている怪人なのだと、そういう設定なのだ、ということですか」
「そう! 長年連れ添った助手であるきみにもこの完璧な変装は見破れなかったようだね!」
完璧に先輩その人なのだから見破れるわけがないのだけれど、得意になっている先輩はキュートなことこのうえないので黙って見ていることにする。と、先輩はさらに距離をつめて肩をしっとりつかんできた。熱っぽい声で言う。
「そして小林少年はちょくちょく怪人二十面相に誘拐されている。なぜさらうのかというと、ライバルである明智小五郎に動揺を与えるためだと怪人は説明しているが、その実は小林少年が可愛いからだ。きみのように」
もう、なんと返していいのかわからない。
「……じゃあ今は先輩にさらわれている設定なわけですか」
「そう! しかも怪人二十面相は紳士かつ子供好きなので、さらった少年をちゃんともてなすんだよ。ケーキとお茶をどうぞ」
「……はい、ありがとうございます」
出されたガトーショコラと紅茶を美味しくいただく。なんなんだろう、これは。
「おとなしくもてなされている場合か? きみは世紀の大犯罪者に監禁されているんだよ、助手くん。もっと危機感を持って、出された飲食物を怪しんだり、泣き叫んで探偵に助けを求めたりしないと!」
「……呼んだら助けてくれる設定なんですか?」
「もちろん、最愛の助手の危機には空を飛んででも駆けつけるよ! さあ駆けつけた。今のきみの目の前にいるのは変装ではなく本物の探偵だ」
「えっ、……ああ、はい。嬉しいです、助けにきてくれて」
「おっと憎き名探偵め、可愛い助手を連れて帰ろうなんてそうは問屋が卸さない。これは変装した怪人だよ。むむっ、怪人め、わたしの変装をして愛する助手を拐かすとは卑怯千万、こちらは本物の探偵だ、はっはっはっは愚か者め我がアジトにのこのこと乗り込んできた時点で貴様の命運は尽きているのだ、これはまた変装した怪人の――」
* * *
その後も一人二役の舌戦が延々続くのだけれど割愛する。
僕は活動日誌を閉じてソファの背もたれにぐったりと頭を預けた。いつもながら水曜日のこの実習は気疲れする。しかも今日は紫衣子先輩が僕の隣に座って、僕の指をたどるようにして日誌の記述を追いかけながら読んでいたのだ。
「……こうして文章であらためて読むと、自分のやっていることがそうとう意味不明ね」
先輩は嘆息した。
「しかも探偵を敬愛しまくっている助手の視点でこれですからね。客観的に見たら探偵はかなり危ない人です」と僕は容赦なく追い打ちする。
「そういうこと言わないで」と先輩は頬を赤らめてうつむく。「大丈夫よ。客観視する人なんていなかったんだから。二人っきりだったから」
「ところで、活動日誌を小説風に書くのって、……どうなんでしょうか。自分でもどう書いていいのかわからなくて、先輩のやり方を参考にしたいんですけど」
「そうね……」
先輩は僕の膝の上にのったままの日誌のページをぱらぱらとめくる。
「一人称だとどうしても助手の考え方や感情が強く出てしまう。とくに、探偵への讃美が、その……過剰になってしまうわ……」
「先輩本人ですよ、これ」
「そっ、そうなのだけれど……」
先輩は真っ赤になった自分の頬を両手で覆った。いじくる隙がありすぎてどこから攻め込んだものか迷ってしまう。
「小説風の記述は宗像先輩の発案なの。小説を書く練習になるから、ということ」
「でも僕はべつに先輩とちがって小説家を目指してるわけじゃないんですよね」
「そう……なの?」と先輩は少し残念そうだ。
「とくに書きたい気持ちもないですし。あと、書く側に回ってしまうと、もう純粋に読者として小説を楽しめなくなる気がして……」
「それはよくわかるわ」
先輩はうなずく。
「とくにミステリというジャンルはそうね。自分でも書くようになると、他人の作品を読むときもトリックを考えたり最後のサプライズを予想してしまったりで」
「僕、わりと頭が悪いんで、読みながら推理とか全然しないんですよ。だから今のところ効率よくミステリを楽しめてます。才能ある作家ほど仕掛けがわかっちゃって読者としては不幸かもしれないですね。あと最大の不幸は自分の作品を楽しめないことかな……」
「宗像先輩も言っていたわね。自作を読んでちゃんと驚くのかどうか自分では判断できない、一度は読者の気分で読んでみたい、って」
「それこそ頭を強く打って記憶喪失にでもなるしかないですね」
笑い話のつもりで軽く言ってみたのだけれど、紫衣子先輩は真剣な顔でしばらく考え込んでしまった。なにか気に障ることを言っただろうか。
「……それ、いいわね」
「え? なにがですか」
「次回作のアイディアよ。もらってもいい?」
「ええと、どれの話ですか」
なにかミステリのネタになるような話はしていただろうか?
「推理作家が自作を客観的に読むためにわざと頭を強打して記憶喪失になる、という話よ」
「それがどういうふうに小説になるんですか」
「舞台設定はこうよ。綾辻行人の呼びかけで京大ミステリ研出身作家たちが合宿をすることになる。みんな自作がきちんとサプライズを演出できているかどうか不安なので、原稿を持ち寄って――」
「ああ、他の作家に読んでもらおう、っていう趣旨ですか」
「ちがうわよ。他の作家に頭を殴ってもらって記憶喪失にしてもらうの」
「無理ありすぎませんかねっ?」
「参加者は綾辻行人、法月綸太郞、我孫子武丸、麻耶雄嵩、それから京大ではないけれど実質的にメンバーだった小野不由美」
「……清涼院流水は」と僕はおそるおそる訊いた。
「好みではないので呼ばれなかったの」
「それ先輩の好みですよね、呼びかけたのは綾辻ですよねっ?」
「世代も離れているし、最近の清涼院は実用書方面に活躍の場を移しているし、あまり交流がないんじゃないかしら」
「そういうもっともらしい理由は本音を漏らす前に言ってください! ていうか実在の作家なんて出したらまずいでしょ、先輩の書く小説のネタなんですよね?」
「竹本健治もやっていたから大丈夫よ」
「竹本健治だから許されるんですよ、あの人はミステリ界の加藤一二三でしょ!」
「小宮くん、そのたとえはミステリと将棋を両方知っている人間じゃないと理解できないし、なんなら両方知っていてもだいぶ理解に苦しむわ」
「……す、すみません」
僕は縮こまった。
「それで話を戻すと、京大ミス研作家の面々が山奥の隠れ家的な旅館に泊まり、輪になって座って右隣の人の後頭部を一斉に鈍器で強く殴るの。全員同時に昏倒し、翌朝全員同時に目を醒ますと全員が記憶喪失になっていて、だれがだれだかわからなくなってるの」
「僕もなにがなんだかわからなくなってますけど」
「ただひとつ残された手がかりは各自が持ち寄った原稿よ」
「いや、他にも手がかりいくらでもあるでしょ。免許とか持ち歩いているだろうし、ネットにそれぞれの顔写真くらい出てるから照合すればわかるだろうし」
「全員が浴衣に着替えていて貴重品はまとめて預けていたのでどれがだれのものかわからず、山奥すぎてネットもつながらない」
「えええええ……」
「そして、このふざけた企画を立案した犯人つまり綾辻行人がだれかを突き止める推理合戦が始まるの!」
「ふざけた企画を立案したのは先輩でしょうが!」
「女性が一人だけなので小野不由美がだれかだけははっきりしており、彼女はシロ確定ということで探偵役を務める」
僕は頭を掻き、ため息をついた。
「それで、ええと、原稿を読んで――どうやってだれがだれか判別するんですか?」
「それぞれの事件の解決篇直前までを読んで、各自が真相を推理するの。記憶を失っているとはいっても、読んでいくうちに断片的に戻ることもあるだろうし、作者であればいちばん真相に近い推理が出せるはずよね」
「ううん……まあ、そういうこともあるかもしれませんね……。てことは作中作を登場人物の分だけ用意するわけですか。五本――いや、小野不由美のは必要ないから四本か」
「分量的に、全部短編でしょうね」
「実在の作家を出すからには当然それっぽい作風でしっかりとした本格ミステリを作中作として出さなきゃいけないわけですよね。めちゃくちゃハードル高くないですか」
「でも面白そうでしょう?」
僕は腕組みしてうなった。
たしかに、設定とあらすじを聞く限りでは、面白そうではある。しかし。
「読んでみたい気はしますよ。でも、その、原稿を読んで作者を推理するってのが面白そうなだけで、頭打って記憶喪失とか、ましてや実在の作家を出すとかは要らないんじゃないかと思うんですけど」
「その設定が解決編に必要なのよ」と先輩は眉をひそめる。「原稿のひとつが、主人公の探偵の名前が《法月綸太郞》なのだけれど」
「それじゃその一本は最初から作者わかりきってるじゃないですか」
「そう思うでしょう? ところがこれがミスディレクションで、ほんとうは綾辻行人が法月というキャラを借用して書いたものなの」
「えええええええ」
「きちんとフェアにするために伏線も入れるわよ。その法月綸太郞ものの作中作には、綾辻行人・小野不由美夫妻でなければ知り得ない経験談が盛り込んであって、最後に探偵役の小野不由美がそれに気づいて真相を看破するという流れ」
「……で、夫妻でなければ知り得ないその経験談を先輩はどうやって知るんですか」
指摘すると先輩の顔は蒼白になった。考えてなかったのかよ。
「それは、その、……想像で、なんとか、こう」
「想像でなんとかなることじゃないと思うんですが……」
僕が指摘すると、先輩は目を剥いて言った。
「実習で夫婦生活を経験しようなんて言い出すんでしょう、小宮くんはいつもそうやってはしたない方向に話を持っていくんだからっ」
いつもそういう方向に話を持っていくのは先輩ですよね……?
まあ、そっちに誘導する気がなかったのかと訊かれると、大ありでしたけど。