第14回 先輩はペンネームでも殺さずにいられない
火曜日の放課後、いつものように部室に行こうと校舎を出て遊歩道を林の方へと歩いていると、声が聞こえた。
「――小宮くぅん!」
足を止めてそちらを向くと、枝道を走ってくる女子生徒の姿が見えた。短めの髪に眼鏡の三年生。たしか紫衣子先輩のクラスメイトの……栗倉先輩、だったっけ。
「ああよかった、追いついた」
僕のそばまでやってきた栗倉先輩は、身を「く」の字に折ってしばらく荒い息をつき、それから顔を上げた。
「また奈鳥さんに伝えてほしいことがあるの」
「……はあ」
「先週出してもらった進路調査票の件。やっぱり進路指導の先生が心配してて、一度面談に来てくれって言ってるの」
「……伝えるのはいいですけど、先輩はたぶん行かないと思いますよ」
「そこをなんとか、来てくれるように小宮くんが説得してくれないかなっ?」
「なんで僕が……」
説得しても僕に得なことがまったくないどころか逆インセンティブすらある。紫衣子先輩が進路面談なんかに赴いたら僕と過ごす放課後の時間が減ってしまうではないか。
「そう言わずに、お願い」と栗倉先輩は両手を合わせて身体をキュートに少し傾ける。「もし面談に引っぱり出せたら先生が夏休みに二人っきりの三泊四日グアム旅行に連れてってくれるって言ってくれて」
え、この人そういうキャラだったの。しかもなんだか聞いたことのあるフレーズなんですが、まさか。
「進路指導の先生ってなんていう人ですか」
「滝崎先生」
ええええええええ。
「あの、風紀委員会の顧問やってる?」
「そうそう。イケメン英語教師の」と栗倉先輩は頬を染めて言う。
「二人っきりで旅行って、ええと、つきあってるんですか?」
「ないしょだよ? 校内ではちゃんと教師と生徒の清い関係なんだから。学校の外では、うん、まあ、あれだけど、でも卒業したら結婚するって言ってくれてるし」
栗倉先輩は目をとろんとさせて説明してくれた。僕はもうなんて言っていいかわからなかった。日高さんは知ってるのだろうか? 知らないだろうな、もちろん。ていうか滝崎という女にだらしない教師は女子生徒をたらしこんで次々に紫衣子先輩に差し向けて一体なにがしたいんだろう? うちの部の旧校舎使用に文句をつけたり、進路指導に呼び出したり。
なるほど、つまり紫衣子先輩をあの部屋から引きずり出したいわけだ。
目的は――たぶん、先輩に手を出すため。
なにしろあの麗しさだ。女子生徒に何人も手を出しているような色情魔が、目をつけないわけがない。
だとすれば、僕のやるべきことはひとつだった。
「わかりました」と栗倉先輩に言った。「紫衣子先輩に言ってみます」
* * *
下心まるだしの男性教師を先輩に近づけさせないために、言づてを握りつぶす――なんていうせこい真似はしなかった。
「さっき、すぐそこで先輩のクラスの委員長さんに逢ったんですけど」と部室に着いてすぐに先輩に報告した。「進路指導の滝崎先生が、一度面談したいから来てくれって言ってたそうですよ」
「進路指導?」と先輩は物憂げに言った。「必要ないわ。指導してほしいことなんてなにもないもの。面談となったら放課後でしょう? 小宮くんと過ごす貴重な時間を、そんな無駄なことのために削りたくない」
先輩のこの言葉が聞きたくて、わざわざちゃんと伝言したのである。ざまあみろ、顔もよく知らないイケメン教師・滝崎! 僕の下心の勝ちだ!
「小説家を第一志望にする生徒なんてそうそういないでしょうから先生がたも戸惑っているのかもしれないわね。今後も面談に来いとしつこく言われても困るから、できれば宗像先輩のように在学中に結果を出したいわ」
「結果っていうと、賞を獲るとかですか」
「ええ。このあいだ小宮くんに途中まで読んでもらった原稿、実はもう書き上げたの。あとは送るだけなのだけれど、その前に決めなければいけないことがあって――」
先輩はそう言って、テーブルの上に目をやった。
奇妙なものが広げられている。何百枚というカードだ。トランプくらいの大きさで、白地に太いゴシック体でそれぞれ様々な漢字が一文字ずつプリントされている。
「……なにやってたんですか、これ」
「ペンネームを考えていたの。どうしても決まらなくて……」
先輩は嘆息する。
「ええと? つまり、ランダムに漢字を組み合わせてペンネームにしようってことですか」
「そう。思いもよらない字面からなにかインスピレーションを得られるのじゃないかと考えてつくってみたの。でもなかなかうまくいかないものね」
デビューしたら自分の看板になるわけだから大切だろうけれど、それにしたってこんな決め方するもんなのか。
「もちろん完全なランダムではなく、一文字は決めてあるのだけれど」
そう言って先輩はテーブルの手前側を指さした。見れば、先輩の目の前に一枚だけ赤く縁取りされたカードがあり、《殺》の字が赤枠の中でぎらついていた。
「……ペンネームに入れる文字じゃない気がするんですが……」
いくら推理作家といっても、だ。
「わたしのポリシーなのだからこの一字は外せないわ」と先輩は胸を張る。「でも、合う文字が全然出てこないのよね……」
そりゃそうだ。ふつう名前に使う字じゃないし。
「そうだ、引く人が変わればなにか変わるかも。小宮くん、代わりにカード引いてみて」
先輩は赤枠の《殺》以外のすべてのカードをかき集めてひとつのデッキにまとめ、隣に座る僕の目の前に置いた。
「じゃ、一枚引いてみて」
言われるままにデッキをざっくりシャッフルしていちばん上をめくってみた。
――《殺》。
「……なんで二枚もあるんですかっ?」
「二枚じゃないわ。全部で五枚入ってる。いちばん重要な文字だし」
どんだけ殺したいんだよ。
「でも《殺》なんて二つ重なっちゃってどうするんですか。なんて読むのかわからないし」
「『コロコロ』かしら」
「少なくとも小学館からは本を出せそうにないペンネームですね……」
「もう一枚引いてみて」
次も《殺》だった。
「ほんとに五枚なんですかっ? 半分くらい《殺》なんじゃないですか」
「さすが小宮くん、引き運も素晴らしいわ」
素晴らしいのか? 不吉にしか見えないのだけれど。《殺殺殺》と並べたカードを紫衣子先輩はうっとりした顔で見つめる。
「さすがにこれは読めないですよね」
「『殺殺と殺せ』ね」
名前じゃなくなっちゃったよ。
まさかとは思ったがデッキからもう一枚めくってみるとまたもや《殺》だった。
「すごいわ小宮くん、怖いくらいよ」
「怖いくらいというか、真剣に怖いんですが……」
並んだ四枚のカードは《殺殺殺殺》。いじめられっ子の日記の書き出しみたいだ。
「これは『殺殺殺殺』ね。おもちゃ二つなんてかわいらしいペンネームじゃない?」
たしかにそういう読み方一応全部ありますけど! 読めるわけがない!
「……もうカードは引きませんけど、参考までにお訊きしますね、その、五文字並んだらなんて読むんでしょうか」
「『誤殺』?」
「間違って殺さないでください!」
先輩はひどく哀しそうな顔になる。
「小宮くん、ひょっとして《殺》の字がきらいなの……?」
僕はあわてて言いつくろった。
「いや、きらいというかですね、僕も先輩と一緒に殺人を研究するのは大好きですけど、ペンネームというのはまず読者に憶えてもらうためにあるわけで、インパクトを重視しすぎて読み方がわからないのはどうかと思うんです」
「そ、そう……よね。小宮くんの言う通り」
よかった、納得してくれたようだった。
「それじゃあ《殺》のカードは一枚に減らすわ」
全部抜けよ!
「だいたいですね、先輩、ペンネームに《殺》の字が入ってる作家見たことあります?」
「いないから目立てるじゃない」
……それもそうか。この方向から攻めるのは失敗だった。
「それと、できれば漢字五文字がいいわね。推理作家には漢字五文字が多いのよ」
「言われてみれば……」
古くは江戸川乱歩に山田風太郎、比較的新しいところでは法月綸太郞、有栖川有栖、我孫子武丸――と、先輩の好む作風の著者には漢字五文字の外連味あふれるペンネームが多い。宗像恭史郎もそうか。おそらく本格ミステリというジャンルが、多分に芝居っ気を要求されるからだろう。ペンネームの段階から劇的な雰囲気を演出したい、という意識が働くのだ。
ふと思いついて言ってみた。
「本名で書くのはどうなんですか。『奈鳥紫衣子』って漢字五文字ですよ。すごくいい名前だと思うし、字面も美しいです」
「本名? ううん……」と先輩は眉を寄せる。「お父さまとお母さまがくれたこの名前は、たしかに素晴らしいわ。でも、小説を書くときには非日常用のペルソナを使うというのに憧れるのよ。宗像先輩も下の名前は変えていたし……せめて名字か名前のどちらかは変えたいわ」
「そうですか……。やっぱり変えるなら名字ですかね。『紫衣子』の方が特に素敵だし、こっちが漢字三文字ですから漢字二文字の名字ならなんでも合わせて五文字になりますよ。選択の幅が広いです」
「そうね。わたしも『紫衣子』はすごく気に入っている。名字は、なににしようかしら。慣れ親しんだものから借用したいわね」
なんだかするすると思い通りの方向に誘導できていて怖いくらいだったが、ここまできて乗っからないわけにもいかないので僕はなにげないふうを装って言った。
「じゃあ、よかったら僕の名字を使ってください。小宮、って、特別感はないですけど、そこまでありふれてる名字でもないし、まずまず品も悪くないと思うので」
「小宮……ね……」
先輩はつぶやき、テーブルに積んであったカードのデッキを手に取ってひっくり返した。字がプリントされている側を上にして山を崩し、広げ、より分けながら一枚また一枚と探し出し、見つけた五枚を並べて置く。
――《小宮紫衣子》。
「……とてもいい。そこはかとなく貴族的な香りがする。なぜかしら」
「真ん中の三文字のせいじゃないでしょうか。源氏物語っぽい。《紫の宮の更衣》みたいな」
「ああなるほど。気に入ったわ。使わせてもらうかもしれない」
え、こんなにうまくいっちゃっていいの? 僕が固唾をのんで見守っていると、カードの並びを見つめていた先輩の顔がみるみる赤く染まっていく。
「ま、待ってっ? こ、これじゃわたしが小宮くんと結婚したみたいじゃないっ?」
その通りです。それが狙いで誘導したんです。
「名字を同じにするなんてっ、早すぎるわ、もっと段取りというものがあるでしょう、ご両親にもご挨拶していないのだし、それに、ペンネームを小宮紫衣子にしてしまったら結婚した後でペンネームと本名が同じになってしまうわ、あっ、あの、もちろん、これは仮の話であってほんとうにそういう予定があるわけではないけれどっ」
爆釣だった。さっき《殺》カードを引きまくった凶運の揺り戻しがさっそくやってきたんだろうか。これはこれで不安だった。
「ええと、大丈夫ですよ」と僕は言葉を選びながら言った。「先輩と結婚したら僕が奈鳥姓になりますから。ペンネームと本名が同じにはなりません」
先輩は目をしばたたいた。
「……どうして? あっ、うちの婿養子になるということ? そんなのは気にしなくていいのよ、うちはたしかにひとりっ子だけれどべつに継がなきゃいけない家業があるわけでもないし、お父さまもお母さまもそんなのは気にしないわ」
「いえ、そうじゃなくて」
僕は息をつき、唇を舌で湿らせて言葉をなんとかつないだ。
「僕が奈鳥っていう姓になりたいんですよ。かっこいいじゃないですか。それに、僕は祖父ちゃんしか家族いないし、その祖父ちゃんも母方だから小宮姓じゃないし、小宮はいま僕だけなので、奈鳥になれたら家族がいっぱい増える感じがして嬉しいというか……」
僕の言葉を聞いていた先輩は不意に涙ぐんだ。
「……そう……。わかったわ。安心して奈鳥家にいらっしゃい。我が家の一員として大歓迎するわ」
「はい。今度ご両親にもご挨拶に」
「――って、どうして縁談が進んでいるのっ?」
先輩の声がひっくり返る。
「仮の話だって言ったでしょうっ、だいたいペンネームの話だったはずなのに」
「すみません。調子に乗りました。まさか先輩がここまで結婚話につきあってくれるとは思ってなくて」
「だから、それは……」と先輩は言葉に詰まる。「……とにかく今する話じゃないの。今は小説のこと。ペンネームは小宮紫衣子を使わせてもらうわ」
それだけでじゅうぶんしあわせだった。しかし人間、欲が果てないものなので、続けて僕は言う。
「探偵役の女の子の名前もたしか《紫衣子》でしたよね」
「ええ。モデルがわたしと小宮くんだし」
「でも先輩はたしか著者名と探偵の名前が同じなのには否定的じゃありませんでしたっけ」
「そう……ね。ちょっと恥ずかしい気はするわ。一括変換で変えられるから、今からでも変更できるのだけれど、いいのが思い浮かばなくて」
「ペンネームも僕の名字からとったんだし、探偵の名前にも僕から一文字とりましょう。僕は《真白》だから《真》をとって《真衣子》でどうですか」
「なかなかいいわね」
先輩はまたも漢字カードの山から《真》の字を探し出してきて《真衣子》の並びをつくり、満足そうにうなずく。でもその目がはっと見開かれ、顔があっという間に朱に染まった。
「こ、これじゃわたしと小宮くんの娘みたいじゃないっ?」
ここまで期待通りだとちょっと怖かった。