第12回 先輩はミステリを定義したい
制服に着替えて戻ってきた紫衣子先輩に、ソファで待っていた日高さんが訊ねる。
「隣の部屋で着替えているんですか? 前も、やけに着替えが早かったですけど」
「ええ。隣は私室にしているの」と先輩は答える。「ベッドや化粧台、衣類を置いているわ。この校舎はすべて好きに使っていいと校長に言われているので、二つ隣の部屋は倉庫にして、部室に入りきらない本や大道具をしまってある」
先輩の私室。僕もいまだに中を見たことすらない。どうやら寮ではなくここで暮らしているらしい。たしかに先輩に寮の二人部屋での生活はいかにも似つかわしくない。
「あいかわらずの専横っぷりですね……」と日高さん。「まあ、校舎の占有についてはもうとやかく言いませんけれど、いやらしい活動をまたやってましたね?」
先輩はよそよそしく僕の顔をちらちらとうかがいながら言った。
「いやらしいことなんてなにもしていないわ。水着を着ていただけじゃない」
「部屋に男と二人っきりで水着なんて、いやらしいこと目的に決まってるじゃないですか! あたしも滝崎先生と二人っきりのときに水着になったら必ずやらしいことをします!」
そりゃあそうだろうなあ。説得力がちがう。日高さんに紫衣子先輩を責める資格があるのかどうかは激しく疑問だけれど。
「我が『キラー・クイーン・サークル』の活動は多岐に渡るし、部外者には説明が難しいのよ。ね、小宮くん」
こっちにボールを投げてよこすんですか? いや、水着を着せたのは僕の発案なので説明義務が僕にあるといわれればその通りですけど。
しかたなく僕は日高さんに向き直って口を開く。
「今日は、無人島に二人だけ取り残された状況において発生しうる殺人について研究していたんだよ。レジャー中だったから先輩は水着、僕は泳ぐのが苦手なんでこのままの服装、っていう設定。ミステリならこういうのもあり得る」
あらためて部外者に説明してみると、馬鹿じゃないのかと自分で言いたくなるシチュエーションである。日高さんは「ふうん」と腕組みして僕ら二人を見比べた。
「ミステリーって、殺人事件の犯人を捜すんでしょ。無人島に二人っきりだったらミステリーにならないじゃない。一人が殺されてたらもう一人が犯人ってすぐわかるでしょ」
この女、抜けてそうに見えてなかなかに鋭く、僕らが忘れかけていた本質をすぱっと指摘してくるのである。最初は先輩との二人きりの時間を邪魔する厄介者としか思っていなかったけれど、週に一度くらいなら顔を出してもらえるとむしろ新鮮な驚きを楽しめるかもしれない、と思い直しはじめていた。
「日高さんってミステリは全然読まないんだっけ」
「ミステリー? 小説? 全然。血なまぐさいの苦手だから」
「ミステリにも色々あって、何冊か読んでみればわかると思うけど」
「ミステリーって難しそうだし。あたし文字だけで何人も名前出されても憶えられないし」
「ミステリっていっても登場人物少ないのもあるし、漫画でも映画でも」
「ミステリーって犯人だれか考えながら読まなきゃいけないんでしょ? あたし無理」
「ミステリは推理小説って呼ばれてるけど読者が推理しなきゃいけないわけでも」
「小宮くん、さっきからなんでミステリーを変な発音してんの?」
……こっそりと、しかし執拗に訂正していたのがばれてしまって僕は目を伏せる。ちらと先輩の顔を見ると、そうよね、わかるわ、と言いたげな同情の視線が返ってくるので安心する。ここは大切なポイントなのでちゃんと説明しておくべきだろう。
「日高さん、アクセントの平板化――っていう現象、知ってる?」
訊いてみると、日高さんは「はあ?」という顔になった。
僕は滔々と解説を始めた。
日本語は、音節ごとに音高のちがいでアクセントがつけられる。たとえば《箸》と《橋》をどう発音し分けているかというと、《高低》と《低高》だ。では《ミステリー》は? これは通常、《高低低低ー》の発音になる。《サントリー》とかと同じだ。このように、語句の途中に音が下がるポイントがある発音を起伏型と呼ぶ。対して、《水着》《床の間》のように、下がるポイントがない発音を平板型と呼ぶ。
ところで、従来は起伏型の発音だった語が、平板型に変化することがある。特に若者の使う外来語に多く見られ、《モデル》や《ドラマ》はかつて《高低低》の起伏型で発音されていたけれど、近年ではかなりの人が《低高高》で発音しているだろう。
この平板化には様々な要因が関わってくるが、『日常的な会話の中で多用されればされるほど平板化していく』という傾向があるという。おそらく、たとえ起伏型の語でも後ろに他の語がくっつくと平板型で発音されることが多いからだろう。《クラブ》単体ならば《高低低》発音だけれど、《クラブ活動》となると《低高高かつどう》と発音される。そして会話の中で多用されるということは文中で複合語として用いられる機会が多くなるということでもあり、平板型の発音変化が固定化されやすくなるのではないだろうか。
「え……なんなのいきなり長々と、気持ち悪い」と日高さんが顔をしかめるので僕はちょっと傷ついた。
「言ってることわからない?」
「言ってることはまあわかるけど、だからなんなの」
「だから、僕や先輩みたいな推理小説の愛好家はね、発音が平板化して《低高高高》って読むんだよ。ついでにいうと最後の《リ》も伸ばさない」
「そんなどうでもいいこと説明するのに長話したわけ……?」
「どうでもよくないんだよッ! そっちが変な発音とか言ったんだろうがッ」
「小宮くん、気持ちはわかるけど怒鳴らないで。日高さんが怯えているわ」
紫衣子先輩に横からたしなめられる。
「……すみません」
プライドに関わる問題なので思わずむきになってしまった。
「それでね日高さん」
先輩はいっそう優しい声で言う。
「ミステリにはほとんど触れてこなかったのよね。せっかく来てくれたんだし、ミステリの基礎を勉強していってほしいの。わたしたちも、まったくミステリを知らない人にミステリの魅力を伝えることで新しい発見があると思うし」
「ええー……でもあたしほんとにミステリのことなんにも知りませんよ」
そう言いつつも日高さんの《ミステリ》の発音は先輩につられて平板化していた。やった、僕らのささやかな勝利だ!
「なにも知らない方がかえっていいのよ。変な予備知識がない分、素直に吸収できるわ。たとえば日高さん、ミステリの正確な定義ってわかる?」
ミステリの定義……。
愛好家の集まる場で持ち出したら大荒れ炎上血みどろ殲滅戦必至の話題だ。でも今この部屋には紫衣子先輩とその信奉者である僕と知識ゼロの日高さんしかいないので大丈夫。生まれたての雛鳥のごとき日高さんに思う存分偏った見解を植えつけることができる。
「殺人事件が起きて、犯人を捜すやつですよね?」と日高さんは無邪気そうに言う。期待通りの回答だったからか、先輩はものすごく嬉しそうに答えた。
「殺人が起きないミステリもたくさんあるわ。わたしは好みではないけれど」
「あ、じゃあ誘拐とか泥棒とか……とにかく犯罪?」
「犯罪小説、というジャンルもあるわね。でもミステリと同義ではない。犯罪を扱っているけれどミステリではないもの、ミステリだけれど犯罪を扱っていないもの、どちらもたくさん例がある。たとえば高木彬光の著作には『邪馬台国はどこにあったのか』をまるまる一冊費やして追究した小説があるけれど、ミステリとして広く認められているの」
「えええー……。じゃあミステリってなんなんですか」
そこで紫衣子先輩の視線は僕に移される。
「小宮くんは答えられる? ミステリとはつまりなんなのか」
え、僕に振るのかよ?
腕組みして思案する。こんな重要な案件、軽々しく答えるわけにはいかない。
「……つまり、mysteryって《謎》の意味ですよね。広い意味での謎がなにか出てきて、それが最後に論理的に解かれるのがミステリの要件じゃないですか」
紫衣子先輩は先ほどよりも悦に入った笑みをみせた。どうやら僕の回答も想定通りの誤答だったようだ。先輩の笑い方が可愛いのは満足だが正解じゃなかったことは不満だ。どこが間違っているんだろう?
「謎が一切出てこないミステリもあるわ。叙述トリックだけで構成された小説よ。小宮くんならいくつも例が思い浮かぶでしょう」
「ああ……そういえば」
具体的に書名を挙げるだけでネタバレとなるのでここでは例を書けないが、いくらでも思い当たる作品がある。
「じょじゅつトリック……? って、なんですか」
日高さんが横から訊いてきた。初心者の存在って素晴らしい。僕と先輩だけならこんな質問は出てこないので先輩の得意げな解説もまた聞く機会がなかったところだ。
「ミステリで出てくるトリックというのは、基本的には登場人物になんらかの錯誤を起こさせて真相を隠すものでしょう。ところが叙述トリックというのは、文章の書き方に仕掛けを施して、読者に錯誤を起こさせるの」
日高さんの眼球が危険な感じにぐりぐり回り始めた。
「……ええと? さくご?」
「実際読んでみた方が早いかもしれないわね」
先輩は書架から一冊の本を持ってきて日高さんに渡した。
先述の通り、叙述トリックは『この本には叙述トリックが使われています』と紹介するだけでネタバレとなってしまい読む楽しみが削がれる。前もって知っていると読むときに身構えてしまってきれいに騙されないかもしれないからだ。
ところがこの広い世の中にたった一冊だけ――たぶん、僕が知る限りでは――叙述トリックが使われていると前もって教えてもネタバレにならない作品がある。それが日高さんに渡された本だ。似鳥鶏の『叙述トリック短編集』である。
なにしろタイトルに叙述トリックと入っている。カバーイラストでも石黒正数の描く可愛らしい女子高生が「この短編集はすべての短編に叙述トリックが含まれています」ときっぱり言っている。著者が自ら明らかにしているのだから今さらネタバレもくそもない。
「第一話がいいわね、短いし」と先輩はページを開いて示す。
日高さんは不安げに僕と先輩の顔を見比べ、本を抱えてソファに身を沈めた。
他人の読書の様子をしげしげ観察するわけにもいかないので、僕も先輩もそれぞれ読みさしの本を手にとった。
十五分後――
「ええええええええっ? ……あ、あああっ!」
頓狂な声が部室に響き渡る。見上げると日高さんが本を握りしめて立ち上がっていた。
「びっくりした?」と先輩は自分が読んでいた本に栞を挟んで訊ねる。
「び、び、びっくりしました」
日高さんは声を震わせた。
これだけ驚いてもらえると解説し甲斐がある。先輩の声はうっきうきだった。
「一応、作中に事件が出てきてそれを解明するのだけれど、そんなことがどうでもよくなるくらいのサプライズが用意されていたでしょう。しかも、登場人物たちはみんな知っていることで、読者に対してだけ巧妙に隠されていた。それが叙述トリック」
「はあ……。こんな小説あるんですね。はじめて読みました」
「面白かった?」
「え? あ、はい。面白かったです」
「よかった。日高さんはミステリ読者の資質があるわ」と先輩は満足げにうなずく。「実はね、叙述トリックものを読んでもまったく理解できない人とか、読者を騙すなんてけしからんって怒り出す人とかがけっこういるのよ」
そうなのである。これは叙述トリックを用いた歴史的名作のamazonレビューを見てみると痛感できる。
「歴史的に見ても新しいトリックでね、アガサ・クリスティが叙述トリックを使った作品を発表したときなんか、まだ叙述トリックというものが世間に全然広まっていなかったから、ものすごい批判が巻き起こったらしいわ」
「あー……なんとなくわかる気がします」と日高さん。「あたしも事前にそういうもんだよって説明されてたから心の準備ができてたけど、知らないで読んだらパニクったかも」
「でも今はすっかりミステリの一要素として受け入れられていて、謎も事件もまったくない、どうみても普通の恋愛小説にしか思えないようなプロットに叙述トリックだけを仕込んだ作品が、立派なミステリだと評価されて年間ベストにランクインしたりもするわ。なぜかというと、よくできた叙述トリックものを読んだ後の感動が、古典的なミステリから得られるそれとまったく同質のものだからなの」
「感動……が、同質、って、なんですかそれ」
日高さんは首をかしげる。
「さっき日高さんが短編を読み終わったとき、叫び声を二回あげたでしょう」
「え? ……あー、そうでしたっけ? ああ、うん、最初にびっくりして、そんで前の方を読み返してみてなるほどーって」
「それこそがミステリのミステリである核心。驚きと納得をいっぺんに与えられること」
紫衣子先輩は手元の本の表紙を愛おしそうに指でなぞりながら歌うように言う。
「驚きだけを与えるなら、とても簡単だわ。予想外のことをただ書けばいい。納得だけを与えるのも簡単。筋道の通ったことを書けばいい。でも二つを両立させるのはとても難しい。筋道立っているということは予想しやすいということ。だからこそ驚愕と納得が並び立ったとき、それぞれが生み出す感動は何百倍にも何千倍にもなるの」
事件は必須ではない。謎も必須ではない。求められているのは、二つのアンビバレントな効果が両立したときの対消滅にも似た爆発的な感動――ということか。たしかに、ぐうの音も出ないほど完璧な定義だ。なぜあれとかあれが世間でミステリと呼ばれているわりに全然ミステリの醍醐味を感じないのか、なぜあれとかあれがちっともミステリっぽい舞台設定や筋立てを備えていないくせに強烈なミステリ精神を感じさせるのか、理解できた気がする。
でも、感銘を受けてしびれている僕の横で日高さんは冷静に言う。
「それじゃもうミステリって呼ばない方がいいんじゃないですか?」
「え? ……ううん、そうね……」
先輩がたじろいでいる。日高夏美、侮れない。
「でもね、ほら、歴史的なジャンル名だし……それにmysteryには秘密という意味もあるわけで、読者に対して秘密にしておいた真相が明かされる、という意味でなら叙述トリックもミステリという呼び名にふさわしいと思うわ」
「世間はそう思ってないんじゃ? ミステリっていうとやっぱり殺人が起きて探偵とか警察が調べるやつって思われてますよ」
紫衣子先輩の朗々たる大演説を聞いたあとでよくもまあそんなのけぞるほと常識的な見解を口にできるもんである。ハートが強すぎる。
「先輩が言ってるその、驚きと納得のダブルパンチのやつは、もっとべつの名前をつけた方がわかりやすいんじゃないですか」
「べつの名前っていうと、たとえばどんな?」と僕は訊ねる。
「うーん……『ええっ』て驚かせた後に『ああっ』て納得させるんだから――」
ちょっと思案した後で日高さんは言った。
「『えあ小説』とか」
「実在しないみたいな名前つけるな!」