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第11回 先輩は水着で僕を食べたい

 その日の放課後、部室に顔を出してみると、先輩は不在で、テーブルの上に変わったものが並べられていた。おもちゃの線路や列車だ。ブリオ社製の素朴で上品な木製レールに、機関車や貨車。なつかしい。たしか僕もこれを親に買ってもらったっけ。

 なんでこんなものが置いてあるんだろう。先輩のだろうか?

 背後でドアが開く音がした。


「小宮くん、いらっしゃい」


 紫衣子先輩だった。優雅な足取りでソファセットまでやってくると、僕に座るように促して自分も腰を下ろす。


「このおもちゃ、どうしたんですか」


「今日の部活で使おうと思って通販で買ったの。かわいいでしょう」


 汽車や機関士の人形なんかよりもそれを手のひらにのせて無邪気そうに微笑む先輩の方が何万倍もかわいかったが、それはさておき。


「ええと、じゃあ今日のテーマは……轢殺ですか」


 そう訊いてみると先輩は長いまつげを伏せて嘆息した。


「こんなにかわいらしいおもちゃを見ても殺人のことしか思い浮かばないなんて……」


「え、あ、はあ。……すみません」


「もちろん轢殺の話なのだけれど」


 だと思ってたよ! 謝って損した!


「小宮くんは《トロッコ問題》って知ってる?」


「なんですかそれ」


「倫理学の思考実験よ。状況はこう。線路上を、ブレーキが利かなくなったトロッコが暴走している。トロッコは線路の分岐点に差しかかっている」


 先輩はまっすぐな線路に黒い貨車をのせると、その先にY字の線路をつなげて置いた。


「このままだとトロッコは左の分岐路に進む。その先には五人の作業員がいて、もはや避難は間に合わず、全員轢き殺される」


 Y字路の左の先に青い服の男の子の人形が五つ配置される。


「でもわたしにひとつだけできることがある。それは分岐器をスイッチしてトロッコの進路を右に変えること。ただし――」


 先輩が赤い服の男の子の人形をひとつつまみあげ、Y字路の右の先に立たせた。


「こちらにも作業員が一人だけいる。切り替えれば今度はこの一人が確実に轢き殺される。さて第一問。わたしは五人を救うためにスイッチして一人を殺すべきだろうか?」


「……ええと……はあ。難しい問題ですね」


「法的責任については考えず、純粋に倫理上の問題として考えるのがポイントよ。この問題は考察を深めるためにさらにいくつものバリエーションがあってね」


 今度はY字路を除去してまっすぐな線路のみにし、その先に青人形五つを置く。それから、トロッコと五人の作業員の中間点あたりの線路脇に、ひときわ大きな赤い人形を置いた。


「今度の線路は一本道。トロッコが暴走していてこのままだと五人の作業員が轢き殺されるのは同じ。ところでわたしの目の前に、とても体重の大きいもう一人がいて、線路に突き落とせば障害物となってトロッコを止めることができるとする。もちろんそんなことをすればその肥った人は死ぬわ。わたし自身が犠牲となって線路に飛び込む、という選択肢を潰すために、わたしの体重は軽すぎてトロッコを止めるには足りないとする。さて第二問。五人を救うために一人を突き落として殺すべきだろうか?」


「えええ……いや、それは……」


「五人を救うために一人を殺す、という図式は第一問も第二問も同じよね。だから第一問でスイッチしても許されると答えたなら、第二問でも突き落としても許されると答えないと一貫性がないわ。でも現実にアンケートをとってみると、第一問はおよそ九割の人が《許される》と回答するのに対して、第二問では《許される》が一割ほどになるのだそうよ」


 僕は腕組みして、卓上に広げられたおもちゃを見つめる。たしかにそういう結果になるのもうなずける。


「さらにいえば、『許されるかどうか』と『実際に自分がやるかどうか』でも回答結果が変わってくる傾向があって、あなたなら五人を救うために一人を殺しますかと訊ねると、大半の人は第一問・第二問ともに『やらずに見過ごす』を選ぶそうなの」


「でしょうね……」


「で、小宮くんはどう答える?」


「うっ……」


「ちなみにこの問題を出すと、少なくない割合で、設問に存在しない条件を勝手に加えて『六人全員死なせない』とか『より大事な人間がいる側を助ける』なんてことを言い出す回答者が現れるのだそうだけれど、小宮くんはもちろんそういう思考実験の意義を理解しない非知性的な真似はしないわよね」


「し、しませんよもちろん!」


 五人の作業員の中に紫衣子先輩がいるなら絶対にそっちを――という方向で先輩への好意を発露させていつもの流れに持ち込もうと思ったのに先回りで封じられてしまった。


「大事なのは自分の感情に嘘をつかずに回答することと、その回答に至った心の流れをきちんと把握すること」


 僕は五個の青い人形と一個の赤い人形を見つめ、しばらく考えてから答えた。


「許すか許さないかなら、第一問も第二問も許されると思いますね。僕がやるかやらないかなら、第一問も第二問も手を出さず五人を見殺しにします」


「ふうん……」


 先輩はにまにま笑いながらテーブルに手を伸ばし、赤い人形を四つ足して五つにすると、青い人形を四つ取り除いて一つだけにした。


「では、これならどう? 放っておくと一人が轢き殺される。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。一人のために五人を殺すのは許される?」


「……これは……考えるまでもないんじゃないですか」


「そう?」と小首を傾げる先輩は、愉快そうだ。


「九割九分九厘の人は『許されない』って答えるでしょ」


「残りの一厘は?」


「僕とか先輩ですよ」


 先輩の笑顔はできたてのマシュマロみたいにふわふわな多幸感に包まれる。ひょっとして抱きついてくるのではないかとまで期待してしまった。でも先輩は座ったまま言った。


「さすが小宮くんね。我が『キラー・クイーン・サークル』の入部試験に一発だけのことはあるわ」


 お褒めにあずかり光栄至極だった。


「被害者がどういった人間なのかって条件がなく、法的責任も考慮しない。となれば殺人好きとしての答えは決まっています。()()()()()()()()()()


 ふふ、と先輩は笑みを漏らす。見れば、仰向けにした青い男の子の人形をいくつもピラミッド状に重ねている。


「でも実際にこんな状況を前にしたら、おおかたの回答者と一緒ですね。なにもせずに見過ごすと思います」


「でしょうね。なにしろこの設問はタイムリミットが厳しすぎる」


 線路上に残った貨車のおもちゃを、先輩は指で押さえて前後に動かす。


「それに行為の結果予想が難しすぎる。特に肥った人を突き落とすバージョンはトロッコを止められるかどうかが不確定すぎて犠牲者をただ増やすだけの結果に終わりかねないから現実に突き落とす人は皆無でしょうね」


「でも不確定要素をどんどん排していったら、無人島とか宇宙船とかの閉鎖空間で極限状態の話にするしかなくなりますよね」


「いいわね。今日の実習のテーマはそれでいきましょう」


「それ……? っていうと」


「わたしと小宮くんは遭難して二人きりで無人島に流れ着いた。さあ、どうするの?」


「どうするって……とりあえずプロポーズしますけど」


「ば、ばかっ! そういうのは無事に帰れてからでしょ!」


「帰ってからならいいんですか」


「そっ……そういうわけでも……なくも……」

 先輩の声は消え入りそうになる。

「……でもとにかく帰った後のことはいいの、今は無人島に集中して!」


「無人島ということはまわりは海ですよね?」


 僕の当たり前すぎる質問に先輩は訝しげに小首を傾げる。


「……もちろん」


「海ということは水着ですよね。実習ですから水着に着替えましょう」


「どうしてそうなるの。遭難って言ったでしょう」


「だって僕と先輩が一緒だったってことはクルージングの最中に船が転覆したってことですよね。僕、先輩と海に出るときにはビル・ゲイツが持ってるみたいなプールつきの豪華クルーザーに乗るって心に決めてるんです。だから先輩は水着でないとリアリティがありません」


「待って、たとえクルーザーにプールがついていたとしてもわたしが水着を着ているとは限らないでしょうっ?」


 先輩は必死だったがこっちもでまかせを並べるのに必死だった。


「船が転覆したのに先輩は生き残った、ということは水着だった証拠です。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()と思いますけれど、着衣のまま水に落ちると衣服が水を吸って重くなり著しく身動きが制限されて生存率が低下しますから」


 プライド刺激策が的中した。


「わ、わかったわ。そんなに言うなら水着に着替えてくる」


 ちょろい。ちょろすぎる。部室を出ていった先輩は、十分後、ほんとうに水着姿で戻ってきた。あろうことか、ビキニである。明るいオレンジ地にトロピカルな花々が描かれた目も眩むほどゴージャスな柄だ。腕組みして胸元を隠そうとしているが代わりにおへそが隠せていないし、パレオはシースルーなので脚のラインもくっきり目視できる。僕は奈鳥紫衣子という存在を生み出してくれた大自然への感謝の気持ちで胸がいっぱいになり、ごく無意識に合掌して涙を浮かべていた。


「……な、なによ小宮くん、拝んだりして」


「幸福を通り越して畏敬の念をおぼえているんです」


「意味がわからないわ」


 紫衣子先輩は居心地が悪そうにソファに身を沈めた。肌をさらしている部分が多すぎて落ち着かないのか、クッションを二つ両脇に寄せて置く。


「学校指定の競泳水着を想定してたんですけど、なんでビキニなんですかね……」

 たいへんけっこうなので文句をつけているわけではないんですが。純粋に疑問で。


「学校指定のなんて持っていないわよ。水泳の授業なんて出たこともないし」と先輩はむすっとした顔で言う。「これは宗像先輩が置いていったの」


「はあ? 宗像先輩が? なんでこんなセクシーな水着を学校に持ってきてんですか、どうせ実習にかこつけて紫衣子先輩に着せようとかいう不埒なことを考えてたんでしょう!」と僕は自分を完全に棚に上げて憤った。


「小宮くんがそんなに怒るなら制服に戻るけれど」


「いいえ、そのままでお願いします! 実習にリアリティを出すためですから」


「それと、どうしてわたしだけ水着なの? 小宮くんも一緒に遭難したんでしょう?」


 いつもの部室という水着がまったくそぐわない場所で先輩だけ水着というシチュエーションが最高なんじゃないか。僕まで水着になったら自分が気になって先輩を堪能できなくなってしまう。

 ……といった説明をしても理解してもらえるとは思えなかったので僕はまたも言い募る。


「前にも言いましたよね。僕は事故で海に落っこちたけど生還したんです。いわば死地をくぐり抜けてきたエキスパートですから着衣のまま無人島に泳ぎ着くなんて朝飯前です」


「そう? ……そういうことなら状況はこれでいいわ」


 ちょろい。ちょろすぎる。


「さて、こうしてわたしと小宮くんは水着姿と制服姿で無人島に漂着したわけね。狭い島なので他にだれもいないことは確認済み、食糧もない。この状況における殺人を倫理的観点から考察しましょう」


「最初の話忘れてなかったんですね……」


 これだけむちゃくちゃな話の逸らされ方して水着まで着せられたのによく話を戻す気になれるな。さすが僕の敬愛する紫衣子先輩だった。


「遭難して無人島で殺人ていうと、食糧がないから仲間を殺して食べるってパターンですか」


「そうね。現実にも例があるわ。その後に生還して殺人罪に問われたケースまである。殺人が倫理的に許されるか否かの問題は基本的にはすべて緊急避難の問題になるわけね。他の人命を保全するための殺人に限られる」


「人肉って美味しいんですかね……?」


 ふと思って訊いてみた。


「さあ。わたしも食べたことはないし」と先輩。「一般的には、肉食獣の肉は不味いといわれているわね。食肉用の家畜ってみんな草食動物でしょう」


「雑食だとどうなるんですか」


「それこそ食べているものによるのではないかしら。たとえば都会でゴミを漁っているハシブトガラスの肉はとても臭いけれど、山に住んで木の実なんかを食べているハシボソガラスの肉は癖もなくて美味しいそうよ」


「わかりました。先輩とクルージングに行くと決まったら三ヶ月前から果物と野菜しか食べずに体質改善につとめます」


「待って、どうしてわたしが小宮くんを食べる前提なの?」


「え? いや、だって、先輩を殺して食べちゃったら先輩がいない人生じゃないですか。たとえ救助が間に合ったって死んだも同然ですよ。それなら先輩が少しでも生き延びられるように自分が食糧になる方がましです」


 先輩の頬は、ほのかに色づいた。いつもの、僕にセクハラされてかっかしているのとは様子がちがう。もっと感情を内に秘めたような赤らめ方だった。水着姿なので剥き出しの肩のあたりにまで紅潮が伝わっているのがわかる。


「……わたしも、……小宮くんを殺してまでひとりで生き延びたいなんて思わないわよ」


「……でも、僕が死んだところで特にだれも哀しまないですよ。僕、家族といったらちょっとボケ始めちゃった祖父ちゃん一人だけなんで」


 思わず真剣な話をしてしまった。でも紫衣子先輩は顔を曇らせて首を横に振った。


「わたしが哀しむわ」


 あたりの空気がすうっと冷たくなり、息ができなくなった。記憶にある感覚だった。冬の海に落ちたときと同じなのだ。苦しいとか怖いとかではなく、ぬるりとした虚無感。

 僕は先輩に頭を下げた。


「……すみません」


「な、なによ。謝るようなことはしてないでしょう」


「いえ。ほんとうにすみません。とても馬鹿なことを言ってしまったので。あんなこと二度と言いません」


「そうね」と紫衣子先輩は気恥ずかしそうに目をそらす。「わかってくれたならいいわ。それからもし二人で無人島に漂着したら、殺し合うより二人で食糧を探したり筏を作ったり砂浜に大きなSOSを書いたりしましょう」


「そうですね。バナナの樹の葉っぱを屋根にして家を作ったりしたいですね」


「いいわね。あとは、青草を焚いて虫除けにしたり、野草の朝露をタオルで集めて真水を確保したり……」


 なんだか微笑ましい雰囲気になり、僕と先輩はお互いの拙い生存術を披露して笑い合った。殺す方の知識は豊富な先輩も生き残る方の知識はからっきしで、そこが楽しかった。

 しかし我々は完全に失念していた。そこは絶海の孤島などではなく学校の敷地内であり、先輩はまだ水着姿だったのだ。

 ドアにノックの音がした。

 僕らが反応するよりも早くノブが回る。


「失礼します! 今週も活動を監査しにきました」


 入ってきたのは《風紀委員》の腕章をブレザーの袖につけた女子生徒だった。日高夏美さんだ。華やかなビキニの紫衣子先輩を見て目を丸くする。


「なっ、ど、どういうことですかこれはっ、どんなふしだらな活動をしてたんですか!」


 僕は頭を抱えた。ほんとに毎週来るのかよ。

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