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第10回 先輩は姦淫してくれない

 第二回の『探偵と助手』実習では、二人ともコスチュームがグレードアップしていた。

 先輩の探偵装束には両つばの鹿撃ち帽が追加されている。暖かそうな毛織物製で、豊かな黒髪が引き立ち、いつもながらの麗しさがさらに増している。

 探偵助手も、前回ただのワイシャツとスラックスだったけれど、その日は灰色のベストとジャケット、細めの上品なリボンタイまでそろえられていた。そして下は半ズボン。


「どう、助手くん」と先輩は目を細めて訊いてくる。「その少年探偵団スタイル、脚がすーすーして不安だったりしない?」


 わざとらしい男言葉の探偵口調も、二回目なのでだいぶしっくりなじんできている。


「いえ、制服と大して変わらないので……」と強がってみるけれど、やはり半ズボンというのはなにか独特の露出感がある。


「そう。とても似合っている」と先輩。「それじゃあ今日の実習は、探偵助手の正しい『推理の間違い方』を学ぼうか」


「正しい間違い方、って変な言い方ですね」


 なにを指しているのかは理解できるのだけれど。


「やりやすいように事件サンプルを用意したよ」と先輩は足下を指さした。


 絨毯の上に横たえられているのは、マネキン人形だ。頭部がつるりとした球状の、あまり人間に似せていないタイプ。服は着せられていない。うつ伏せで、背中の真ん中に豆粒大の赤いしるしが書いてある。傷口――ということなのだろうか。


「シンプルな密室事件だ。今し方、鍵を開けてこの部室に入ってきたところ、被害者がこうして倒れていた。鍵は私が保管している一本だけ、他に侵入経路はない。さて助手くん、まず気づいた点は?」


「そうですね……」


 凡庸なだけではだめで、探偵の思考を刺激する面白い誤推理を披露しなければいけない。先輩ほどではないがミステリを読み込んでいる身としてはなかなか難しい。どうしてもまともな考えが湧いてきてしまう。

 ひとまず、最初に思いついた馬鹿馬鹿しいことを口にしてみた。


「死んでないんじゃないですか。先輩は殺人とは一言もいってないですよね。被害者は自分で鍵をかけてここで貧血かなにかで倒れただけ。背中のは赤あざかなにかじゃないですか」


 先輩の顔がかあっと赤くなった。


「助手は正しい推理をしちゃだめだろう!」


 正しいの? あきれてしまう。


「設定を変更する!」と先輩は机から赤ペンを取ってくると、マネキン人形のそばにかがみこんで背中の赤いしるしの隣に『けっこん』と手早く書き、さらにはっと気づいた顔になって括弧付きで追記した。『(じゅうこん)』。漢字がとっさに思い出せなかったのだろうか。


「この通り、たしかに絶命している。助手くんの見解を聞きたい」


「銃殺ですか……」


 人形をちょっと持ち上げて胸の側を確認する。そちらには血痕はない。


「貫通してませんね。背中から撃たれてる。頭はドアの方を向いていますから……犯人は部屋の奥にいた? とすると顔見知りの犯行? 位置的に心臓をだいぶ外しているから即死じゃなかったのかもしれませんね。犯人は被害者を撃ってそのままドアから逃げる、被害者は死ぬ直前に自分で鍵を閉めたのかも。とするとその目的は密室にすることで他殺のラインを消して犯人をかばうこと――」


「全然だめ!」


 先輩が柳眉をつりあげて言った。


「なぜまともっぽい推理をするんだ。探偵助手なんだから正しく間違ってくれないと」


「あっ、ごめんなさい」

 つい癖で普通に推理してしまった。

「ええと、それじゃ今のもやっぱり正解だったんですか」


 先輩はむっとした顔になり、しばらく口をもぐもぐさせた。どうやら正解だったけれどやはり認めたくないようだ。その頑なさが可愛い。


「この事件は、ううん、つまり、もっと奥深い真相が隠されているんだよ」


「そうなんですか。じゃあ、先輩の推理を聞かせてください」


「いいの? もうすでに手がかりはすべて提示されている。今ある情報だけで犯人と動機と犯行方法すべてを解明できるよ」


 先輩の顔をまじまじと見つめ、足下のマネキン人形を凝視し、書架に囲まれた部室をぐるりと見回し、また先輩に視線を戻した。情報は全部出そろっている? これで? 今のはいわば古典ミステリにおける《読者への挑戦状》なのか?

 顔を手のひらで覆ってしばらく考えたけれど、けっきょく降参することにした。


「……すみません、……僕、にはやっぱりわかりません。教えてください」


 先輩はにんまりと笑った。探偵としてのプライドを素直な方法で満たせたようだ。これが助手の大切な役割だ。まあ、実際にさっぱりわからなかったのだけれど。

 死体――マネキン人形のそばに膝をついた先輩は、赤い傷口を指さす。


「なにより重要な手がかりはここにある」


 人形を挟んで先輩と向かい合う形でかがみ込んだ。先輩の示す場所をまじまじと見つめるけれど、赤ペンでしるしと雑な説明書きがしてあるだけで、なにがどう手がかりになるのか見当がつかない。


「銃で撃たれた痕……ですよね? いや、そういう設定というだけで、書いてあるのはただの赤丸ですけど、ここにどういう情報が――」


「ありのままによく見て。『けっこん』『じゅうこん』と書かれているだろう?」


 先輩の指がひらがなの並びをなぞる。


「きみは無意識にこれを『血の痕』『銃弾の痕』と決めつけたけれど、それは一面的な予断だよ。もっと他の意味がある」


 続けて先輩の指が人形の表面をなぞる。


「なぜ私がひらがなで書いたのか疑問に思わなかったの? これは『結婚』『重婚』だ」


 唖然とするほかない。


「この二つはつまり犯人の動機を示している。犯人は被害者と結婚していたが、他の人も好きになってしまった。そちらと結婚したのでは重婚になってしまうから現配偶者を殺害するしかなかった」


「ええええ……いや……その……」


「そして犯人がだれかだが、これはもう考えるまでもない。最初に言ったよね、鍵は私が保管している一本だけ、と。したがって私が犯人だ」


「えええええ」


 先輩はマネキン人形を押しのけてぐいぐい迫ってきた。絨毯の上に押し倒されそうな勢いだったので尻餅をついたまま後ずさる。


「前回、探偵と助手は結婚するものだという話をしたのだから、ちゃんと推理していればこの真相にはたどりつけたはず」


「いや無理ですよっ?」


       * * *


 その日の分の実習もだいぶ濃厚な体験だったので、僕は活動日誌のページに栞代わりにペンを挟んで閉じ、ふうと息をついてソファの背もたれに頭を預けた。

 先輩が部屋にいないので、自分でコーヒーを淹れてみる。全然美味しくない。先輩の腕はそうとうなものなんだな、と痛感する。僕も修業しよう。

 ドアが開いた。

 制服姿の先輩がおそるおそる入ってくる。


「……日誌、一区切りついた?」


「はい。休憩中です。先輩もコーヒー飲みますか?」


 僕が淹れた不味いコーヒーも先輩は不満そうな顔ひとつせず飲んでくれる。


「それで、今回の感想はどうだったかしら」


 横目でちらちらと僕を見ながら訊いてくる。


「いやあ、はあ、真相にはほんとびっくりしましたけど」


「……でしょうね。わたしも自分でびっくりした」


「先輩は当事者ですよねっ?」


「そ、そうなのだけれど……たぶん、やりとりをしている間にぱっと思いついて、アドリブでやってしまったんじゃないかしら……」


「そんな他人ごとみたいに」


「他人ごとみたいなものよ! つまり、あれは実習だし、演技のために創られたキャラクターだし、あの探偵はわたしではないの! そこは忘れないでねっ?」


 先輩は耳まで真っ赤になって強弁した。


「わ、わかってますよ、大丈夫です、はい」


 僕は先輩の肩をおさえてなだめる。


「でもですね、これから推理作家になろうかって人があのトリックというか……ロジックというか……どうなんですかね」


 先輩をさらにヒートアップさせてしまうかもしれないと思いつつも、ミステリを愛する人間としてはどうしても言っておかなければ気が済まなかった。先輩はしゅんとする。


「……それは、わたしも同感だけれど。……愛が暴走してしまった、ということで……」


 なんか予想以上に先輩にダメージを与えてしまったようだった。この話題はやめよう。僕は無理に声を明るくして言う。


「それにしても、探偵が実は犯人でした、ってやつ、たまにありますけど。あれって先輩的にはどうなんですか」


「そう……ね」と先輩は思案顔になる。気持ちは落ち着いたようだ。「なにごともやり方次第でしょうけれど、うまくやっている作品はちょっと思い当たらないわ。ノックスの十誡でも禁じられてるし」


「ノックスの十誡って、全部憶えてないんですけど、他はどういう項目でしたっけ」


 ノックスの十誡とは、大昔の推理作家のノックスさんという人が提唱した、『ミステリを書く上で守るべき心得10箇条』である。ミステリ好きの間ではかなり有名なネタだ。でも実際の十個を全部そらで言える人はそういないのではないかと思う。

 ところが先輩はさらさらと暗誦した。


「1、犯人は物語の早期から登場させなければならないし、思考内容が読者に開示されるような立場の登場人物であってもいけない。

 2、超自然的な現象は論外。

 3、秘密の部屋や通路は二つ以上出してはいけない。

 4、未知の毒物や長々しい科学的説明が必要な器具は用いてはならない。

 5、中国人は物語に登場させてはいけない。

 6、探偵は偶然や直観に頼ってはいけない。

 7、探偵自身が犯罪を犯してはいけない。

 8、探偵は発見した手がかりをすべて明らかにする義務がある。

 9、探偵助手いわゆるワトスン役は自分の考えを読者に対して隠してはいけないし、また彼の知性は平均的な読者のそれよりもわずかに低くなければいけない。

 10、双子の兄弟は十分に準備していない限り登場させてはいけない」


「……すごいですね。全部憶えてるんですか」


「ええ。ミステリの約束事を何箇条かにまとめたのって他にもいくつかあるのだけれど、ノックスの十誡だけが飛び抜けて有名よね。これはたぶん、モーセの十誡に倣ったところが洒落ているのと、あと内容が突っ込みどころだらけだからでしょうね」


「はあ。まあ、たしかに。……中国人は出しちゃだめ、ってなんなんですかね」


 ひときわ(悪い意味で)目を惹く項目である。他の九項目はだいたい理由が察せられるが、中国人禁止だけはさっぱりわからない。


「昔のヨーロッパでは中国人は妖術を操る怪人物みたいなイメージを持たれていて、ミステリに登場させると作品を壊してしまうといわれていたの」


「へえ。じゃあ2番の超常現象禁止と似たような理由ですね」


「……というのがノックスに対するだいぶ好意的な解釈で、実際のところはそのまま黄色人種に対する差別意識ね」


「え……あ、はあ、そうでしたか」


「彼が生きていたのは二十世紀前半だから、黄禍論というのが盛んでね。黄色人種は侵略者、怖い、自分たち白色人種を脅かす、というイメージが社会全体に根付いていたの。当然ながらフィクションに登場する中国人キャラクターもこのイメージの上に創られた野蛮、粗暴、下品、うさんくさい者ばかり。こういう中国人キャラが出てくる小説は低俗だからやめなさい、というのがノックスの真意だったようね。作品を蔑視していたのか中国人を蔑視していたのか両方ともなのかは今となってはわからないけれど」


「そんな事情があったんですか。……なんにしろ、現代の感覚からしたら完全に要らない項目ですよね」


 僕が言うと先輩はくすりと笑った。


「ま、内容を真剣に検討するようなものではないわ。それより、ノックスはカトリックの大司教でもあったのだから、もっとしっかりモーセの十誡に沿った内容にすべきだったと思う。聖書のエキスパートが考案したにしてはモーセへのリスペクトが全然足りないわ」


「モーセの十誡ってどんなんでしたっけ」


 こっちもすらすら暗誦するんだろうな、と思ったら案の定だった。


「1、わたしの他に何者も神としてはいけない。

 2、偶像を崇拝してはいけない。

 3、神の名をみだりに口にしてはいけない。

 4、安息日を守れ。

 5、父母を敬え。

 6、殺してはいけない。

 7、姦淫してはいけない。

 8、盗んではいけない。

 9、隣人について偽証してはいけない。

 10、隣人の財産を欲していけない」


 たぶん先輩は次にこう言ってほしいんだろうな、と確信して僕は続けた。


「じゃあ先輩ならどんな十誡にしますか?」


 先輩の目が輝いた。頬を上気させて僕ににじり寄ってくる。


「よく訊いてくれたわ、小宮くん」

 大正解だったようだ。わかりやすさが可愛い。

「わたしならまず1番はこうね。『わたしの他に何者も探偵としてはいけない』」


「……え? いや、あの、どういう立場から言ってるんですか、それ」


「探偵から助手に向けての戒めよ。今日は『探偵と助手』実習の日なんだから当たり前でしょう。助手が自分以外のだれかに奉仕するなんて探偵としては許しがたいから」


「わかりました。言われなくても先輩以外にほいほいついていったりしません」


「わ、わたしの話じゃないわよ! 探偵の話よっ?」


 そんなこと言われても先輩自身の話なのはばればれだったが、僕は次を促した。


「その路線で行くと2番は……?」


「『アイドルを崇拝してはいけない』。これはほぼ原典そのままね。探偵をないがしろにしてアイドルに夢中になるなんて許しがたいから」


「先輩より魅力的なアイドルなんて存在しないから大丈夫ですよ」


「だからわたしの話じゃないの!」


「そうすると3番は『探偵の名をみだりに口にしてはいけない』ですか」


「そ、そうね。そうなるわ」と先輩は咳払いした。「普段は『先生』などの敬称で呼ぶべきね。みだりじゃなければいいわよ。時と場合をわきまえて。普段は探偵と助手という関係だけれど、そういう役割から離れてもっとプライベートな距離感になりたいときがあるでしょう」


「デート中とかですか」


「そ、そう、そうね」


「あとベッドの中とかですか」


「そういうのはみだりだからだめ!」

「みだりじゃなくてみだらでは?」

「そ、そうね、それならいい――よくないわ!」


 これだけテンパってるのにちゃんと一回のってくれるのはどういうわけなんだろう。愛おしくてしかたがないのだが。


「次、4番は『実習日を守れ』よ!」と先輩は日誌の表紙をばんと叩いて言う。「週に一度、水曜日は『探偵と助手』実習の日、厳守!」


「楽しみすぎて厳守しまくりです」


「5番は『探偵を敬え』ね!」


「先輩の麗しさが神々しすぎて今でもたまにこっそり拝んでます」


「6番は『殺さなければいけない』よ。つまり殺人が出てこないようなぬるい日常系ミステリは禁止、ということ。前にも言ったわよね」


「えっ、それは……ちょっと厳しいです……」


「7番はそのまま『姦淫してはいけない』、ラブコメにかまけていちゃいちゃばかりしていてはいけないということ」


「えっ、それも……ていうか先輩がそれ言うんですか……」


「8番もそのまま『盗んではいけない』。窃盗事件を扱うようなミステリはだめ。必ず殺人事件よ。9番は『犯人について偽証してはいけない』。地の文で嘘を書くようなアンフェアは当然ながら厳禁。10番は『他人のアイディアを欲してはいけない』。パクリは絶対だめ!」


 僕は嘆息した。


「なんか最後の方は一気にまともになっちゃいましたね」


「まともでいいのよ、良きミステリのための心得なんだから!」


 なんとかこそばゆい方向に話を持っていけないものか。しばらく思案した僕は、思いつきを口にしてみた。


「モーセの十誡って、ユダヤ民族と神さまとの契約ですよね。ちゃんと守ったらご褒美、守らなかったら罰、っていう」


「……? そうね。契約を守れば何千代も子孫繁栄させる、と神さまは言っているわ」


「じゃあそこも踏襲しましょう。十誡を守る探偵助手には子孫繁栄が約束されるんです。もちろん子孫が繁栄するためにはまず子孫を作らないといけませんよね。あと、探偵と助手は結婚するのが決まりなんですよね」


 先輩は赤面して日誌を盾に僕の胸をぐいと押し戻し、必死に言った。


「だ、だめっ! 『姦淫してはいけない』でしょ!」


 そういえばそうだった……。見事に反撃を食らった僕は絨毯の上にくずおれた。


       * * *


 しかし後日調べてみたところ、ちゃんと子供を作る目的なら『姦淫』にはあたらないらしかった。そりゃそうだ。そうでなきゃユダヤ民族は滅びてしまう。僕は自分の不勉強を深く悔やんだ。

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