第1回 先輩は童貞を殺したい
「とにかく殺人が好きなの」と紫衣子先輩は熱っぽい口調で言った。「銃殺、刺殺、絞殺、扼殺、薬殺、全部大好き。あっ、今やくさつを二回言ったけどこれは頸を手で押さえつけて殺すのと薬で殺すので別々の殺し方だから。イントネーションも少しちがうの、ちょっと苦しそうに息を詰めて小首を傾げるのが扼殺で苦いものを奥歯に挟んであるように唇を少し歪めるのが薬殺。ね、わかるでしょ?」
わかんねえよ。先輩のしぐさが可愛いのはわかりますけど。
「あと、扼殺と絞殺が同じじゃないのかって思ったよね? 思ったでしょう?」
先輩が楽しそうに熱弁しているところを鑑賞するのに集中してて話の内容はあまり聞いていませんでした、とは正直に言えないので僕は「はあ」とうなずいた。ソファの隣に座った先輩は僕を絞め殺しそうなほどの近さにまで顔を寄せてきて説明する。
「これは漢字を見れば一目瞭然なんだけれど『扼』殺は手偏がついているでしょう、だから手を使う殺し方、一方で『絞』殺は糸偏がついているから紐や縄などを使う殺し方。全然ちがうんだから」
「うん、まあ、……そうでしょうね。絞殺の方は道具がなきゃいけないわけだし、首につく痕もちがうだろうし」
話を聞いていないのではないかと見抜かれないようにてきとうに口を挟んだのがいけなかった。先輩は「そう、そうなの!」と目を輝かせてさらに接近してくる。いつもながらパーソナルエリアがなきに等しい。ほとんどソファに押し倒されそうなかっこうで、柔らかい髪が僕の頬にかかってくすぐる。かすかにローズヒップの香りがして僕はきつい動悸をおぼえる。
「残る証拠もそうだし、身体の使い方もちがう。見逃されがちなのが被害者の身体の向きね、絞殺は後ろからの方がやりやすいの、紐を頸にかけて背負うようにすると被害者の体重を利用して簡単に頸動脈が圧迫できる。女性や子供でも容易な殺害法ね。一方で扼殺はどうしても正面からになる。頸動脈も気道も頸部の前面にあるからね。背後から扼殺となると腕全体を使って極めるしかないけれどこれは加害者と被害者の間によほど筋力差がないと無理ね。それで小宮くんはどっちが好き?」
「はいっ?」
いきなりそんなこと訊かれても困る。ていうか殺す方? 殺される方? 扼殺と絞殺とで全4パターンありますが? いやもちろん全部いやですけど? でも紫衣子先輩が期待に目を潤ませて両手をわきわきさせているのを見ると、答えなければという気にさせられてしまう。
「……ええと、まあ、どうせなら扼殺で……」
「どうして? 小宮くんそんなにちっちゃくて細いのに腕力に自信ありなの?」
「いや、ええと……素肌で触れ合いたいし正面から見つめ合いたいから……ですかね……」
紫衣子先輩はしばらくぽかんとした後で、真っ赤になって僕の頸を絞めた。いや、先輩の教えに従って正確を期すなら、頸を扼した、か。
「ばかっ! あのね、真面目な話をしているの! 小宮くんも真面目に殺人について考えて、それがうちの部の活動なんだからっ!」
「んぐ、は、はい、すみません」
先輩は僕以上に腕力がないので全然苦しくないのだけれど、にやけてしまうのをごまかすために息苦しいふりをする。毎回リアクションが面白いのでついからかってしまう。
それにしたって、真面目に殺人について考えろ、か。すごいせりふだ。
三十秒ほど真面目に考えた後で、前々から知りたかったことをこの際だから訊いてみることにした。唇を舌で湿らせ、勇気で言葉を押し出す。
「先輩って、その、殺人が大好きなのは何度も聞きましたけれど……実際に、人を殺してみたいと思ったことってあるんですか」
「もちろんあるわ」先輩は平然と答えた。「毎日思っている。小宮くんが入部してくれてからはずっと小宮くんを殺すところばかり想像してる」
「ええええ……そ、そうですか……」
喜ぶべきポイントなのかどうかよくわからない。内容を抜きにして、先輩が僕のことを毎日考えてくれている、というところだけ見ればめちゃくちゃ嬉しいけど。
「ちょっと待って小宮くん!」
僕の顔がゆるむのに気づいたのか先輩があわてて言った。
「この場合の『殺す』というのは息の根を止めて生命活動を終了させて地獄に送るという意味だからねっ?」
「……え、ええ、わかってますけど」なんで地獄で確定なのかは抗議したいですけど。
「童貞を殺すとかそういう意味の『殺す』じゃないんだから!」
「僕なにも言ってませんよ……」
真っ赤になって自爆されても困る。
「だいたい小宮くんが童貞かどうかもわたしは知らないしっ」
「そりゃまあ。知ってたらどうかと思います」
冷静に考えたらかなり恥ずかしい話をされていたのだけれど、話している紫衣子先輩の方が凄絶なまでにうろたえていたせいで僕としては恥じ入る気も失せていた。
「知りたいとも思っていないんだからっ」
「僕としても知ってほしいとは思いませんし……」
「わたしに知ってほしくないのっ?」
なぜそこで話題を折り返す。
「べつにそんなわざわざ知らせることでも」
「もちろんわたしだって好奇心でこんなことを言っているのではなくて、そう、たとえば、童貞だけを殺す薬が開発されて――この場合の『殺す』は文字通り息の根を止めて生命活動を終了させて地獄に送るという意味よ? そんな薬が世界中に撒かれたとして、大切な部員である小宮くんの生命が脅かされるかどうかはわたしにとっても大問題だから童貞かどうか知っておきたいじゃない?」
「知っておきたいんですか」
「そ、そ、そんなこと言ってないでしょうっ」
言ってましたよ思いっきり。
「ていうかその状況ならどのみち何十年かでじわじわ世界滅亡ですよね、僕の性体験とかどうでもよくて」
「そうか、そうね……言われてみれば……それなら非童貞だけを殺す薬でどう? ……ああっ、これじゃわたしの愛するお父さまが死んでしまう……しかもこれで万が一小宮くんも死んでしまったらわたしは二重の意味でショックで放心してしまうわ」
放心するのはこっちだ。どんな話にまで発展してるんだよ。ちょっといじりすぎたか。
「え、ええと、毎日そんな感じで僕を殺す想像してるんですね。わりと非現実的なので安心しましたよ」と僕はむりやり話をまとめる。
「こんなのばっかりじゃないから、誤解しないで! ちゃんと現実的でえげつなくて容赦ない殺し方も毎日頭の中で試してるんだからねっ?」
どんな怒り方だよ。変なプライドを刺激してしまったか。せっかく締めくくったのに。
「あっ、でもだからってほんとうに殺したりしないから安心して毎日部室に来てね。小宮くんが来てくれないとわたしさみしいから」
そんなせりふを手をつかまれて涙目で言われると僕はもう舞い上がってしまうのだが、毎日来てほしいならそもそも殺すだのなんだのという話はしない方がいいのではと思う。いやもちろん僕は日参しますけれど、頼まれなくても。
「わたし、ほんとうの人殺しは絶対に絶対に絶対にゆるさないんだから」
「はあ。当然……ていえば当然……なような、でも先輩としては意外なような……」
「だって殺したら死んじゃうのよ? 痛いだろうし苦しいだろうし生きていてやりたいこともたくさんあるだろうし、まわりの人も哀しむだろうし」
こんな部活をつくって後輩を連れ込んで毎日放課後に殺人談義をしている人間が、なんでそんな普通な道徳観を持っているんだろう……。
「だからわたしはミステリ読んで我慢してるの! 現実の事件録とかは読まないの、腹が立つから! わたしがフィクションで我慢しているのにあいつら犯人は衝動のままに実際に殺すなんて、うぅ、ゆるせない!」
あ、よかった、わりとまともじゃない理由も出てきた。
「じゃあひょっとして、もし相手が殺人者だったら、心置きなく殺しちゃったりとか」
ふと訊いてみた。
「そうね、それならわたしも罪悪感なしに――って、だめっ! なに言わせるの!」
先輩が僕にぽかぽか殴りかかってきたので、僕はソファの隅で丸くなって笑った。ほんとにこの人はいじり甲斐がありすぎて困る。
「でも、先輩ですらそんな倫理っぽい考え方を持ってるってのは考えてみれば不思議ですね。どうして人を殺しちゃいけないんでしょうね。というか、人を殺すのってほんとにいけないことなんでしょうか」
先輩ならなにか面白い見解を披露してくれるのでは、と期待して訊ねた。返ってきた答えは僕の想像をはるかに超えるものだった。
「どうして人を殺してはいけないか? ほんとうに人を殺してはいけないのか? ふむ。よく議論になる問題よね。わたしも昔からそういうことばかり考えたり、周囲の人に疑問をふっかけたりしていたわ。小宮くんも同じだったのね、嬉しい」
僕も嬉しい。またも顔がゆるみきってしまう。
「そうなんですけど、だれに訊いてもちゃんと納得できる答えが返ってこなくて。そんな疑問は中学生までに卒業しとけ、とか言われたり」
「そうね。そんなことを言うくせに答えは言わない。なぜって答えがわからないのをごまかしているだけだもの」
やっぱりそうなんだよな。先輩にきっぱり言ってもらえて安心する。
「どうして答えが出てこないのかというと、これは設問が間違っているからなの」
僕は目をしばたたいた。
「ほんとうに人を殺してはいけないのか――これは要するに『人を殺してはいけない』という命題が真か偽かを問うているわけよね」
「はあ」
なんか難しい話を始めたぞ? 紫衣子先輩としてはいつものことだけど。
「命題というのはなにかを述定した言明、つまり平叙文でなくてはいけない。『AはBである』とか『AはBをした』という形の文章のことね。なぜなら、平叙文じゃないと真偽を問えないから。平叙文じゃない文章には命令文、感動文、疑問文があるけれど、これらは真か偽かという性質がない。たとえば『毎日部活に来なさい』という命令文には真も偽もないわよね? それから『ああ、毎日だなんてうれしい!』という感動文にも真偽はないわよね? そして『何時に来ればいいんですか?』という疑問文にも真偽はない。ここまではわかった?」
「……なんとか」
「ところで、『人を殺してはいけない』という文章は、一見『AはB』という形式の平叙文に読めるけれど、その実は『人を殺すな』という命令文なの」
僕は目を見張った。
「『人を殺すのはいけないことである』なんて平叙文そっくりの形にしてみたところで、本質が命令文であることにかわりはないわ。そこさえ理解していれば、小宮くんの疑問はすべて簡単に氷解するでしょう。ほんとうに人を殺してはいけないのか――答えは、『命令文に対して真偽を問うことがナンセンス』。人を殺してはいけないのはどうしてか――答えは、『命令文なのだから命令した者に訊いてみなければわからない』。理由はひとつだけじゃないかもしれない。命令者ごとにちがうかもしれない。とにかく、命令者を想定しなければ答えられない」
天井を見上げ、長く長く息を吐いた。視線を下ろすと、先輩はソファの背もたれにしどけなく頭をのせて僕をじっと見つめてきている。口元だけがかすかに笑っている。どうやら気持ちよくなれる僕の言葉を期待しているようだった。
「今まで聞いた中ではいちばん納得できました」と僕は答えた。「だてに殺人研究家を名乗ってないですね」
「ふふ」
紫衣子先輩の得意満面ぶりは身がよじれそうなほどキュートだった。ほめればほめるほどこんな表情を見せてくれるなら毎日二十回くらいほめまくっちゃおうか、とまで思う。
「小宮くんもこれくらいの考察をさらっとできるように殺人に詳しくなってね」
「努力します……」
「あっ、今のこうさつは考えて察する方で絞め殺す方じゃないからね!」
そんなん言われなくてもわかりますって。どんだけ頭が殺人漬けなんだ。
「まずは色んな殺人を勉強すること。って言っても実際にあった事件はだめよ、わたしと話が合わなくなっちゃうから。とにかくミステリをたくさん読むの!」
先輩は部屋をぐるりと取り囲む書架を広げた両手で示す。ぎっしり並んだ背表紙は、ハードカバーよりも文庫本とノベルスがはるかに多い。すべて推理小説だからだ。
「……これ、先輩は全部読んでるんですか」
「もちろん! でも、だからっておすすめを訊かれても答えられないわよ、おすすめのものしか置いてないんだから」
あらためて書架を見回し、ため息をつく。授業を全サボりして留年でもしなきゃ読み切れそうにない。
「あと、念のため訊いときますけど」
僕はおそるおそる言った。
「ミステリって殺人事件じゃないやつもありますよね。そういうのは」
「一冊も置いてないわ」
先輩は眉をつり上げた。
「まさか小宮くん、殺人の起きないミステリを読みたいのっ?」
「え、はあ、いや、まあ、たまにはそういうのも……だって殺伐としたのばっかりじゃ疲れちゃうし……」
「絶対に絶対に絶対にゆるさないから!」
紫衣子先輩はソファのアームレストをばんばんと平手で何度も叩いた。
「日常の謎とか、人が死なない優しいミステリとか、もう絶対に認めない! ミステリを書く能力と時間があるくせにそれを殺人事件以外に使うなんて人類全体の損失よ!」
「日常系ミステリ、だめですか。僕、少年向けのも読みたいんですけど……それこそ学校が舞台だったら殺人なんてそうそう起きないだろうし……」
「起きない、じゃなくて起こすの! 起こすべきなの!」
「生徒会のメンバーが生徒から持ち込まれた些細なトラブルを解決する、みたいなシリーズがあるらしいんですけど、どうですかね……」
「だめ、論外! 些細じゃないトラブル、人の生き死にに関わるような大トラブル、つまりは殺人! とにかく殺人よ!」
僕はもう苦笑いするしかなかった。
「わかりました。じゃあ今日も読書タイムということで、勉強に励みます」
「いい心がけね。わたしも小宮くんと一緒に読んで、ついでにその場面にふさわしい効果音や解説などを入れるわ」
ええええ……読書はひとりでさせてほしい……。先輩が真後ろからページをのぞきこんできて吐息がうなじにあたったり先輩の髪のにおいがかすかに漂ってきたりとかはとても心躍りますが読書どころではなくなってしまいます。
でも先輩はやる気満々だ。
「今日はなににする? 小宮くんもそろそろコリン・デクスターに手を出してみるといいと思うの、おすすめはやっぱり『ウッドストック行最終バス』かな」
さっきおすすめを訊かれても答えられないとか言ってなかったっけ? まあ、読書家ってのは絶対に他人に本をすすめたがるものだからな。
部屋の隅のキチネットに行ってやかんを火にかけ、ハーブティをポットにたっぷり淹れる。カモミールとレモングラスの香りがあふれ、古い本のページのにおいと入り混じり、僕はふうと息をつく。今日も読書日和だ。