不幸な少年リクは人生を嘆いた
『リク』という人間は、産まれたようで存在しないものでしかなかった。物心がついたときから、スラム街でたださまよって。
スラムは過酷な場所だ。弱い人間はすぐに餌食になる。
けれど幸運な事に、リクは六歳までスラムで生き抜く事が出来た。けれど、それは彼も忘れた六歳の誕生日の日。
薄汚れた身なりで小さなリンゴをかじっていると、何人かの男に囲まれてしまった。
「よう……少年……」
「……」
リクはその瞬間にあきらめた。
リクがこれまで生き抜いてこれたのは、気配を消すのと逃げ足が人よりちょっと速いから。こうして囲まれてしまった以上、六歳児が逃げられないことなど明白。
プライドも、感情も、なにもないリクにとって、生きることへさほど執着もない。
目を閉じた。
頭には何も流れてこない。それに値する記憶など、リクにはなかったから。
「うあぁ゛っ!?」
「何だてめっ、ぇ!?」
「ギャッ!?」
「ぐぉぇあっ!!」
しかし、リクに届いたのは、何かを殴り飛ばしたり剣を振る音、血なまぐさい匂い等々。なのに痛みは襲ってこないし、何なら指一本触れられた感覚もない。
だから、リクは目を開けてみた。
するとそこには、黒髪の目に光がない女性が、返り血を浴びてたたずんでいるではないか。
「……!!」
「……こちらに、来なさい」
――それから、怒涛の勢いで日々が流れていった。
行く当てのないリクが女の提案を断れるはずもなく、女に連れて行かれるがまま、それに従って様々な事をやった。
血反吐を吐くような訓練が毎日続いたし、与えられる仕事をこなすため必死で追いついていくしかない日々。
けれど感情も何もかも持っていないリクは、不満を持つことすらなかった。
だが。
それは、街に連れていかれたとき。
『やーだー、やだやだっ! お菓子欲しいの! ぜったいほしぃーの!』
別に珍しくもない、菓子をねだる幼子。その母と見られる人物は苦笑してから、それでも幼子に菓子を買ってやった。
なんてことない日常の光景。しかしそれは、リクに刻まれた。
拒絶。欲望。そしてそれを叶えること。リクには――分からない事。
その夜、リクは脱走した。
暗い暗い地下室から、鍛え上げさせられた技術をもってして、今まで生きてきた十年間で一番の全力を使って。
そうして、何の運命か、いつの間にかグレイズが頭を務める『フィオナ』の基地に迷い込んだのだった。
〇
それから五年、リクはグレイズに鍛えられながら、『フィオナ』の中堅レベルまで上り詰めた。
リクの十年間は――まだまだ、精鋭には及ばないのだ。
けれど優しいグレイズのおかげで感情を学び、本当の『技』を知って。一年前にフィオナのサポーター的存在になった、『ティアーナ』の慈悲に触れ感情の使い分けを刻んで。
本当に本当に楽しい時間は五年間続いて――リクが十五歳の時、十二歳の少年『フレード』が入団した。
「あっ、リク先輩! こんにちはです!!」
「うん、こんにちは、フレードくん」
最初。リクはフレードの教育係に任命された。歳が近くて入団時期が先輩だから、だ。
はじめは暗い顔をしていた彼も、キラキラとした太陽のような笑みを取り戻し、毎日挨拶をしてくれてリクはなんだかうれしさを覚えていた。
そして、一年が経つ。
「おはようございますリク先輩! 今日は何を教えてくれるんですか!?」
「……おめでとう、フレード。きみは研修生卒業だよ。もう、僕から教えられることはない」
二年が経った。
「リク先輩リク先輩! 聞いてください! ぼく今日はグレイズさんの任務についていけることになったんです! これも全部リク先輩のおかげです!」
「……そっか、おめでとう。グレイズさんが任務に連れてくってことは、精鋭の卵だと重用されてるってこと。しっかりやってきなよ」
「はいっ!!」
「……ははっ」
三年が経った。『聖女』ティアーナが――、死んだ。
『この場で隠密系スキルを持っていて計画を実行するのは僕、システィナさん、グレイズさん、レイさん、そしてフレードくん』
『あはっ、やったあ! ぼくもやっとみんなの役に立てるんだね!』
「リク先輩! ぼくやっと――」
「そっか良かったね」
「あっ、リク先輩!? どこ行くんですか!? わっ」
「やっと精鋭になれたんでしょ。こんな底辺の僕にかまうなよ」
十五歳のフレード。十八歳のリク。
セーヴやグレイズに重用される後輩。誰からも重視されない先輩。……もうしばらく、グレイズと話してすらいない。
ティアーナが死んでから、精鋭の人達はずっと忙しなく動いていたから。
あんなに頑張ってきたのに。血反吐を吐くような努力を、ずっとずっと続けていたのに。あんなのんきな顔をした年下に、楽々と超えられてしまうなんて。
信じられなかった。信じたくなかった。
「クソッ!!」
夜、転移陣を使ってひっそりと街に出たリクは、路地裏の壁をガンッ、と拳で叩いた。
自分が嫉妬を燃やし続けて病むのはまだ良い。だけれど、後輩であるフレードにあたってしまうなんて。自分は馬鹿だ。
うじうじしてはいられない。だって、今が大事な時なのだ。
帰ったら、きちんと謝らねばならない。
「そうだ……帰ろう……僕は……」
「――帰る、ですか?」
ふらり、と路地裏から出ようとしたとき。あまりにも覚えのありすぎる女の声が響いて、リクは瞳を見開いてバッと振り返った。
黒髪を肩より少し長めに伸ばした、光のない瞳をした女。
紛れもなくあの日、自分をスラム街から拾って激しい訓練をさせてきた、あの女の声と姿。
追いつかれた――
「な、んで……!」
しみついた過酷な訓練の四年間は、リクの身に怯えを刻んだ。本当は『なんでここにいるんだ!』と叫ぶつもりだった。
でも、無理で。女を目の前にしたとたん、足がすくんで動けなくて。
なんて、みっともない。
「……なぜ、ここにいるのか、と……そう問いたいのですか……?」
ずっとずっと聞いてきた、感情のない無機質な声。リクは小さくうなずいた。怖い。恐い。こわい。目の前の女が、コワイ。
「……連れ戻すためでは、ありません……。ほんとうは、殺しても良いのですけれど……だけど、あなたには利用価値があります……」
「りよ、う、かち……?」
「そうです……私の、いえ、帝国のスパイとなるのです……。『慈善盗賊軍』を完全に潰すため……一足先にあなたが潜入できた、ということにしてあげましょう……あなたも、無駄に命を散らしたくないでしょう……?」
「す、スパイ!? そんな、そんなことできない……」
「おかしいですね、あなたは元より汚れ仕事で生きる身。何故口答えを学んだのでしょう……ま、良いです。……見返したくないんですか……? あなたの後輩は、あなたよりずっとずっとずっと優秀……それを、ひっくり返したくないんですか……?」
「っ」
このタイミングで、それを。
女の光のない目が、より一層リクを深淵に落とす。様々な物に支配されるリクは気付かない。女の持つ『何か』がリクの中へ吸収されていくのを。
リクが口答えを学んでも『ま、良い』とスルーした理由。
何度でも――従わせることなど、簡単だからだ。
ゆっくりと、しかし確実に昏く汚い感情に支配されていくリク。その目から光が消えて、そしてまた光が宿る。その全ては、作り出された虚偽だ。
「……さあ、帝国の手足になりなさい。……それと、私のことはくれぐれも口外せぬよう……。足掻きなさい、醜く、汚く、みっともなく生にしがみつき――最後の最期まで、報われることなくこの世を去るのです……ふふふ……」
女は、消えた。
その先の記憶は一切ない。気が付けば戦場でわざと怪我をして、その隙に先の計画を通信で送った後だった。
もう手遅れなんだなあと分かる。一生、自分が救われることはないのだと。
けれど、リク自身が愚かだったことも事実。
そして、フレードがどこまでも純粋でどこまでも優しかったことも。
そんなフレードが自分のために泣いてくれたのだから――悔いはない。
そして皮肉だけれども、言ってやりたいのだ、あの女に。
『僕は報われたんだ』、と。
不幸な少年は人生を嘆いて――
幸運になれた少年はようやく流れた走馬灯の中、薄れる意識に身を任せていった。




