少年セーヴの追憶―④
その翌日、僕は窓の外をきょろきょろと見回して、いつも通り窓から飛び降りた。六歳にして強化魔術を高練度で習得しているので、この高さは全く問題ない。
いつも通りだから大丈夫だと、そう思った。
心が躍り過ぎたか、はたまた実力が及ばなかったのか、僕は気づけなかった。
僕が部屋を飛び降りた直後、父が扉を開けて入って来たことに。
〇
いつも通り人に出会わぬよう用心しながら森へ向かう。そして森についたはいいものの、さすがに会えないかな、と今更ながら思った。
災害級に強い彼女の事だ。きっと昨日のうちに任務は全て終わらせたのだろう。
非公式な災害発令なのだから、誰かが被害に遭わぬうちに終わらせる必要があるわけだし。それにしても公爵家も皇家も最悪である。
七歳の小さな女の子、しかも公爵令嬢にこんな仕事をさせるなんて。
(分かっていた事だけども……)
実際目にするのと、他人の記憶をなぞったのは違う。
あんなに悲しそうで、怯えていて、儚くて、それでいて凛として強い少女が健気に頑張るのを見たら、きっと誰だって怒りが沸々と湧き上がってくるはずだ。
それでも沸々と湧き上がる『何か』が僕にはないので、やはり僕はおかしいのだろうが……。
昨日彼女と出会ったところまで来ても、やはり彼女の姿は見えなかった。
そうだよな、と納得しつつも、心のどこかで残念に思っていた。しかし、ここに来た目的は何も公爵令嬢に会う事だけではない。
魔術の練度を上げる事だ。そう思い、僕は心を落ち着けて魔力を活性化させる。
魔力を、今度はできるだけ速く手のひらに集わせて――
「――あら、セーヴさん」
全部霧散した。
背後から聞こえた鈴を鳴らしたかのような儚い、しかし凛とした声。ばっ、と振り返ると、案の定そこには長い銀髪を美しく揺らす少女、ティアーナ公爵令嬢がいた。
ほのかに蒼い瞳に闘志と高貴さの輝きを秘めた彼女は、僕を見て微笑んだ。
「素晴らしい魔力練度ですわ。相当訓練をなさったのですね」
はにかんだ彼女の笑みには、やはり華を散らすかのような儚さがあった。
「……はい。ところで、ティアーナ様は何故ここに?」
「なんとなく、です。魔物のそうめつをしに来たのですが……ここに来れば、その、貴方に会える気がしまして」
「ぇっ!?」
頬を染め、ちょっと顔を逸らされながら語られた言葉は、心に刺さった。でも不快感なんて欠片もない。鼓動の速さに心臓が破裂しないかと思うくらいだ。
でもそれは不快じゃない。たぶん……嬉しいのだ、僕は。
驚きに二の句が継げない僕を見て、公爵令嬢はどうとったのか慌てて両手を振った。
「違うのです、特別な意味はございませんわ。ただ、貴方とは仲良くなれる気がしたのです」
「な、なるほど。僕も……そう思います」
特別な意味はない、その言葉で傷つくほど、さすがにまだ成長はしていなかった。
むしろ仲良くなれるかもという言葉にちょっと喜んで、ぺこりと頭を下げた。
僕が視た彼女の記憶の中で、彼女の味方は姉のシスティナ以外にいなかったはずだ。正真正銘仲の良かった人間だって、姉以外にいなかった。
けれど――なりたい。僕も、彼女の正真正銘の仲間に、味方に、仲の良い人間に。
「それと、わたくしのことはティアーナと、呼び捨ててください」
「え? でも、公爵令嬢……」
「……!? わたくしの事をご存じなのですか?」
「えぇ。これでもそれなりには学んでいますから。僕のことは知っていますか?」
「はい。グレイスタール侯爵家が二子、セーヴ・グレイスタール侯爵令息ですね?」
ティアーナ公爵令嬢が僕の名を知っている事は、真面目に驚きだった。確かに僕には才能があるが、それはティアーナ公爵令嬢には欠片も及ばない。
社交界で話題に出るにしても、公爵令嬢はまだ七歳。社交界デビューすら果たしていないというのに。
それが、ちょっと強いだけの侯爵令息、しかも第二子の名を覚えていたなんて。確かにティアーナ公爵令嬢がどれだけ必死に勉強していたのか、僕は知っているのだけれども。
でもそんな僕などより、ティアーナ公爵令嬢の方が驚きの表情を浮かべていた。
「どうされました?」
「あの、わたくしが公爵令嬢のティアーナだと知って……普通に接してくださる方なんて……初めてでっ……」
初めて、彼女の凛とした強い声が崩れた。くしゃっと少し表情が歪んで。今にも泣きそうなほど瞳を潤わせて、それでも彼女は涙を流さない。
辛かったのだ、と思う。
生まれたその時から、兵器としての生涯が確定したのだから。
家族の中でも姉以外からは人間としても扱われず、周囲からは恐れ嫌われ不自由な生活を強いられる。どこにも居場所がないと、彼女は七歳にして悟っていたのだろう。
どんなに高貴で凛とした人間でも――自分の溢れる感情には、勝てないのだ。たぶん。
僕は今日、それを学んだ気がする。
凄く、何としてでもどうにかしたい。そんな感覚を覚えた。処刑されるまで一度も涙を見せなかった彼女が、こんなにも――。
「っ、大丈夫、です! 僕は、絶対に裏切ったりしませんから」
だから思わず、一歩踏み出してそんな事を言った。言った後に、ああ、出会って二日も経ってないのに何を言っちゃったんだ、と後悔する。
けれど言われた方のティアーナ公爵令嬢は、ふにゃり、と微笑んだ。
「ありがとうございます」という優しい声は、たぶん僕が人生で言われたどの「ありがとう」よりも嬉しかった。
やっぱり、溢れる感情に勝つなんて、人間には到底できないのだ。
「ところで、ティアーナと、呼んでくださったりしませんか……?」
未だ潤う瞳で、ティアーナ公爵令嬢は首を傾げた。
うっ、と仰け反りそうになるのを抑える。僕の方が身長が高いので、必然的にティアーナ公爵令嬢が上目遣いになるのだ。
「あっ、えーと……なら、僕のことも、セーヴと呼んでくださいます、か?」
「はい、セーヴさ……あ」
「ティアーナ様――っと……僕も、抜けきらないようですね」
ティアーナ公爵令嬢は思わず敬称を入れてしまい、慌てて口を押さえる。僕もくすりと笑って名を呼んだが――どうにも敬称が抜けなかった。
思わず笑えて来てしまって肩を震わすと、対面のティアーナ公爵令嬢もくすくすと、上品に袖で口を押さえながら笑っていた。
それを見て、僕もまた笑えてくる。軽やかな二人の笑い声が、辺りに木霊した。
「それにしても、先程の魔力練度は素晴らしいものでした。独学でしょうか?」
「はい、一応。でも姉や兄もすごいですし、今はかてーきょーしもいますから、完全に独学とは言えないのですが」
「なるほど、それでもすごいですわ。だって、わたくしと同じお歳でしょう?」
「はい。でも、ティアーナ公爵令嬢の方が全然お強いでしょう?」
「わたくしは……いえ。……その、良ければ、一緒に訓練をいたしませんか? 与えられた任務は、既に終わらせておりますから」
ティアーナ公爵令嬢は少し言いよどんで、話題を変えた。何を言い淀んだのか、何となくわかった気がした。
自分は常識の範囲外だから。ただの化け物に過ぎないから――
彼女がよく、姉のシスティナに口にしていた言葉だった。
何となく、慰めなど余計だと思った。彼女に必要なのは言葉の慰めではなく、行動だと思った。空気を読むなんて、出来るとは思わなかったけれど。
「はい、もちろんです」
でも、それでもきっとこれが最善策なのだと、何となく読み解けた。
〇
「なるほど、森の方向に」
「ああ。あえて気付かないふりをするべきだろうか?」
執務室にて、侯爵家当主とその妻が向かい合って話をしていた。もちろん話の内容は、窓から飛び降りていった息子のことである。
実力では信頼している。最深部に行かない限り必ず無事に帰ってくるだろう。
そして自身の息子が、己の能力を過信して森の最深部に突っ込む人間ではないことも知っている。なにより、彼は恐らく力を磨きに行っているのだ。
彼は隠そうとしているのかもしれないが、日々魔力練度が授業だけでは考えられないスピードで上がっている。
「ルーシュ。彼ならば……この腐った世を正せるかもしれない」
「……」
「託そう」
「……ああ、そうだな、エンバース。託そうじゃないか。彼に、可能性を」
「世間は、わたし達を批判するのかもしれない」
当主――ルーシュは、黙った。妻のエンバースがどのような言葉を継ぐのか、察したからである。
例え誰に批判されようとも、これは誰よりも深い信頼。
自分の息子ならば大丈夫だという信頼だ。
何より――原初帝国派であるグレイスタール侯爵家にとって、世を変えられるかもしれない光の存在はとても重要だった。
もとの義理に厚く、結束力が高く、誰もが笑顔を煌めかせていた旧帝国時代の光。
「しかしやはり不安は不安だな……」
「そうだわ、ルーシュ。こんなものはどう?」
妻エンバースは、くいっと口角を上げてルーシュの耳に小さく言葉をささやいた。ルーシュの目が徐々に見開かれる。
そしてエンバースの言葉が終わり、彼女がぱちんとウィンクをすると。
ルーシュは慣れなさそうに頬をわずかに赤らめながらウィンクを返して、頷いた。
ティアーナさんの裏設定(?)を本日10/14の活動報告にて記させていただきました




