令嬢システィナの旅路②
馬車に乗ってから五日。日程通りならあと二日でルル村まで辿り着くはずだ。でも、私の精神はほとんど限界に近かった。
毎日のように向けられる悪意ある視線は勿論の事、風呂に入れない不潔な状態も私の精神を蝕んでいる。
こんな生活は初めてだ。馬車を待っている間に買っておいた保存食をぽりぽりとかじる。そうすることでしか、精神を正常に保てなかった。
五日目の昼間、皆がひどく疲れた様子でいる中、それは唐突に訪れた。
『グォオオオオオ!!』
大きな咆哮を上げながら飛び出してきたのは、成人男性ほどの身長がある熊だった。
御者は慌てて馬車を止めて、一目散に馬車の中に逃げ込んできた。馬も驚いて固まっている。一同が騒がしくなる。馬車から逃げ出そうとしている者もいる。
馬車は何度か停車していてほとんどが下車し、もう五人ほどしかいないが、だからこそ誰かが見逃されるとは考えにくい。
私は自分が死にたくないというのもあったし、ここで彼らを見捨てれば、やっていることはあの日の民衆と同じだ。
自分のために他人の死を見捨てた、大衆と同じにはなりたくない。
例え復讐だって同じように批判されることであろうとも。
限界で悲鳴を上げる自身の体に鞭を打って、私は立ち上がった。
「誰か何でもいいので、刃物を持っている方はいらっしゃいますか!?」
「く、果物ナイフしかないけれど……」
「それで大丈夫です! 貸していただくことはできますでしょうか!」
「もちろんだよ」
手を上げて答えてくれたのはあのお婆さんだった。お婆さんは不安げな顔で手を震わせながらも私に果物ナイフを渡してくれた。
その目が語っている。私を信頼している、と。
私が馬車から降りて熊と向かい合うと、さすがに馬車の中で舌打ちして来た者達も焦り出す。
「戦うのか!?」
「無謀だ!」
「あんたのような貴族が戦えるってのか!?」
声をかけてくれた彼らに、微笑みながらそっと振り返る。
「見ていてくださる?」
無詠唱での『隠密』発動。何度も何十度も何百度だって使った隠密魔術。無詠唱だろうと精度はあまり変わらない。
いきなり姿を消した私に熊は戸惑う。その隙を狙って、私はジャンプし果物ナイフを熊の首に当てた。
確かに少女の力で首を斬り落とすことは無理だったが、熊は血を噴いて地面に倒れ込み絶命した。貴族令嬢としては血を見たくないところだが、あいにくこういった害獣を倒したことがないわけでもない。
隠密スキルを消して「ふぅぅ」と大きく息を吐いた私に、拍手が送られた。
「すっっっっっっげー!! すげえすげえ!」
「何か消えて、消えたって思ったら熊が血噴いてて!」
「姿見えたっ! って思ったら熊倒れて死んだ!?」
「まさかこんなに強かったとはねぇ……」
「えっ、あっ、皆さん、その、ありがとうございますわ……?」
今まで悪態ばかりついていた彼らは、しきりに私の事を凄いと褒めてくれた。馬車の中に座るお婆さんも、微笑みながら私を見ている。
――それからの二日間は、歓迎されながら過ごした。正直を言うと楽しかった。
やがて、ルル村が見えてきた。皆が馬車を降りるための準備をする。そこで、私の右隣に座っていた青年が声をかけてきた。
「あ、あの、ルル村の住民では、ないよな? じゃくて……ない、ですよな? あれ?」
「ふふっ。えぇ、確かに私はルル村の住民ではないわ。でも、ルル村に一番近い森でしなければならないことがあるの」
「もしかして、さっきみたいな魔獣退治か!?」
「確かに、それも含まれていますわね」
「良かった。これで俺たちの村も安定だな!」
「な!」
敬語が分からなくなった青年が微笑ましくてくすりと笑い、嘘をつく。ここでマグンナに行くなどと言ったら、後々面倒な事になるからだ。
魔獣退治をするつもりもないし、村を安定させるどころか滅ぼす事になるだろう。
彼らがもし私を二度見ることになったとして。
二度目は、敵として会う事になる。
やがて馬車はルル村の前で止まり、私は彼らに今までのお礼を言った。彼らは快い笑顔を見せてくれた。
「いいさ、いいさ! 良かったら村に遊びに来てくれよ!」
「村の料理、すっげー美味しいんだ!」
「本当ですか? それじゃあ、機会があれば遊びに行きますね」
「歓迎するぞ!」
私はそんな彼らの優しい言葉に、ほんの少しためらった。こんなに優しい人達を、私は殺しに行かないといけないのか。
一瞬踵を返そうとしたが、もう一度彼らに振り返る。
「皆さん、ティアーナ元公爵令嬢の処刑についてどう思われますか?」
「ティアーナ?」
「あぁ、あの大悪女か!」
「ありゃ自業自得だろ」
「戦争を起こすなんて最低最悪にも程があるねえ」
「勝ったからよかったものの、負けてたらあの女はこの国最悪の罪人だな!」
「いやいや、罪状を全部積み重ねたら本当にそんくらいじゃね?」
「――って、あれ、何でそんなこと聞くの?」
前言撤回。私は殺せる。この人たちを殺せる。
「いえ、私も貴族ですから、平民の方々がどう思っていらっしゃるのか気になって」
適当な理由だった。それから彼らとの会話を二言三言で終わらせて、彼らの背中が消えるまで見送った。
マグンナへ向かうのを見られたら困るからである。
彼らの背中が消えると、私はすぐに駆け出した。ルル村は標高が高いので、マグンナが大体どこにあるか見える。
この道をずっと進んでいけば恐らく着くはずだ。
ルル村の人々に未練はない。執着もない。好意もない。もう、何もない。
こんな私は、客観的に見ると冷たい人間なのだろうか。
〇
ただただ走り続けて、ようやく高めの建物が目に飛び込んできた。マグンナは全焼したと聞いていたが、復興がこれほどまで早いとは思わなかった。
その建物を目印に走っていると、『フィオナ』のテントが視界に入った。
やった、と思ってはた、と気づく。
息を吸う度吐くたび血の味がする。脇腹も痛いし肺も苦しい。足も鉛があるかのように重い。体力も筋力もとっくに限界だったのだろう。
(大丈夫、あと少しよシスティナ! 貴方ならできるわ!)
私は自分に声援を送って、必死に駆けた。
やがて、人の姿が見えてくる。一番前に居るのは――セーヴさんだ。
「や、った!」
ここへ来るまでの日々を思うと、ちょっと涙が出てくる。この程度平民にとっては屁でもないのだろうが、私からするともう限界だ。
私を出迎えてくれたのは、一番最後に見たのとあまり変わっていないセーヴさんだった。
――それが、今に至るまでの道のりである。
システィナさん視点これにて終了です!
次回は現在視点に戻りますが、システィナさんにまた試練が……?