令嬢システィナの旅路①
決意を決めてから、私は帝国の地図を広げた。辺境地マグンナはそれなりの大きさがあるので、地図の端にその名が書かれている。
皇帝陛下から一目置かれている伯爵が治めているだけあって、ここからそれほど距離は遠くない。
旅費的にはきっと足りる。私は昔からお金の使い方が良く分からなかったので、貯めに貯めて今では私財と呼べるほど大きな金額を持っていた。
けれど、ひとつ難点がある。
「辺境地マグンナへの馬車は、最近封じられたわね……」
それは、辺境地マグンナに下手に平民が侵入しないよう、馬車がその付近に近づくことを禁止する令だった。
つい一昨日皇帝陛下が発表された令ではあるが、適用は瞬時だった。
近づいたらすぐに殺されそうな場所に、好き好んで近づこうとする者はほとんどいないだろうし。
すでにマグンナ直通の馬車はない。私は全ての地図が置かれている棚の中から、辺境地マグンナ周辺の拡大地図を探し出した。
「あったわ」
それを机の上に広げて、とりあえずマグンナという地名を大きくマルで囲む。次に、私はマグンナに最も近い村が何処にあるか確認した。
一番近い村で馬車が通る限界は、ルル村と呼ばれるとても小さな住居の集合地。拡大地図でも米粒より少し大きめに描かれている程度だ。
だがその距離が私の救いだ。ルル村からマグンナまでの距離は一キロメートルもない。
体力にはわりと自信がある方だ。方向も太陽できちんと読み取れる。マグンナに辿り着く事は不可能ではないだろう。
「動くとしたら、今……」
時間が経ったらもっと規制が厳しくなるかもしれない。今しかない。たった今思い至った計画なのだから誰にも知られてはいない。
日が経てば、いずれ脱出計画を練っていることが誰かに知られてしまう可能性が出る。
今なら、公爵家でもすぐに反応はできない。マグンナに辿り着く前に殺される、なんてことはきっとないはずだ。
「よし」
すぐに動かなくては。私がティアーナを守れなかったという罪が先にあるのだし。
ありったけのお金を集めて、布で包んでポーチに入れた。手頃な布を引っ張り出して、頭に巻いた。
こうすれば、公爵家の娘だと気付かれる確率は下がる。
私は兄弟達のように活躍してはいない。顔を知っている人すら少ないのだから、こうして隠してしまえばもっと見つからない。
「さて――」
ここからする事は、私にしかできない事だ。多種多様な人間がいる公爵家の中で、私にしか使えない唯一の能力。
「――隠密――」
ふ、と窓に映る私の姿が消えた。これで、私の姿は誰にも見えない。私が持つ、唯一のスキルである。
あまり才能もなく何をやってもまあまあにしかできない私のできる、たった一つの証明。
ベッドのシーツをハサミでビリビリにしては結んで、太い紐にする。少し足りないなと思ったので、掛け布団も同じように切り裂いて結んだ。
その紐を窓の鍵にかけて、窓から紐を降ろす。時間はもう夜だ。加えて隠密スキルも使っている。見つかりはしない。
感謝するべきは、私の部屋が隅に追いやられていること。ようは公爵家の裏側。
窓から降りた先は、護衛のいない裏庭。壁を乗り越えさえすれば、私は脱出に成功する。
「やっ!」
長ったらしいドレスを膝のところからハサミで切り、窓を乗り越えて紐を掴みゆっくりと降りる。正直、怖い。
立場はなくとも一応は公爵家の次女で、普通の貴族よりも温室育ちだという自覚はある。勿論、このような野蛮な行動をしたこともない。
それでもティアーナはもっと怖かったのだと思うと、震える歯を噛み締めてでも必死に降りることができた。
そして、私の足は裏庭の地を踏んだ。
「――隠蔽――」
公爵家の裏庭の壁にかけられた防御魔術は、私の隠密系魔術よりもレベルが低い。
その理由は、私に隠密系魔術しか使えなかったから。その分、他人が多種多様な魔術を訓練している間、私はひたすら死ぬ気で隠密魔術を磨いてきたのだ。
大抵の人間は打ち破れるだろうこの防御魔術でも、私の隠密を超えることはない。
私は透明化して悠々と壁をすり抜けた。隠蔽は自身を本当に透明化させる隠密魔術のひとつだ。
(公爵家の令嬢として、あんまり相応しくはない魔術だけれど……)
自分でも思っているし、それは数多の人々に言われ続けたことでもあった。
でももう振り返らない。人々の評価は全て捨て去る。ティアーナを殺した人間達の評価をいくら聞いたって、もう怒りしか湧き上がらないのだから。
私は夜道を駆けた。ひたすら、馬車の停留所へ。
歩きは、次第に早歩きに。走りは、いつの間にか全力疾走に変わっていった。
「はあ、はあ……」
ここまで体力を使ったのは初めてだ。貴族のみが住むことを許される皇都を出て、首都圏に入りようやく馬車の停留所を見つけた。
停留所の受付には、虚ろな目をした女性が座っている。
(帝国の国民は……みんな、こんな状態になってでも働かなくてはいけない状態)
やはり、帝国は最低だ。
こんなことを聞いたら、帝国に忠誠心を誓う父は大層お怒りになるだろうが。
馬車の一覧表を見る。
ルル村への直行馬車を探す。次の便は――明日の朝五時。ルル村に着く予定時間は来週の今日、朝五時。
金額は銀貨一枚。帝国の物価がどんどん上昇しているのは知っていたが、まさかここまでとは思わなかった。
でも払うしかない。私の懐にはまだ、銀貨一枚では揺るがないほどの金額があるのだし。
少し話しかけにくいなと思いながらも、虚ろな目をした女性に話しかける。
「明日朝五時、ルル村への馬車のチケットを」
「分かりましたー……銀貨一枚ですー……」
「はい、どうぞ」
「ありがとーございますー……」
「っあの、大変そう、ですね。お疲れ、ですわよね?」
銀貨一枚を渡すと、女性は虚ろな瞳と良く合った力ない声で感謝とルル村へのチケットを手渡してくれた。
私はおせっかいとは思いながらも、そう声をかけずにはいられなかった。
女性は、はは、と虚しい笑い声を喉から絞り出した。
「お客さんは、身なりがいいんで多分貴族か金持ちのどっちかですよねー……。やっぱり、そーいう人たちには分かんないんですよー……。大変でも、疲れてても、やるしかない……そんな状況を創り出したのは、誰なんだって話ですよー……」
「そ、うですわね……。勝手な事を、失礼いたしました」
「いいえー、子どもに罪はありませんしねー……」
気まずくなって、私はその場を離れた。腕に付けた懐中時計に目を落とす。時刻は午前一時。五時まで待てる。
そう思って、私は近くに設置されたベンチに座って考え込んだ。
(でも、こんな人たちも、ティアーナの処刑には賛成した)
村の民や辺境地は分からないが、少なくとも首都に住む民はほとんど全員がティアーナの処刑に賛成していたはずだ。
彼らが苦しいのは分かったし、もしかしたらイライラの発散のための賛成かもしれない。
でも――知れ。貴方達が散らしたのは、ひとつの未来ある天才の命だ。
私は考えて、考えて、考えた。
〇
――そして迎えた五時は、気持ちのいいものではなかった。
それでも馬車が私の気持ちが変わるのを待ってくれたりはしないので、憂鬱な気持ちのままでチケットを御者に渡し適当な席に乗り込んだ。
ドレスは破れているが、一目で高位貴族だと分かる私に向けられる目線は良くなかった。
時には舌打ちだって聞こえた。それでも、耐えた。
彼らが貴族を良く思わないほど生活が苦しい事は、つい先ほど知ったばかりだから。
ある日、隣に座っていたお婆さんがそっと私に声をかけてくれた。
「大丈夫かい、お嬢さん? 貴方も色んな訳があるんだろう? 彼らの目線を気にしてはならんよ」
「お、おばあさん……」
「髪の毛が乱れているじゃあないか。ほれ、しがない老婆ではあるが、元は髪の毛を整える仕事をしていたの、来てみい」
彼女は乱れに乱れた私の髪を整えてくれた。布を脱ぐことはできないため、あくまで見えている部分の髪の毛だけだが。
ずっと悪意だけに当てられた私にとって、お婆さんの優しさはとても胸にしみた。
「おやまあ、綺麗な銀髪だねえ。不思議な髪の毛をしておる、綺麗だ、綺麗だ」
「あっ、有難うございます!」
髪の毛を褒められたのは初めてだ。私は銀髪の混じる自身の金髪をくるくると指に巻いた。ちょっとした照れ隠しだった。
でも同時に、こんな人もティアーナの処刑に賛成したんだと思うと。
どうしても複雑な気持ちになってしまって、それからまともにお婆さんの顔を見られなかった。
公爵令嬢システィナさんの苦難はまだここから……!でもあと一話でこの視点終わるつもりなんです^^;