卒業
私も高校二年生になっていた。
学校は隣町にある女子高だったから、通学には電車を使っている。
自宅から駅に向かう途中に、大きな一本桜がある。私の初恋を見守ってくれた古木だ。
また桜の季節がやって来た。一本桜も満開の花を付け、その花びらを風に舞わせていた。
私が一本桜の前に佇み、桜花を見上げていた時だった。遠い記憶を呼び覚ますような声が私の耳に飛び込んで来た。
「夏海、久しぶり。元気だったか?」
振り返った私の目に飛び込んで来たのは、優しそうな笑顔を浮かべた健太だった。
「健太……、久しぶり。私は元気だよ。健太は?」
「去年の秋にちょっとだけ入院していた」
「入院って、病気?」
「いや、バイクでこけた」
「えっ、事故? 大丈夫なの?」
「足をやっちゃったんだけれど、ほら、もう何ともない」
健太は軽くジャンプして見せた。
「気を付けなさいよ」
私はそう言って笑顔を返したが、私の心は中学生の時の記憶に押しつぶされそうだった。
「彼女は元気なの?」
押しつぶされそうな心が棘の鎧をまとっていた。健太は少しだけ悲しそうな表情を見せたが、すぐにおどけた表情を作る。
「振られた」
えっ! 聞いて無いよ! 悪い事言っちゃったかな?
「三ヶ月も持たなかったよ。やっぱり、俺ってダメだよなぁ。夏海に振られたからって、すぐに他の子に行く様じゃなぁ。行く末は決まっていたんだろうな」
えっ! 何言っているのよ! 振られたのは私の方じゃない! なんで私が振った事になっているの?
「私……、健太を振った憶え……、無いよ」
「だって、俺と逢っていたって、夏海、つまらなそうだったじゃないか。俺、嫌われたと思っていたんだぞ!」
「…………」
なに? 解らないよ……。つまらなそうにしていたのは健太の方だよね? 健太が彼女と居るのを見た夜、私、泣いたんだよ!
「夏海、俺……、やっぱり夏海の事が……好きだ。勝手な事を言っているのは判っているけれど……、もう一度付き合ってくれないか?」
私の頬を涙が伝った。
一本桜は、あの時の様に私たちを祝福してくれた。
健太は優しかった。中学生の頃より、ずっと優しかった。
あの頃と違って、いろいろな所へ行った。
電車に乗って、街まで行った。
映画を見てショッピングもした。
お洒落なカフェにも行った。
木枯らしが吹き、一本桜の葉もほとんどが地面に落ちていた。落ち葉を踏みながら、私と健太は唇を重ねた。健太とのファーストキスはこの一本桜の下でと決めていた。最後の一葉が微かに音をたてながら、私の耳を掠めた。
「今度こそ幸せになりなさい」そう言われた気がした。
昨日の雪が一本桜の枝にも積もっている。私と健太は一本桜の下で『愛』を語り、互いの温もりを感じながら唇を重ねた。一本桜の枝から融け落ちた雫が健太の首筋にあたった。
「つめたい!」
健太は恨めしそうに桜の枝を睨む。私は笑いながら巻いていたマフラーを外し、健太の首に巻きつける。
「桜が妬いているのかな?」
「妬きたければ妬かせておけば良いさ」
そう言って健太は私の唇を塞いだ。幸せな時が流れていた。
春がやって来た。一本桜は今年も美しい花を付けている。
町内会長がカメラを構えながら整列を促している。今年の高校卒業者は私たちを含めて五人だった。隣に並んだ健太と私は、周囲に気付かれないよう身体の後ろで手を握ったまま写真に納まった。
健太は来週、大学へ通うために都会へと旅立つ。私は隣町の会社に就職が決まっているから、暫くは遠距離恋愛になる。
健太は「毎日連絡するから。週末には帰って来るから」と言ってくれた。
その夜、私と健太は永遠の愛を誓って体を重ねた。
それから月日は流れ、毎日の連絡は三日に一回、週に一回、月に一回……。次第に遠のいて行く。週末の逢瀬も月に一回となり、数ヶ月に一回となり……。
今では恋人同士である事すら忘れてしまった。
私は家から駅までの通勤路を変えた。その日以来、一本桜の下には行っていない。




