6 御名 真(2)
ああ、伊織さんが泣いている。床にくずおれ両手をついて、声を殺してすすり泣いている。
私が、泣かせた。私のせいで泣かせてしまった!
だけど、だけど……。
──こっちだって、泣きたいよ!
どうも最初から話が噛み合ってるのか噛み合ってないのか、微妙な違和感がつきまとっていると思ったら、まさか男だと思われていたなんて。
ひどいよ、伊織さん。
「その、まあ、なんだ。なんつーか、かける言葉が見つからねえけど……」
元気出せよ、とでも言いかけたらしいカズさんが、やっぱり思い直したのか、そのまま口をつぐんだ。
私はやり場のない怒りをカズさんにぶつけることにした。
「そう言えば、カズさん! 今日のことは先に伊織さんと相談してたんでしょ? なんでその時に誤解を正してくれなかったんですかっ」
我ながらちょっと理不尽かなと思いつつも食ってかかると、カズさんも負けじと応戦してきた。
「まさか本当に誤解してるとは思わなかったんだよっ。野郎ども集めてハーレム作ってるって話はデマだって聞いたし、そもそも伊織さんは男でお前は女だぜ? なら普通に女としてのお前に惚れたのかと思うだろ!」
「でもこっちの世界とか堕落とか言ってたんでしょ!」
「そりゃお前にそう思われてるって前提の話だし、ただれた夜の生活してりゃあ十分に堕落じゃねえかよ!」
「それでもこのドレスを見たら、分かりそうなもんじゃないですかっ」
「お前へのあてつけかと思ったんだよ! だいたいおめーも、いつもそんな小汚い格好してっから男に間違われんだよ! それも一度や二度じゃねーだろっ」
「ひ、ひどい! この服装はその方がなにかと便利だからで、たまには女の子らしい格好もしてますっ。それに面と向かって話したら、みんな気付いてくれるじゃないですか!」
勢いに任せて怒鳴ると、視界の隅で伊織さんがビクッと体を震わせた。
しまった。思わず伊織さんを責めてしまった。
「そりゃ普通はそうだろうよ! 気付かない方がおかしいっての!」
伊織さんの反応に気付かなかったカズさんが、さらに追い討ちをかける。
またしても体を震わせた伊織さんを視線で指し示すと、カズさんは気まずそうに後頭部を掻いて、歯切れ悪く言った。
「あ、あー。……いや、すまん。恋は盲目ってやつだったのかな」
それもちょっと違うんじゃないかと。
「ふ、ふふ……」
伊織さんが力なく笑い、こちらを見上げた。
「そうよね。御名君、化粧っ気がなくたって、どんな格好してたって、こんなに可愛いのにね。ご免ね、傷ついたわよね。……なのに、どうして、私……っ」
潤んだ瞳には一点の曇りもなくどこまでも澄んで、悠久の時を湛えた冬の夜空のよう。
私はこの美しいひとの名を、ただ呼ぶだけ。
「伊織さん……」
ずっと憧れていた伊織さん。
いつも柔らかく微笑んで、真っ直ぐ前を向いて。どんな噂をされても、決して卑屈にならず、声を荒げることもなく。全てを呑み込んで、それでも自分らしくあろうとしていたように思う。
──ああ、そうか。
私はやっと理解した。
だから、こんなに。こんなにも綺麗なんだ。こんなにも惹かれるんだ。
私は、男とか女とかそんなことに関係なく、乙木伊織という人そのものに、強く憧れていたんだ。
だから好きだと言われて、とても嬉しかった。取り乱してヘンな事まで口走っちゃったりもしたけど、本当に嬉しかった。
今までは誰かと付き合うなんて考えたこともなかったけれど、ほんの一瞬だけ、伊織さんの隣で歩く自分の姿を想像したりもした。
だけど。私はなんて馬鹿なんだろう。
そうだよね、伊織さんは、その……心は女の人だもんね。男の人が好きに決まってるのに、そんなことも忘れて、自分がよく男に間違われることも忘れて、浮かれていたなんて。
「すみません伊織さん。カズさんの言う通りなんです。私、子供の頃からそうだったんです。よく男の子に間違われて。私が、こんなだから」
うう。自分で言ってて泣けてきた。拳を握りしめ歯を食いしばって、必死に涙をこらえる。
「だから、今回もその可能性を考えなくちゃいけなかったのに。こんな、こんな──」
「もういい、マコト」
自虐的になりかけた私を、カズさんがいつになく優しく止めた。
「お前は悪くねえ、何も悪くねえよ。ただ今回は運が悪かっただけだ。だから自分を責めるな。無理に変わる必要もねえ。お前はお前だ、それで十分だ! それに……他の誰が何と言ったって、俺だけはお前が女の子だって知ってる!」
力強いカズさんの言葉は、なぜかとても懐かしく響いて、私を落ち着かせてくれた。知り合って半年、始めの頃は口が悪くてぶっきらぼうで、何を考えているのか分からない人だと思っていたけれど、思えばこの人はいつだって優しかった。
カズさんは未だ床に伏したままの伊織さんにも声をかけた。
「それと、伊織さんよ。あんたの誤解を正せなかったのは俺のミスだ。だから──」
「一砂君──」
被せるように言った伊織さんの目には既に涙はなく、澄みきった深さはそのままに、今は満月のような輝きを放ちながら、カズさんを見つめていた。
「あなた……本当にいい男ね」
「……っうぇ?」
予想外な言葉に、カズさんがたじろぐ。
この目は……どう見ても……恋する、乙女?
──ええっ?
「いや、伊織さん、俺は」
「そうよ、そうだわ。答えは目の前にあったのよ!」
伊織さんは勢いよく立ち上がり、カズさんの両手を掴んだ。
「待て待て待て、早まるな!」
「いいえ! 私、もう迷わない!」
え、なにこれ。なんなのこの展開。
「そうよ、この気持ちの前では、男か女なんて関係ないのよ!」
「いや、だから」
「だって、御名君は御名君だもの! そうよね!」
「か、勘弁してく────なに?」
「御名君は御名君、それで十分だって言ったじゃない」
「お、おう……。その話か、びっくりした」
カズさんは一度に気が抜けたようだった。
伊織さんは不思議そうな顔をしたけれど……ごめん、実は私もびっくりした。
「よく分からないけど……とにかく御名君。いえ、マコトちゃん」
カズさんの手を放した伊織さんは、今度は私の前に立った。
「私ね、やっぱりあなたが好き」
落ち着いた声音で、ゆっくりと。たまに見かける度に目で追いかけていた、いつもの伊織さんだ。
私は上目遣いに答えた。
「でも伊織さんは、男の人が好きなんじゃ……」
「ううん、分かったの。私は男の人が好きなんじゃなくて、あなたが好きなの」
噛み締めるように言われて、私の顔はみるみる熱くなった。
「あ、赤くなったわね。少しは脈があるのかしら」
伊織さんが悪戯っぽく笑う。
「だからね、マコトちゃん。まずはお友達になってくれないかな。そして、あなたは変わらないままで、変わっていく私を見て。私、男になる。一砂君みたいな、強くて優しい男になってみせるから」
「……伊織さん……」
どうしよう。嬉しい。体が震え出しそうなくらい、嬉しい。
でも、いいのかな。何て答えたらいいの?
私はいつの間にかすっかり癖になっていたように、カズさんを見た。
カズさんは目を見開いて、ちょっと怖い、厳しい顔をしていた。
しっかり自分で考えて、選べ──その目はそう言っていた。
私は小さく頷く。
「こちらこそ、よろしくお願いします。あの、実は私、三年前にこの街にやって来て、初めて伊織さんを見た時から……ずっと、憧れていたんです」
伊織さんは驚いたようだった。
「そんなに前から? 私のことを?」
「はい。だから……伊織さんもそのままでいいです。そのままの伊織さんが好きです」
「マコトちゃん……!」
伊織さんが抱きついてきた。男の人にしては華奢な、薄い胸──。
でも、こんなにも温かい。
「ありがとう、マコトちゃん。でも、そういう訳にもいかないわ。私は強くなりたい。マコトちゃんを守れるくらいに」
「伊織さん……」
伊織さんの背中にそっと手を回したとき、カズさんが無言でドアの方へ歩き出した。
「あ、カズさん! どこへ?」
「け。こんな甘っ苦しいトコに、いつまでもいられっかよ。あとは二人でよろしくやってくれ」
止める間もなくドアを開ける。
伊織さんが慌てた。
「待って、一砂君! あなたにはもっとお礼をしなきゃいけないし、そうだ、お父様と──」
「嘘だよ」
「え?」
カズさんは悪い顔でニヤリと笑った。
「さっきの話な、ありゃ全部、嘘なんだよ。作り話さ。だいたいウチのオヤジなんざ、十年も前にポックリくたばってらぁ」
カズさんは細く開けたドアに体を滑り込ませた。
「礼も前金で十分だ。それじゃな、お二人さん」
「あ、待っ──」
追いかけようとした伊織さんの前で、静かにドアが閉じられた。
「どうしよう、マコトちゃん。一砂君をこのまま帰らせるなんて」
強い男になると言ったそばから、おろおろと狼狽する伊織さんが可愛くて、私は少し笑ってしまった。
「たぶん、止めても聞きませんよ。あの人はそういう人です」
短い時間で色々ありすぎて、どうしてこうなったのか、いまいち分からなくなっている。でも一つだけはっきりしているのは、伊織さんを導いて、私の背中を押してくれたのは、カズさんだってことだ。
カズさんは、やっぱり頼れる兄貴分だった。
──ありがとう、カズさん。
私は心の中でお礼を言いながら、こりゃ当分の間は研究の手伝いでこき使われるんだろうなあ、と思った。




