4 一砂 愛(かずさ ・あい)
わはははは!
真顔のまま、心の中で大笑いする。伊織お嬢サマ、信じられないって顔しやがったぜ。よし、軽く迫ってやれ。
「伊織さん、俺ァ、俺ァもうっ……! な、いいだろ」
「あら、ダメよ。私とヤるのは、あなたたちがヤッてからって言ったでしょう?」
しかし伊織は目からビームでも射ちそうな顔で、俺を優しく睨み、一瞬の動揺を隠しやがった。
美人が凄むと怖ェな。背後に般若が見えるぞオイ。
だがこのお嬢サマは、自分の甘さに気付いていない。
「俺を弄ぶのか。ならいっそ、力尽くでも」
「だ、だだだ駄目ですよカズさん! 苦し紛れに言ったことを間に受けないで下さいっ」
って、むしろマコトの方が焦ってんじゃねえか。絶妙のタイミングで入ってきてくれたのはいいが、なんでお前が慌てる?
俺はアメリカのベタなホームコメディのように肩をすくめた。
「なんてな、冗談だ。無理に押し倒しゃしねえよ」
「……全然、信用できないんですけど」
「信用しろよ。だからこうしてお願いしてんじゃねーか」
「じゃあなんで、腰を落としてじりじり迫ってくるんですかっ」
こうして狙い通り、マコトとのコントじみたやりとりを再開する。
もちろん伊織は黙って見ているだけだ。内心では色々と思っているだろうが、発言する余地がないからだ。
さて、ここまでやれば、人の好いお嬢サマもそろそろ気付くか?
伊織さんよ、あんたはこの状況じゃあ、自分では何もできないんだぜ。
さっきの俺の誘いに乗っていれば、まだ何か手を打てたかも知れねえが、そのチャンスも余裕を取り繕った演技で自ら潰しちまった。
これでもうあんたは「一砂クンと御名クンがヤるところを見せてくれたら、私ともヤらせてあげる」という条件を覆しでもしない限り、能動的に状況に絡むことができない。支配者に見えてその実、無力な傀儡の王なんだよ。
そして、この場を真に掌握しているのは……そう、俺だ。
俺だけが事態を進展させられるんだ。ずっと俺のターン、ってやつさ。
ここからは好きにさせてもらう。
「なあ、マコト。どうしてもダメか?」
「食い下がるなあ……。もしかして、何か事情でもあるんですか」
「いや、実は俺、男が好きなんだよ」
へらへらと笑うと、マコトの表情が厳しくなった。
「カズさん」
本気で怒って──心配しているのが判る。
ったく、ホンットにいいヤツだよな、こいつ。そりゃ伊織に限らず、男女関係なく好かれまくってんのにも納得だわ。
俺はしばらくマコトをじっと見つめ、それからおどけて両手を上げた。
「分かった、降参だ。全部話す」
意味ありげに視線をやったお嬢サマの目に緊張が走った。
おいおい、気持ちは解るが、仮面が剥がれかけてんぜ?
「実はな、オヤジの工場がヤベェんだ。従業員が四人しかいねーような小っちぇえ工場だけど、ただでさえ不況で仕事が少ないこの時期に、突然大手からの取引を止められたらしくてよ。しかもあのお人好し、余計な借金までしちまいやがった」
明日の天気の話でもしているかのように、淡々と語る。
「それでいま、母ちゃんや俺たち兄妹の籍を抜く話になってる。馬鹿オヤジは何も言ってくんねえし、俺は見ての通りの放蕩息子だから、正直何が起きてんのかよく解んねえ。……でも、俺も何かやりてえって思ったんだよ」
真っ直ぐにマコトを見つめると、大きく目を見開いていた。
俺はここで、初めて気弱な笑顔を浮かべる。
「マッちゃんやフルさん……従業員のおっちゃんたちにはガキの頃から可愛がって貰ってたし、下の秋穂はまだ十才だぜ? だから、どんなきっかけでもいいから、乙木家との繋がりが欲しいんだよ」
再び俯き、上目遣い気味に伊織を盗み見る動作で、マコトの視線を誘導する。
さて、突然で悪いが、ここが正念場だ。どう出るお嬢サマ。
伊織は明らかに平静を失い、落ち着かなげに身じろぎした。どうやら、この先の展開が読めたようだな。
「だ、駄目よ。私、お父様には嫌われているもの。力になれないわ」
俺だって会いたかねーよ。街の名士だか何だか知らねえが、人格者ぶりやがって、気に入らねえ。
だがあんたが決断を迫られているのは、それじゃねえだろうが。
時間稼ぎをしようったって、そうはさせねえ。
「そこを何とか頼む、親父さんに会わせてくれ。いや、ダメ元で掛け合ってくれるだけでもいい。その為なら、俺ァ何でもする。取り巻きになれってんならそうするし、あんたの命令は何でもきく」
俺は跪いて懇願した。
これでもう逃げ場はねえ。
いいか、お嬢サマ。あんたはマコトを傷つけたいんだろ。嫌われたいんだろ。
なら、改めて「あなたたちがヤるところをみせてくれたら」だの「マコトを襲うのを手伝え」とでも言えばいい。
引き金は俺が引いてやると言ってんだ。あんたは命令するだけだ。ただし、明確な自分の意思と責任で、だ。
さっきみたいな冗談まじりじゃなく、絶対的な権限を持つ者として、「マコトを犯せ」と命令しろよ。それがお望みだったんだろ?
さあ、言え。言えよ!
伊織は小刻みに震える手でワイングラスを置き、苦しそうに胸元を掴んだ。
……やっぱり、何も言わないか。予想通り、いざとなったら怖じ気つきやがったな。
あんたはさ、今までの人生で、人を陥れたいなんて考えたこともなかったんだろうな。だからこんな穴だらけの、全部他人任せの計画になるんだ。まさか俺の手で強引に決断を迫られるなんて裏切りは、思いもしなかったんだろ。
だがな、お嬢サマ。あんたのその人の好さは、時に罪だ。
それは裏を返せば、覚悟がなかったってことだ。
誤解を解いて好かれようとする気概もない。傷つく覚悟も傷つける覚悟もない。恨まれる覚悟もない。それじゃ癇癪を起こしてだだをこねる子供と同じじゃねえか。
俺は、あんたのことは嫌いじゃなかったよ。むしろ芯の強え、出来たヤツだと思ってた。
だが、失恋だか自暴自棄だか知らねえが、逆恨みのあげく人を傷つけることすら他人任せにするような計画を持ちかけられた時に、はっきりと思ったんだ。
俺は、あんたが嫌いだ。自分だけが不幸みてえな顔してる、甘ったれた性根が大嫌いだ。だから絶対に阻止してやる、マコトは俺が守る、とな。
一歩間違えていたら、それこそ貞操の危機を迎えていたことに気付いてんのか気付いてないのか、怯えよりも疑問を顔に張りつけたマコトが、悩ましげに眉間に皺を寄せて言った。
「カズさん、いまの話……」
おっと、時間だ。伊織さんよ、ここでゲームオーバーだ。あんたは何もできないまま、後で好きなだけ後悔すればいい。
俺はマコトを手で制し、ゆっくりと立ち上がった。
「分かったよ、無理を言ってすまなかったな伊織さん。マコトも、巻き込んで悪──」
「ご免なさい!」
みなまで言わせず、伊織が突然わっと声を上げて、両手で顔を覆った。
「一砂君がそんなに辛い思いをしてたのに、私、自分のことばっかりで!」
──あん?
「あんた、何を言って……」
「知らずに弱味につけこんでたのね。私、自分が恥ずかしい。本当にご免なさい!」
おい……。ひょっとして俺が言ったことの意味を、何も解ってなかったんじゃねえだろうな。
それどころか、……まさか、さっきの話をそのまま丸ごと信じたのか?
んなわけねえだろ! もし本当の話なら、あんたに計画を持ちかけられた時点で条件として提示するに決まってんだろうが!
唖然としていると、伊織が滂沱と涙しながら、決意に満ちた目差しで立ち上がった。
「一砂君!」
「はい」
ぐわ。勢いに負けて、思わず素直に返事しちまった。
「私、何とかしてお父様に掛け合ってみる。だから一砂君も負けないで!」
いやいやいやいや、なに熱っぽく語ってんだ。まさか、こいつ──。
マジだ! 本物のお人好しだ!
その上、気持ちだけで突っ走る馬鹿だ!
予想以上に何にも考えてねえぞ!
「あの。弱味って、なんですか?」
急展開について行けないマコトが、所在なさげに訊いた。
ああ、またややこしい質問を。
伊織は痛みに耐えるように拳を握りしめながらも、顔を背けず真っ直ぐに立っていた。
「ご免なさいね御名君。私、一砂君を脅して利用していたの」
「脅して?」
「ええ。あなたにフラれた腹いせに、ここに誘き寄せて無理矢理こっちの世界に堕としなさいって言ったのよ。札束で頬を叩くような真似をして」
話しぶりに迷いがない。全部告白する気なのか!
「フラれた? いやあれはそういうつもりじゃ。え、こっちの世界? 堕とす?」
マコトが慌てた。いや混乱してるのか。
「でももう目が覚めたわ。今度こそ、正々堂々と告白します。聞いて、御名君。……あなたが好きなの!」
待て待て待て。今の今までウジウジしてたヲトメ野郎が、なんでいきなりそんな男前になっちまうんだよ!
伊織は潤んだ瞳をキラキラさせながら、力強く言い放った。
「だから、こんなオカマで良ければ、私と付き合って下さい!」