3 乙木 伊織(おとぎ・いおり)
うふふ。うふふふ。
困ってる。御名君、困ってるわ。
小鹿みたいに怯えて、ぞくぞくしちゃう。
それにしても一砂君、ずいぶん渋ってたわりには、ノリノリじゃない。やっぱり前金をはずんだのがよかったみたいね。それとも成功報酬まで狙う気になったのかしら。
いいわ、その調子でヤッてしまいなさい。御名君なんて、どこまでも堕ちちゃえばいいのよ。
御名君なんて、御名君なんて。
御名君……。
いけない、また泣いてしまう。
私はぎゅっと目を閉じて、ワインをあおった。
初めて御名君を見たのは、二ヶ月前。市内の郷土史家が、旧家である乙木家の所蔵する資料を閲覧させて欲しいと申し入れてきたのがきっかけだった。
白髪混じりの髪を綺麗に撫でつけた、なかなか素敵なおじ様の手伝いとして訪れたのが、一砂君と御名君。
一目惚れだった。
さらさらの髪、長いまつ毛、知的好奇心にキラキラと輝く瞳、ハスキーで落ち着いた声、女の子みたいに繊細な指先。小柄な体で、きびきびと立ち回るその姿に、私は生まれて初めての甘やかな衝撃を受けた。
利発でちょっと童顔な、私の理想そのままの美少年。何とかしてお近づきになりたい、と心から思った。
でも私はこんなだし、色々と噂されていることも知っていた。だから一度は諦めようとした。
でも、無理だった。
私の心は、とっくに御名君の虜になっていた。気付けば御名君の読んでいた資料を手にして溜め息をつくばかりの日々を過ごし、食事も喉を通らず、とうとう夢にまで見るようになって──私はついに一大決心をした。
彼と結ばれるなんて、儚い夢。だからせめて一度だけでも二人っきりの時間が過ごせたなら、その思い出を胸に生きていこう──そう決めたのだ。
私はありったけの勇気を振ふり絞り、今にも破裂しそうな心臓と、小娘のように震える体を押さえつけて、御名君をディナーに誘った。
しかし御名君の答えは、ノー。
慌てふためいて首を振る御名君は、ほんの一瞬だけど怯えた表情さえ見せた。あの噂を思い出したんだろうな、というのはすぐに分かった。
弁解することの虚しさを嫌というほど知っていた私は、その場を取り繕って帰宅したあと、ベッドの上でさんざん泣いた。
泣いて、泣いて、泣いて。一晩中泣き明かして。それから、浴びるようにお酒を飲んだ。
堕ちてやる。お望み通りの私になってやる。自分が誰なのか分からなくなるくらい酒に溺れて、どこの誰とも知らない男に溺れて、理性も感情もどろどろに溶けて混ざって、全部どこかへ流れ出してしまえばいい。そうして御名君のことも忘れよう──そう思った。
だけど、駄目だった。どんなに飲んでも、ちっとも酔えない。忘れられない。忘れることなんて出来ない。
──だって私、お酒強いんだもの! 最近のアメリカワインには見るべきものがあるわね。美味しかった。
ワインボトルの森の中、ぼんやり考える。
私一人じゃこれ以上堕ちることができない。それなら、御名君ごと堕ちればいいじゃない。
そうよ、可愛さ余って憎さ百倍よ。見てなさい、傷ついて暴走した乙女心の恐ろしさを思い知らせてやる。復讐よ、きっと復讐してやるんだから!
うふ、うふふふふふ……。
私は仄暗い情念を燃やして、計画を練ることに没頭した。
そして思いついたのが、御名君が想像して怯えた通りの状況を作るという策だった。もちろん、その状況に追い込むだけではなく、本当に実行してしまえばなお良い。
でもその為には彼を釣る餌が必要で、それにはよく一緒に行動しているらしい一砂君を選んだ。
話を持ちかけられた一砂君は、当然難色を示した。
「なあ伊織さんよ、どうしてもやるのか? そんな計画、うまくいくとは思えねえし、どう転んでもロクでもない結果になるのは目に見えてるぜ?」
分かってないわね。その碌でもない結果こそ、私の望みなのよ。
彼の隣に私の居場所が出来るなんて、どうしたってない。それなら、彼の心に私という存在を刻み込んでやるのよ。憎まれたっていい、一生消えない傷になって、ずっと住み着いてやるんだから。
前金はもちろん、働きに応じて報酬はたっぷりと出す。最終目的は御名君を堕とすことだけど、正直そこまでは期待していない。ただしこの話を断るなら、もっと強引な手段に出るしかなくなる──と、脅迫めいたことまで言ったところで、ついに一砂君が折れた。
「まったく。あんた、せっかくそんなに美人なんだから、探せばいくらでも相手はいるだろうし、他にやりようもあるだろうによ。もったいねえ」
「心にもないこと言わないでよ」
「そうでもねえよ。他のヤツはどうだか知らないが、俺はあんたのこと、立派ないい女だと思ってたよ」
「あら、それじゃ御名君を堕とすことができたら、私のことも好きにしていいわよ」
「ヤケになったヤツにつけこむほど落ちぶれちゃいねえよ。それに、俺はあんたの味方になったわけじゃねえ。仕事はするが、その代わり俺の思惑も加えさせてもらうぜ」
一砂君は不機嫌そうにそう言って、そっぽを向いたっけ。
だから今日のこの計画も、誘い込むだけ誘い込んで、あとは何もしないつもりかも知れないと危ぶんでいたんだけど、何か心境の変化でもあったのかしら。それとも成功報酬まで欲しくなるような事情ができたとか?
まあ、どんな思惑があるにしても、彼がいい働きをしていることには変わりない。
「なあ、マコト。俺ァもう滾っちまってんだよ。な、ヤラせろよ」
なんて、私から見ても本気にしか見えないもの。
ああ、御名君のあの怯えた目、堪らない。私のこともあんな風に見て欲しい。
……そうだ、いいことを思いついた。
私はわざとらしく溜め息をつく。
「そんなに嫌なら、仕方ないわね……」
漫才のような小競り合いをしていた二人がこちらを振り向いた。
「私も早く楽しみたいのよ。だから一砂クン……この際、無理矢理でもいいわよ。ヤッちゃって」
微かな希望の光が灯りかけていた御名君の目が、一瞬にして絶望に染まった。
ああん、これこれ、これよ。この視線が欲しかったのよ。ああっ、もっと苛めたい! 私ってSっ気があったのかしら。
「そ、そんなにヤりたいなら、ヤりたい二人でヤればいいじゃないですかっ」
御名君てば、涙目で胸元なんか押さえちゃって、本当に可愛い。
でも許さないわ。さあ一砂君、飢えた野獣のように襲いかかりなさい!
「……………………」
──あれ、一砂君、どうして黙りこんじゃうの? やっぱりそこまでする気はなかったの?
一砂君はしばらく考え込むような表情をしたあと、いかにも合点がいったかのようにポンと手を打った。
「おお、そーいやそーだな?」
……げ。




