1 プロローグ:オトコとオンナ
「ようこそ、私の夜会へ。御名クン、一砂クン──」
その美しいひとは、紫色の光沢を放つ黒いナイトドレスに身を包み、ほんのり赤みがさした頬に濡れたような瞳をわずかに細めた。
複雑な模様を描きつつ、それでいて必要以上に存在を誇示しないカーペット、上品で洗練された調度類、巧妙に配置された間接照明。
部屋の中央にでんと居座る、極度に抽象的な造形を持つ奇っ怪なオブジェすら、ある意思の元に計算され尽くした完璧な統一感に支配されている。
何もかもがツルツルで、ピカピカで、一介の貧乏大学生には想像もつかなかった世界が、そこにあった。
──ここは、異界だ。
その異界の王たる乙木伊織さんは、豪奢なソファーにしどけなく身を預けながらも、その風格に微塵の揺らぎもなく、間抜けにもドアから半歩の所で硬直したままの哀れな来訪者たちへ、魅力的に小首を傾げた。
「どうしたの? さあ、パーティーを始めましょう」
裾の乱れを気にもかけずに白く肌理細かな肌を晒してゆっくりと脚を組みかえ、足下で無造作に脱ぎ捨てられたハイヒールの赤が、右足首に着けられた銀のアンクレットの表面をぬるりと移動する。
隆起に乏しい……というか全くない胸は意見の分かれる所だろうが、だからこそ一種悪魔的なまでの妖艶さを演出しているようにも思えた。
昼間とは違う夜の顔──。
そんな言葉がぐるぐると頭の中を駆け巡る。これで本当に二十三才なんだろうか。
そんなことを考えながら呆然としていると、隣に立つ一砂さん、通称カズさんが肘で脇をつついてきた。
「おい、御名君、御名!」
「あ、ああ、すみません。スイートルームなんて初めてだから、雰囲気に呑まれちゃいました。すごいですね、ここ。まるで別世界です」
「んだよ、情けねえな」
そう言うアンタも固まってたじゃないか──とは言わない。ただでさえ馬鹿みたいに立ち尽くしていたのに、これ以上の醜態を演じたくなかったからだ。
それに実のところ、雰囲気に呑まれていたのは部屋のせいばかりでもなかったからなのは言うまでもない。
「今日は招いてくれて、ありがとうございます。でもいいのかな、こんな格好で来ちゃいましたけど……」
情けない気持ちで自分の体を見下ろす。野暮ったいトレーナーにぶかぶかのジーパン。しかも所々傷んでいる。
カズさんも似たような格好で、二人揃っていかにも貧乏臭い。
しかし伊織さんは、あらそんなこと……と艶やかに微笑み、さらりととんでもない発言をした。
「そんなの気にしなくてもいいわ。どうせすぐに脱ぐんだから」
一瞬、聞き間違いかと思った。
「脱……ああ、着替えを用意してくれてるとか?」
「着替え? まあ、それでもいいけど。御名クンは着たままがお好み?」
会話が噛み合っていない気がする……。
カズさんが大きく喉を動かしたのが、気配で分かった。
思考停止状態からようやく回復の兆しを見せていたのに、またしても混乱の淵に叩き込まれた脳みそで、必死に考える。
これは、その、あれかな? パーティーというのは、そういう意味なのか? お金持ちの中には倒錯したのがいると聞いてはいたけれど……まさか自分が遭遇するなんて。
いやいや、待て。これだけで判断するのは早計だ。いくらなんでも非現実的すぎる。
「なあ、伊織さんよ。それはつまり、……俺たちと一線を越えるっつーか、一戦交えようって話か?」
どう判断したものか迷っていると、カズさんがド直球な質問をした。一戦交えるって、おっさんかアンタは。
いや訊き方はともかく、伊織さんの真意を確かめないことには、それこそどうにもならないのは確かなんだけど。
「一線と言わず何線でも越えて、何戦してもいいわよ」
しかし伊織さんは、質問者のそれを遥かに上回る非常識な回答をして、その世界中の美を集めたような微笑みに、この世に在らざる妖しい色香までをも漂わせ、ただし──と付け加えた。
「あなたたち二人が、今ここでヤッたあとでなら、ね」
……この人は、いったい何を言っているのか。
「俺たちがヤッたあとって──」
「あなたたちがまぐわうところを見せてくれたら、そのあと私とも楽しみましょうって意味よ」
そっちのだし巻きとこの唐揚げを一つずつ交換しようよ、くらいの気軽さで伊織さんが言った。
……以前テレビで、活け作りにされ断末魔の痙攣を見せる魚を前にして「美味しそう」と無邪気に喜ぶ日本人の感覚が解らないとコメントする外国人を見たことがあるが、その時の彼はこんな気持ちだったのだろうか。
改めて思う。
──ここは、異界だ。