第十二話 宵に想う
ネルリーはあえてその疑問を口に出さなかった。
女の直感、というやつだろうか。
明確な根拠はないが、何か口に出してはいけない問題のような気がした。
敷地内の西端にある事務所が、いちばん蒸し暑くなる時間だった。
連日の雨も相まって、受付カウンターの書類が、僅かに湿気ていた。
勤務交代のためファイル整理をしていたネルリーは、不意の来客を見てぎょっとした。
「ラヴィエル隊長・・・!
どうしたんですか?訓練中に何かありましたか!?」
ネルリーが驚きの声を上げるのも無理はない。
ここ最近、討伐に出掛けた時ですら疲れを顔に出さないあの隊長が、
今は長い遠征から帰ったばかりのように、顔にも、腕にも傷を負って疲れ切っていたのだ。
「いや、内輪揉めだ。ちょっと所長と話さないといけない。呼べるか?」
「確認してみます。でも隊長、その前に手当てをなさった方が・・」
「すぐにそうする。・・けど、その前に呼んでおきたい。
あと、イジスタさんも呼んでくれ」
「イジスタさんですか?」
素っ頓狂な声で、その名前を繰り返した。
見開いた瞳に、なぜ?と書いてあるようにみえた。
「そうだ。セイント・リベルの部屋を訪問するように伝えてくれ」
「リベルちゃん、何かあったんですか?」
「・・・ちょっとな。立ち直るまでは聞かないでやってくれ」
「そうですか・・早く元気になるといいですね」
「そうだな。じゃあ、頼む」
かすれ声だった。
隊長は『声を出すのも面倒』といった様子でくるりと背を向け、靴音を響かせて事務所を出て行った。
遠ざかる後姿、髪はもつれて、お気に入りのカッターシャツは点々と赤い染みが広がっていた。
あの隊長があんな姿になるまで戦う理由など、ネルリーには皆目見当が付かなかったが、色々な疑問を後回しにして、とりあえず受話器を持った。
二人とも、すぐに連絡が付いた。
所長はすぐに、イジスタさんも時間は掛かるが必ず来てくれるとの事だった。
受話器を置き、ネルリーは照り付ける西日を遮るために、立ち上がってロールスクリーンの紐に手を伸ばした。
太陽はまだオレンジ色に変わる前だった。日が長くなったな、とぼんやり思った。
白く硬質な布が落ちる、しゅるるる、という音とかぶって、再び正面出入り口のドアを開ける音がした。
顔を向けてみると、そこにはもう一人の小さな負傷兵が立っていた。
「リベルちゃん!!どうしたのそれ?!」
ネルリーは驚愕し、悲鳴に近い声で問い詰めた。
顔の中心に、血が流れているのだ!それも女の子の顔に!
しかしリベルは水のように鎮まり、何も答えなかった。
答えたくないのではなく、答える程の事でもないと、当の本人は思っていた。
「いえ、大丈夫です。ラビさん居ますか?」
ネルリーは返事をしようとして・・・
へ? と、不思議そうな顔で一瞬リベルを見つめた。
リベルは何がおかしいのか全く気付いていないようで、
驚いたネルリーの眼を見つめて首を傾げていた。
何かを察したネルリーは直ちに口角を吊り上げ、取り繕った。
「いえ・・・・ごめんなさい。隊長は、ほんの少し前ここを出ました。
兵舎に行かれたんだと思いますよ」
ネルリーはあえてその疑問を口に出さなかった。
女の直感、というやつだろうか。
明確な根拠はないが、何か口に出してはいけない問題のような気がした。
「ありがとうございます」
「あ、リベルちゃん。顔は拭いてくださいね!
皆がすれ違う度にビックリしますから」
念のため言ったが、一目散に出て行ったので聞こえたかどうかは分からなかった。
短い組み打ちの結果、ラヴィエルは左の側頭部に浅く短い傷と、剣を握っていた右手にも同じような切り傷をいくつか負った。とても命に関わるとは言えないが、一応消毒位はするつもりだった。
兵舎2階にある治療施設のスプリングドアを開けた。
衛生兵はラヴィエルの姿を見るなり、これは珍しいものを見たと言わんばかりに驚き、椅子に座らせて丁寧にひとつひとつの傷を確認し、ガーゼと包帯で手当てを施した。
大抵の場合傷の付き方で何をしたかは分かるものだが、その理由についてラヴィエルはあまり言いたがらなかった。
ただ、ひどく疲れている様子でうなだれていた。
治療が済むと、ラヴィエルは短く礼を言って丸い回転椅子から立ち上がった。
気持ちは重く、体は漠然とだるかったが、やるべき事は山ほどあった。
ジョルジオの身柄はギムサ達が拘束しているので、心配には及ばない。
しかし5班のメンバーは、一度崩して他の班に再編成する必要があった。
あと、これからすぐに事の次第を所長に報告して、実況見分と書類の作成をし、役所の方にも色々と説明しなければならない。
とはいえ、それらの仕事はラヴィエルの心労の原因ではなかった。
面倒な仕事が重なる時など、過去にもたくさんあった。辛いのはそいういう事務的な仕事ではない。
明確な答えがあり、それに沿って行動するだけなら、大したことじゃない。でも・・・
ラヴィエルの胸中、
どちらかと言えば精神的な問題について考える事が、
そう、それが出来なかった。
兵舎、1階と2階を繋ぐ階段の踊り場で、ラヴィエルの瞳の焦点が急に近くなった。
口も少し開いたかもしれない。
「・・いいかげん顔を拭け。大ケガに見えるぞ」
「あ・・・あの、ラビさん。怪我は・・・」
「―――――・・ん?」
「耳の上のやつとか・・・あと、よく見たら腕にも」
「・・・・・・・耳の上・・・?
あ・・ああ。これは全然。別に腕も問題ない。全部大したことないから、心配するな」
リベルの顔からほんの少し緊張が消えた。
「そうですか・・・。ごめんなさい。大変な事になって」
「今回の件は・・あまりリベルは悪くない。
ただ、今後こういうことが起きたら誰かに相談しろ。イジスタさんでも良いし、アデルやサンディでも良いから」
「はい・・・。以後、気を付けます」
「うん。気を付けろ」
リベルの第一の目的は、これにて完了した。
次は、まずこのホラーメイクを取らないといけない。額の傷も、血も、気付いたころにはみんな乾いてしまっていた。
「・・・リベル」
ラビさんが呼びとめた。
もう半分の階段の一段目、足を止めた。
「はい?」
「お前、もう1ヶ月半になるのか?」
「? 入隊して、ですか?」
「そう」
「えーと・・そうです。
入ったのが四月の末でしたから」
「そうか」
それだけだった。
向きを変えざま、何故か少し微笑んだように見えた。
意図が掴めず、凛々しい背を見つめる。そのまま階段を下って行った。
・・・その後リベルも消毒を済ませ、一旦自室に戻った。
几帳面で、尚且つ真面目なセラピストは、『時間がかかる』という言葉とは裏腹に、連絡を入れてからわずか30分で到着した。
その、ハンス曰くもう一人の王子は内線でリベルをいつもの談話室に呼び出し、ごく優しい口調で、屋上で起きた一部始終を訊いた。
起こった事の大きさの割には、リベルは落ち着いてみえた。
「リベル、だいぶ慣れたみたいだね?」
「みんな、対処が大人ですから。
私が多少変な事してても、うまくスルーしてくれたりして。
でも気付いた時、ああああーーーってなりますけどね」
「アデルもサンディも、後で指摘するタイプだよね。言ってはくれるんだけどさ」
「そうなの!時たま『先に言ってよ!』って言いたくなります」
「あはは・・・リベル、たまに行動がズレてるからね」
「たまにですけどね。いつもボケてる訳じゃないですよ」
「でも、とんでもないボケ方するよね?こ、この間なんか・・・くっ」
イジスタさんは徐々に堪えきれなくなり、ついに言葉の途中で笑い崩れた。
何もそこまで、と言うくらい散々笑って、やっと落ち着いた。
「あぁ、可笑しい。俺、リベルに殺されるかと思ったもん。ホントに」
開けてはならないパンドラの箱を、ひっくり返されてしまった。
全身が真っ赤になりそうだった。
「もーーーー!ホントにそれは勘弁して下さい!
忘れるって言ってたじゃないですか!!」
「迫力あったからさ、脳に焼付いちゃったんだよ。トラウマになったかも」
「もう、そんなに怖がって無かったくせに」
「え?バレてた?ふふ・・」
事情聴取もそこそこに無駄話で盛り上がっていると、遠くの階段から足音が響いてきた。
早急に部屋のムードを深刻なものに戻す。
さっきまで頬杖をついて笑っていたイジスタさんは、瞬時に真顔を作ると取調官のように胸を張って、ボールペンを持ち直した。
と、さっきまで記入していた紙がどこかに紛れてしまい、オロオロ探す姿を見て、吹き出しそうになった。
幸いすぐに見つかったようで、ホッとしたように『あった』と小声で言って天使スマイルを浮かべていた。
ドアを開けて、ラビさんが入ってきた。
「あ、ラビさん。もう聴収終わったの?」
イジスタさんが振り返り、間髪入れず話し掛けた。
ラビさんは、頭を振った。
「いや、リベルも一緒に説明して欲しいって。大丈夫か?」
「あ、全然大丈夫ですよ。ちょっと行ってきますね、イジスタさん」
けろりとしている。
繊細なのかタフなのか、ますますイジスタにはわからなくなった。
「うん、行ってらっしゃい。言える範囲で良いからね」
リベルは先に促されて、廊下を歩いて行った。
その後ラヴィエルは、
飽きもせず彼女に優しい言葉を掛けるイジスタを振り返り、少し見つめた。
何かあったのだろうか。普段の彼らしからぬ、曖昧な表情だった。
会釈して、行ってしまった。
あ、と気付いたが、イジスタは追いかけて聞いたりしなかった。とても、些細な事だったので。
・・・いや、しかし今度で良い。
また今度訊いてみよう。
『リベルは、いつからラビさんと呼ぶようになったの?』
嫌味に聞こえないよう、もちろん訊くときはとびきり最上級の笑顔で。




