九十日の、終わり
その時はやってきた。九十日の、終わりの日。
由香はもう、ここに居たいとは思わないだろう。後は言葉通り、神のみぞ知る、というやつだ。残りの時間は部屋で静かにしているだけだと、有理は部屋に入ろうとする。
だが、扉を開く前に違和感があった。
――私は、いつもドアを締め切っていない。侍女たちには触るなときつく言ってある。もう私の部屋など、誰も入りたがらないはずだ。
と、いう事は。
有理は厳しい目で扉を睨みつける。入ってはいけない。勘がそう告げている。
暗殺者――その言葉が頭に思い浮かぶ。終わりの日を選ぶなんて、大分国の内部に通じている。確かに今なら、この城に居る全ての人は巫女の決定を静かに待っているだけだ。
とりあえず、部屋の中で待っているのなら入らなければ良い。そう思い、踵を返す。
だが、不安は消えない。
なんで。有理は、扉から距離を置いて思考に耽る。
ざわりと、まるで血が逆流したような気がした。
――暗殺者が一人だと、誰が決めた?
「っあああああああぁ!!!!」
叫んだ。身が引き裂かれるような思いで、有理は叫んだ。
きっと、多くの人は由香が選ばれると思っている。暗殺者が私に一人、もしくはそれ以上。なら、由香にはもっと多くの――
叫び声を聞いて、人が集まる。
なんで皆、こっちにいるんだ! だから、こんな国、大嫌いだ。見せ掛けだけ甘くて、全部狂っているようにしか思えない。
異世界の巫女が居なければ滅ぶような世界、いっそ滅んでしまえば良いと何度思ったか。
どうしようもない気持ちで、有理は走った。全力で。
由香の部屋の前まで来て、落ち着かない息をそのままに、力で扉を開ける。ドアノブをひねる時間も惜しかった。
「ゆ……!」
扉を開けた瞬間見えた光景に、呼ぶはずだった名前が言えなくなった。無残な光景に、最悪の事態を予想した有理は血がさがって行くのを感じた。だが、由香がいないことを確認して自分の心を押さえつけて冷静さを保つ。
部屋には、由香に備え付けられていた兵士と真っ黒な服を着た者が数名、倒れていた。
有理はその数を数えた。利きの一人が足りない。その事に有理は一瞬安心する。
だが、それも一瞬の事で、
有理について走ってきた人は、その残虐な光景を目の当たりにして恐れおののいた。
そして、遅れながら来た、王子と先生、聖女に、周りは道を開けた。先生がその光景に一瞬絶句し、有理に厳しい口調で詰問した。
「これはどういうことですか!」
だが、有理は自分よりもかなり高い身長である先生に怯むことも、そもそも視界に入れることもしなかった。
守れと、あんなにも言ったのに! 実際に見るまで由香を守りもしない、この国の人間。
ひどい苛立ちが有理の思考を包む。
「うるさいっ!! 見ても解らないんだったら黙れ!」
叫びながら思考を巡らせる。もう周りなんてどうでもよく、ただ由香が心配だった。
由香、由香、由香。あの子ならどうする。どうか無事で。
あの子は馬鹿じゃない。ただ優しすぎる。叫べば、おそらくもっと多くの被害が自分のせいで出ると思って叫ぶのを耐えた。とにかく人の居ない方へ――上か!
有理は周りの人間を押しのけ、階段を使い上へと上がっていく。上は使用人の室で、今日はパーティが行われる。誰も居るはずが無い。由香もそう考えたとするなら。
案の定、上がっていく間、誰にも会わず、それが有理の不安な気持ちを大きくする。
わずかな音を聞き溢さないように、自分の呼吸さえも押さえて、ただひたすらに上る。後ろについてくるやつらがうるさい。有理はできるだけ後ろを撒くように速く、速く走った。
見つけた!
痛みで息を吸うような、わずかな声。そして、誰よりも愛おしい、あの子のかすかな声。聞き漏らすはずが無い。やはり屋上だ!
屋上に続く扉を、力で開ける。そこには暗殺者と思われる男と、屋上の端で倒れこむ、負傷した腕利きの兵士。それを守るようにして立つ、由香。
肩と右の太ももには、負傷した跡があり、血が流れている。由香は立っているのも辛そうだった。
由香は有理をに気が付いて、辛そうな顔を少しだけやわらげた。
こんな時まで。あの子は私を、
「由香から離れろ!!!」
有理は叫びながら隠し持っていたナイフを三本、力の限り男に投げつける。男はいともたやすくそのナイフを避けた。
有理も当たるとは思っておらず、由香に向かって走る。
ナイフは男にとって避けるのは容易くとも、常なら許さなかったであろう有理の行動を許すこととなった。
「ユウリ!!」
遅れながら入ってきた三人に、男は舌打ちをした。分が悪い。
そう言って、有理が由香にたどり着くより先に、男は由香を切りつけようとした。
だが、それを有理は許さない。そこにもう一本邪魔を入れる。
男は舌打ちした。剣を振り上げるような時間はない。一瞬でそう判断を下し、男は由香の身体を力強く屋上の外へ押し出し、ナイフを避けた。
立つことすら辛かった由香の体は、容易く屋上から投げ出される。
屋上から投げ出された体の行く末なんて明らかだ。低くない建物から完全に体が投げ出された時、由香は意識を手放した。
一瞬すら、有理は躊躇わなかった。
由香の体が外へと倒れこみ、無意識に伸びていた手を、間違いなく有理は掴んだ。
身体は不安定で、もう少し体制が悪ければ間違いなく一緒に屋上から投げ出されていただろう。それでも、一緒に落ちることすら覚悟していた有理は由香の身体を支え、歯を食いしばる。
気絶した由香は、何の反応も見せない。
遠くで、暗殺者を捕ったと声が聞こえた。
引き上げられた由香を、有理は放さない。
痛々しい身体を抱きしめ、震える。
気絶した由香が眉間に皺をよせて、苦しそうにうわごとを呟く。
耳を澄まさなければならないような小さな声だったが、有理には聞き取れた。
「かえりたい、かえりたい、かえりたい。かえりたいよ、おとうさん、おかあさん、……ゆうり」
由香の固く閉じられた目から、涙がこぼれる。有理は、由香をいっそう強く抱きしめた。
ずっと誰にも言えなかったのだ、この子は。
私が冷たくしたら、こうなるということを解っていた。私がここまで追いやった。
きっと心も身体も限界だっただろう。
でも、最後まで私を信じてくれていた。どれだけひどいことを言っても、私のことを憎ませようとしても、ただ信じてくれていた。
私の希望。唯一の光。
あの自由の無い、拘束された息苦しい世界で、私を支えてくれていた由香。
由香がいなければ、私は立っていることすらできなかった。
勉強が出来ても、見目がよくても、運動が出来ても。
私は何も出来なかった。由香だけが、私を連れ出してくれる。
学校に縛られて、家に縛られていた私。
何も出来ない私。何でも出来る由香。
でも由香は私よりも辛かっただろう。私と比べられて、傷つけられて、貶されているはず。それなのに、私は由香に守られてしまった。私が、私が全部悪いのに。
由香に支えられないと立っていられない私。私を支えないと立っていられない由香。
私たちはきっと依存しすぎた。お互いに。
もう、私の呪縛から解放してあげないといけない。本当は由香に有理なんていらない。そんなこと、わかりきっていたから。
でもその前に、一度くらい、私も守りたかった。
守るために傷付けるなんて、ただのエゴだけれど。傷つけた事をどれだけ謝っても足りないけれど。
「ごめん、ごめんね……ごめん。ごめん、ごめん……かえれるよ、ゆか」
そう言って涙を流しながら、気絶した少年のような少女の涙をふき取る。それだけで、由香の眉間の皺が薄くなった。
ああ、やっぱり、この子は誰よりも綺麗だ。誰からも愛される由香。
私が綺麗だと思うのは由香だけだ。見目だけですべてを決めるような人間なんて関係ない。私がそう言うと、由香はいつも困ったように笑うだけだけれど。
誰よりも綺麗で優しくて愛おしい由香。
どれほどこれがエゴだとしても、由香にいつも守られてきたのだから、甘えて支えられてきたのだから、一度くらい、お姉ちゃんらしい事をさせてください。
「私は、のこるね。ずっと、いつまでも、一生、由香の幸せを」
願っています。ユカと名乗っていた少女が呟くようにそう言った瞬間、二人の体が輝いた。
光の中で有理は叫んだ。力強く、なんの迷いもなく。
『神様神様神様神様神様神様!! 私をここに残すなら! 彼女をどうか、元の世界で幸せに! 私なんかと比べられない幸せな世界で、どうか彼女を誰よりも幸せに! 幸せにして!!! 私の、私の全部をあげるから!』
咆哮するような、有理の全力の声。感情で叫んだであろうその声は、聞いた人間の心を締め付ける。
甘くも、耳障りのよい声でもない。ただ、喉の限界で、脇目もふらず、
誰よりも、何よりも、自分よりも、大切な妹のことを思い続け、願った彼女――
目を開けられないような眩しさの後、残ったのは、瀬戸 有理。
短い髪の、男の子のような由香ではない。
それは――
ユカと名乗っていた、
ユウリではない、ひどく美しい少女だった。
お姉ちゃんは妹を守るものだ。
何故なら、
お姉ちゃんは妹を愛している、から。




