九十日の、まだ最初
とある一室で、楽しそうな少女の声が響く。
砂糖菓子のように甘い声は不思議と耳障りが良い。
「先生! ユカは、覚えるの得意なのですよ!」
そう言って、自分の事をユカと呼ぶ黒く長い髪の美しい少女は、覚えた字を目の前の男に見せた。
「素晴らしいですね。文字は違ったのでしょう?」
先生と呼ばれた青い髪の美しい男は、感心したようにユカに目をやる。それにユカは嬉しそうに美しく笑う。
「はい! だって、ユウリちゃんはまだ覚えてないでしょう?」
美しく笑うユカのその言葉には、気が付くかどうかも微妙な悪意が確かに込められていた。その悪意に気付いた隣の少女は、少しだけ身体を反応させた。
ユウリと呼ばれたその少女は決して不細工ではないが美しいとも言えない容姿で、短い髪を耳にかけ、まるで少年のようだった。特に隣に美しいユカといると、その差は顕著だ。
「ユウリちゃん、無理しなくていいんですよ? だって、代わりにユカがすぐに覚えちゃいますから!」
無邪気にユカは言うが、その言葉に気遣いは含まれていない。そんなユカにユウリはどうしていいかわからなくなる。
「……すいません。ちょっと、まだよく覚えられなくて」
ユウリが謝ると先生は優しい顔を見せた。先生は最初に出会った二人の男性のうちの一人だ。美しい青い髪は長く、ゆったりと首の後ろあたりで束ねられている。
その優しく美しい顔に、ユウリは一瞬目を奪われた。
「仕方ないですよ。まだ始めたばかりです。ゆっくりと覚えていけば良いのです。わざわざ覚えたいと、今の段階で申し出てくださった優しさだけでも、嬉しいですよ」
そう言われ、ユウリは何も言えなかった。ユウリはただ、ユカがすると申し出たから一緒にしているだけであり、本当はこんなことしたくはなかった。
それを優しさと言われ、ユウリは居た堪れない気持ちになる。
「ありがとうございます」
気まずげに目をそらしながらユウリは言う。
「先生、申し出たのはユカなのですよー……」
不満そうなユカと、ようやく、少し笑顔を見せたユウリ。
「やっぱり、……ユカはすごいなあ」
ユカの凄さをしみじみと確認するように、ユウリは呟いた。その悪意のない、まるで本音が漏れたかのような言葉を、先生は聞いていた。
先生は、美しい少女を妹に持つユウリの純朴さを眩しそうに見つめる。
ユウリは気付かないが、ユウリを見つめる先生に気が付いたユカは、不機嫌そうにユウリの耳の側で言葉を呟いた。先生には届かないほどの声で。
「別にユウリちゃんは覚える必要ないと、ユカは思うのですけどねえ」
その言葉に、ユウリはまた顔を固くし、先生はその様子を訝しげに見た。
先生は部屋に戻るユカに気付かれぬよう、ユウリを引き止めた。
「ユウリさん。先程は、ユカになにか言われたのですか?」
その言葉にユウリは一瞬。それは本当に少しの間だった。
「いえ、何も? ただ、頑張ろうね、って言ってくれただけですよ。それがどうかしましたか?」
先程までのぎこちない笑顔が嘘のように、ユウリは笑って先生に答える。
だが、それが逆にわざとらしく、そして一瞬の動揺を見逃さなかった先生には嘘だと簡単に知る事ができた。
だが、先生は「そうですか」と言って納得したように見せる。判断してしまうには早すぎる。先生はそう考え、冷静に見るようにと努めておく。
「そうなんです本当に、あの子は優しい子なんです。それになんでも出来るの。凄いんですよ、私の自慢なんです」
今度は先程のようにわざとらしくも、なにかを誤魔化すような言い方でもなかった。ただ心から、真っ直ぐとユウリは宝物を見せるように大切そうに言った。
先生はそんなユウリの表情に言葉を失い、無理矢理視線を反らした。そんな先生に気付かないユウリは大切なあの子を想い、複雑そうな顔に変わっていた。
とある庭で。
「王子様は、面白い方なのですね!」
「そうか? そんな事、言われたことがないな」
そのときもやはり、ユカは楽しそうだった。王子様と呼ばれた金の髪を持つ美しい男は、最初に出会ったもう一人だ。
楽しそうに話す二人を他所にユウリの顔は晴れない。庭にある椅子に座り、ただ下を見つめている。
最近あまり体調が良くない。理由は明確で、食事も睡眠もあまり取れていないことにあった。
睡眠は恐らくストレスからだろうと容易に想像がついた。まだこの世界に馴れることができていないこと、そして大きなものはユカの態度によるものだろう。
ただ、食事は。
最近、配給されたりされなかったり。側に使える侍女も何故かユウリに冷たく、待遇が日に日に悪くなっていることが感じ取れる。
それを周りに悟らせないよう、ユウリは必死だった。出来が悪ければ、問題を起こせば、ユカの側に居られないかもしれない。それは長い間で沁み付けられた考え方だった。
ただ、ユカの前では無意識にその張りつめた気持ちも緩んでしまうようで。
「ユウリちゃん? どうしたのですか?」
甘い声で話しかけられ、ユウリの身体はビクリと震える。ユウリにはこの声がユカのものだと思えない。
「体調でも悪いのか?」
「い、いえ、なんでもありません」
「ユウリちゃん、なんだかおかしいのですよ……ユカ、すごく心配です」
心配、と言っておきながら、ユカの目は王子と呼んだその人しか入っていない。
王子も、目は美しいユカに奪われている。
「王子様、ユカ、ユウリちゃんが心配なので一緒にお部屋に帰りますね」
首をかしげ、さも仲がいいようにユウリと手をつなぐユカ。ユウリはどうすればいいのかわからないように視線を動かしている。
「王子様、今度お馬さんで遠乗りする約束、忘れないでくださいね!」
「ああ。約束だ」
美しい二人が、名残惜しそうに別れる姿は、まるで舞台の中のよう、とユウリは思う。
自分の存在が異物のようで、ユウリはただこの場に居ることが辛かった。
王子の目線から外れた途端、ユカの顔からは笑みが消えた。
「もう! ユウリのせいで台無し! せっかく王子様とお喋りできたのに!」
ユウリの体がこわばる。ユカの美しい顔が歪み、ユウリをまるで敵のように睨み付ける。
「ね、ねえゆ」
ユウリが言葉を続ける前に、ユウリの頬に軽い衝撃。――ユカに叩かれたのだ。
音が派手にしたわりには軽かったため痕にもならないだろうが、ユカに手を上げられたことがユウリにとっては信じられないほどの衝撃だった。
「口ごたえとか、要らないの。今まで仲良くしてあげたんだから、せいぜい私の引き立て役してね。お、ね、え、ちゃん?」
繋いでいた手は、いとも簡単に外されてしまった。なぜこうなってしまったのか。ユウリには分かる術も無かった。
ユカは、一緒に部屋に帰ると言ったのに、そのままユウリを置き去りにした。
胸が痛くて、叩かれた頬が熱くて、ユウリは涙を流す。泣いてはいけない。そう思う気持ちから、ユウリは声を出さずに、手を握り締めて悲しみの感情をやり過ごすように耐えた。
どれだけこの世界が辛かろうが、耐えられる。ユカがいるなら。けれど、ユカに冷たくされる、それだけのことがユウリには何よりも耐え難く、何よりも辛い。
ふわりと、冷たい布が頬に当てられる。
「ゆ……!」
期待と希望を込めたまなざしで、勢い良くユウリは振り返った。だが、その人はユウリの予想していた人ではなく、名前に続くはずだった言葉が消えていった。
「ユウリ様」
鈴を鳴らしたように響く静かに言われた名前が自分のことだと、一瞬わからなかった。
「聖女、様」
ユウリが勢いよく見た先には、美しい、だが、ユカとは違う美しさの少女が立っていた。
聖女と呼ばれた少女は、この世界で初めに出会った三人のうちの一人だ。
「ユカ様でなく、申し訳ありません」
眉を下げる銀髪の聖女は、ひどくすべてが洗練されているように感じる。ユウリは、ユカの他にこんなにも美しい少女を見たことがない。それでユカを思いだし、ユウリの思考はまた暗く沈む。
ユウリは冷たい布を受け取り、頬に当てる。
「聖女様。ありがとう、ございます」
戸惑いながらも、涙声にならぬようお礼を言うユウリに、聖女はホッとした様な顔を見せる。
そして次には、厳しい顔を見せた。
「ユカ様は、いつもあんな暴力を?」
「ち、違います!! 今まで叩かれた事なんてありませんでしたし、さっきも、私がきっと怒らせてしまっただけで!」
腕を振り、必死にユカを庇うが、少女は厳しい顔を崩さなかった。
「とてもそうは聞こえませんでした。話を聞いてしまっていて申し訳ありません。ですが!」
「違うんです」
ユウリの言葉を聞いても聖女は落ち着くことなく言葉を荒らげるが静かにユウリは遮った。
「あの子は、本当に優しい子なんです。本当は、あんなこと言わないんです」
なにかを思い出してか、ユウリは、綺麗に、優しく笑った。
「いい子なんですよ、あの子。優しくて、綺麗で、でも脆くて」
その心から優しい笑顔を見て、聖女はもう何も言えなくなった。ただ、ひた向きに妹を愛するユウリに切ないような悲しいような愛しいような、そんな複雑な気持ちを感じる。
「ユウリ様は、美しいですね」
聖女はなんともいえない表情でユウリにそう言った。他人に言われたことのない言葉に、ユウリは思わず涙も引っ込み狼狽える。
「美しいって、え、あの、え?」
そんな狼狽えたユウリに、聖女は控え目な笑い声を上げて、やっと優しい表情に戻る。
「ユウリ様、よろしければユウリと呼ばせて頂いても良いでしょうか? 私、貴女と仲良くなりたい」
戸惑ったような顔をしたまま、ユウリの口は開いて閉じてを繰り返すが、結局ユウリは赤くなった顔で、「こちらこそ、よろしくお願いします」と小さく言った。




