安土くんと桃山くん
女が扇情的な微笑を見せた。
「ほら、早く鳴いて見せて?」
ベビードール姿の彼女は、胸元に入ったスリットを抑えるリボンを右手ではずしながら、反対の手に持った鞭をちらつかせた。
ジョーンズさんが持っているようなタイプではなく、バラ鞭と呼ばれるハタキのような格好をした物だ。
その鞭の先を、目の前で四つん這いになっている男の背中に撫でるように這わせながら、女は優しい声で男に告げる。
「可愛い可愛い私のブタくん。さあ、鳴いて?」
「ぶ、ぶー」
目を潤ませながら、男が躊躇いがちに鳴き声をあげる。
満足そうに女の顔に笑みが浮かぶが、直ぐに吐き捨てた唾を見るような目で男を睨む。
「ブタは死ね!」
その言葉と共に勢いよく振るわれた鞭が、男の背中に赤い暴力の跡を作っていく。
「ア、アヒィィィィィ―――」
痛みが抗いがたい理不尽な喜悦となり、男の口から幸せそうな悲鳴が漏れた。
「ただいま」
「おかえり」
扉が開いて上がった帰宅の声に、振り返ることなく答えた。
意識は未だ原稿上の倒錯的な世界に没入している。
「ほら、消しゴム」
そっけなく放られた石油製品を受け取って、簡潔に礼を言った。
「ありがと」
「……」
視線は下にやったままパッケージを破っていると、見られている感触がして安土は顔を上げた。
「ん、なに?」
眉を顰めながら原稿を見つめていた桃山修吾が、口の端をゆがめながら言った。
「お前……まだこんなの描いてんのか?」
「は? なに? 君、僕のお父さん?」
笑い声を混ぜながら言うと、不機嫌そうに鼻を鳴らす。
「いや、そうじゃなくて、こんなの誰が見るんだ?」
こんなのと評されて、今度は安土が少し不機嫌になる。
現在、安土敦は悪美と言うペンネームで、漫画家業をやっていた。
主に成人誌の仕事が多く、今は月一でSM色の強い雑誌に載せるための原稿を仕上げていた。
「誰がって、誰でも読んでるよ。お医者さんとか、弁護士さんとか……小学校の先生なんて人も居たかな?」
送られてきたファンメールの中から、殊更に社会的信用の有りそうな職業を指折り数えてやると、修吾の顔が信じられないというような表情になる。
「……まさか」
「あのねえ…」
呆れたような声に、桃山が怯んだ。
「性癖ってのは宗教と同じなの。何を信じてるか外面だけじゃ分かんないし、何を信じていようと誰に咎め立てされるいわれはないよ」
「しかし……」
と言葉を残してみたところで、接ぎ穂が見つからない。
ようやっと口をついて出てきたのは、あまり面白くはない意見だった。
「こう言うのは社会の害悪だろう。犯罪を助長させたり、あー、あれだ、幼児趣味とか」
「犯罪までやっちゃうヤツは、趣味うんぬんより先に人間性の問題。ロリコンじゃなくったって犯罪者は居るし、SM趣味があったってまともに社会生活送ってる人は何人も居るよ。こういう漫画は、本来そういう人たちの抑圧された欲求の捌け口としてあるモノなの」
目の前に突きつけるようにした原稿を、安土は指で弾いた。
「他には何か?」
「あー、いや」
冷たく言うと、気まずそうに桃山は唸った。
何も自分が善良なものを描いているとは安土も思っていない。
ただ、仕事に対して多少のプライドはあったし、自分のやっている事を良く知りもせず否定されるのは誰だって面白くない筈だ。
そのことに気づいたのか、桃山は頭を掻きながら謝ってきた。
「悪かった」
「……はあ、まあ良いけどね」
息をつくようにして言ってやると、あからさまにホッとしている。
きっと、こういう所があるから、未だに友情が続いているのだろう。
先走ったような発言も多いが、根は悪いやつではないのだ。
そんな事を思っていると、今度は打って変わって感心したような声を出し始めた。
「それにしても、凄い想像力だな。絵も上手だし」
原稿を見ながら、心底と言った感じで声にした。
コレで、機嫌をとろうとしているわけではないのだから、安土などは不思議でならない。
しばらく異世界の住人を見るような視線を送った後、答えた。
「あ、えーと、別に想像で書いて無いよ。僕体験したことでないと描けないタイプだし」
「よし、ちょっと待とうか」
実は、このことは担当編集も知らない事だったりする。
がばっと上体を上げて、桃山の顔色が変わった。
「お前コレ経験してるのか?」
「うん」
「あー……その、どっちを?」
「どっちって、どっちもかな」
「どっ……ちも…か」
「うん。どっちも」
なんとも懐の広い返答に、衝撃を受けたようだ。
「あ、し、しかし、実際体験しないと描けないようなヤツは二流だと言うのを聴いた事があるぞ」
「ふーん、そうなんだ。でも僕二流どころか三流だし」
そう言って、原稿に視線を落とした。
SM雑誌に送られるはずのそれは、細く繊細な線で描かれており、どちらかと言えば少女マンガのタッチに近い。
そこが受けてるんですよ、などと担当は言ってくれるが、技術的にはまだまだ未熟もいいトコだ。
「あ、あ、あ、諦めるな! 向上心を持って自分を高めなければ……」
何かワタワタしだした桃山の声を遮るように、室内に引いてきている電話が鳴った。
「あ、電話だ」
分かりきった事を言いながら安土は立ち上がると、まだ何か言っている桃山を無視して受話器を持ち上げた。
「はい」
「あ、どうも、東西出版の高坂です」
「ああ、おはようございます」
相手は担当の編集者だった。
漫画家としての安土を見出してくれた人で、付き合いはかなり長い。
「原稿の方はいかがでしょうか」
「順調に進んでますよ」
コレは漫画家お決まりのやり取りのようなもので、
儲かりまっか→ぼちぼちでんな。
オバちゃんコレいくら?→はいよ三百万円。
とっととその金さんってのを連れてきてもらおうか!→おうおうおう、さっきから聞いてりゃあ好き勝手言いやが……以下略。
これらと同じものだ。
「そうですか。まあ、先生はいつもきっちり原稿上げてくださいますからそこら辺は信用してます」
安土に限って言えば、真実を言っているだけに過ぎない。
「あ、それでですね。実は先生に折り入ってお願いがあるんです」
「お願い?」
何となく、受話器の向こう側の声の雰囲気が変わった。
「ウチが出してる、トゥルーって雑誌ご存知ですか?」
……知っている。
手広くやっている東西の中でも、いまや三番手くらいになりつつある雑誌だ。
「知ってます。それってBL雑誌ですよね」
この場合のBLとは、ボーイズラブの略で、大きく、誤解を承知で、簡単に言うと(どんだけ怖がってんだ)……ホモ漫画のことだ。
最近では、書店で綺麗な少年同士が絡んでいる耽美なイラストをした表紙を見かけることも多くなったと思うが。つまり、アレ。
「そうですそうです。このトゥルーの編集長が、是非先生に原稿をお願いしたいと言ってまして」
「え? でも、僕アゴ尖ってないですけど…」
「は? えと、あ、いや、何も先生のアゴが尖っている必要はないんですけど」
不思議そうに返されて、そうなんだ、と一人ごちる。
「で、いかがでしょうか?」
「いかがでしょうか? …あ、ああ、そっか。えっと、それが……」
と、言いかけて、安土は後ろを振り返った。
フーと息をつきながら、胸の前で十字を切っている桃山の姿が見える。仏教徒の癖に。
「………先生?」
いぶかしげな声がかかって、視線を残したまま、安土は返事をした。
「はいはい」
「いや、はいはいでなくて。どうでしょう? 受けてくださると本当にありがたいんですが」
「そうですねー………………」
高坂の言葉の調子から言って、何かしらのトラブルが有ったらしい。
おそらく、掲載を予定していた他の漫画家の都合が悪くなったとか、そういう具合だろう。
(うーん…)
頭の中で、少し計算してみる。
住環境で、いくら桃山と二人でルームシェアしているからといって、お金――仕事はあるにこした事はない。
技術面から言っても修行にはなるはずだし。
それに、どうやら出版社に恩も売れるらしい。
大きな問題が一つあるが……。
そこまで考えて、安土は頷いた。
幾らか不安は残るものの、生来の楽観主義が肯定的な返事をさせた。
「分かりました。そのお話受けさせてもらいます」
「本当ですか!」
嬉しそうな声が、ありがとうございます! と続く。
いえいえ、なんて答えていたが、すぐに不安そうに聞いて来た。
「あー、でも大丈夫ですか? BLは先生初めてでしょう?」
勿論、色んな意味でその通りだ。
「そのー、抵抗ないですか?」
安土は送話口を押さえて、チラリと桃山の方へと視線をやる。
「抵抗……んー、腕っ節はそう強くない方だと思うけど」
「……は?」
「いやいや、こっちの話」
その、こっちの話側では、桃山が壁に向って祈りの儀式を始めていた。
「…はは、心配だったら、高坂さんも祈ってて」
「……は、はあ……」
どこか合点のいかない様な高坂の声を聞きながら、安土は思った。
だから、お前は仏教徒だろ。
読んで頂いてありがとうございます。
書きました、中路です。
昔、作中で桃山が言っていた、体験したことしか書けない奴は――みたいなことを何かで目にした時に、じゃあ、会社からとんでもない依頼が来たら大変だろうなーと思ったのがこのお話しのキッカケでございます。
基本的に僕の書く短編は出オチみたいな内容が多く、その後の展開力が、まー無いんですが、その最たるものになってしまいました(笑)
お暇つぶしにでもなれば幸いです。
それでは、読んで下さってありがとうございました。