第1話 「廃品回収所の、雪の匂い」
しおりは、本の匂いで季節がわかる。
夏の文庫本は、日焼け止めと汗と冷房の匂い。 冬の単行本は、暖房で乾いた紙とココアの匂い。
そして——今、しおりの鞄の中で息をひそめている一冊は。
雪の匂いがした。
四月なのに。
「しおりちゃん、遅刻するよー!」
団子坂を駆け上がる幼馴染の声を、しおりは半歩遅れて追いかけた。
千駄木の朝は、坂と本屋と、猫の匂いでできている。祖父が営む古書店『綴葉堂』の看板を横目に、しおりは制服のリボンを結び直す。
「ごめん、ちょっと寄り道」
「またぁ? 廃品回収の日でしょ、しおりちゃんそれ、癖になってるって!」
癖、ではない。
呼ばれるのだ。
捨てられた本たちに。
――誰か、最後に読んで。
そんな声が、聴こえる気がして。
住宅街の角の集積所に、それは無造作に積まれていた。
古雑誌の束、破れたカタログ、色褪せた学習ドリル——その一番下に。
和綴じの、黒い本。
雪の匂いの、本。
しおりは、しゃがみ込んだ。
指先が、震えた。
こんなに強い声は、初めてだった。
表紙に、題箋はない。 背に、書名もない。
ただ、裏表紙の隅に、掠れた朱印で——
『黙秘録』
しおりは、そっと、その表紙に指を這わせた。
とたん。
——ざぁっ、と、雪の音がした。
『焼け。全部、焼け』
低い、押し殺した男の声。
石造りの、地下。ランプの灯。 床に積まれているのは、数百冊の、和装本。
若い司書が、震える手で、その一冊を火にくべる。 ページが、めくれ、燃え、灰になる。
「……申し訳、ございません」
司書は、泣いていた。 自分が焼いている本たちに、頭を下げながら、泣いていた。
『これは、命令だ。読んではならぬ本だ』
『……はい』
『わかっているな。この地下にあったことは、忘れろ』
司書は、頷いた。 そして、こっそりと。 上着の内側に、たった一冊だけ。
——黒い和綴じの本を、隠した。
外に出ると、雪が降っていた。
明治四十二年、二月の——
「しおりちゃん!!」
肩を、揺さぶられた。
しおりは、集積所の前に、へたり込んでいた。 頬に、涙が伝っていた。
「ど、どうしたの、大丈夫!? 具合悪い!?」
「……ううん。ううん、平気」
しおりは、和綴じの本を、そっと胸に抱いた。
あたたかい。
まるで、百年ぶりに、誰かに抱きしめられたみたいに。
「それ、拾うの? ボロボロだよ?」
「……うん。この子、拾う」
「この子て」
幼馴染は呆れたように笑って、先に行ってしまった。
しおりは、鞄に本を入れた。
そのとき——気づいた。
最後の頁。 そこだけ、まっさらな和紙のはずだったのに。
濡れたばかりのような、黒い墨で。
一行、書かれていた。
『きみが、次のしおり係だ』
しおりは、息を、呑んだ。
自分の名前を、知っている。
百年前の、本が。
「……え?」
集積所の、隣。
さっきまで積まれていたはずの、古雑誌の束が、消えていた。
回収車は、まだ来ていない。 道の先には、誰もいない。
ただ、地面に。
うっすらと、雪が、積もっていた。
四月の、千駄木に。
しおりの、スマートフォンが、震えた。
学校からの、一斉メール。
『本日、二年A組・朝倉柊くんは欠席となります。理由:本人と連絡が取れないため』
朝倉、柊。
図書委員長。
本を、一冊も読まないくせに、毎朝、図書室の鍵を開けている、あの、朝倉くん。
しおりは、鞄の中の『黙秘録』を、そっと押さえた。
本は。
——まだ、雪の匂いがした。




