からっぽのがくふ
ピアノを習ったことがある人や、音楽の時間で歌を歌ったことがある人は、「がくふ」というものを知っているだろう。がくふは、音楽をする時にはたいてい使うものだ。よく使われるがくふには、五本の線が引いてあり、おたまじゃくしのような黒いおんぷが、いろんな形のしっぽを生やしておよいでいる。おんぷには「ド」とか「レ」とか「ミ」とか、それぞれ名前がついていて、どんな歌を歌えばいいのか、みんなに教えてくれるのだ。
さて、世界には、ほんとうにいろんな音楽がある。たとえば、わたしたちのくらす日本には、おことやしゃくはち、ひちりきを使った昔からの音楽や、子どもの歌うどうよう。テレビにうつるアイドルが歌う、はやりの歌などがある。インドネシアには、ガムランというたいこを軽やかにたたく音楽。モンゴルには、ホーミー。ポルカにワルツ、メヌエット。タンゴにボサノバ、ヒップホップ。
天国から世界中を見守っている神様は、そんなたくさんの音楽が大好きだった。天使たちにオーケストラの楽器をひいてもらったり、ニューヨークで今人気がある音楽を再生したりして、いつも音楽を楽しんでいた。
神様のしゅみは、いろいろながくふを集めることだった。天国には、多くの人間がやってくる。そんな人間たちにたのんで、自分の周りではやっていた音楽などのがくふを、持ってきてもらうのだ。そして、もらったがくふは、雲から作ったとくべつな紙にコピーして、ぶあつい1冊のがくふにした。そのがくふには今まで集めたありとあらゆる音楽がぎゅとつまっていて、ぱらぱらとめくると神様の耳にすてきな音楽が聞こえてくるのだった。
がくふにつめこまれた音楽は、神様のものになった。音楽好きな神様のためだけに歌い、奏で、打った。そのがくふに収められた音楽は作者の頭には戻ってこられなくなるが、たいていは天国にやってきた者の音楽だったので、気にする者は少なかった。けれど中には、地上を飛び回る妖精がさらってきた、素敵で無名な音楽もたくさん入っていた。
ある時天国に、わるい魔法使いがこっそりとしのびこんだ。天国の門は天使がきびしく見張っているのだが、魔法使いはじゅうたんにのって、ふわふわの雲にもぞもぞともぐりこみながら天国に入り込んだのだ。
雲の上に顔を出した魔法使いは、天国があまりにもうつくしいながめだったので、感心した。ふかふかの白い雲のじゅうたんの上に、金色の宮殿がそびえ立ち、その回りを真っ白な鳥のむれがセレナーデを歌いながら飛び回っていた。今までかいだことのないような、かぐわしいにおいがただよっていた。
魔法使いはしばらくぼうっと天国の光景をながめていたが、自分の目的を思い出し、あわてて雲の上にはいあがった。
魔法使いがねらっていたのはただ一つ、神様が大切にしているあの大きながくふだった。がくふがどこにあるのか知るために、魔法使いは占いをした。水晶玉によると、がくふは神様がねむる部屋の、たんすの奥にしまってあるらしい。魔法使いは神様の部屋をめざして、天国の道を歩いた。
天国には良い人々の魂や天使が歩き回っていて、たがいにあいさつをかわしていた。魔法使いも何度か声をかけられ、そのたびにどきりとしながら、そしらぬ顔であいさつを返した。昔亡くなった作曲家や演奏家もたくさんいた。彼らはきっと、神様のお気に入りなのだろう。
やっと見つけたがくふは、おそろしくふくらんでいた。なにしろ、今も増えつつある音楽がすべて入っているというのだから。魔法使いは、ごくりと息をのみ、がくふの最初のページを開いた。
そのページにのっていたがくふは、「さくらさくら」だった。日本の歌だ。次のページは、ビートルズの「ヘルプ!」だ。魔法使いがページをめくるたびに、ゆたかな音楽が流れた。
魔法使いはしばらく、きいたことのない音楽を楽しんでいたが、部屋の前を通りかかる天使の足音にはっとした。そして、がくふにむかって魔法の呪文をとなえた。
「すべての音楽よ、かごからぬけだして自由に飛んでいけ!」
すると、がくふの中にびっしりと入っていたおんぷたちはぞろぞろとぬけだし、歌いながら天国を飛び出した。そこでやっと天使たちは異変に気がつき、神様の部屋にかけつけた。
部屋のとびらを開けて、天使たちはおどろいた。知らない男が部屋の中にいて、神様が何よりも大事にしていたがくふがからっぽになっている!
天使たちにつかまった魔法使いは、怒り狂う神様によって、がくふの中の五本の線の中に閉じ込められた。神様は、二度と彼を出してやらないつもりだ。
さて、魔法使いによってがくふを飛び出した音楽は、どこにいったのだろう?
自由になった音楽は、世界中を勝手気ままに飛び回った。くるくるとつむじ風にのっかって遊び、つかれた時は草むらにころんと転がって休んだ。なにしろ、自由になったのはずいぶん久しぶりだったのだ。きゅうくつながくふの中から逃げ出すことができたことをよろこび、ちぢこまっていた体をうんとのばした。
さんざんあちこちを飛び回った音楽は、ある男の子の元へやってきた。彼は、笛を吹くのが大好きで、自分で曲を作ることもあった。けれど、作った曲はみんな神様の元へ届けられてしまうので、ころっと忘れてまた次の曲を作り続けるのだった。
そしてたまたま、男の子はあのわるい魔法使いの家の近くに住んでいた。
一人で笛を吹く男の子の肩にのったのは、彼自身が作った音楽たちだった。男の子は自分の音楽を思い出し、楽しく笛を吹いた。けれど、いつも笛を吹く時、聴きにきてくれた近所の魔法使いが今夜はいないことを、さびしく思った。
それから何十年もたって、男の子__いや、笛を吹く男は、天国にいくことになった。
笛吹きは神様や天使に大歓迎された。立派な家と、おいしい料理、そして上等な笛を与えられた。
神様は、さっそく笛吹きを自分の部屋に招いた。神様に命じられ、笛吹きは美しい音楽をいくつも披露した。
演奏する歌が尽きてきたころ、笛吹きは部屋の中に一冊のがくふがあることに気づき、そっと開いた。そしておどろいた。
がくふの中に音楽はなく、そこに閉じ込められていたのは、昔なじみの、あの魔法使いだった。貧しい子どもだったころ、魔法使いにとてもよくしてもらったことをすぐに思い出し、思わず涙がこぼれ落ちた。
笛吹きは音楽を奏で続けながら、魔法使いをがくふの中から救い出した。そして神様たちがうっとりと目を閉じて聞き入っている間に、魔法使いを雲の中にかくした。
笛吹きが演奏を終えた後、神様はすぐに魔法使いが逃げ出したことに気がついた。怒ってあちこち探し回る神様に、笛吹きはこう言った。
「ぼくが、あなたたちのために音楽を作ってあげましょう。そうして、またあのがくふを、うつくしい音楽でいっぱいにすればいいではありませんか」
神様は大喜びし、逃げ出した魔法使いを追いかけ回すのをやめた。
笛吹きは、魔法使いのために即興で音楽を作った。銀色の大きな翼を広げた白馬の姿をしたその音楽の背に、雲の中から出てきた魔法使いを乗せてやった。
「さあ! どうぞ、下界へ帰ってください」
魔法使いは
「君もだ」
と笛吹きに言った。けれど、笛吹きは笑って首を振った。
「僕は、神様のためにここに残ります。またいつか、会いましょう。その時まで、待っています」
魔法使いはゆっくりとうなずいた。
「ああ、また」
魔法使いを背にのせて飛びたつ、美しい音楽を見送ってから、笛吹きは雲の上で笛を吹き始めた。友達にまた会える、その日を気長に待ちながら。




