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第八話:呼べない名の代わりに、残ったもの

セドリックの忘却は、完全ではなかった。

 彼は公爵家の仕事も覚えている。剣も握れる。命令も出せる。

 ――ただ、私の“名前”だけが抜け落ちた。


「……なぜ、そこだけ」


 私は食堂のパンをちぎりながら言った。

 口に入れても味が薄い。


 セドリックは私の皿に、いつも通り苺のジャムを置く。


「そこだけが、俺にとって……重要すぎたのかもしれない」


 重要すぎた。

 その言葉が、胸を温めた。


「ねえ、セドリック。私たち、合図を増やしませんか」


「合図」


「うん。鈴だけじゃなくて」


 私は自分の灯りを一つ取り出し、机の上に置いた。

 炎がふわりと揺れる。


「この灯りが揺れたら、あなたは私を見る」


「見る」


「見て、守る」


「守る」


 復唱するみたいに言うセドリックに、私は笑った。

 この人は、言葉を失っても、関係を作ろうとする。


 そこへ、神官レオニスが再訪した。

 あの正しい笑顔。


「状況は理解しました。公爵様の記憶が削れている。――だからこそ、隔離が最適です」


「隔離はしない」


 セドリックが淡々と言う。


「公爵様。あなたは“彼女”を覚えていない。なら感情的な執着もない。ここで手放せば、被害は最小になります」


 レオニスの正論は、相変わらず痛い。


 私は立ち上がり、言った。


「神官様。あなたの言うことは正しいです」


 レオニスが満足そうに微笑む。


「でしょう」


「でも」


 私は続ける。


「正しさって、いつも“私の人生”を置き去りにするんですね」


 レオニスの眉がわずかに動く。


「私は、もう置き去りにされたくない。だから、ここにいます」


「あなたがここにいれば、公爵家の名が汚れる」


「汚れるのは、私のせいじゃないです」


 私は静かに言った。


「汚れって、見る人の目で決まる。……それなら、私は汚れを灯りで照らして、正体を見たい」


 セドリックがこちらを見た。

 名は出ない。けれど、目が“誇らしい”と言っている気がした。


 レオニスはため息をついた。


「……あなたは強い。でも、強さは時に周りを壊す」


「壊さない方法を、私たちは探します」


 そのとき、セドリックが初めてレオニスに言った。


「神官。正しさは、守るためにあるはずだ」


 レオニスが少し驚いた顔をする。


「……あなたは、彼女の名も知らないのに」


 セドリックは、私を見る。

 そして、短く言う。


「名より先に、俺はこの人を守ると決めた」


 建前じゃない。

 覚悟がにじむ言葉。


 レオニスは静かに頭を下げた。


「……分かりました。では、あなた方が“正しさ”に勝ってください。私は、結果だけを見る」


 扉が閉まる。

 私は椅子に座り直し、息を吐いた。


「セドリック、ありがとう」


 名を呼ぶ。

 彼は少しだけ肩を落とす。


「……その呼び方は、心が落ち着く」


「そうなんだ」


「俺の名は、覚えているのに」


「あなたが大事にしてきたものだから」


 私は灯りを見つめた。

 そして、初めて口にする。


「ねえ。私の期限、もうすぐ冬至です」


「冬至」


「うん。……私の名前がほどける日」


 セドリックの手が、机の上で止まった。


「……方法はある」


「方法?」


「俺が、おまえの名を“刻む”」


 その言葉に、胸が跳ねる。


「刻むって……」


「呼べないなら、書く。触れる。残す。……手を取る」


 私は頬が熱くなる。


「それ、建前じゃないですね」


「建前じゃない」


 彼は鈴を鳴らした。

 澄んだ音が広がる。


「……明日、冬至の前夜だ。やりたいことを言え」


 私は笑って答えた。


「夜市のスープが飲みたいです。あなたと」


 セドリックは頷く。


「行く」


 ――そして私は、心の中で小さく祈った。

 どうか、冬至を越えた先も、この人の隣にいられますように。

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― 新着の感想 ―
名前を失っても失われない“選択”と“行動”が、物語の芯として強く立ち上がる回でした。 正論に対抗する言葉が感情論ではなく、生き方として提示されているのが美しいです。 「名より先に守ると決めた」という一…
第八話、読んでいて胸の奥がじんわり熱くなりました。 忘却が完全ではない、という事実がまず切なくて、 それでも苺のジャムを置く仕草や、復唱するような言葉に、 セドリック様の“残っているもの”が確かに感…
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