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第七話:忘却の朝、あなたは私を知らない

朝の光は、いつもより白かった。

 窓の外の雪が、世界の色を消している。


 私はベッドから起き上がり、鈴を探した。

 ――手が、空を掴む。


「……ない」


 枕元に置いたはずの鈴がない。

 胸の奥が冷える。


 部屋の外に出ると、廊下の向こうから足音がした。

 セドリックだ。いつもの歩幅。いつもの静けさ。


「セドリック……!」


 呼んだ。

 彼がこちらを見る。


 その目が、私を“知らない”目だった。


「……誰だ」


 呼吸が止まる。

 喉が痛い。


「……リラです」


「リラ?」


 彼は眉をひそめる。

 困惑ではなく、情報を整理する顔。


「公爵様!」


 執事オルフェンが駆け寄る。


「その方は、リラ様です。あなたが――」


「待て」


 セドリックが、執事の言葉を切る。


「……説明は後だ。今は、彼女を座らせろ。顔色が悪い」


 そう言って、彼は私の背中に手を添えた。

 触れ方は同じ。

 “知らない”のに、守る動きだけは変わらない。


 私は泣きそうになって笑った。


「……あなた、ひどい」


「ひどい?」


「……私のこと、忘れたくせに」


 セドリックは真剣な顔で言う。


「忘れたくて忘れたわけではない」


 その言葉が、胸を刺す。

 忘却。喪失。

 これが、私たちの一度目の“喪失”だ。


 呪術師の老婆が現れ、印を見る。


「……来たか。忘却の反動だ。男の方の記憶が削れておる」


「なぜ俺が」


「契約に触れた者が、代償を分け合うことがある。おまえは……覚悟を決めすぎた」


 セドリックは唇を結ぶ。


「……俺は何をすべきだ」


「呼べ。だが“名”が出てこないなら、行動で繋げ」


 私は震える指で、セドリックの袖を掴んだ。


「セドリック、鈴が……」


「鈴?」


 彼は首を傾げる。

 私は胸の奥が冷たくなる。

 でも、そのとき――。


 セドリックのポケットから、澄んだ音がした。

 銀の鈴。彼が持っていた。


 彼は驚いた顔で鈴を取り出し、私を見る。


「……これが、おまえのものか」


「……私たちの合図です」


「合図」


 彼は鈴を軽く鳴らす。

 音が、空気を切って広がる。

 私の胸の奥が、ほんの少し温かくなる。


「……俺は、この音を知っている」


 セドリックが、鈴を握りしめた。


「なのに、名前が出てこない」


 私は息を吸った。


「いいです。名前が出なくても」


「良くない」


「良いんです」


 私は彼の前に立ち、目を見て言った。


「あなたが私を守ってくれること、忘れてないから」


 セドリックの目が、ほんのわずかに揺れた。

 そして、低い声で言う。


「……おまえは、俺にとって“守るべき者”だ」


「建前でも、今はそれでいいです」


 私は笑う。

 泣きそうなまま。


「ただ、今日だけは……私を一人にしないで」


 セドリックは頷いた。


「しない」


 短い。

 でも、確かだった。


 ――その日の夜。

 私は灯りを枕元に置き、鈴を握って眠った。

 隣でセドリックが低い声で何度も言う。


「……大丈夫だ」


 名は呼べない。

 でも、“大丈夫”だけは言える。

 それが、私の灯りになった。

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― 新着の感想 ―
記憶喪失という形で“代償”が反転し、物語が一気に切実さを増した回でした。 名前を失ってもなお残る所作や守る動きが、セドリックの本質を鮮やかに浮かび上がらせます。 呼べなくてもそばにいる、という新しい灯…
第七話、読後しばらく動けませんでした。 朝の光が白い、という一文から始まる不穏さが、 そのまま心臓を締めつける展開に繋がっていて、本当に苦しかったです。 「――誰だ」 この一言が、これまで積み重ね…
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