第五話:名を呼ぶ練習、夜更けの灯り
その夜、私はセドリックの部屋に呼ばれた。
扉を開けると、机の上に紙が並んでいる。
「……何ですか、これ」
「練習だ」
「練習?」
紙には、いろんな呼び方が書かれていた。
リラ
リラ・フェルミナ(私のフルネーム)
灯り売り
君
おまえ
私は思わず笑った。
「セドリック様、真面目すぎません?」
「必要だ」
「また建前?」
「……必要だ」
同じ言い方なのに、少しだけ柔らかい。
セドリックは一枚の紙を指で叩いた。
「“名前喪失”は、呼ばれなくなることが引き金だ。なら、呼び方を固定する。迷いをなくす」
「私の名前を、呼び間違えないように?」
「そうだ」
……優しさが不器用だ。
「でも、呼び方って、気持ちも入りますよ」
「気持ち?」
「はい。……名前って、温度です」
セドリックが少し考える顔をした。
「……温度なら、俺は」
言いかけて止まる。
私は待つ。追い詰めない。
セドリックは、机の引き出しから小さな銀の鈴を出した。
指先で揺らすと、澄んだ音がする。
「これを、合図にする」
「合図?」
「もし俺が……忘れても」
その言葉に、胸がきゅっとなる。
「忘れても、この音が鳴ったら、俺はおまえを見る。……見ることは、できる」
「セドリック様」
「言葉は遅れるかもしれない。だが、行動は遅らせない」
私は鈴を受け取った。冷たい銀が、掌で少しずつ温まる。
「……大事にします」
セドリックは頷き、私を見た。
「リラ」
「はい」
「もう一度」
「……はい」
呼ばれるたび、胸の奥がほぐれる。
それが嬉しくて、怖い。
私は小さく言った。
「ねえ、セドリック様。もし私が消えたら」
「消えさせない」
「建前じゃなくて?」
「……建前じゃない」
セドリックは立ち上がり、暖炉の前に私を連れていった。
火の前は熱い。頬が温かい。
「リラ。俺は……怖い」
その告白が、意外すぎた。
「……私が消えるのが」
無口な人が、やっと言葉にした恐怖。
私は鈴を握りしめる。
「私も怖いです。でも」
私は火を見つめる。
「私、怖いままでも、笑います。好きに生きるって決めたから」
セドリックは、ほんの少しだけ目を細めた。
「……それが、おまえの強さだな」
その夜、私は部屋に戻る前に言った。
「セドリック様。今日のやりたいこと、追加していいですか」
「言え」
「……“名前を呼ばれる”だけじゃなくて」
私は鈴を揺らす。
「“私があなたを呼ぶ”も、増やしたいです」
セドリックの目が、少しだけ揺れた。
「……呼べ」
私は息を吸って、言う。
「セドリック」
名を呼んだ瞬間、彼の肩がわずかに緩んだ。
――それが、私の見たかった温度だった。




