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第三話「契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした」

第三話:やりたいことリストは、パンの香りから


 翌朝、目を覚ますと、部屋の外がやけに静かだった。

 窓を開けると、冷たい空気に混じって、焼きたての香りがする。


「……パン?」


 廊下へ出ると、執事オルフェンが笑っていた。


「厨房が、リラ様のために焼きました。公爵様の指示で」


「え」


「“小さな幸福を積む”とおっしゃいまして」


 言ったの、あの無口な人?


 食堂に入ると、セドリックが既に座っていた。

 黒い服。背筋はまっすぐ。机の上のパンだけが、場違いなくらい柔らかい。


「おはようございます」


「……おはよう、リラ」


 呼んだ。

 それだけで、朝の寒さが薄くなる。


 パンを割ると、湯気が立つ。

 バターが溶け、甘い香りが広がる。

 私は思わず笑った。


「おいしい……」


「そうか」


「……セドリック様は、食べないんですか」


「食べる」


 そう言いながら、彼は自分の分ではなく、私の皿にジャムを置いた。


「……苺」


「好きだろう」


「どうして知ってるんですか」


「昨夜、執事が言っていた。夜市の屋台で、苺の菓子をよく見ていたと」


 監視じゃない。気にしている。

 その違いが、胸に優しく落ちる。


「今日、王都の市場へ行く」


「え、外に?」


「おまえの“やりたいこと”を聞く。……作れ」


「やりたいこと……」


 私はパンをかじりながら考えた。

 一年後、名前を失う。存在がほどける。

 なら、その前に――。


「……焼き窯を見たいです」


「焼き窯?」


「夜市のパン屋さん、朝は窯の前がすごく温かいんです。そこにいるだけで幸せで」


「分かった」


 即答だった。


 市場は賑やかだった。

 干し肉の匂い、香草、鉄の音。

 セドリックは目立つのに、余計な威圧感がない。人の流れを読み、私がぶつからない位置に立つ。


「……こっち」


 私の肩を掴むのではなく、腰の少し前の空気を“塞ぐ”ように手を出して、私を守る。

 触れないのに、守られている。


「公爵様、そんなに近いと……」


「危ない」


「建前?」


「……必要だ」


 私は笑った。

 セドリックは不機嫌そうに見せかけて、私の足元の水たまりを先に踏んでくれる。

 革靴が濡れても、顔色一つ変えない。


 焼き窯の前は、本当に温かかった。

 石の熱が頬を撫でる。

 パン屋の親方が笑う。


「嬢ちゃん、いつも灯り売ってる子だな。今日は貴族様と一緒か」


「えっと、はい」


 セドリックが口を開く。


「……彼女は俺の」


 言いかけて止まる。

 建前の言葉を探している。

 親方が楽しそうに目を細めた。


「へえ、なるほどな。言わなくても分かるってやつか」


 セドリックの耳が、また少し赤い。


 帰り道、私は小さな紙に“やりたいこと”を箇条書きにした。


・焼き窯の前で息をする

・夜市のスープを飲む

・冬の川辺で灯りを流す

・……名前を、たくさん呼ばれる


 最後の一行を書いて、私は慌てて線で消した。

 なのに、セドリックが覗き込む。


「今、消したな」


「……消してません」


「消した」


 私は頬が熱くなる。


「……恥ずかしいからです」


「恥ずかしいことではない」


「私にとっては恥ずかしいです!」


 セドリックは、少しだけ目を細めた。


「リラ。呼ぶ」


 人混みの中で、彼が私の名を呼んだ。

 胸の奥が、ぱっと灯った。


「……はい」


 その瞬間、紙の上の消したはずの一行が、心の中でくっきり浮かぶ。

 ――私は、この人に呼ばれたい。


 そして、遠くの鐘が鳴った。

 冬至まで、あと――。

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― 新着の感想 ―
日常の小さな幸福が丁寧に積み重なって、切なさがいっそう際立つ回でした。 パンの香りや市場の描写が温度を持っていて、「生きている時間」を読者にも実感させます。 セドリックの無言の配慮と、リラが“呼ばれた…
第三話、読んでいてずっと胸が温かかったです。 パンの香りから始まる朝が、こんなにも“生きている実感”に満ちているなんて。 「小さな幸福を積む」という言葉が、ここまで自然に物語に溶け込むのが本当に素敵…
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