第一話「契約の代償で名前を失うらしいので、無口な公爵様に毎日呼んでもらうことにした」
<第一話:灯り売りの夜、期限の告知>
王都の夜市は、いつも少しだけ甘い匂いがする。
焼き砂糖が焦げる匂いと、香草入りのスープの湯気、雨上がりの石畳の冷たさ。灯り売りの私は、その全部を胸いっぱいに吸い込みながら、籠の中の小さな光を揺らして歩く。
「灯りはいかがですか。指先ほどの炎で、夜が少し優しくなりますよ」
声を張りすぎないのは、客が怖がるからだ。夜市の人々は賑やかだけれど、誰もが自分の疲れを抱えている。私はその疲れの隣に、そっと灯りを置けたらいいと思っている。
――その夜、私は倒れている人を拾った。
路地の奥。屋台の喧騒から外れた場所に、黒い外套の青年がうずくまっていた。髪は濡れて額に張りつき、呼吸が浅い。
貴族のものだと分かる刺繍が、肩口にだけ見えた。助けたら面倒に巻き込まれるかもしれない。そう思ったのに、足が止まった。
だって、手が震えていたから。
寒さなのか、痛みなのか――それでも彼は、誰にも助けを求めない顔をしていた。
「……大丈夫ですか」
返事はない。
私は迷わず、籠から一つ灯りを取り出し、彼の手元に置いた。小さな炎が、雨の匂いの中でふわりと浮く。
「これ、熱くはないです。温かいだけ。……ね、少し呼吸しやすい」
灯りは魔道具だ。持ち主の体温に合わせて、じんわり温度を変える。私が作るものは派手じゃないけれど、夜に寄り添うのは得意だ。
青年のまつ毛が、わずかに揺れた。
「……誰だ」
低い声。喉が乾いている。
私はしゃがみ込み、口元に水筒を差し出した。
「灯り売りのリラです。まずは飲んで。ここ、冷えます」
青年は一瞬だけ躊躇して、それから水を飲んだ。
指が長い。手が――驚くほど冷たい。
「家は、どちらですか」
「……公爵街」
公爵街。冗談じゃない。
王都の中心、門がいくつもある世界。私の靴で踏む石畳とは、磨かれ方が違う場所。
「……歩けます?」
「……歩ける」
そう言いながら、青年は立ち上がろうとして膝を折った。
私は肩を貸した。重さに息が詰まる。それでも、彼は黙って私の体重移動に合わせてくれた。無駄に触れない。必要なところだけ、必要なだけ。
――この人、優しい。
そんなふうに思うのは、きっと早すぎるのに。
結局、夜市の見回り兵に頼んで、彼を公爵家の馬車に乗せた。
馬車の扉が閉まる前、青年が私を見た。雨の中でも目だけが澄んでいる。
「……礼は」
「いりません。灯り代だけで」
「……いくらだ」
「一つ銅貨です。命の値段にしては、安いですよ」
冗談めかして言うと、青年の口元がほんの少しだけ動いた。笑った、のかもしれない。
「……リラ」
彼が私の名を呼んだ。
ただそれだけなのに、胸の奥が熱くなる。
――その翌朝。私は、呪術師の店の戸を叩いた。
理由は簡単だ。
昨夜から、胸の奥にひりひりする痛みが残っていた。灯りを一つ失ったような、薄い寒さ。嫌な予感は、いつも当たる。
呪術師の老婆は、私の手首を掴み、皮膚の下を流れる“印”を指でなぞった。
灰色の目が細くなる。
「……まだ、消えておらんのか。やれやれ。おまえ、契約の代償を知らされておらぬな」
「契約……?」
私は首を傾げた。
幼い頃、よく熱を出した。母は「病弱な子」と笑っていた。私自身もそうだと思っていた。
老婆は、ため息をついて言った。
「一年。正確には、次の冬至まで。おまえは“名前”を失う」
「……名前、を?」
「呼ばれなくなる。誰にも認識されなくなる。名を持つ者は、この世界に結びついておる。名がほどければ、存在もほどける。――それが、救いの契約の代償だ」
頭が真っ白になりそうなのに、涙は出なかった。
代わりに、妙に静かな感覚が広がっていく。ああ、そうか。私はずっと、何かを借りて生きていたのだ。
「……怖くないのか」
老婆が不思議そうに言った。
私は、灯りの籠を抱きしめる。昨夜の雨の冷たさより、今のほうが冷えるのに。
でも。
「怖いです。……だけど、絶望はしません」
自分の声が、思ったより柔らかかった。
「だって、一年もある。なら――好きに生きます」
老婆が、ふっと口角を上げた。
「そう言える子は、強い。……よいか、リラ。鍵は“呼び名”だ。誰かが、おまえの名を呼び続けるなら、ほどけるのは遅くなる」
「誰かが……」
脳裏に、昨夜の青年が浮かぶ。
雨の中で、私の名を呼んだ声。
その瞬間、店の外で馬の蹄の音が止まった。
扉が叩かれる。ためらいのない、短い音。
老婆が私を見る。「来たぞ」
扉を開けると、黒い外套の青年――昨夜の人が立っていた。
髪は乾き、顔色はまだ白い。それでも姿勢だけは崩れていない。
「……リラ」
彼は、迷いなく私の名を呼んだ。
胸の奥の寒さが、灯りのように少しだけ和らぐ。
「昨夜の礼だ。……そして、確認したいことがある」
「確認?」
「おまえの腕にある印。――一年後に、おまえの名が消える契約だな」
私の息が止まった。
なぜ知っているのか。質問が追いつかない。
青年は目を伏せ、まるで“建前”を探すように言う。
「公爵家に関わった以上、放置は合理的ではない。……だから、責任を取る」
言葉は冷静なのに、彼の手は私の灯り籠に触れないぎりぎりのところで止まっていた。
触れたら壊れそうだと思っているみたいに。
「俺の名は、セドリック・ヴァルハイム」
公爵家の嫡男。
昨夜、私が拾った人。
「今日から、おまえを公爵邸に迎える。護衛と医師をつける。呪いの解析もする。……異論は」
私は、笑ってしまった。
こんな状況で笑うなんて、自分でも変だと思うのに。
「異論、あります」
セドリックが眉を動かす。
「私、絶望しないって決めたんです。だから――」
私は灯りを一つ取り出して、彼の掌の上に置いた。
彼の冷えた手に、じんわり温度が染みていく。
「“責任”じゃなくて。……私の一年を、私が選ぶのを手伝ってくれますか」
セドリックは、しばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐く。
「……分かった」
それだけ。
でも、その一言は夜市のスープより温かかった。
老婆が背後でぼそりと言う。
「――名を呼べ。毎日だ。呼び名は、灯りだぞ」
セドリックは頷き、私を見た。
「リラ。行くぞ」
私は籠を抱え、うなずく。
怖い。確かに怖い。
それでも、私は歩く。好きに生きると決めたから。
公爵邸へ向かう馬車の中、窓の外の冬の光が、淡く揺れていた。
――その光が、私の“残り時間”を数える砂みたいに見えたとしても。




