あの世でもお腹って空くんだ
凛とした静けさの中、私はじっと事の始まりを待っている。
「ようこそ。地獄門を通って来た迷える子羊よ」
子羊?ここでの私はそういう存在なのだろうか?声は最初の頃のように穏やかで、まるで草原の中を通り抜けてゆく風のように感じた。心が落ち着いてゆくのが分かる。
「顔を上げなさい」
恐る恐るゆっくりと顔を上げる。大きな机が見えてから紫色の服が見える。さらに視線を上げて目が合うと
「ワタシがここの責任者のカーリである。肩書きはご存知閻魔大王である」
頷いて答える。
じっくりと見る顔は想像とずいぶん違う。大きいのはイメージ通りだけど端正な顔は俗にいうイケメンにしか見えない。真っ白な肌に青い瞳。帽子はよく見かけるものとほとんど同じデザインだし、想像していた髭はなくツルリをしていていかにも清潔そうだ。それに肩まである髪は翠色のグラデーションで優しい風のようなものをすら感じた。
「悪いが腹が減っている。食べながら進めてゆく」
閻魔大王は右手を伸ばして何かを口の中に放り込む。何を食べているのだろう?やがて空気に乗って匂いが鼻に届く。これは・・・・・・チョコレートの匂い。
「マカダミアナッツのチョコレートです。ハワイ土産を渡したんです。おかげで機嫌を直してもらえました。どうです?褒めてもらってもいいですよ」
ルシェルはこっそり耳打ちする。あくまでも自分の手柄にしたいみたいだ。だが良い匂い。生きている時は大好きでよく食べたっけ。これから行くことになる場所には多分ないだろうな。出来ることならもう一度食べてみたいな。
「君はここに入る前に門の文字を読まなかったのか?」
「ばっちり読んでもらいました」
自分には非がないようにルシェルは素早く答える。そしてこっちを見て
「では私はそろそろ退散しますね。あ、でも終わったら迎えに来ますから。それでは閻魔大王様一旦失礼します」
声を掛けようと思ったがルシェルは煙のようにあっという間に消えてしまった。仕方ないので閻魔大王の方に向き直した。
「なら分かっているはずだ。ここは一切の希望を持ってはいけない。君は今小さな希望を持った。しかしこの場合こちらにも原因の一端はある。特例だ。一つ食べたまえ」
閻魔大王が手を伸ばすといつの間にか手の中にマカダミアナッツチョコレートが一つ入っている。びっくりするというよりやはり自分は死んで違う世界に来ているんだということ現実として実感する。とはいえ美味しそうなので溶ける前に口の中に放り込んだ。
「どうかね?味は?」
これは質問されている。なら答えてもいいってことだよね。
「・・・はい。と、とても美味しいです」
口の中には懐かしい味が広がる。それだけでとても幸せな気持ちになれる自分がいる。口の中でコロコロと大事に転がすとやがてマカダミアナッツが姿を現す。もったいないがここは一気に齧って飲み込んだ。
はあ〜満足。つい笑顔になってしまう。
「よろしい。では始めよう」
閻魔大王は大きな台帳を開くと思いきやマウスをカチカチと操作し始める。こんな所にまで現世のテクノロジーが介入していようとは。やはり所々で混乱してしまう。
「開廷する。子羊は名前を述べよ」
いよいよ始まる。私はちゃんと自分の意見を言うことが出来るのだろうか。でもそれをしなかったらこんな所まで来た理由がなくなってしまう。命まで掛けてきたんだから。
姿勢を正して自分の名前を言おうと深呼吸した時だった。
「待て。あらためてこちらから確認したい。君の名前と姿にワタシは少々戸惑っている。君の名前は『佐藤 元』で間違いないのだね?」
閻魔大王は私のことを制してから質問を投げかけてきた。
正直自分の名前は好きではない。けれどそれはホントのこと。それが私の本当の名前に他ならない。
「はい。そうです」
正直に答えると閻魔大王は頭の先からつま先までじっくりと検証して
「よろしい。では次だ。君の性別は男だがこれも合っているか?」
男・・・・・それもホントのこと。けれどそう言われたくない私がいる。
言葉にしたくないことだから頷いて答えた。自分の中で一番認めたくないこと。
「ふむ。人にはいろいろあるのは知っているが、今の姿の説明を求める」
この世界には本当の自分を求めて来た、っていうのもある。そのことをちゃんと言いたい。もし叶うなら今度こそ本当の自分になって本当の自分の人生を生きてみたい。だから・・・だから私は今まで抱いていた想いを伝えるんだ。それが希望や期待であっても。
「はい。確かに私の体は男子のモノです。でも心は女子です。私にとっては何もおかしいところはありません。これが本当の私の姿なんです」
次第に体や心が熱くなってゆくのが分かる。こうやって自分のことを誰かに喋ったことは初めてのことだ。本当の想い。
不思議だ。口にすると思っていたより恥ずかしくはない。むしろ自分自身が解放されてゆくような気分がする。今まで溜まっていた心のモヤモヤが体の中から出てゆくみたい。
「なるほど。君は今の言葉でいうとトランスジェンダーというわけか」
こういう言われ方は正直、いや、かなり好きではない。私は至って普通の人間だ。でもその言葉のせいで悩んだこともあった。なぜ私達はそんな言葉で纏めてしまうのだろう。そんな現世は嫌いだ。普通の女の子として生きていたい、ただそれだけなのに。私は世間から勝手に区別される人間になっていた。だから逃げ出した。世界から、そんな風に私のことを見ている社会から。
「だからと言って命を粗末に扱うのは感心しないな」
そのことだって悩んだ。
今は理解されている。私から言わせればそんなのは社会の詭弁だ。
本当は何一つ理解なんてされていない。ただ私達のような存在があるということを周知に言葉として伝えただけだ。言葉の一人歩きが理解されているだけ。それなのにみんなは納得している。けれど私にとっては少しも生き方が良くなったなんてことはない。もし周りが知ったら結局は好奇な目で見られるだけ。誰もそのことを理解してくれないし、しようとはしない。いや、むしろ理解なんてされたくない。だってそれは自分が普通じゃないって認めることになってしまうから。もう一度言う。私は普通の人間なんだ。他の人と何も変わらない。
「まったく、最近の人間はどうしてこんなに簡単に命を捨ててしまうのか。君の前だって辛いの一言で電車に飛び込んだ。こちらから質問だ。最近の現世はそんなに生きるのが辛い世界なのか?」
みんないろいろな事情がある。確かに最近は電車の事故は増えたような気がする。それだけじゃない。顔も知らない見知らぬ人が見知らぬ人に殺されてしまう。交通ルールを守っているのに守らない人間に一方的に傷つけられるケースだってある。加害者は普通に生きているのに被害者だけが泣いている世界。そんなカオスのような時代が当たり前になっている世界。
でも私は誰にも迷惑をかけないように死んだはず。それに辛いっていうのは本当だ。もっと生きていたら体はどんどん男として成長してしまう。そんなのは絶対に耐えられない。
「辛い。だから死んだの。体がまだ大人になる前に、今ならまだキレイなままでいられると思ったから」
「ならば、そんなことを考えないように次は虫とか貝とかなら命の全うできるというのかな?」
虫?貝?何言ってんの?人の話聞いてないでしょ。思わず握った手に力が入る。
「そう言えば君の前の人間は次は猫がいいと言っていたな」
猫?ほんとにそれを願ったのだろうか。でも私はその人とは違う。私は魂の器である肉体を取り違えたこの世界に文句を言うために死んでまでして来たんだ。もしこの先の希望が叶わないとしても意見くらい言いたい。こんなことがなければ、今だって現世で悩んでいる人がたくさんいる。そう言う人達だって救われるはずだ。それを分かってもらいたい。
「いかんな」
閻魔大王は最後の一つを口の中に放り入れてから空箱をゴミ箱に捨てた。
「君はいろいろ抱えているようだ。もう終わった人生だ。希望や期待は捨てないといけない」
あの門には希望しか書いていなかった。期待は書いてない。ここにもそんな理不尽が存在しているの?
「分かった。話が長くなりそうだな。ちょっと待て」
今度はどこかに内線電話をかけていろいろと何かを指示しているようだ。最後に
「そうだ。机の上に置いてある。そう。レンチンしてここまで運んでくれ」
レンチン?一体ここはどこなのか、再び混乱してしまう。
「待たせたな。このまま業務は続行する。さっきも言ったが君の話は長そうだから昼飯はここで食べることにした。ところで君は腹は空かないか?」
死んでまでお腹の具合を考えたことはない。けれど言われてみるとなんだかお腹が減っているようにも感じる。とりあえず素直に首を上下に振る。
「カップ麺で良ければワタシの非常食がある。食べるか?」
カップ麺?この世界は現世と物流でもあるのだろうか。けど想像したら無性に食べたくなった。だから今度も首を上下に振る。
「素直でよろしい」
同時に後ろから声がする。びっくりして振り向くと
「お待たせしました大王様」
そこには真っ黒なショートカットした女の子が立っている。その手にはクマの絵が描かれている大きなトートバッグがある。服装はルシェルと同じだ。もしかしてここの制服ってことなのかな。
「すまんな。ここまで持って来てくれ」
すれ違い様に私と目が合う。真っ赤な瞳が印象的だ。無表情で
「めんどくさそう」
と言って通り過ぎてゆく。なんだかあんまり良い印象ではないらしい。
「悪いがこれを作って彼女、じゃない彼に渡してくれ」
黙って受け取って再びこっちに向かってくる。つい体に力が入る。今度は一瞬だけ立ち止まってじっと見てから何も言わずに行ってしまった。
「いただきます」
閻魔大王がお弁当の蓋を開けると懐かしい匂いが鼻を翳めると私のお腹が豪快に鳴る。やっぱりお腹空いていたらしい。恥ずかしくて自分でも分かるくらい顔が熱くなる。それが聞こえたのだろう。座れ、とジェスチャーするので素直に従った。
ホントに死んだってことでいいんだよね。この世界は不思議なことで満ちていると実感した。
今回も読んでいただきありがとうございます。
物語はまだ序盤です。それでも少しずつ進んでいきます。
また次も訪れてもらえると嬉しいです。よろしくお願いします。




