私は私でいたい
試験は10時にスタートする。それまでの時間は今まで通り朝の診察を受ける。
予想通り担当の先生はビックリしていた。『奇蹟』なんて言葉も出てくる。およそ医者らしい発言ではないけれど、きっと他に言葉が思いつかなかったのだろう。私だってそう思っている。
部屋に戻ると机と椅子が用意してあった。それとお母さんが家から持ってきてくれた制服を着る。心なしか新品みたいに見える。袖を通すと気持ちが引き締まってゆく。あとは心を落ち着つかせて始まりの時間が来るのを一人で待った。
絶対に大丈夫
そんな風に思えるから教科書も参考書ももう必要ない。窓の外から見える桜はますます花を開いている。満開の刻。なんてキレイなんだろう。試験が終わったら思いっきり見上げてみたいな。
あと五分。針が進んだら試験が始まる。時計を眺めているとドアがノックされる。返事をするとゆっくりとドアがスライドする。そこには担任の沢渡先生の姿があった。
いつもは白衣を纏っているのに今日はさすがに着ていない。そう言えばスーツだけの姿ってあんま見たことないよね。すごく懐かしいはずなのに初めて会ったような感覚がする。
じっと見つめる私に先生もちょっと驚いた顔で私の顔をじっと見つめていた。
「・・・元気そうだな」
先に口を開いたのは先生の方だった。
「はい。先生もお久し振りです」
笑顔で答えると眼鏡の位置を直して私の顔をあらためてマジマジと見る。
「本当に相楽なのか?」
「どういう意味ですか?もちろん私はずっと私ですけど」
お母さんもそうだけど先生もなんで動揺しているのだろう。私は私のはず。私は何も変わっていないって自分では思っているのに・・・
「・・・そうか。・・・早速だがこれから試験を始める。試験官は俺が担当する。というか俺しか来ていないからな。それでいいか?」
「いいもなにも。私はみんなと同じように高校生になりたいんです。だから、今日のことは感謝しています。ありがとうございます」
私の気持ちの確認ができたからだろう。先生は用意されたホワイトボードに今日の試験の予定を書いてから鞄から入試問題の束を出した。
「こっちの準備は整った。説明は・・特にいらんな。早速、始めてもいいか?」
「はい。よろしくお願いします」
時間の経過と共に試験は順調に進んでゆく。
お昼になると、この日は病院食じゃない特別なメニューが用意されていた。それはどこからどう見てもトンカツ定食にしか見えない。やはり験を担ぐという意味合いがあるよね、これって。
「では再開は一時間後だ」
先生は病室を後にしようとドアを開ける。
「あの、先生、ご飯は?」
「別室に用意してもらっている。お互い休憩ということだ」
そう言うと静かに扉を閉めて行ってしまう。なんだ、一緒に食べるわけじゃないんだ。一人きりになると途端に緊張が解けてゆく。大きく深呼吸すると合わせるようにお腹が鳴った。
それじゃ遠慮なく「いただきます」
食べ終わってのんびりお茶を飲む。心も外の景色もとてもゆったりとした時間が流れている。
残りはあと二科目。英語と理科。それが終わるとこれからの私の運命が決まる。今のところは順調だと実感している。解答用紙に空白はないからあとは正解か不正解の二択になる。先生の話だと合格ラインは八割ということだ。クリアできれば希望していた高校に入学できる。私は高校生になれる。
気合いを入れるために深呼吸すると急にトイレに行きたくなった。私は誰の手も借りずに一人でトイレに行くことができるんだ。立ち上がると足は私の意思の通りに動く。治っているよね。リハビリの時のようにブレることなんてない。私は自信を持って歩いてトイレに向け廊下を歩いている。目の前の角を曲がれば目的地。その先で声が聞こえた。それも聞いたことある声。私の足音は急に音を潜める。
「事故の影響でしょうか?」
この声・・・沢渡先生?誰と喋っているのだろう。それに事故って?
「可能性はあると担当の先生は言っていました」
お母さん・・・?。二人で何の話っていうか、これって明らかに私の事だよね。
好奇心からつい耳を澄ましてしまう。
「性格が変わったとでも言うのでしょうか・・・あの子は今、自分自身のことを受け入れているというか、ちゃんと女の子だって自覚しているし、女の子なのが当たり前だと」
「そのことについてお母さんにとってはどうなんですか?」
「それは・・・まあ嬉しいです。先生もご存知のように『俺は本当は男なんだ』と言っては髪を短くしたり、男の子ばっかり遊んでたりしてましたから。それが今じゃ髪をもっと伸ばすなんて言うんです。そう聞いた時、嬉しい反面ちょっと・・・いえ、かなり動揺しています。あの子は本当にあの子なんだろうかって」
なに今の?男の子って?以前の私って・・・・?思わず唾を飲み込んでいた。
私だって思い出そうとしていた。けれど目が醒める前の記憶は靄の中で晴れることはない。
最初は自分自身に上手く馴染めなかった。
でも今はそんなことない。これだけは絶対に言える。私はずっと女の子。これが私の求めていた姿・・・・・まただ・・・なんでそんな風に思うのだろう。
「担当の先生は一種の解離性同一性障害かもしれないって言っていました」
・・・・それって一体何なの?はっきりしていることは今の私は以前の私とは別人だということ。
そんなこと・・・あるわけ・・・あるわけないってどうして言葉にして二人の前に出て行けないのだろう。私はちゃんと私だって・・・どうして自信を持って言えないのだろう。
昨夜のことが思い出される。あれは誰かの記憶じゃない。意識がない時の記憶なの?とてもリアルな、本当の私の記憶なの?悲しくて辛くて逃げ出したくて・・・待っていたのは真っ暗な闇。分からない。何があったかなんて。
でも私は光を見たんだ。そして今ここにいる。何も不自然なことなんてない、はずなのに私は本当に私でいいのだろうか・・・不気味な不安が胸を締め上げてゆく。
「美有・・・どうしたの?こんなところで・・・・・・・もしかして聞こえちゃった?」
お母さんはそう言うとどこかバツが悪そうな顔をした。私はなんて答えたらいいのか分からない。ただじっと目の前にいる二人を見ているしかない。ふと、足の力が抜けてゆく・・・今にも倒れそう・・・
「相楽」
「・・・はい」
沢渡先生が正面に立って
「聞こえていたなら聞いてもいいな?お前は目覚める前の自分の記憶はあるか?」
質問には言葉ではなく顔を左右に振ることで返事をした。先生はじっと私のことを見て
「正直俺は驚いている。全然別人に見える」
そんなにはっきり言われると足が本当に震えてくる。今は立っていることだってやっと。これ以上言われたらその場に座り込んでしまう。
「大丈夫か?少し座れ。試験にはまだ時間がある」
先生は私の肩を持って近くにある長椅子に座らせた。
「聞こえたなら隠すことはしない。それが今のお前の現状ということだ」
「美有、本当は無理しているんじゃないの?」
お母さんは隣りに座って私の頭を自分の胸に押し当てた・・・・・・・お母さんの匂いって落ち着く。
「美有が今までのこと聞いてきた時、ちゃんと答えてあげれば良かったのかな。もしかしてあなたのことだから『女の子として目が覚めた』ってお芝居でもしているのかなって。でもごめんね。あなたは本当に本物の女の子として戻ってきてくれた。そのことを受け入れるのにお母さん自身も時間が掛かっていたと思う」
私はそんなことしない。
無意識に涙が流れていた。心の中は真っ暗な闇が浸食してゆく。
こんな私で良かったのかな。男の子みたいな私の方が良かったのかな。
私は誰なの?本当の私はどこにいるの?私はここにいてもいいの?
だからってどこかに行けるわけじゃない。
一つの不安が膨らんでゆく。
もしかしてこのまま時間が経ったら私は消えてなくなっちゃうの?今はそれが怖い。せっかく私は理想の私にやっとなることができたのに・・・。
「ねえ美有。美有は今の自分が好き?」
さらにお母さんの胸に頭を埋めて頷く。もちろん私は私のことが好き。大好き。
「お母さんも美有のことが好きよ。前のあなたも今のあなたもどっちも私の大事な娘なのよ」
「・・・お母さん」
「ん?」
私は顔を上げてお母さんの顔を見る。お母さん・・・泣いてる。
「私はずっと私のままがいい。前のことは本当に何も思い出せないの。それでもいいの?私はずっとこれからも女の子でいたい・・・女の子がいい」
「当たり前じゃない。美有は私の娘。ずっとあなたは女の子だから」
ずっと・・・このままでいいの?お母さんの言葉で心の中に光が差し込んでくる。一緒に笑みが溢れるとお母さんも安心したように笑顔になった。私はここに居ていいんだ。このまま生きていいって。もうどこにも行かないし、消えることだってしない、ずっと。
「クラスメートはみんな驚くだろうな。高校生になるんだ。新しい生活が始まる。だから相楽も新しい自分に胸を張って一度しかない青春を楽しむんだ」
「・・・先生。ありがとうございます・・・ん?高校生って・・・試験はまだ終わっていない」
先生はうっかりしたみたいな表情を一瞬するとまたいつものクールな顔に戻る。
「・・・仕方ない。今のは俺のミスだ。お前はもう高校に合格している」
「え?どういうことですか?」
なんだか良く分からないけど私はいつの間にか高校に合格していたらしい。
「美有、お母さんもたった今そこで聞いたのよ」
「お母さん?」
「ほら、美有は割と成績良かったでしょ。だから先生が美有の志望校に推薦してくれていたの」
「・・・推薦?じゃあ、今、受けている試験って」
「それはお前がちゃんと今までのことを覚えているか確認のための試験だ。本当は必要ないが、一応推薦した俺の立場からして学力が落ちていないことを確かめるためでもあった。それでどうする?」
「えっ?・・・どうって?」
「残りの試験、辞めても構わない。俺はお前がすっかり回復したことを先方に伝えればいいからな」
嬉しいような驚いているというか今は複雑な気分がする。でもここで引いたら昨日までの努力が水の泡になってしまう。それは絶対に嫌。出来レースでもなんでも構わない。私は新しく生まれ変わった。そう思うと俄然やる気が出てくる。
「受けます。最後まで」
はっきりと答えると
「ま、そう言うとなんとなく分かっていた。なら戻って再開するか」
「はい。・・・あ、ちょっと」
「どうした?」
「・・・あ、あの、実はトイレに行きたくてここまで来たんです」
思い出したら激しい尿意が襲ってくる。私は慌ててトイレに駆け込んだ。
桜の花びらが街中に舞っている。私は新しい制服に身を包み新しい一歩を踏み出す。世界は眩しい光に包まれ全てが祝福に溢れている。
髪はまた伸びて今は肩を越えているし身長も少しだけ伸びた。もっともっと伸ばしたい。そして思いつく限りの髪型をやってみたい。心は軽くて目の前に広がる青空をどこまでも飛んでいける気分だし体だって完全に回復している。晴れやかな気分に包まれたまま高校の正門をくぐる。
意識していなくても私の頬は緩みっぱなしだけど期待と希望を胸に持って
「さあ、新学期の始まりだ」
私は私らしくこれからをずっと生きてゆく。気持ちと共に鼻息も荒くなった。
今月の満月はスーパームーンだそうですね。
読んでいただきありがとうございます。
この作品は割と月が出てきます(これからですが)。
それは私が好きだから。あ〜都内は曇り空。残念です。
次回ものんびり付き合ってください。
よろしくお願いします。




