告白の時
第十六話 久比人の涙
新学期が始まり、愛美と久比人の消失の時が目の前まで迫っていた。
クラス替えが行われたが、愛美と久比人は離れることはなかった。席もとなり同士である。
百合子とも離れることがなかったが、見知った顔はほとんどなかった。
「こりゃあ、神の慈悲が働いたな。最期の時が近付いたマナに、小学校の時からの親友百合子とすごしてほしいってな」
「…………」
愛美は何も答えない。
「それでいて、オレをマナの近くから離さない。神格を与える都合なんだろうが、いよいよくっ付けにかかってるな……」
愛美は、ずっと黙りこくっていた。
「マナ、大丈夫か? 神格が効くかぎり痛み、苦しみはないはずだが……」
「……気付かない? 私たち認識されなくなり始めてるわよ?」
ようやく口を開いた愛美から発せられた言葉は、信じられない事だった。
しかし久比人は考えてみれば、今日一日誰からも声をかけられていない。
「おーい、みんな。出席を取るぞー」
始業のチャイムがなり、担任続投した村井が点呼を取る。
「阿部」
「はい」
「何だって?」
藍木の方が、あいうえお順で早いというのに、飛ばされてしまった。
「先生、ボクを抜かしてまっすよ?」
久比人は呼び掛けるものの、村井は聞き入れることなく点呼を取り続ける。
「そんなバカな事が。先生、村井先生」
「いくら呼び掛けても無駄よ、久比人。私たち、みんなから忘れ去られているのよ」
一度死んだ愛美と、天界の神の久比人は、もう常人の目に写らなくなっているらしかった。
「……ここにいても仕方ないわ。お部屋に帰りましょう」
愛美は、バッグに教科書をまとめ、教室を出ていった。やはり、愛美は無言で教室を出ていこうとしているのに、村井から注意されることはなかった。
「待て、マナ」
久比人は、後を追いかけた。
愛美の部屋。
愛美は部屋に入ると、着替えることもせず、床に座って両ひざを抱いた。
「いつから気がついていた?」
「朝教室に入ってすぐよ。いつも通りおはよう、って入っていっても誰一人として振り返らなかった。こんなのおかしいって思って、百合子に声をかけてみたけど、返事はなかったわ」
「するってぇと、今こうして認識しあっているのは、オレとマナだけって事か。こんなことができるのは……」
久比人は辺りを見渡しながら、それができる者の名を呼んだ。
「ゼウスのおっさん、いるんだろ?」
久比人は、ゼウスが一枚噛んでいると思い、呼び掛けた。
「ストーップ・ザ……いや、いらんか」
ゼウスが姿を現した。
「やっぱりおっさんだったか。オレたちの認識を阻害してどうするつもりだ?」
「ひょほほ。クピドよ主は勘違いをしておるぞ。現に、わしは何にもしておらんぞい」
「何もしていないだと? じゃあなんたってこんなことになっているんだ?」
「簡単な話ぢゃ。主らは下界の者ではなくなったからぢゃ」
「それはどう言うことだ? オレはともかく、マナまで下界の人間に認識されなくなったんだよ?」
何がおかしいのか、ゼウスはひょほほと笑うだけである。
「愛美は、死後一年になろうとしている、残り二ヶ月でな。そこで霊体になってしまったと言うわけぢゃな」
「霊体……?」
愛美は、ゼウスが来てから初めて口を開いた。
「そうぢゃよ愛美。主は幽霊とかいうものになってしもうとるんぢゃ」
ゼウスの言う霊体とは幽霊の事であった。それにしてはイメージが全く異なっていた。
愛美の考える幽霊とは、真っ白で、髪が地につくほどに伸び、そして足がないと言うものだった。
「もとい、主は去年の夏に、クピドに誤って殺されたときから霊体になっておったのぢゃがのう」
それが今になって、明確になった。そう言うわけだった。
「今の下界で主らを認識できるのは、わしと主らだけぢゃ。何をしようとも咎められることはない。残り二ヶ月、下界で好き放題して過ごすがええ」
学校へ行くこともせず、店の売り物を盗んでも罪に問われない。下界は今や、愛美と久比人だけのものになっている。
「もう、どうにもならないのか? オレはマナを殺しちまったからどうなってもかまわない。だが、マナは無関係のはずだ。マナを生き返すことはできないのか……?」
「愛美からは、どういうわけか、ヴィーナスの神格を感じる。クピド、さては主、ヴィーナスの血を愛美に飲ませたであろう?」
「バカ、おっさん。マナは血が苦手なんだ。血なんて言ったら……」
愛美は血相を変えるかと思いきや、平然としていた。
「大方、愛美と離れて過ごすことを願って飲ませたのであろうが、完全に裏目に出ておるぞ? 愛美は人間ではなく、神でもない、中途半端な存在になっておるぞ?」
愛美は、真人間からは外れ、神になるには神格が足りない、神とも人間とも言えなくなっていた。
「私は、なんなの……?」
愛美は、誰にともなく訊ねる。
「愛美、主は幽霊ぢゃ。中途半端な、のう。もうじき存在が消える。クピドと共にな」
ゼウスは、残酷な事実を伝える。
「その前に、ウジ虫に転生するのは変わらんがのう」
ゼウスは、更に残酷な事を言う。
「ゼウスのおっさん、マナは頑張って『慈悲の心』を示そうとした。もちろんオレだって、自分で言うのもなんだが、沢山の恋人を作った。マナは生き返って、オレの不祥事を払拭することができるはずだ」
「確かに、主は恋人を作るのに躍起になっておった。それは認めようぞ。ぢゃが、まだまだ足りぬ。人の子の命を奪ったのぢゃ。いかに『慈悲の心』を示そうとて圧倒的に足りぬのじゃよ」
愛美の方も、人間の身であるため『慈悲の心』を示すのに限界があった。
「もちろん主らが助かる道は一つだけある。もう何度も言っているので今さら言わぬが、そろそろ覚悟を決めた方が良いのではないかのう?」
ゼウスは、二人に背を向け、顔だけを僅かに見せる。
「今の主らは、下界の人間に何をしても気付かれることはない。主らだけの世界ぢゃ。主らだけの世界で残りの時間を過ごすがよい。ではさらばぢゃ!」
ゼウスは消えていった。
「久比人……私、幽霊になっちゃったのね」
ゼウスに告げられたことで、愛美は実感を得ていた。
愛美はすくっ、と立ち上がるとキッチンに行った。
「おい、マナ、何を仕出かすつもり……」
愛美は包丁を持ってキッチンから戻ってきた。そしてそれを自らの腹に突き立てた。
「マナ!」
愛美は、血の海に沈むかと思いきや、包丁の刃は愛美の体をすり抜けていた。血は一滴たりとも出ていない。
「やっぱり、もう私は死んでいるのね……」
涙にくれそうな顔をしていた愛美の顔には、全てを諦めたような笑みを浮かべていた。
「あは、あはははは!」
愛美は、全て吹っ切ったように笑った。
「マナ……」
「私たちだけの世界? 上等じゃない! お店のものも、高級レストランの食事も全部タダになるんでしょ? ウジ虫なんかに転生するんだから、地獄に行くようなこといくらでもしてやるんだから!」
行くわよ、と愛美は久比人を引き連れて外に出掛けた。
「おい、待てよマナ」
町の本屋にて。
「この漫画が泣けるって、百合子が言ってたわね。いただいていきましょう」
愛美は、本棚にずらりと並んでいた本を全てバッグに詰めた。
「止せって、完全に泥棒だろ」
「この世界は私たちのものなんでしょ? 私たちの世界のものをどうしようと勝手でしょ」
「そうは言うが、悪行を繰り返してたら、ウジ虫よりもっとひどいものに転生するぞ?」
「どうせ最終的には存在が消えるんでしょ? 今さら何にされたって構わないわ! さあ、行くわよ」
愛美は、漫画本を盗んでいった。やはり騒ぎにはならない。愛美の姿は認識されていないが故であった。
「やっぱり止めとけって。騒ぎにならないうちに本を返すんだ」
「だから、さっきも言ったように、この世界は私たちだけのものになっているのよ。つまり、この本は私のものなのよ」
「バカヤロウ!」
久比人は平手を打った。
「何すんのよ!?」
「盗みを働くな。作家が精魂込めて一生懸命に描いた本だぞ。いくらオレたちの世界にあるとはいえ、盗んでいいってことにはならないだろう? 少し頭を冷やせ!」
「盗み……」
愛美は、バッグに乱雑に入れた漫画本を見た。百合子に勧められたというだけで別段興味のあるものではなかった。
それで悪行を行うような事があれば、徳が減って無間地獄に落とされるやも知れない。それは、存在が消えるよりも耐え難い苦行となろう。
──私、一体何を考えて……?──
愛美は、自身の間違いに気が付いた。世界が自分だけのものになったと聞いて、自棄になっていたのだった。
「ありがとう、久比人。私、取り返しのつかない事をするところだったわ」
「分かってくれたか?」
「うん、本、返すの手伝ってくれない?」
「ああ」
愛美と久比人は、盗んだ本を本棚に綺麗に戻した。
「でもこれから先、何をして過ごそうか? 私たち人に認識してもらえないじゃない」
愛美は訊ねる。
「世のため人のため、見えないからこそできる事をして過ごそうぜ」
何かに困っている人を、文字通り影から助けるのだ。
例えば、重い荷物を持ち上げようとしている人に、手を添えて軽くしてあげる。といった事や、怪我をした人を久比人の魔法で癒す。といったことである。
久比人の姿も人の目につかないので、魔法を堂々と使うことができる。
朝から夕方にかけては普通に学校に行き、普通に授業を受けることにした。と言っても、真面目に授業を受けるのは愛美だけで、久比人は昼寝三昧だったが。
放課後学校中を回り、困っている人がいないか探した。
食事は幽霊になった愛美には必要がなくなり、久比人も神であるので餓死することはなく、食料は必要なかった。
幽霊となった愛美は、病気をする事がなくなったので、久比人から神格を得る必要もなくなった。それでもこれまで通り共同生活は続けた。
そんな生活を続けて、一ヶ月が過ぎた。愛美らに残された時間もちょうど一ヶ月となった。次第に暑い日がやって来た。
「もう、残り一ヶ月ね」
「ああ、そうだな」
消滅への恐怖は、先月一ヶ月で消えた。二人は穏やかに消滅の日を迎える事にした。
未練が無いかと訊かれたら、無いと答えればそれは嘘になる。しかし、それ以上に心が落ち着いていた。
「今日は日曜ね。学校はないし、なにして過ごしましょうか?」
「そうだなぁ、ラノベも読み尽くしちまったし、存在を認識してもらえないから買うこともできないし、どうしようもないな」
「じゃあ、お話しでもしましょうか? あんたが活躍した薔薇戦争終結までのお話し聞かせてもらいたいわ」
「そうだな、どこから話したもんか。何せオレが働いたのは戦争も佳境にさしかかった、ボズワースの戦いだったからな……」
久比人は語り始めた。
三十年にも及んだ薔薇戦争の晩年期、久比人は人間同士の争いを止めさせようと、下界へと下り立った。
五百年前の久比人は、純粋な少年といった感じで、人間同士争うことを絶対に許せなかった。
人に化けて両陣営に戦争を止めるよう直談判したが、どこの馬の骨とも分からぬ者の言うことなど聞けないということで、攻撃まで受けた。
戦う力は持っていない久比人は、どうしたものかと考えた。考えた末に思い付いたのが、両陣営の代表格の家族を結婚させることだった。
しかし、思い付いた時には、戦争の態勢は決しており、大虐殺が起ころうとしていた。
これ以上死人が増える前に、魔法の弓で両陣営の家族を射た。
敵同士の家族が結婚することで、これ以上の虐殺が起こる事が防がれた。
「……てなわけで、オレは永代クピドになって、恋人を作り続けてきたってわけだ」
長話を終えて、久比人は大きく息をついた。
「ふふふ……」
愛美は笑った。
「何だよ、笑い話じゃねぇぞ?」
「ごめん、昔のあんたがどんなやつだったのか、想像したらつい笑いがね……ふふ」
無表情、ポーカーフェイスの久比人が、そこまでの働きをしたのが、愛美は信じられなかった。当時は怒ったり、笑ったりしていた者だったのが想像できなかったのだ。
「久比人、あんたいつからそんなポーカーフェイスになったのよ?」
「薔薇戦争の時はビビる事があれば、素直に恐がっていたもんだが、戦地を飛び回るうちに感情が希薄になっちまったんだよな」
久比人が感情を見せなくなったのは、戦争が原因だった。
「まあ、それ以上に、永代愛の神になった時に、もう途方もない寿命を与えられて死の恐怖がなくなって、何にも面白いと感じなくなったのが一番の原因だな」
それだけに、と久比人は続ける。
「消滅しようとしている今、五百年ぶりに恐怖を感じているよ。消えるってどういう事なのか、分からねぇんだ。無機質な所で一生過ごすことなのか、それとも真っ暗な場所か。想像がつかねぇんだ……」
「久比人……」
久比人の頬に、一筋の涙が伝った。
「久比人、あんた泣いて?」
「どうやら、オレの感情は完全に消えたわけじゃなかったみたいだな……」
久比人は、声をあげる事なく、鼻をすすって静かに泣いていた。
愛美は、そんな久比人の頭を胸に抱いた。
「マナ?」
「恐いのは、私も一緒よ……」
愛美は、久比人の頭を抱いて震え始めた。愛美も涙にくれていた。
思えば、愛美が消滅する原因となったのは久比人であったが、それに対する憎しみの感情はなかった。
まともな人生を送ってこなかった愛美である。あの日事故で死ぬのは運命だったのだとも感じられる。
しかし、愛美に訪れた突然の死は、久比人の不祥事が原因だった。憎んでしかるべきの事態である。
それでも今は、消えていく運命の久比人を可哀想だと思っている。
久比人はしばらくの間涙にくれていた。愛美は優しく抱き締めるのだった。
※※※
久比人は涙にくれ、真っ赤に腫れぼったくなった目をしていた。
「情けねぇ所を見せたな……」
「泣いちゃったのはお互い様でしょ?」
「そりゃあ、そうだが、やっぱダセぇだろ。男が女の胸の中で泣くなんてよ」
「私が勝手にやった事よ。気にしないで」
愛美は笑みを見せる。
「ちょっと考えたんだけどよ、オレたち一旦別れて過ごした方がいいと思うんだ」
久比人は、突然に提案した。
「急にどうしたのよ? あんたと離れたら、神格が……」
「もう病気になることはないから大丈夫だ。今まで寝ても覚めてもオレと一緒だった。一人の時間は欲しかっただろう? 残り一ヶ月お互い思い思いに過ごした方がいいと思うんだ」
愛美は確かに、一人の時間が欲しいときもあった。だが、今では世界の人から認識されない状態で、久比人までと離れては完全に一人となってしまう。それは寂しいことだった。
「そう言うわけだマナ。念話もしない。一人の自由の時間、大切に過ごせよ……」
久比人は、本来のクピドの姿となり部屋の外に出た。
「久比人!」
愛美は追いかける。しかし、クピドは空を飛んだ後だった。
「久比人……」
愛美は、俯くのだった。
次の日の朝。
「おはよう、くび……」
言いかけて愛美は、クピドはもういないのだと言うことを思い出す。現に敷かれっぱなしの布団には誰もいない。
──そうか、あいつ本当に出ていったんだ……──
もともと大して広くない寮の部屋が、広く感じる気がした。
ここにいては、ごちゃごちゃ色々な事を考えてしまうので、愛美は学校へ行くことにした。
行きがけに、他の生徒にわざとぶつかってみた。しかし、愛美の体が透き通って、接する事さえできなかった。
──私、本当に幽霊になったのね……──
愛美は、自らの変身に、諦念の感情を禁じ得ない。
教室へとたどり着いた。まだ、生徒もまばらな教室に、百合子がいた。
「おはよう、百合子!」
「うん?」
百合子は気付いたような振る舞いをした。
「百合子、私が見える!? 私よ、愛美よ!」
「なーんか呼ばれたような気がするんだけど、気のせいよね」
どうやら、百合子には霊感があるようだった。霊感があるが故に愛美の存在を僅かに認識できたようだった。
愛美は、強行手段に出た。
愛美は、隣の席に置いてあったノートを手にとって丸め、百合子の頭を叩いた。
「あいた! もう、さっきから何……?」
百合子は振り返った。そしてぎょっ、とした。
「ののの、ノートが浮いてる!」
「な、なんだこりゃ!?」
「ポルターガイスト現象!?」
「この教室に、幽霊がいるの!?」
「きゃー!」
愛美の行動は、クラスを幽霊騒ぎさせてしまうことになった。愛美はノートを元の机の上に置き、自分の席に座った。その後もしばらく幽霊騒ぎは続いた。
騒ぎを起こしてしまった愛美は、今後は気を付けようと、ひっそりとした。
授業中、愛美の席を指差しひそひそと話す女子生徒がいた。
愛美は、またしても幽霊騒動を引き起こしてしまっていた。
愛美の姿は見えずとも、愛美の手にあるものは人の目に映ってしまうようで、ただ板書をノートに取るだけでも、ペンが空中に浮き、ノートのページがめくれ、文字がかかれている。まわりにはそう見えていた。
「こらそこ! 何をひそひそ話している!」
ひそひそ話していた女子生徒は、男性教師に怒られた。
「だって先生、あの席が……」
「あの席……?」
教師は、愛美の座る席へと歩み寄った。愛美の姿は教師には映らず、ノートとペンケースが置かれ、一本のペンが宙を浮いていた。
男性教師は、眼鏡を外し、目を擦ると落ち着いてじっくりと席を見た。
愛美はまずいと思い、ペンを机の上に置いた。
「はて、この席は空席だったはずだが、何故誰かが授業を受けているようになっているんだ……?」
むう、と教師はさらに目を凝らし、そこにいる愛美の姿を見るように顔を近づけた。
もしかして見えているのではないかと思われたところで、教師は離れた。
「誰の私物か知らんが、空席だからと言って私物を置かないように。授業に戻るぞ!」
愛美は見えるはずがないが、人心地ついた。そして授業を受けるのは幽霊騒動に繋がると思い、学習用具をバッグにしまい、背中を丸めて教室を出ていった。
──私は授業を受けることもできないのね……──
学生の本分である授業を受けられないのでは、いよいよ愛美は自らの存在意義が分からなくなってしまった。
誰にも認識されない、完全に一人という状態が、これほど虚しいとは思わなかった。
──久比人……──
まだ、別れて一日しか経っていないのに、クピドの存在が恋しくなっていた。
クピドの事は、生きていく中で仕方なく受け入れていた同居人程度にしか思っていなかった。それが突然いなくなって、愛美の寂しさは大きなものだった。
恋人はいらない。相手が愛の神クピドであっても結ばれることはあり得ないと思っていた。
──久比人を恋人に……?──
ふと、頭をよぎるが愛美は首を横に振る。
あり得ない、絶対にあり得ない、と愛美は自分に強く言い聞かせる。
しかし、クピドが恋しいのは事実だ。下界のどこかで何かしているのか、それとも天界に帰って自分の趣味に没頭しているのか。だとしたら立腹ものであるが。
──やっぱり、あいつがいないと張り合いないわ!──
愛美は両手を握り、自らに宿る神格を発揮してみた。すると、愛美の神格に呼応する神格があった。
長い間与えられ続けた神格であるので、クピドの神格だと分かった。
神格の位置によると、まだクピドは市内にいるらしかった。この寮から北東部に神格を感じた。
──絶対に見つけ出す!──
愛美は外に出て、クピドの神格をたどって歩き始めた。
駅を過ぎ、商店街にさしかかった。商店街はシャッター街であった。営業している店が少ないために、クピドが行きそうな所は簡単に特定できる。
──南上書房……──
市内唯一の大型書店、ここからクピドの神格を強く感じた。
愛美は店に入った。コールも店員の挨拶もない。
愛美は、先日ここで大規模な万引きをしようとして、クピドに激しく怒られた。まさか、そんなその張本人が盗みを働いているのではないかと思われた。
だとしたら、殴っている所である。
──神格を痛いほど感じる、ここにいるのは間違いなさそうね──
クピドがいそうな所は、ラノベ売場である。店内の中央部がそれに当たる。
ラノベ売り場に、クピドはいた。床に寝そべりながらラノベを読んでいた。
「あ、あんた!」
「げっ、マナ!?」
肩出しの絹の服姿は、辺りから浮いて見えていたが、クピドは視認されないため、周辺の客は気付いていなかった。
「あんた、人にはあんな風に言っときながら、何してるのよ!?」
「誤解だ、盗んでない。立ち読みしてただけだ」
「商品を買わずに読んでいる時点で、似たようなものでしょう!? ていうか、何でこんなところにいたのよ!?」
「……実は海よりも深い理由があってな」
クピドは、その理由を話し始めた。
天界に帰ろうとしたが、翼が鉛のように重くて高く飛び上がれなくて、天界と下界の境界線を越えられず、仕方なく下界に再び下り立ったのだった。
永遠の別れをしたような手前、愛美のところには戻れず、行くところを失くしたクピドは、消滅の時まで、書店に居座り売り物の本を読破しようとして、ここで立ち読み、もとい座り読みをしていたのだった。
「……そんなわけでマナの部屋以外行くところがなくて、でも行けなくて、仕方なくここにいたんだ。というより、よくオレがいるところが分かったな」
「あんたから毎日神格を受けてたからね。私にもヴィーナスさんから神格を与えられてたでしょ? 私の中の神格を発揮して跳ね返って来た先を辿ってきたらここについたのよ」
「霊体の身で神格をそこまで使えるとは……もう女神を名乗ってもいいくらいだぜ」
女神マナ、とクピドは呼んだ。
「さあ、こんなところで営業妨害的な事してないで帰るわよ」
「帰る、ってどこに?」
「私の部屋よ。決まってるじゃない!」
「一緒にいても、いいのか?」
「今更よ。あんたがいないと話し相手がいないから、ヒマなだけよ! それ以外の何物でもないからね!」
愛美はまた、素直じゃない物言いをしてしまった。
「ナイスツンデレだぜ、マナ」
「うるさいわね、いいから行くわよ!」
二人は書店を後にするのだった。
※※※
愛美とクピドの消滅の日まで、ついに一週間となった。
「後七日間しかないのね。私たちが消えてなくなるまで」
愛美は言った。
この三週間ほど、愛美とクピドは、片時たりとも離れずに過ごしていた。
幽霊になった愛美は、寝食せずとも倒れることはなかった。神であるクピドはもとより、食事による栄養補給は必要なく、ただ神格があれば生きていけた。
「ああ、後一週間だな。悔いがあるとすれば、このラノベだな。一週間後に続刊が出る予定なんだが、それが読めないことだな……」
「私は消える前にウジ虫に転生することが嫌ね。動物の死骸にうねうねとたかるんでしょ? 鳥肌が立つわ……」
消えるなら、いっそ一思いに消して欲しいと思う愛美であった。
「だいたい、何で私が罰を受けるような真似しなきゃならないのよ!? 悪いのは全部久比人じゃないのよ!」
確かに愛美の言う通り、愛美の死はクピドによるものだった。
「それはあれだ。薔薇戦争の功績によるものだ。消えることになっても、苦しまずに消してもらえるんだ」
「そんなの差別じゃないのよ、差別!」
愛美が叫んだ瞬間、夕方五時の時報が放送された。
「……今日ももう、終わりなのね……」
聞き慣れた時報が、妙に胸に響く。
「てことは、オレたちの命も後六日か。消えるまですることがないってのも考えものだな」
世界から遮断された状態ではもう、愛美に恋人を作ることができず、ただひたすらに時間の過ぎ去るのを待つのみだった。
「なあ、マナ」
「何よ?」
クピドは前に、愛美から付き合わないかと言い出されていた。
その時は、現世への未練からクピドを恋人にしようとしていたので、自分に逃げるなと突っ返してしまった。
クピドは、今になって命が惜しくなって、やはり愛美と付き合いたいと言い出すのはお門違いだと思った。
「悪ぃ、なんでもねぇ……」
クピドは、そっぽを向いて寝転んだ。
「何よ、感じ悪いわね」
クピドは、寝ながら考えた。
今まで二次元にしか興味がないと思っていたのに、愛美の事を見ると胸が熱くなる。まるで愛美に惚れているかのようだった。
クピドは認められなかった。神である自分が、下界の人間に惚れるなど考えられなかった。しかし、この気持ちは間違いなく惚れていることから来ている。
──オレはマナを、好きになってしまったのか?──
がさつで、料理もまともにできず、女らしい所などほとんどないと言うのに、それなのに惚れてしまった。
もちろん、こんなことは愛美に言えない。言えるはずがなかった。だがしかし、クピドらに残された時間はごく僅かであった。想いを告げずに消えゆくのは、永遠の後悔になるやもしれなかった。
──決めた。消え始めた時に、マナに想いを告げよう……──
クピドは、心に決めた。
※※※
消滅の日がやって来た。
二人は朝早く起き、身だしなみを整えた。最期の時、せめて綺麗な姿でいようと思ったのだ。
愛美は、唯一の私服に身を包んだ。クピドは、服は変えないものの、毛羽立った翼をブラシで整えた。
「今日で消えるのよね? 私たち……」
「ああ、消えるな。間違いなく」
「一気に消えるの? それともじわじわ消えていくのかしら?」
「その答えならもう出ている。ほら……」
クピドは言うと、愛美に手を向けた。
指先が半透明になり、周囲に手が光の粒子になって辺りに散っていた。
「ひっ!?」
愛美の指先も光に散っていた。
「この分だと、夕方には完全に消えるな」
愛美たちに残された時間は、十時間といった所だった。
「夕方……」
夕方には、自分は消えてなくなるのだと思うと、愛美は恐怖感に支配された。
「川沿いに行こう、そこで思出話でもしようぜ」
二人は川沿い目指して歩き出した。歩きながらも愛美の恐怖心を和らげるため、クピドは愛美に話しかけた。
「この一年、色々あったな」
勉強会に柔道部での活動、バイトと愛美とクピドの一年間は多忙なものだった。
「そうね、本当に色々あったわね。あんたに殺されたせいで」
「やっぱり根に持ってるのか?」
「もう吹っ切ったわ。今更ごちゃごちゃ言うつもりはないわ」
「そうか、でもオレの方からは謝っておく。すまなかったな、マナ」
「もういいって、そんなことより、思出話するんでしょ? 消えるまでに語り尽くせるか分からないけど」
「そうだな、去年の今頃、オレは不祥事を起こしちまったんだよな。まさか五百年後の下界に、あんな大きな積み荷を持って走れる車があるなんて思わなかったな」
愛美はトラックに跳ねられ、即死の傷を負った。幽体離脱して、クピドの姿を初めて見た時、何者かと思ったものだった。
「あの時は本当、何が起こったのか分からなかったわ。あんな気持ちになったのは後にも先にもあの時だけだったわ」
「オレも、あの時ばかりは涼しい顔してられなかったな」
「何言ってんのよ、あの時も十分ポーカーフェイスだったじゃない」
「そう、だったか?」
「そうよ。それから、あの後ヴィーナスさんが来て、ボコボコにされてたじゃない」
「あの時の母ちゃんは女神ヴィーナスじゃねぇ、悪魔王ルシファーだった」
それから、ゼウスが来て今の状態になっている。
「それはあんたがちゃんとしないからでしょ。まあ、百合子と比べると勉強ができる分よかったと思うけど」
「百合子か。キリーを狙った時は敵だと思ったが、見事にフラれた時は万々歳だったぜ」
「人の恋路を応援する愛の神とは思えない発言ね……」
「仕方ねぇだろ。キリーはマナの恋人になるのに優秀株だったんだからよ。お前がキリーをフッた時は何してるんだって思ったものだ」
「可奈は、どうなるのかな?」
「どうなるって、どういう事だよ?」
「私と可奈はライバル同士だった。けど、私というライバルがいなくなって、張り合える相手がいなくなって、可奈はどうするんだろう?」
愛美と可奈は、親友でありライバルだった。そんな存在が消えてしまっては、可奈はどうやってオリンピック選手になるのか、愛美はそれが心残りだった。
「オレたちの消滅は、普通の生き物の死と違う。存在がなくなるんだ。それはどういうことかというと、人々の記憶からも抹消されるんだ。つまりもとからいない者になるんだ」
頭では理解できているつもりだが、存在が消えるとはどういう事か、実感がわかず恐怖であった。
「いなかったことになる、ってこと?」
「そうだ、関わった人間の頭からすっぽり抜け落ちるんだ」
消えても悲しむ人がいなくなると言うことだが、それはそれで寂しいことだった。
「そろそろ時間か?」
クピドは立ち上がった。光の塵に消えていっていた現象が、体にも及んでいた。
それは愛美も同じだった。
「マナ、ここでお別れとしよう……」
「……き」
愛美は何か言っていた。
「うん?」
「好き、好き好き好き、大好き! 久比人のことが!」
それは、告白の言葉であった。
「マナ……」
「私を殺したとか、そんなのどうでもいい! あんたと一年間一緒にいて、いつの間にか好きになってたのよ!」
クピドは、愛美の突然の告白に言葉を失っていたが、クピドも同じ気持ちであった。
「オレも好きだ。その気持ち、嬉しいぜ……!」
「久比人!」
二人はがっしりと抱き合った。
「ストーップ・ザ・ターイム!」
聞き慣れた魔法の言葉と同時に時間が止まり、ゼウスが姿を見せた。
「ゼウスさん!」
「ゼウスのおっさん」
二人はそれぞれ反応する。
「ひょほほほ、主ら、ついにくっついたな? しかも消滅寸前に告白というロマンチックなタイミングでなぁ……」
「ゼウスのおっさん、さては世界からオレたちを遮断したのはあんただな?」
クピドは問い詰める。
「ひょほほ、こうでもせんと、主らくっつきそうになかったのでな。これで愛美は生き返り、クピドの不祥事は無かったことになる。めでたくハッピーエンドぢゃ!」
んー、それにしても、とゼウスは言う。
「愛美の方から告白したのは意外ぢゃったな。あの男嫌いの愛美が。これもひとえに、クピドの美故のものか?」
「そ、そんなんじゃないですよ!」
愛美は、耳まで赤くなっていた。
「ひょほほほ、おっと、まずは崩壊した主らの体を治さねばな」
ゼウスは、指を弾いた。次の瞬間、消えていった愛美とクピドの体がもとに戻った。
「して、主らいつ婚礼の義を執り行うのぢゃ?」
「ゼウスさん、私、告白したばかりでまだ久比人、いや、クピドと付き合ってませんから、結婚はまだできません! そもそも私まだ高校生ですし……!」
ふむ、とゼウスは考える。
「ではこうしようぞ、愛美が高校を卒業するまで、主らはこのまま恋人として付き合うのぢゃ」
「もとよりそのつもりだ、おっさん。でも神としての職務はどうする?」
「下界で言うところの冠婚葬祭で休みぢゃ。高校を出るまでわしが愛の神を兼任してやろうぞ」
さて、とゼウスは後ろを向いた。
「できあがったばかりのカップルの邪魔をしてはならんなぁ。わしは行くとしよう。主ら、幸せにな」
ゼウスは魔法を使った。
「ムーブ・ザ・ターイム!」
時間が動き出した。
「結局こうなったわね。消えゆく者への慈悲が私たちの『慈悲の心』だったわけね……」
「というよりも完全にゼウスのおっさんの出来レースだったな」
「それでもいいわ、あんたことがこんなに好きになるなんて……」
「オレも悪くない感じだ。二次元以外と付き合うのがな」
「でも神と人間の結婚なんてできるの? 病気とか寿命とか、人間はあんまり生きられないものよ?」
「それは心配いらないさ。結婚したらゼウスのおっさんに女神にされて、女神マナとして生きていくことになるからな」
「それって平気かな?」
「大丈夫、なるようになるさ」
クピドは魔法を使った。衣服が制服に変化する。
「これからしばらくは、藍木久比人として学生生活を送るぜ。これからもよろしくな、マナ」
久比人は、心から笑った。
「うんっ!」
愛美も笑って答えた。
夏の夕暮れに、新たに誕生した恋人同士を祝福するように、優しく、涼しい風が吹くのだった。
どうも、作者の綾田です。
かつてなろうで二次創作を書いていましたが、二次ファン終了してから別のサイトで書いていましたが、その作品が完結したので、完全オリジナル作品を引っ提げてなろうに戻って参りました。この『キューピッドの不祥事』という作品は、学生時代昼寝をしていた時に夢に出てきた物語が元になってます。ずっと書こう書こうと思っていましたが、二次創作の方が忙しくてなかなか書けずにいましたが、二次創作完結をタイミングとして完全オリジナルの処女作の執筆をしました。オリジナル作品を書くのはなかなか大変でして、毎月毎日書き続けるのを目標にがんばって書きました。約五ヶ月の短い間でしたが、最終話まで書けたのは我ながらよくやったと思います。まだまだつたない文章能力ですが、今後も作家を目指して活動していこうと思います。
最後になりますが、私の作品を読んでいただいている皆様に感謝を述べて私の挨拶させていただきます。
ここまで読んでいただいて、ありがとうございました。




