ホワイトデーの本命返し
第十三話 ホワイトデーの本命返し
厳しい冬も過ぎ去り、寒さが和らいだ頃。雪解けが進んでいた。
千関市は北国に位置するため、雪解けが進んでいたといっても、まだまだ道路のわきには雪が残っている。
そんな初春を感じる天気の中、愛美と久比人は買い出しに出かけていた。
「あぁ、春だけどまだまだ寒いな」
「寒がりね、もうコートはいらないでしょう?」
久比人はまだ、厚手のコートを見に纏っていた。
「それよりあれだな、ゼウスのおっさんとの約束まで後三ヶ月ってところか?」
今は三月であるので、のこり三ヶ月でもう約束の夏がやってくる。
「もうそんなすぐに迫っているの? 不味いわね……」
「キリーと付き合う覚悟はできないか? お前のその決断ひとつで全て丸く収まるんだが」
ウジ虫転生が目の前に迫っていても、愛美は霧二郎と付き合おうとは思えない。
霧二郎の事が嫌いだと言うわけではない。ただ
付き合うのが恐いだけであった。
そんなことよりも、愛美の心に引っ掛かるものがあった。それは、久比人に対する気持ちだった。これまで長い間一緒にいて心境の変化があった。
今まで何とも思わない、むしろその存在が鬱陶しいと考えていたが、今は違う。
一緒にいたい、そんな気持ちが浮かぶようになっていたのだ。
もちろん、そんな事は久比人に言えるはずがなかった。言ったところで、熱でもあるのかと突っぱねられることだろう。
「どうしたマナ? 急に押し黙ったして。どこか具合が悪いのか?」
「な、何でもないわよ! ほら、さっさと買い物済ませるわよ。寮のおばさんが急用でいないんだから、ご飯は自分でなんとかしなきゃならないんだからね!」
愛美はつい、キツい物言いをしてしまう。そしてキツく当たってしまった事を後悔する。
「何だ? キツいこと言ってるくせに、悪いことしたみたいにまた押し黙って。やっぱりどこか悪いんじゃねぇのか?」
「大丈夫だって言ってるでしょ。ほら、さっさと行くわよ」
愛美は、残雪を踏んで先に歩くのだった。
※※※
「よーし、料理するわよ!」
愛美は、エプロンを着て料理に意気込んでいた。
「マナが作るのか? 何だか不安だな……何を作るつもりだ?」
久比人は、訊ねる。
「私の大好物、カレーよ!」
寮で出されるカレーに比べれば、さすがに劣るであろうが、凝らなければ誰が作っても味は良いものが出来上がる。料理がそこそこできれば、の話であるが。
「マナ、カレー作れるのか?」
「高校入ってから一度も作ったことないわ、寮で出るもの」
久比人はガクッ、となった。
「それって大丈夫なのか? なんだったらオレが作るぞ?」
「手出し無用よ。この愛美様にかかればカレーくらい楽勝に作れるわ!」
あんたは座ってなさい、と愛美に言われ、久比人は仕方なく居間に引っ込んだ。
「さーて、作るわよー! まずはじゃがいもの皮むきからね!」
愛美は、包丁を手に、じゃがいもを持った。そして皮をむくべくじゃがいもに刃を向ける。
「あ、あれ……」
包丁の刃を薄く入れようとするのだが、力が入りすぎてしまい、食べるべき実の部分まで削ってしまっていた。
「おっかしいなー、じゃがいもが小さくなっちゃった」
愛美は苦笑する。
──ピーラーを使えよ。持ってないのか? 仕方ない……──
久比人は立ち上がり、魔法を使った。
「はっ!」
魔法により、ピカピカの切れ味の良さそうなピーラーを出すことができた。
──よしっ──
久比人はそれを手に、キッチンに行った。
「さっそく苦戦してるみたいだなぁ、マナ?」
「あんたは座っててって言ったでしょう? 手出ししないで」
「ほらこれ、使えよ。魔法で出した」
久比人は、ピカピカのピーラーを差し出した。
「これって、ピーラー?」
「包丁でむくのは、難しい上に危ない。そこでほれ、この切れ味抜群のピーラーの出番ってわけだ。使え」
愛美は、久比人の気づかいに、ありがたい気持ちがわいた。
「あ、ありがと……使わせてもらうわ」
「それからやっぱり、オレも手伝うよ。二人で作った方が効率がいいし、より旨いカレーが作れると思うんだ」
「久比人……」
「じゃあ、オレはニンジンの皮むきするから、マナはそのままじゃがいもを頼む」
久比人の手が入ってから、カレー作りは順調に進んだ。
具材をフライパンで、玉ねぎがきつね色になるまで炒めた後、鍋に移してじゃがいもがホクホクになるまで煮込んだ。
仕上げにカレールーを投入し、水加減に気を付けて煮込んだ。
二人の合作のカレーは、とても美味しそうにできた。
「旨そうにできたな」
「そうね、私一気にお腹減っちゃった」
ピーピー、と炊飯器が鳴った。
「タイミングよくメシも炊けたな」
「じゃあ食べましょ! 私お腹ペコペコ!」
二人は皿にカレーを盛った。そしてスプーンを手にテーブルに向かった。
「いっただきまーす!」
「いただきます」
愛美と久比人、二人それぞれ食前の挨拶をし、カレーを一口食べた。一口含んだだけで、カレーの辛みとそこから来る旨味が鼻に抜けた。
「うーん、美味しー!」
愛美は、舌鼓を打った。
「うん、旨いな。マナの作ったカレーだから、ちょっと不安だったけど、これはいいな」
「どういう意味よ、それ?」
「思った以上に旨いってことだよ」
「褒められてるのかよく分かんないわね。ポーカーフェイスのあんたに言われると尚更ね……」
愛美は、カレーを三杯お代わりをした。久比人も二杯お代わりした。
「ご馳走さまでした」
「ご馳走さま。ふう……もう食えねぇぜ……」
「少食ねぇ。たった二杯でご馳走さまだなんて」
「ホント、いつも思うけど、お前のどこにそんなに入る所があるんだ?」
愛美は、カレーを大盛りで三杯お代わりしていた。細身の愛美がそれほど食べられる事が、久比人には驚きであった。
「あれかしら? 成長期ってやつ?」
女の愛美の成長期は、もう終わっているはずだった。縦に伸びる時期は終わり、以降は横に増えるはずである。
「今もまだ成長期って、数年後には巨人にでもなっているんじゃねえか?」
「うっさいわねぇ、そんなはずないでしょ」
さて、と愛美はテーブルの皿を一まとめにした。
「じゃあ、じゃんけんしましょ。負けた方が皿洗いよ」
「おう、いいぜ。じゃーんけーん」
ぽい、と出された拳。愛美がチョキで、久比人がパーであった。
「よしっ、私の勝ち!」
「ちぇっ……仕方ねぇな」
負けた久比人は、まとめられた皿をキッチンに持っていった。そして、お湯を出して皿や鍋を洗い始めた。
カレーの汚れはなかなか落ちなかった。特に鍋にこびりついた汚れは擦っても落ちない。
──こうなったら仕方ねぇ……──
「はあっ」
久比人は魔法を使った。渦巻く水流を出す魔法であり、水の勢いが、カレーの頑固な汚れを打ち砕いていく。
やがて、カレーの汚れは大分浮いた。後は洗剤を使えばピカピカにきれいになるだろう。
久比人は、皿洗いを終わらせ、手を洗って居間に戻ってきた。
「皿洗い終わったの? おつかれー」
「全く、神に皿洗いさせるなんて大胆不敵なヤツだな……まあ、今さら言っても仕方ないか」
久比人は座った。
「そう言えば、来週だったな、ホワイトデーとか言う日」
「そう言えばそうだったわねぇ。すっかり忘れてたわ」
「バレンタイン頑張っていろんな人にチョコ配ってたろう? お返し期待してもいいんじゃねぇか?」
「別にそんなに期待してないわよ。私が勝手にやったことだし」
というか、と愛美は久比人に問い返す。
「ホワイトデーもキリスト教関係あるの?」
「いや、ないな。神は関係ない行事だ。実は日本発祥らしいぜ」
愛美は驚いた。
「えぇ!? 世界的なものかと思ったのに、こんな小国が発祥だったの!?」
ホワイトデーは、義理人情を大切にする日本人の国民性から生まれた日だった。バレンタインで贈り物を受け取った事を理由に、そのお返しをする日と定められている。
「ホワイトデーは恋愛的な意味合いもあるんだぜ。三月十四日って数字の列、円周率と一緒だろ?」
久比人の言う通り三、十四という数字列は円周率の最初の方である。
「それって、何か意味があるの?」
「分かっちゃいると思うが、円周率に終わりはない。永遠に続く数字だ。そこに恋愛を持ってこい。永遠の愛を意味するんだよ」
へぇっ、と愛美は納得した。確かに円周率に終わりはないし、終わりが無いことが男女の愛である。もっとも、愛美の周りでは男女の愛の永遠性など皆無に等しかったが。
「日本人的にはやっぱり、想いは男の方から伝えるべきだってことなんだな、きっと」
そうかもしれないわね、と愛美はあまり興味がなさそうだった。
「マナ、キリーにチョコ渡してただろ? 本命で返ってくるなんて事があるかもしれないぜ?」
「んなっ!?」
確かに霧二郎に義理チョコを渡している。それ以前に霧二郎は、愛美を好いている発言をしている。これで更に霧二郎の心を得て、本命返しなどということがあるやも知れぬと考えられた。
──いや、あり得ないわ。あの硬派な霧二郎さんがこんな軟派な行事にかこつけてだなんて……──
しかし、義理人情は大切にする人だということはよく分かっていた。何らかのお返しはあるだろうと思われた。
「まあ、この際キリーとくっついてくれれば、オレとしては万々歳なんだけどな」
「だから、前から言ってるけど、霧二郎さんとはそういう関係にはならないって」
「はいはい、お前ならそう言うと思ったよ」
「あんたからはなにかもらえるのかしら?」
「…………へ?」
久比人は、間抜けな声を出した。
「あんたには、感謝チョコあげてたでしょう? あんたこそ本命返しみたいなものもらえるのかしら?」
「何でオレが本命返ししなきゃなんねぇんだ? オレの嫁は春子……」
つい最近までの久比人ならば、はっきりと答えていたところだが、最近は違った。愛美の事となると、少し胸が苦しくなるのだ。
「ま、まあ、チョコのお返し位はしてやるよ。適当に期待して待ってな」
「はいはい、期待して待ってるわ。それじゃそろそろ寝ましょうか?」
「そうだな、明日はバイトだしな」
二人は床につくのだった。
※※※
月日は、三月十四日。ホワイトデーの日がやってきた。
「おはよー」
愛美は教室へと入っていく。
「あ、愛美、おはよー! 待ってたよ!」
百合子が駆けてきた。何故か片手を腰の後ろに隠していた。
「おはよー、朝から本当に元気ね、百合子……」
「はいこれ!」
百合子は、腰の後ろに隠していたものを、愛美に渡してきた。
「これって、チョコレート?」
「そうよ、友チョコ返し!」
百合子は、彼氏の要に本命チョコを作っていたので、愛美への友チョコを作ってはいなかった。
故に、ホワイトデーのこの日に友チョコのお返しを作っていたのだった。
「ありがたくいただくわ。今日は黒井くんから何かお返しをもらえるといいわね」
「要っちの事だからきっと手作りチョコ作ってきてくれるわ。楽しみー!」
「愛美ちゃーん!」
教室の出入口で、可奈が手を振っていた。
「可奈!」
愛美が気がつくと、可奈は教室へと入ってきた。
「はい、バレンタインのお返しだよ」
可奈は、小さな紙袋を愛美に差し出した。
「あぁ、ありがとう、可奈」
「初めて手作りに挑戦してみたんだけど、お口に合うといいな」
「手作りなの!? 可奈っちったら器用ー」
百合子が驚いて言った。
「百合ちゃん、驚きすぎだよー。ただ溶かして、カップに入れて、ちょっとトッピングしただけだから、あたしでも作れるよー」
「開けてみてもいい?」
愛美は訊ねる。
「うん、いいよー」
愛美は、可奈からもらった紙袋から中身を出した。小ぶりのカップにチョコレートが入っており、デコペンで"Dear my friend"と文字が書かれていた。
「ありがとう、可奈。今日の夕食後にでもいただくわ」
「うん、味わって食べてね。じゃあ、あたしはこれで、また部活でね」
可奈は去っていった。
「友チョコは返ってきたね。後は桜井先輩と藍木くんからのお返しかな?」
百合子は言った。
「別に期待してないわよ。まあ、もらえるものはもらうけど……」
「おー、いやしんぼ発言だ」
「誰がいやしんぼよ。私のために作ってくれたんなら、受け取らない方が失礼でしょ?」
愛美は、至極ドライな態度を取っていた。
「失礼、山村さんはいらっしゃいますか?」
霧二郎が愛美のクラスにやって来た。
「霧二郎さん!? どうしたんですか、こんな朝早くから!?」
「おはよう、山村さん。今日は部活に出られますか?」
「はい、今日はバイトがないので、出る予定でしたけど……」
「では、部活前に時間は取れますか? お渡ししたいものがあります」
「構いませんが……」
「では放課後にまた」
霧二郎は去っていった。
「山村とあの先輩、ついに決着つけるのか?」
「激しい戦いになりそうだな……」
男子生徒は、愛美と霧二郎が昨年の春から、戦いが続いていたのではないかと思っていた。
「山村さん、あの人とついに付き合うのかしら」
「今日はホワイトデーだから、お返しチョコ用意してるんじゃない?」
「キャー、新しいカップル誕生!?」
女子生徒たちは、本命のお返しが愛美に渡されるのではないかと色めき立った。
「マナさーん」
久比人が大慌てで愛美のところにやって来た。
「さっき、キリー先輩とすれ違ったんすけど、何かあったんすか?」
愛美は何も言わず、久比人の向こう襟を取って引き寄せた。
(大きな声で言わないでよ。みんな誤解してるじゃないの!)
(誤解じゃねぇだろ、どう考えてもバレンタインのお返しだろ。本命で)
(な、本命……!?)
(じゃなきゃこんな朝っぱらからわざわざ呼び出さねぇだろ?)
「山村さんって藍木くんとも仲良いよね?」
「何をこそこそ話してるのか、気になるよね?」
クラスメイトの視線を感じ、愛美ははっ、となった。
「ち、違うのよ! 私とこいつはそんな仲じゃないから!」
「もしかして、あの先輩と藍木くんとの三角関係……?」
「もっとあり得ないから!」
愛美は、再び久比人の襟を引き寄せた。
(ちょっと、誤解が余計にひどくなっちゃったじゃないの!? どうするのよ)
(知るか、オレまで渦中に入れられちまったじゃねぇか)
「おーい、みんな。席つけ、出席を取るぞー」
いつの間にやら、始業時間になっていた。愛美にとって、村井が助け舟となった。
(とにかく、お前の誠意、見せてもらうからな)
久比人は、霧二郎との約束を見届けるつもりだった。
※※※
放課後まで残り一時間になっていた。
愛美は、緊張の極みにいた。朝に霧二郎に呼び出しを受けて、その内容は、ホワイトデーのお返しであろう事は分かっていた。
この一時間が過ぎなければいいのに、とさえ思ってしまう。
霧二郎の事は悪しからず思っている。しかし、それは柔道部の先輩だということからだ。
愛美は、もしも告白された場合の事を考えていた。主に、如何にして断ろうということだった。考えておかねば、圧しきられてしまうかも知れなかった。
何故、愛美はそこまでして断ろうとしているのか。それはひとえに交際が恐いからである。
霧二郎からの告白を受けて、付き合うことになって、その後どうなるのか、愛美には分からなかった。そこが恐かったのだ。
考えている間に、ついに、約束の時間を示す放課後のチャイムが鳴ってしまった。
──時間が過ぎるのが早すぎるよ……──
愛美に考える時間は、あまりにも無さすぎた。
(時間だな)
久比人は耳打ちしてきた。
(答えは絶対にイエスだ。そうすれば、オレの不祥事は払拭されて、マナも生き返れる。恋人のおまけ付きでな)
久比人にとっては、これまでの努力が報われる瞬間が来ようとしていた。
愛美は、久比人に一切気を向けること無く帰り支度をし、霧二郎との約束を果たしに行くのだった。
※※※
柔道場の扉の前に、霧二郎は小さな箱を片手に、愛美の登場を今か今かと待っていた。
ついに来る時が来た。愛美の決断が出る時が。
「山村さん……!」
霧二郎は、愛美に気が付き、寄りかかっていた扉から離れ、小走りで愛美の所まで近付いた。
「山村さん、来てくれたんですね」
「はい、霧二郎さん、私にご用って何ですか?」
愛美は一応確認する。
「これを受け取っていただきたい」
霧二郎は、持っていた小箱を愛美に差し出した。
「これは?」
「開けてみてください」
愛美は言われるがまま箱を開けてみる。
箱の中身は、ハート型のホワイトチョコレートに黒のデコペンで"I love you"とだけ書かれた、気持ちの込もったチョコレートだった。
愛美にとって疑念が確信へと変わった瞬間だった。愛美は、霧二郎の心を得ていたのだ。
「山村さん、自分はあなたの事が好きです!」
「霧二郎さん……」
「中学生の頃からずっと好きでした!」
そんなに前から好かれていたとは、愛美は思わなかった。
「付き合ってください!」
霧二郎は深く頭を下げた。
「頭を上げてください、霧二郎さん」
愛美は、霧二郎に頭を上げさせ問うた。
「付き合って、それから先どうするつもりですか?」
「山村さん……」
「私、恐いんです。誰かと付き合うのが。私は親からも、親族からも愛を受けたことがないんです。仮に付き合って、高校を卒業して、結婚までして、その後も変わらず愛してもらえるのか、分からないんです……」
愛美は、心の内を打ち明けた。
「自分はあなたを愛しています。この言葉に嘘はありません。あなたがどんな人生を送ってきたのか知らぬ身で言うのも烏滸がましいですが、あなたに愛を与える存在になりたい。そう思っています」
「口では何とでも言えます。本当に私の事が好きならば、行動で示してもらいたいです」
「それは……」
「できないでしょう? 人間なんてそういうものなんです。だから、ごめんなさい……」
愛美はこれまで話している間、何故か久比人の顔が頭に浮かんでいた。ポーカーフェイスで無表情な久比人が涙を流している、そんな顔である。
どういうわけかは分からない。霧二郎と付き合うことになったら、真っ先に喜びそうな久比人が、何故か涙を流しているのだ。
「……自分とは付き合えない、そう言うことですか?」
愛美は、はっ、となった。霧二郎から告白されていながら、何故久比人が頭に浮かんだのか分からなかった。
愛美は、霧二郎の目を見た。そして正直に自らの考えを告げた。
「……ごめんなさい、霧二郎さん。あなたとは付き合えません……」
霧二郎は、一瞬悲しい表情をしたが、すぐいつものような顔に戻った。
「分かりました。自分は、自分から柔道を取り除いたら何も残らないつまらない男だ。そんな男と付き合っても何も良いことはない。この話は忘れてください」
霧二郎は言い残し、道場へと入っていった。
──私は正しいことをしたのよね……?──
愛美は自問自答する。
「おい……」
愛美が振り返るとそこには、久比人がいた。
「久比人!? いつからいたの!?」
「最初っからいたよ。それよりなんて事してくれてんだよ?」
「なんて事って何よ?」
「なんでキリーをフッたんだ。お前ウジ虫になりてぇのか?」
「なりたいわけないでしょ!?」
「だったらなんで? キリーはやっぱりお前に惚れていた。それに応えていればお前は自由の身だった。それなのに何故……」
せっかく愛美を好いていた霧二郎をフッたことを、久比人は怒っていた。ポーカーフェイスの久比人が、明らかに怒りの表情を浮かべていたのだ。
愛美が霧二郎をフッた事によって、久比人は存在が消えてなくなる。それがほとんど確定した事実に怒りを覚えていた。
「なんで付き合わなかった? 言いようによっては、ただじゃすまさねぇぞ……」
怒りに震える久比人は、普段が無表情なだけに恐ろしいものだった。
それでも愛美は自分の考えを伝える。
「恐かったからよ!」
「なに? 恐かった?」
「そうよ、付き合うことが恐かったからよ!」
愛美は、自分の思いの丈を告げた。
誰かと付き合うとして、その後どうなるのか分からないのが恐かった。あの母親のようになるのではないか、家族を築いた所で上手くやっていけるのか分からなかった。
高校生の分際で、家庭を築く事まで考えるのは気が早すぎると、久比人も他の人も言うに違いないだろう。
だが、親族からまともな扱いを受けたことのない愛美からすれば、異性と付き合う時点で恐怖を感じてしまうのだ。
「マナ……」
「分かってくれたかしら? 来世はウジ虫になるのと同じぐらいに、誰かと付き合うのは嫌なの」
「ああ、すまなかった。一方的に怒ったりして。こんなんオレのキャラじゃなかったな」
「久比人?」
愛美が顔を上げると、久比人は穏やかな顔になっていた。
「だけど、お前に恋人を作るのは諦めないからな。将来お前が結婚しても必ず幸せにする男を見繕う。それで許してもらえないか? これからも一緒にいていいか?」
他の男を紹介すると言っておきながら、久比人は愛美と共にいることを望んだ。
「いいわよ。今さらあんたを男として見てないから、一緒にいるくらいならどうってことないわ」
「じゃあ、一緒に消えてくれるか?」
「それは、嫌」
二人は笑い合い、部活へと向かっていった。
※※※
「百合子」
愛美は珍しく、朝から百合子の所に行った。
「なぁに、愛美? 愛美の方から来るなんて珍しいね?」
「単刀直入に訊くわ、黒井くんとは上手くやってる?」
「えぇ!? 急にどうしたのよ?」
「いいから答えて。黒井くんといて幸せ?」
百合子は、恥も外聞も捨てて言った。
「幸せよ。一緒にいるだけで楽しいし。なになにー、ひょっとして羨ましくなっちゃったとか?」
「それは無いから心配ご無用よ。ただ、高校生のカップルってどんなものか知りたくなっただけだから」
「そんなの知ってどうするの? あー、ひょっとして藍木くんの事狙ってるとか?」
「それは……あり得ないわ。た、ただこれから先、男子と力を合わせて何かを成し遂げなければならない時がやってくるでしょ? いろいろとね。だからこの男嫌いは何とかしたいと思ったのよ。それだけよ!」
「おぉ、素直じゃないけどそれはいいことだよ、愛美。分かったわ、あたしが男の子と付き合うことはどういう事か、教えてあげるね」
「いや、付き合うところまでは……」
「いいのよいいのよ。じゃあちょっと着いてきて」
「ああちょっと、百合子!?」
愛美は、百合子に手を引かれ黒井のクラスまで連れてこられた。
「要っちー!」
百合子は、大きな声で黒井を呼んだ。
一人参考書を読んでいた黒井は、百合子の声に応じた。
「百合さん、どうしたの? こんな朝早くから。うん? 山村さんも一緒なんだね」
「うん、愛美が男の子と付き合うことはどういう事か知りたいらしくてね」
「だから付き合うところまではいいって……」
「あの愛美が男の子に興味を持つなんて、あたしは嬉しいわ!」
「だから、話を聞いたら……全く……」
愛美は、無駄なことか、と諦める。
「それで愛美、どんなことが知りたいの?」
百合子は言う。
「うん、じゃあ二人が普段どんな風に過ごしてるのか、教えてほしいかな」
「どんな風に? そう言われてもねぇ?」
「うん、僕たち普通に過ごしてるよね?」
「その普通が知りたいのよ。教えてもらえるかしら?」
「そうねぇ……」
百合子は列挙する。
昼休みは一緒に昼食をとり、食べさせ合うこともある。
放課後は、黒井が塾に行くまでの間喫茶店で過ごし、他愛のない話で盛り上がっている。
二人は、小説で読んだことがあるような事しかしていなかった。
「えっ、それだけ……?」
愛美は、二人がかなり清い付き合いしかしていないことが意外であった。
「それだけって、愛美何想像してたの?」
「それは……キス、とか……」
愛美は真っ赤になって答えた。
「えぇ!? 愛美、いくらなんでも早いよ!?」
「えっ? 早いの?」
「早いよ。そう言うのは付き合って半年くらい経ってからするものだよ!」
「えっ、そんなに時間がかかるものなの? その間は何してるものなの?」
愛美は訊ねる。
「何してるって、さっき言った通りの事よ。ねぇ
、要っち」
「そうだね百合さん。僕は君と一緒にいるだけで十分だよ」
黒井もキス以上の事を求めていなかった。
「愛美、それってすごい恋愛音痴だよ。あたしたちまだ高校生よ? 高校生の内は清い付き合いをするものよ?」
今時のギャルといった風貌の百合子でさえ、異性交遊のような事をしていなかった。どうやら愛美は、恋愛が何たるかをまるで知らなかったようだった。
「まあ、でもちょっとしたスキンシップはするけどね。手を繋いだりね」
「手を繋ぐことはするんだ?」
「もちろん学校内ではしないよ。あたしバカだけど、バカップルには見られたくないからね」
「僕も恥ずかしいことはしないよ。百合さんの頼みでもね」
「あっ、それひどーい!」
百合子と黒井は笑い合う。
愛美は二人の様子を見て、少し恋愛とは何か分かった気がした。
いきなりキスをするようなことはなく、激しいスキンシップもしない。ただ手を繋ぐ程度の事しかしない。
それより何より大切なのは、一緒にいること。これが本当の恋愛なのかと愛美は思った。
今も百合子と黒井は、楽しそうに笑っている。大したことない事だが二人笑い合うだけで幸せそうに見えた。
──そっか、これが……──
これが恋愛なのかと愛美は思った。
大切な人と他愛ない事で笑い合い、ただ一緒に時を過ごしていく。これこそが恋愛の何たるかなのだろうと、愛美は思う。
「ありがとう、百合子」
「へっ? あたしお礼を言われるようなことした?」
「二人を見てて十分学べたわ。そう言う意味じゃないけど、男子とどうすれば付き合えるか、分かった気がするわ」
「愛美?」
始業のチャイムがなった。
「えっ!? もうこんな時間!? 愛美、教室に戻るわよ! それじゃあ要っち、また昼休みにでも」
「うん、またね、百合さん」
愛美と百合子は、教室へと急ぐのだった。




