多忙の学園祭
第七話 学園祭
秋も深まり、紅葉が見頃となった晩秋の候。
愛美は三度、病に臥せっていた。
久比人と分かれていた時間が長かったため、神格が切れ、病気に罹っていた。
病状はいつも通り、風邪のような症状だったが、今回は四十度にも及ぶ発熱がひどかった。
「ほんの一時間離れただけなのにな」
久比人は、氷と水を入れた洗面器にタオルを浸し、よく搾ると愛美の額にそっと乗せた。
愛美と久比人が離れていた理由、それは久比人が買い物をしに行っていた事だった。
新刊のラノベを買いに本屋へ行った久比人だったが、つい立ち読みをしてしまい、愛美と一時間離れてしまった。
神格が一時間受けられなくなったために、愛美は病気になってしまったのだった。
「しっかし、たった一時間でこれほどひどくなるとは……ゼウスのおっさんの術が、いよいよ深刻化しているみたいだな……」
「げほっ、ごほっ、ごほっ……!」
愛美は、声も出せないほどひどい状態であった。
「またオレの魔法粥を食え、今作るからよ」
愛美は首を横に振っていた。
「何? 食えないのか?」
愛美は首を縦に振った。
「けど食わないと治りが遅くなるぞ? しかたない、作ったことはないが、重湯にしてみるか。魔法もたんまりかけてよ」
久比人は、台所に行って料理を作り始めた。
重湯とは、米が溶けるほど煮込んだ流動食である。のどが腫れて普通の食事がのどを通らない時に使える、ほとんど飲み物の料理であった。
米を溶かすという性質上、普通のお粥よりも火加減に注意しなければならないので、久比人は、中火から弱火の間で火加減を調節した。
「うん、まあ、こんなもんかな」
久比人は、どうにか重湯を作ることができた。
「できたぞ、マナ。これなら飲み込めるだろう?」
愛美は頷いた。
「ほら、口開けろ」
久比人が愛美に口を開かせると、スプーンで重湯を掬って食べさせた。
「あり……がと……」
か細い声で愛美は礼を言った。そして、そのまま眠ってしまった。
神格を欠く事による愛美の病気は、回を重ねるごとにひどくなっている。
──ゼウスのおっさんとの約束から、もうちっとで四ヶ月か……──
波乱の夏が終わり、季節はすっかり秋である。
茹だるような暑さが引き、朝晩はすこしひんやりした風が吹くようになった。これだけでも風邪を引くのに十分な環境である
そこへ久比人の神格を受けられないということで、愛美は病に臥せった。もう、久比人と本当の意味で四六時中いなければならなくなった。
──おっさん、ちょっと厳しすぎるぜ……──
久比人は、寝息をたてる愛美を見て、思うのだった。
次の日の朝。
「ああ、よく寝た……」
愛美は目を覚ました。喋れないほどののどの痛みはなくなり、熱もすっかり下がっていた。
「ぐごご……!」
すっかり同居人と化した久比人が、愛美の看病疲れで、大いびきをかいて眠っていた。
──また、こいつの世話になっちゃったわね……──
今回は、久比人の不注意による病であったが、また借りを作ってしまった。
愛美の体も、すっかり久比人なしでは健康を保つことができなくなっている。それが愛美にとってやるせない事だった。
もしこのまま時が経てば、今以上に状況は悪くなるのだろうか。愛美は最悪なケースを考える。
だからといって、恋人を作るのだけは嫌なことに変わりはない。
ゼウスに言われた『慈悲の心』。愛美自らの願いである、恋人を作ることなく、久比人の世話にもならない方法である。
だが、それも最近になって分からなくなってきた。
『慈悲の心』がどうすれば成立するのか。他人に優しくすればいいのかと考えていたが、どうやらそれは少し違うらしい。
──ゼウスさん、一体私はどうすれば……──
思う愛美であった。
※※※
「ふあーあ……ねみい」
久比人は、人目もはばからず大あくびをした。
「ずいぶん眠たそうね。私のせいかしら?」
「……まあ、一晩中お前の看病という名の神格かけをしてたからな」
「今回の事は完全にあんたのせいだからね、自業自得よ」
「そうだな、たった一時間であそこまで悪くなったんだ。これからは通販で買うことにするよ。いや、電子書籍のほうがいいか?」
「人の命とラノベを同じ秤で比べないでちょうだい」
「またまたー。いくらゼウスのおっさんの術でも、死ぬほどの病には罹らないだろうよ」
「死なないにしても、病気する事は死ぬほど辛いのよ。他人事だと思わないでちょうだい」
「ああ、そこはオレが悪かったと思ってるよ。でもずっと下界にいて暇なんだよ。ラノベ読むことはオレの唯一の楽しみなんだ」
「そんなに暇ならあんたも『慈悲の心』が何か考えなさい。あんたも三つ目の選択肢でこの茶番を終わらせたいでしょ?」
「オレの『慈悲の心』は人と人を恋させる事だ。でもそれはもうできなくなっちまったんだ」
「できなくなった、ってそれはどういう事?」
「昨日の帰り、試しに縁結びの魔法を男女二人でいる人間にかけてみたんだが、くっつかなかったんだ」
「もうとっくに付き合ってたんじゃないの? その人たち」
「だとしても、魔法が効いてりゃなにかしらの反応があるはずなんだ。手を繋ぐ、とかな」
久比人の魔法は、恋人同士にかけた時、相応の効き目が現れるはずだった。人目をはばからずキスさせることだって可能だった。
だいぶ神格を愛美に効かせ続けた結果、魔法の効力は愛美以外の人間に効きにくくなってしまったのだった。
「こうなったらもう、お前に恋人を作るしかない。お前が関わってりゃ魔法も十分な効果が出る」
「勝手な事言わないでよ! 偶然魔法の調子が悪かっただけかもしれないじゃない?」
「オレもそう思いたいけど、魔法は神聖なるものだ。寸分の狂いもあるはずがないんだ」
「けど……!」
「ねーねー、二人で何話してんの?」
百合子が話しに入ってきた。
愛美は、これは好機だと思った。
(そうよ、百合子よ。百合子に恋人を作るのよ。私と関わりが深いんなら魔法は効くんでしょ?)
(そりゃそうかもしれねぇが、相手はどうするんだよ?)
(ちょっと調べてみるわ)
「ねぇ、百合子」
「なぁに?」
「あんた今好きな人とかいないの?」
「へあっ!? また何突然そんなこと訊いてんのよ!?」
これは誰かいる反応であった。
「その様子は誰かいるみたいね。誰か言ってみなさい? 久比人が恋のキューピッドしてくれるわよ?」
「その名で呼ぶなと……むぐっ?」
愛美は、久比人の口を塞いだ。
「そぅら、言ってみなさい? 彼氏ができるわよ?」
「……ここだけの話にしてくれる?」
「ええ、いいわよ。まあ、言わずとも知られることになるでしょうけどね」
百合子は、普段と比べると信じられないほど真剣に、そして真っ赤になっていた。
「ほら、さっさと言いなさいな」
蚊の飛ぶような声で、百合子は言った。
「……鈴木君」
百合子のいう鈴木君とは、クラスで大して目立たない静かな少年であった。
容姿は普通であり、悪くはないが、良くもないまさに普通を絵に描いたような少年である。
容姿は普通だが、成績は良く、特待生の愛美と同様学年上位十位以内をマークしている。
まさに百合子とは正反対の少年であった。
「鈴木君って、あんたと釣り合ってないじゃない。どこがいいのよ?」
「頭が良くて優しそうな所よ! 悪かったわね!」
百合子は顔を真っ赤にして叫んだ。
「はいはい、ごめんごめん。で、できる? キューピッドさん?」
「だからその名で……まあいい、やってみるか……」
久比人は、手を組んで念じた。愛美にだけ久比人の体がぽうっ、と光るのが見えた。
(暗示をかけてみたぞ。上手く行ってりゃ百合子が告白すればカップル成立だ)
「百合子、今がチャンスよ。鉄板だけど放課後屋上に呼び出してみたら?」
「ほ、本当に上手く行くんでしょうね?」
「疑り深いわね、さっさと行ってきなさい!」
愛美は、百合子の背中を押した。
「わあっ!」
百合子は背中を押され、もう引き返すことはできなくなった。
百合子は、愛美と久比人の顔を見た。二人は頷き、覚悟を決めた百合子は頷き返し、鈴木の席まで歩いていった。
「あ、あの、鈴木君?」
鈴木は、読書をしている最中であった。
「うん? どうしたの、安部さん?」
「き、今日の放課後屋上に来てくれない?」
鈴木は、少し考えてから答えた。
「いいよ。今日の放課後だね?」
「ああ、ありがと、それじゃ放課後にね!」
百合子は、そそくさと愛美たちの所に帰ってきた。
「第一段階はオッケーだったみたいすね?」
久比人が言った。
「まさか、もしもの事があるかもね。やったじゃない、百合子?」
「う、うん! ありがと愛美!」
まだオーケーの返事をもらっていないというのに喜ぶ百合子であった。
色めき立つ百合子をよそに、久比人は難しい顔をしていた。
(どうしたのよ、そんな顔して?)
(百合子に魔法はかかったが、鈴木の方がな。何か手応えを感じないっていうか)
(でも百合子の誘いには乗ってきたじゃない。異性の高校生が放課後屋上に呼び出されるなんて、鈴木君ももう付き合いたいって言ってるようなものだと思うけど)
(どうも不安だ、今日の放課後オレたちも屋上に行って様子を見よう)
二人はこっそりと百合子の後を着ける事にした。
そして放課後。
愛美と久比人が真っ先に屋上に行き、物陰に身を隠していた。
「何だか悪いことしてるみたいね。人の恋路にこそこそと入り込んで、って」
「フラれた時ショックでここから身を投げるかもしれないだろう? その予防だと思えばいいさ」
「さすがにそんな事はないと思うけど……って百合子来たわよ!」
百合子が屋上に現れた。数分遅れて鈴木も姿を見せた。
「二人揃ったな、さて、どうなることか……」
久比人は、いつになく真面目な顔をしていた。
「す、鈴木君、来てくれてありがとう……!」
「うん、それで安部さん、話って何かな?」
百合子は緊張の極みにいた。百合子は緊張を振り払い、言葉にする。
「あたし、鈴木君が好き、付き合ってください!」
言いきった百合子は、顔をこれ以上ないほどに紅潮させていた。
突然告白された鈴木は、それほど驚いた様子を見せていなかった。久比人ほどではないが、鈴木もなかなかにポーカーフェイスであった。
「ありがとう、嬉しいよ」
「鈴木君……?」
「でも……」
鈴木は微笑む。
「ごめんなさい、安部さんとは付き合えないや。僕は勉強しなきゃいけないからね」
「えっ!?」
「気持ちは嬉しかったよ。それじゃ、僕これから塾だから」
鈴木は去っていった。
百合子はその場に四つん這いになった。
「ちょっと、百合子フラれちゃったじゃない!?」
「うーむ、やっぱりくっ付けなかったか……」
「やっぱりって何よ!? フラれるって分かってたの!?」
「魔法の手応えが、ぶっちゃけいまいちだったんだ。百合子の方にはばっちり手応えがあったんだが、鈴木の方は伝わってるか分からなかったんだ」
二人が言い合っている内に、百合子は立ち上がった。そのまま帰るのかと思いきや、屋上の金網に手を掛け始めた。
「百合子ー!」
愛美は、言葉よりも先に体が動いていた。そして百合子の所へ駆け寄ると、百合子の腕をがちっ、と掴んだ。
「……愛美? どうしてここに……?」
百合子は泣き腫らした目を愛美に向けた。
「あんた何をバカなことしようとしてるのよ!? ちょっとフラれたくらいで死のうなんて、あんたのキャラじゃないでしょ!?」
「だって好きだったんだもん! それなのに嫌われてもう生きていけないよ……」
「バカッ!」
愛美は平手打ちした。
「死んじゃったらもう誰も好きになれないんだよ!?」
「愛美ぃ……」
百合子は愛美の胸に顔を埋めて、子供のようにわんわん声をあげて泣いた。
久比人は、二人とは離れた位置で全てを見守っていた。そして同時に自らの魔力の低下を痛感していた。
──オレの魔法が効かないとは……原因はマナか?──
久比人は、なぜ自らの魔法が効かないのか、原因がなんとなく分かっていた。
愛美のために神格をほとんど使っているために、魔法力も引っ張られてしまっているのだ。そのために魔法を上手く効かせる事ができなくなっていた。
愛美が近くにいなければ、魔法は上手く効くものの、愛美は久比人の側にいなければ病に倒れてしまう。
まさに久比人は、八方塞がりになっていた。
──オレは消えるしかないのか……?──
愛美を恋人にする。これだけが全てを丸く収める事だったが、依然として久比人はその道を行くのを厭っていた。
──何かあるはずだ。魔法を効かす方法が必ず……──
久比人は考えながら、物陰に隠れて愛美と百合子の様子を見るのだった。
※※※
久比人は、スマートフォンを媒体に、念話をした。
『もしもし、母ちゃん?』
『クピドじゃない。珍しいわね、あなたが私に念話してくるなんて』
『ああ、ちっと困ったことになってな』
『困ったこと?』
『ああ、そりゃもう困ったことだ。オレの存在が危ぶまれるほどにな』
『あなたがそこまで言うなんて。一体どうしたの?』
『魔法が使えなくなった』
『魔法が? 一体どうして?』
『いや、正確には使えんことはないんだが、縁結びの魔法が効かなくなってしまったんだ。今日一組の男女を恋させようとしたんだが、ものの見事に失敗しちまってな』
『愛の神の死活問題じゃない、それ! 何か原因があるんじゃないの!?』
『マナと一緒にいる事だ。オレの神格をほとんど持ってかれるから、魔法力が低下してしまってるんだ』
『愛美さんが? だったらあの子と恋人になればすべてよしじゃないの?』
『それができりゃ、今こうして母ちゃんに念話してねぇよ。母ちゃんに頼みがあってこうして念話してるんだ』
『頼み? 何それ? 言ってみなさいよ』
『母ちゃんの血をマナに飲ませてやってほしいんだ』
神の血を人間が飲むことによって、飲んだ人間に神格を与えることができる。しかし、この方法は諸刃の剣であり、飲んだ人間が悪性の者だったら存在が消える可能性があった。
『あんた! その方法は禁忌だって前にも言ったでしょ!?』
『オレみたいな若輩の血じゃ、マナの存在を消しちまうかもしれねぇけど、母ちゃんの血なら間違いはないと思うんだ。なんせ母ちゃんは美の女神、完全に善性の女神だ。その女神の血なら上手く行く』
久比人は自信に満ちていた。
『あんた、そこまで考えて……』
『マナを天界に連れていくことはできない。オレから長く離れることもできない。悪いが、下界の時間で明日の朝に血を持ってきてくれ。マナは血を見るのが苦手だからな、天界で抜いてきてくれ。頼む、母ちゃん』
『……分かったわ、あなたがそこまで言うなら。落ち合う場所は寮の入り口でいいかしら?』
『ああ、そこがいい。血じゃなくて薬って事にしたいから、陶器の入れ物に入れてくれ。じゃあな』
久比人は念話を停止した。
「ただいまー」
念話を止めるとほぼ同時に、愛美が部屋に帰ってきた。
「おう、帰ったか」
「あんた、もうすっかりここの住人ね……」
「百合子の様子はどうだった? もう自ら命を絶つような真似はしそうにないか?」
「それならもう大丈夫。百合子の芯は強いから、フラれたショックにいつまでも引きずられるようなことはないわ」
親友である愛美が言うのだから間違いはなかった。
「だったらいいんだが。今回の一件はオレにも責任がある。神格が足りないから今回は失敗した。だから、マナに神格を与えなくてもいいようにした」
愛美は眉をひそめた。
「あんた、私に病気になり続けろとでもいうの?」
「何故そうなる。もちろんマナの体の事も考えているさ」
「神格ってのがないと私は病気になるんでしょ? もう何回もそれで倒れてるんだから」
「だから、オレが常に側にいなくても大丈夫なようにしたんだ」
愛美の疑念は更に深まった。
「それって、あんた無しでも神格が得られるっていう方法?」
「ご名答だ。オレから二十四時間離れてても大丈夫なようにする」
「まさか、あんたが前にやろうとした、い、生き血を飲ませようって言うんじゃないでしょうね?」
久比人は、顔に出しはしないが、ギクッ、とした。
「それは無い。下手すりゃマナの存在が消えちまうんだからな」
「今ギクッとしたわね? やっぱり血を飲ませようとしてるんじゃないの?」
愛美の疑念は晴れない。
「し、神格を増やす薬があるんだよ」
「神格を増やす薬ですって? そんな都合のいい薬が本当にあるの?」
「じ、実はあるんだよ。天界の森深くに湧く泉にな。その水を沸かして月桂樹の葉と一緒に煮込むことで、飲んだ者に神格を与える薬になるんだよ」
久比人は、もっともらしい作り話をした。
何とも幻のような話だが、天界という人間が立ち入れない世界の事なので、愛美は、そうなのかもしれないと思った。
「本当にあるんでしょうね? そんな便利な薬が」
「何度も言わせるな。あるんだよ、そんな有効な薬が」
「ふーん、あるんだ。まあ、あるとして、いつ手に入るのかしら?」
「明日の朝、母ちゃんが持ってきてくれる」
「ヴィーナスさんが?」
「おう、そうさ。天界の時間はゆっくりだからな。今頃神格の薬を調合しているところじゃねぇかな」
ヴィーナスの名が出たことで、愛美の疑念は幾分晴れた。
実際には薬の調合ではなく、自らの血を採集している頃だろうが、そんな事は口が裂けても愛美には言えない。
「とにかく明日の朝だ。果報は寝て待てって言うだろ? 今日はさっさと寝ちまおうぜ」
言うと久比人は、布団の中に入った。
「まだ早いと思うけど、ヴィーナスさんは朝早く来るのよね? なら寝てしまいましょう。おやすみ久比人」
「ああ、おやすみ」
二人は眠った。
そして朝がやって来た。
「おい、起きろマナ。母ちゃんがもうすぐ到着するそうだ」
時刻は六時半であった。普段は二人ともまだ寝ている時間である。
「うーん、まだ眠い……」
重い目蓋をどうにか開きながら、愛美はベッドから体を起こした。
「着替えはしなくていいぜ。なんせ会うのは母ちゃんだからな」
「あんたはいいでしょうけど、私がよくないわ。歯を磨かせて、その後着替えるから」
ピンポーン、とインターフォンがなった。
「はい……」
愛美がインターフォンに出た。
「おはよう、愛美さん」
「ヴィーナスさん!?」
ヴィーナスは、愛美の部屋番号を覚えていた。
「来たか、母ちゃん。今開けるぜ」
「ちょっと久比人、私まだ寝間着で...…!」
愛美の制止も虚しく、久比人がドアを開けてしまった。
「あらクピド、一緒にいたの? なんて当然よね、あなたが愛美さんに神格をあげなきゃ愛美さんは病気になってしまうものね」
「それももう必要なくなるだろ? 血……薬を持ってきてくれたんだよな?」
「ええ、これよ」
ヴィーナスは、両手で持っていた陶器製の入れ物を差し出した。
中身はヴィーナスの神格がこもった彼女の血が入っている。
「愛美さん、これを飲めば苦しみから解放されますよ? さっそく飲んでみてください」
愛美は、陶器を受け取った。そして恐る恐るふたを開けてみた。
虹色の液体が入っていた。神の血は赤ではなく、虹色であった。
「大丈夫、毒ではありませんよ。神格を得られる薬ですから」
血だと怪しまれないように、ヴィーナスは、努めて笑顔でいた。
それに対して、愛美は疑いの念が増えるのみである。
「ほらマナ、ぐいっと一気にいけ。薬なんて味わって飲むものじゃねぇだろ?」
人間に神格を与えるものは、神の血であることを愛美は知っており、今手にしている物が血なのではないかと思ってしまっていた。
しかし、ヴィーナスがわざわざ持ってきてくれた物を無下にする事も耐えがたいことだった。
「本当にこの薬を飲めば、今の状態が楽になるんですよね?」
愛美は、ヴィーナスに確認する。
「もちろんです。私が採集……調合したものですから」
愛美は、久比人を見る。久比人はそっぽを向く。
所々、様子の変な二人であった。愛美の疑いは晴れない。
「本当の本当に、これを飲めばよくなるんですよね?」
「だからそう言ってるだろ? お前だって一人になりたい時くらいあるだろう? 一時間オレから離れただけで風邪を引くんだ。それがなくなるって言ってるんだ」
確かに久比人の言う通り、愛美は神格を受けるために、ほぼ四六時中久比人と一緒にいた。久比人がトイレに離れただけでもめまいがした。
そもそも考えたら、年頃の男子と女子が四六時中一緒にいるのは大問題であった。今まで何も間違いが起こらなかったのが不思議なくらいであった。
久比人が二次元にしか食指が向かないため、こんな生活がまかり通っていたのだ。
「オレだって一人で、誰の目も無いところにいたいことがあるしな。マナだってあるだろう? オレの目がない時が欲しい時がな」
そういわれると、そのとおりである。好きでもない男と四六時中一緒というのは気が重い時がある。
「……分かりました」
愛美は決心した。
「この薬を飲みます!」
愛美は陶器に入った、虹色の液体をもう一度見る。
虹色とは綺麗な色であるが、それは空にかかる虹である時である。しかし、液体が虹色なのは毒々しさを感じてしまう。
「い、いただきますっ!」
愛美は意を決して陶器の虹色の薬を口にした。味は思ったよりも悪くなかった。
「これ、甘いですね」
神の血は、鉄臭さが全くなく、砂糖水のような優しい甘さであった。
そして効能も十分にあった。
「何だか元気がでてくる!」
ここ数ヵ月、久比人から神格を得ていたが、それでもだるさがあったのだが、そのだるさが一気に消え去ったのだ。
「これなら一人でも動ける! ヴィーナスさん、ありがとうございました!」
「喜んでもらえて嬉しいわ。でも、神格はこれまで通り受けてなければなりません。あくまでもこの薬は、神格が無くなる早さを抑えるものです。クピドとはこれからも短い時間でもいなければならないのですよ」
久比人は、お役御免かと思いきや、まだ一緒にいなければならないようだった。
「えぇ、母ちゃんの血……もとい作った薬だぜ? もうオレが神格を与えなくてもよくないか?」
久比人は口を尖らせる。
「クピド、元はと言えばあなたが引き起こした不祥事が原因で愛美さんを今の身にしているのです。責任は全てあなたにあります。責任逃れは許されませんよ?」
久比人は、仕方ないなとばかりにため息をついた。
「そう言うことだ、マナ。これからもよろしく頼むぜ……」
「やっとあんたから解放されたかと思ったんだけど、まだまだ付き合わなきゃダメなようね。正直鬱陶しいけど、私に不便な思いはさせないでよね!」
かくして、愛美と久比人の共同生活はまだまだ続くのだった。
※※※
始業時間の予鈴がなった。
あれから二人はヴィーナスを見送り、急いで朝食を採り、急いで身支度を整え、教室へと向かった。ヴィーナスとのやり取りですっかり時間を取られ、寮に住んでいながら遅刻ギリギリとなってしまったのだ。
「ま、間に合った……!」
「センコーが来る前に着席だ」
久比人が言っている間に、担任の村井が教室に入ってきた。
「諸君おはよう。うん? 何をしとるんだ藍木、さっさと席に着かんか」
「はい、すんませんっす」
久比人は着席した。
「それじゃあ、出席を取るぞ」
村井は点呼を取った。
「和久津ー」
「はい」
「うん、今日も全員出席っと。諸君、今日は話がある。来月の一週間目の土日、学園祭がある」
ざわつきだすクラスの生徒たち。
「学校でお祭りなんて、なんかワクワクするー!」
「他校のカワイコチャンナンパするかー」
男子生徒、女子生徒ともども色めき立っていた。
「静かに。学園祭をするに当たって、各クラスで出し物をする。何か意見がある者はいるか?」
「せんせー、オレたこ焼き屋やりたい」
「いやいや、そこは焼きそば屋だろ?」
「えー、チョコバナナの方がよくないー?」
「お前たち食べ物しか頭にないのか? 私は芸術品作成が言いと思うのだが」
えー、と反感を買う村井。
「むう、クラス全員で創造に向かうのは良いことだと思ったのだが……」
他にも合唱、学習発表など案があがったが、どれもクラスの意見の一致は得られなかった。
「演劇なんてどうっすか?」
久比人が意見を出した。
「演劇ぃ?」
「なんかベタじゃない?」
イマイチクラスの意見の一致が得られなかった。
「おお、演劇か! 素晴らしいぞ、藍木!」
村井は、絶賛した。
「役者同士で手を取りあって、大道具、小道具が劇を彩り、一つの作品を作る。クラス一丸となり活動する。素晴らしいぞ!」
クラスの心はイマイチ掴めなかったが村井の心はがっちり掴めたようだった。
「みんな、演劇をやろう! きっと上手く行く!」
授業のチャイムが鳴った。
「おっと時間か。これについてはロングホームルームで話し合おう。では」
村井は、教室を後にした。
「ねえ、学園祭の出し物が演劇って、一体どういうつもり?」
一時限目の授業後、愛美は訊ねた。
「ただなんとなく言った訳じゃないぜ。病弱な娘が演劇のヒロインやって、死ぬ前に思い出を作るってエロゲーがあってな。それで学祭と言ったら演劇だと思ったのさ」
「またエロゲーかい! 計画性皆無じゃないのよ!」
「大丈夫、オレを誰だと思ってる? 愛の神クピドだ。恋愛に関しては右に出る者はないぜ。恋愛の場面はいくつも見てきた。ネタには欠かないぜ」
それに、と久比人は続けた。
「学園祭は準備期間が一番楽しいものなんだ。男子女子遅くまで残って一緒に一つの事に打ち込む。こっから恋愛に発展する事だってあるんだ」
それについては、愛美も聞いたことがあった。
普段は話さない男子生徒と女子生徒が話すようになり、それがしばらく続いて、そこへ恋心が起きる。そんな話である。
「マナに神格をほとんど全部あげなくて良くなったしな。神格使ってクラスでカップルを作りまくってやるためにも演劇にしたんだ。村センの芸術品作成も悪くなかったんだが、演劇の方が適材適所で仲良くなるきっかけがあると思ったのさ」
久比人は自身の慈悲の心のため、出し物に演劇を選んだのだった。
「でも、言い出しっぺはあんたでしょ? お話とか美術とか、そこら辺は大丈夫なの?」
言い出したからには、久比人がいろいろ考えなければならない。
「そこも心配いらねぇよ。もう考えてある。感動的恋愛ストーリーをな」
久比人は、自分が得意な恋愛物語にするつもりであった。
「参考までに訊くけど、どんな話? 恋人が入り乱れる話?」
「おいおい、まさかオレが、物語でも恋人作りするとか思ってるんじゃないだろうな?」
「あんたならやりかねないでしょ? まさか図星じゃないでしょうね」
「そんなはずないだろう? オレは色魔じゃないんだからな」
「ええ、違ったの?」
「オレは愛の神だ。立派な神格を持った、な」
「はいはい、分かったわよ。……で、どんな物語を考えてるのよ?」
「それは今日のロングホームルームまで秘密だ。ふふふ……」
久比人は、不敵な笑みを浮かべるのだった。
一日の授業が終わり、ロングホームルームの時間がやって来た。
「諸君。朝のホームルームで言った通り、当クラスでは演劇をやるぞ! 脚本は私がやる!」
村井は、演劇をやる気満々であった。
「はーい、先生。物語はボクが考えておきまっした」
クラスにどよめきが立つ。
「藍木のやつ、もう話を決めたのかよ」
「はえぇ……いつの間に作ったんだよ?」
「ぬう、物語は私が考えたかったのだが……よし、藍木、その物語とやらを話してみろ」
村井は教卓を離れ、久比人に話しの場を譲った。
久比人は、ノートを片手に教壇に上がった。
──今日一日、一人で何をしていたのかと思ったら、あのノートに物語とやらを書いてたのね……──
愛美は思った。
「皆さん、聞いて欲しいっす」
久比人は語りだした。
舞台は、西暦一五〇〇年代、とある国。貴族階級と貧民層がはっきりと分かれていた時代である。
貴族と貧民は、基本的に馴れ合うことはなく、貧民は貴族に虐げられる存在であった。
そんな貧民層に一人一際美しい女性がいた。その名はミナ。
ミナは、その美しさから、本来仲間である貧民層からも、特にその美しさに嫉妬した女たちから迫害を受けた。
時には泥をかけられ、時には鞭打たれ、とミナは虐げられた。
そんなミナの元へ現れたのは、貴族の青年であった。
泥だらけで、鞭打ちの痣を持ったミナを哀れに思った貴族の青年、名をクビーという者は、ミナを医者へ連れていき、湯あみもさせてやった。
生まれて初めて人に優しくしてもらえたミナは、クビーに恋心を抱く。
しかし、クビーにはすでに貴族階級の婚約者がいた。もとより叶わぬ恋だと諦めるミナ。
しかし、クビーは婚約者がいながら、ミナに恋心を抱く。
二人は何度となく会瀬を重ね、彼らは次第に想い合うようなる。
そのような度重なる会瀬に、クビーの婚約者ユリカは気付いてしまった。
ユリカに詰め寄られるクビーであったが、想いはすでにミナに向いており、クビーは婚約を破棄することにした。
ユリカにとって、貧民層の女に婚約者を取られた事がこの上ない屈辱であった。
怒りの収まらないユリカは、クビーの目の前でミナをナイフで殺傷してしまう。
悲嘆に暮れたクビーは、ユリカを殺害しようと試みるが、奇跡的に急所が外れていたミナがそれを止める。しかし、急所を外しただけであり、ミナは虫の息であった。
どのみち死へと向かっているミナを見ていて、ユリカは、ざまあないという様子で、その場を去っていった。
クビーとミナは、最期の会瀬をする。
死に逝く恋人を目にして、やはり悲嘆に暮れるクビー。
それを見て、努めて笑顔を作るミナ。ミナに残された時間はもう、僅かしか残っていなかったが、クビーを悲しませまいと必死に笑みを向ける
。
そしてついにその時はやって来てしまう。ミナは、息を引き取ってしまったのだ。
クビーは涙に暮れた。一生分の涙を流した。
そんなクビーに、どこからともなく声がした。「女に口付けをせよ」、と。
ミナの生前までは、口付けまではしたことがなかった。
謎の声の言う通り、クビーはミナの唇に自らの唇を重ねた。その時奇跡が起きた。
死んだはずのミナが、眠りから覚めたかのように起き上がったのだ。クビーは驚きに支配された。
その後、身分の差など関係ないと、クビーはミナと婚姻を結んだ。殺人を図ったユリカは、未遂に終わったとは言え、罪を負い、投獄された。
クビーとミナは、町のみんなに祝福され、永遠の愛を誓うのだった。
ここだけの話、ミナを生き返したのは、全能にして色恋に目のない、主神ゼウスの力によるものだった。
「……以上っす」
久比人は語りをやめた。
「……素晴らしい!」
村井は感動しきっていた。
「逆境を打ち払って結ばれる男と女の愛の物語。そして意外な展開で終わる。王道ながらも工夫を凝らしている! 非の打ち所がないぞ藍木!」
最初から演劇に興味を引かれていた村井だったが、物語でもがっちりと村井の心を掴まれていた。
「確かに感動的ストーリーかも」
女子生徒の一人が言った。
「でも、そうなるとヒロイン役を選ぶのは大変そうだな貧民の中でも美人なんだろ? そんな感じの女子このクラスにいないだろ?」
「大丈夫っす。ヒロインはすでに決めてるっすから」
女子生徒たちの間にざわめきがわく。あんたじゃない、あたしかも、などとざわめきは色めいていた。
「藍木くん。ヒロインは誰……?」
女子生徒が、勇気を出して訊ねた。
「ヒロインは……」
久比人は間を空けた。クラスの全員が固唾を飲む。
「愛美さんっす」
「……は?」
愛美は気の抜けた反応をしてしまった。
「えぇ、山村かよ?」
「いつも一緒にいるからって、山村を選んだのか、藍木?」
「それもなきにしもあらずっすけど、貧民の美人って称号が似合うと思ったんす」
確かに愛美は、親に蒸発され、親戚でもいらない子扱い。貧民の称号だったら素直に受け入れる所だった。
しかし、美人かと言われるとそんなことはないと思ったのだった。
「ちょっと久比人」
「あー、因みにっすけど悪女役は百合子さんにお願いするっす」
久比人は、愛美の異議を無視し、悪役に百合子を指名した。
「あたしぃ? それってあたしがすんごい悪いヤツに見えるってこと?」
百合子は異議を唱える。
「そうじゃないっす。ただ、貴族階級にいてもおかしくない姿をしているからっす」
実のところ、百合子の家庭は裕福であった。モデルのような姿をしていられるのも、自分磨きに使える小遣いがあったからだった。
「そう言われると悪い気はしないわね」
「じゃあ、やってくれるっすか?」
「もちろん、ガゼンやる気でてきたわ!」
悪女役は百合子に決まった。これで残るは主役であるはずだったが。
「ちょっとストーップ!」
愛美は、席を立ち久比人のいる教壇に立ち、久比人の制服のネクタイを掴んだ。
「何で私がヒロインなんかやんなきゃなんないのよ!?」
「さっき言った通りっすよ。貧しい身に有りながら美人というギャップが愛美さんにあると思ったんす」
愛美は、久比人のネクタイを引っ張り寄せ、辺りに聞こえない声を出す。
(あんたまさか、演劇の配役にかこつけて、私に恋人を作るつもりじゃないでしょうね?)
(くそっ、バレたか)
(バレるに決まってるでしょ!? あんたの考えることなんか見え見えよ!)
久比人の策は、演劇の主役をクラス一番のイケメンに当て、神格を使い、そのまま惚れさせて愛美に恋人を作ることだった。
出し物を演劇にしたのは、クラスメイトの中で恋人を作ることもそうだが、全てこの策を完遂するためだった。
(とにかく、私はヒロイン役なんかやらないからね!)
「お前ら何こそこそ話してんだよ?」
「まさか、二人は付き合ってて、劇でも仲良く演じたいってこと!?」
クラスメイトは言った。
「ち、違うわよ! 誰がこんなヤツと!」
「そうっすよ、ボクには愛美さんは勿体ないっすよ」
「強く否定してるところが怪しいんだよなぁ……」
「ホント、嫌よ嫌よも好きの内って言うし、山村さんって、トコトン藍木くんの事好きなんだね」
「だから本当に違うんだってば!」
クラスメイトたちは、ヒートアップしていた。
「こりゃあもう主役は藍木でいいだろ」
「そうそう、カップル同士で主役とヒロインってね。お似合いだぜお前ら!」
「ボクが主役になったら、誰が台本とか書くんすか?」
「それは私がやってやろう」
台本作成には、村井が買って出た。
「藍木、お前のそのノート、私が預かろう。内容が内容だけに、不純異性交遊に繋がらないか、調べる義務が教師の私にある。まあ、お前たちなら問題ないと思うがな」
「先生まで、そんな……!?」
「ノートは預かるぞ」
「ああっ、先生」
「ふむふむ……」
村井は、久比人から預かったノートに目を通した。
「うーむ、よく書けているあらすじだ。これならば三日もあれば台本を書けそうだ」
「それなら先生、ボクも台本作り手伝うっす。作者も加わればいい台本が作れるっすよ」
「それもそうだな。それでは藍木、今日から三日間で最高の台本を作るぞ」
こうして、愛美と久比人が劇の役者の主役とヒロインになり、役者以外は美術担当になるのだった。
※※※
「へえ、愛美ちゃんのクラスお芝居やるんだ!」
部活の稽古も終わり、畳を箒で掃除しながら可奈は言った。
「久比人が脚本のね、正直やる前からタルいわよ……」
「うちのクラスは大判焼き屋やるんだー。材料費は学校から下りるんだけど、機材を用意するのはあたしたちでやらなきゃならないから、大変なんだよねぇ」
「いいわねぇ可奈のクラスは。ただ商品作って売るだけなんだから。私なんかヒロインやらされて、見たくもない台本覚えなきゃいけないんだから、大変よ」
愛美はちり取りに埃を集める。
「私が貧民層の美女扱いよ。笑っちゃうわよねぇ」
愛美は、こうして掃除をしていて、自分は貧民層だと思ってしまう。まさにお似合いだとばかりだ。
「笑わないよ。愛美ちゃん苦労性だけど綺麗だもん。お芝居の美人さんにぴったりだよ!」
「私が綺麗? 可奈の目は節穴?」
「ちがうって! ホントにかわいい見た目してるよ! 羨ましいくらいにね」
「それを言うなら可奈の方でしょ? 柔道部の男子にモテモテじゃない」
「えー、そんなことないよー」
可奈の容姿は、女の愛美からしても可愛らしいものだった。童顔で、優しい顔をしており、本当に柔道で県大会を制した事があるのか信じられない姿形である。
かわいくて強い事から、男子部員の中で取り合いが行われていた。
「ニブいわね、可奈。信じられないくらいにね……」
愛美は、ちり取りの埃をゴミ箱にすて、箒を道場の片隅にある掃除用具ロッカーに片付けた。
「じゃ、私台本を練習しなきゃならないから先帰るわね」
「うん、じゃーねぇ、お疲れ!」
愛美は、寮へと帰った。
「おかえり」
久比人はもう、ここが自室であるかのように、当たり前に居た。
「……あんた、どうやって私の部屋に入って来てんのよ?」
「魔法を使えば楽勝さ。どんな鍵でも開けられるぞ。オルゴールの鍵から、銀行の金庫の鍵でもなんでもな」
「その魔法、あんまり使うんじゃないわよ? 特に悪いことには」
「分かってるって。それより、晩飯前に台本合わせしとこうぜ」
「そうね、そんなに時間があるわけじゃないし、早めに頭に叩き込んでおきましょう」
愛美は、鞄から台本を取り出し、鞄はその辺に放った。
「シーンは始まりからな。ミナとクビーが出会うところから」
愛美は一つ、この芝居について気になることがあった。
「ねぇ、この劇の主要人物の名前だけど私たちの名前をもじってない?」
「よく気付いたな?」
「ミナは、私の名前を逆読みして、クビーは、久比人を一部伸ばして、ユリカはもうまんま百合子だし、最初からこうなる予定だったんじゃない?」
「半分正解、半分外れだな」
久比人の目論みは、劇にかこつけて愛美に恋人を作ることだった。
ヒロインに抜擢し、クラスのイケメンに神格と魔法をかけて、愛美に惚れさせる事が目的であった。
結果は、愛美には久比人がお似合いだとクラスメイトたちに持ち上げられ、この配役になってしまった。
「完璧な作戦だと思ったんだがな」
「あんたの計画通り進まなくてよかったわよ。まあ、それでもヒロインなんて大役任されちゃったけど……」
「オレなんて自作自演だぞ? 何が悲しくて演劇なんかやらなきゃならないんだ」
「演劇を提案したのはあんたよね? 自業自得ってやつじゃない?」
「まあいい、演技は得意な方だ。大成功に終わらせてやろうじゃねぇか」
久比人の演技の上手さは、愛美にもよく分かっていた。
クラスメイトに対しては、軽い敬語で話し、愛美やヴィーナス、ゼウスに対してはタメ口と使い分けている辺り、演じ分けができている。
故に、演劇も得意なのではないかと思われた。
「さて、無駄話もここまでだ。台本合わせするぞ」
第一章、ミナとクビーとの会話。
「娘よ、名は何と言う?」
「ミナ、と申します」
「カットカット」
「なによ急に?」
「感情が入ってないんだよ。ほぼ棒読みだぞ。それもう一回」
普段の会話が棒読み気味の久比人に言われたくない事だった。
「ゴホン……」
愛美は咳払いをして、役に入る。
「……ミナ、と申します……」
恥も外聞も捨てて、愛美は演じきった。
「おお、やればできるじゃねぇか。何で初めからそうしねぇんだ?」
「あんたと違って私は慣れてないのよ、演じることに!」
「なら慣れろ。何回も練習して慣れるんだ。じゃあ次な、ミナとクビーの会瀬のシーンだ」
久比人と愛美の台本合わせ稽古は、夜遅くまで続いた。
※※※
ガラガラと角材とベニヤ板が倒れるけたたましい音がした。
「い、いってー!」
「司くん!」
大道具担当の生徒、司が角材とベニヤ板の中にいた。
「ヤバイぞ、血が!」
司は頭に傷を負ってしまった。
「救急車呼ぶか!?」
クラスはざわめいた。
「私、先生呼んでくる!」
女子生徒が村井を呼びに行った。そして間もなく村井と生徒がやって来た。
「司、大丈夫か!?」
「頭が、痛いっす……!」
痛みにあえぐ司。
「久比人、魔法でなんとかならない?」
「出来ないことはないんだが、如何せん人の目が……」
魔法の存在を知られる事は、神々の中でタブーとされていた。
愛美のような、一度死んでいるという特別な者になら知られても問題はないのだが、普通の人間に、久比人が神であると知られるのは良くないことだった。
何が良くない事かというと、魔法や神の存在を知られると、何でも神がどうにかしてくれる、と下界の人間が生きる意味を見失って衰退の一途をたどるようになってしまうことだ。
普段から人を恋に落とす魔法を使っている久比人だが、それは人の目につかない魔法だから使えるもので、人を癒す魔法は明らかに他人に見えてしまう。
故に、久比人は魔法を出し渋っていた。
しかし、事態は深刻だった。頭の怪我は後からひどくなる。手を子まねいている場合ではなかった。
──こうなっちゃしかたねぇな──
久比人は覚悟を決めた。
「どきな……」
「え、藍木くん……?」
「はっ……!」
久比人は、気合いを込めて魔法を放った。
青い光が、司の頭を包み、傷を癒していった。
やがて光は消えた。司の傷はすっかり癒えていた。
「はっ、オレは何を……!?」
司は起き上がった。
「司!」
「司、大丈夫かよ!?」
「全然痛くねぇ、何ともないぞ」
「完全に治ってやがる……」
「藍木くんが治してくれたんだね」
「確かに、藍木のやつ人が変わったようになってたな……」
「藍木、お前は一体……?」
恐れていた状況が起きてしまった。
どう出るか、愛美も固唾を飲んで見守る。
「オレ、いや、ボクは……」
クラス全員の視線を受ける久比人。
「実はボクは、エスパーなんすよ」
「はぁ!?」
全クラスの声が一致した。
「エスパーパワーで司くんの傷を癒したんすよ」
尚もごまかす久比人に疑念を抱き始めるクラスメイト。
「エスパーパワーって、藍木は超能力者ってことか?」
「でもフツー超能力って傷を治せるか?」
「そういうのは魔法じゃねぇのか?」
「えっ? と言うことは藍木くんって魔法使い!?」
「いや、もう神様なのかも」
核心を突いてくるクラスメイトが現れだした。
「嫌だなぁ、ボクが神様なはずないじゃないっすか……」
ポーカーフェイスのため、表情からは窺い知れないが、様子から慌てているのが何となく分かった。
──ヤバイわね、神様ってバレそう。どうすれば……?──
突如として、雷鳴が鳴り響いた。
「ストップ・ザ・タイム!」
落雷と同時に、停電したように照明が消え、少し暗くなったクラスの人間全員の時が止まった。
「えっ!? 何が起こったの!?」
愛美は叫んだ。
「ゼウスのおっさん……」
久比人は言った。
「ゼウスさん!?」
愛美は驚いた。
「ひょほほほ、クピドよ、危ういところぢゃったのう?」
陽気な笑い声を上げながら、ゼウスが姿を露にした。
「クラスのみんなが、全員止まって……!?」
「ひょほほ、心配はいらんぞ愛美。わしの魔法で主ら以外の時間を停止させただけぢゃからな!」
時間を停止させているのは、見れば何となく察する事ができるが、時間を止められたクラスメイトたちが無事ですむのか、愛美には分からなかった。
「さて、クピドよ。主はまた禁忌を犯そうとしたな?」
「早く処置しなきゃ、あの人間の命が危ないと思ったんだ。悪いことはしてないだろ?」
「ふむ、主のその判断は悪くない、むしろ称賛に値する。ぢゃが、その後が悪かったのう。同胞の命を助けたまではよいが、魔法の存在を露呈した。繰り返し言うが、それは禁忌ぢゃぞ?」
「分かってる。どんな罰でも受けよう。さあ、やるならひと思いにやってくれ」
久比人は仁王立ちした。
「いぃや、主を傷付けるような真似はせんよ。主は、人の子の命を救うために魔法を使ったのぢゃ。これは『慈悲の心』に当たる。故に許そう。時間をその人間が怪我をする前に戻そう。これで主は魔法をつかう必要がなくなる。魔法が露呈することはなくなるぢゃろ。ただし! こんなことは今回限りじゃ。時間を戻すのはわしでもそう連発できんからな」
ゼウスは魔法を使い、時間を巻き戻した。まるで、逆再生映像のように、クラスメイトたちは後ろ向きに歩いていき、床に散乱した角材とベニヤ板がひとりでに立ち上がり、司はその寸前の位置まで後ろ歩きした。
「……ふう、やはり時間を戻すには体力も使うわい……」
「ありがとな、ゼウスのおっさん」
「礼には及ばんよ、わしの気まぐれぢゃからのう。しかし、学園祭か。とてもよいものぢゃのう。若い男女が力を合わせて一つのものを作る。ひょほほ、恋に発展するよい機会ではないか」
ゼウスもまた久比人と同じく、学園祭を恋の場だと考えていた。
ふと、ゼウスは床に落ちていた演劇の台本を拾い上げ、ぱらぱらと繰った。
「ふむ、恋愛劇か、書いたのはクピドのようぢゃな。さすが愛の神、よい話を書くのう。主人公はクピド、ヒロインは愛美。主らこれを機会に付き合ってはどうぢゃ?」
「その配役は、クラスのみんなに持ち上げられてなったもので、ゼウスさんの思うような事はありませんから!」
愛美は否定する。
「ふむ、そうか? 良い機会だと思うんぢゃがのう……」
「ゼウスのおっさん、それは笑えない冗談だぜ」
「冗談で言っているつもりはないんぢゃが、まあよい。学園祭当日にはわしも人間に化けて参加させてもらうぞい。ではそろそろわしは帰るとしよう。クピドよ、魔法を使うのならもっとバレんように使うんぢゃぞ? ではさらばぢゃ」
ゼウスは天界へと帰っていくのだった。
※※※
愛美と久比人、百合子ら三人、カラオケボックスで演劇の稽古をしていた。
「土だらけの顔に、服もボロボロ。みているだけで貧乏が移りそうだわ!」
「カット」
「百合子さん、演技上手いっすね」
「悪女を演じるのすごく楽しいわ。藍木くんに指名された時はどうしようかと思ったけど。こういうのなら悪くないわね!」
百合子は自分の役にノリノリであった。
「じゃあ次のシーン、ボクとマナさん二度目の会瀬のシーンやるっすよ」
「会瀬のシーンって、百合子もいるのに恥ずかしいじゃない」
「本番は一般の方も見にいらっしゃるんすから、ここで照れてたら演技できないっすよ?」
久比人の言うことはもっともであったが、愛美は意外とあがり症だった。
「大丈夫、練習すればいい演技できるようになるっすよ」
「そうよ。愛美かわいいし幸薄キャラもこなせるって!」
一体何の根拠があって言っているのか、愛美には分からなかった。
「あーもう、分かったわよやればいいんでしょ? やれば。会瀬のシーンよね!? やったろうじゃない!」
半ばやけくそになりながら、愛美は演技をすることにした。
「じゃあ始めるっすよ……ゴホン。ミナ、この頃思うのだ。私はお前なしでは生きていけぬと」
「嬉しいお言葉ですわ。ですがそれはなりません。あなた様には既に婚約者が...…」
「ユリカの事なら捨て置く。私と結婚してはくれぬか?」
「クビー様……」
「カット」
愛美は、張り詰めていた気持ちを楽にした。
「前よりかは気持ちが込もってるっすけど、まだ少し固いっすね。シーンはボクとマナさんの二人きりって言う設定なんすから、聴衆はいないものと思った方がいいすよ」
「そうそう、観客は大根やジャガイモだと思えって言うじゃない。そんな感覚で行けば大丈夫!」
「そんな感じでもう一回やって...…」
不意に、部屋の電話機がなった。
「はーい、はい、はい、分かりましたー」
電話は近くにいた百合子が取った。
「もう六時だから、高校生は退出だって」
稽古の時間は終わった。
「じゃあねー、愛美、藍木くん!」
百合子は、自転車に乗って帰っていった。
百合子の姿が完全に見えなくなった後、愛美はだらーっと脱力した。
「……こんなんどれだけ続くの?」
「学園祭は二週間後だから、後二週間だな」
まだそんなにあるのか、と愛美は更に脱力した。
「しかし、カラオケボックスで演技練習なんて、百合子も良いこと思い付くよなぁ。学校で練習したらネタバレになっちまうからな」
「誰も聞いちゃいないし、誰も楽しみにしてるわけないでしょ、たかが学祭の出し物に」
「そう言うなって、オレも一生懸命物語作ったんだからな。さあ、オレたちも帰るぞ。帰ってもう一練習だ」
「ええぇ、まだ練習するのー?」
「あったり前だ。オレが作った物語、絶対に成功させるぞ」
当初の目的からは離れてしまったが、久比人は劇の完成を目指していた。
それから一週間が経った。
大道具、小道具の道具づくりは終わった。木や家の張りボテといった背景、衣装、ステッキやナイフが完成した。
今日から空き教室で、衣装を身に付け、大道具、小道具の担当たちも動きの確認もしながら稽古を行うことになった。
「大道具、小道具の皆さんありがとうっす。これでだいぶ劇の完成が見えてきたっす」
「藍木の指示もよかったぞ。おかげでオレらも動きやすかったし」
「藍木くん、主役をこなしながら監督もやって、ってすごいよ」
久比人を中心に、全クラスの皆でまさに一つの作品が作られていた。
「皆さん、ついに発表まで一週間っす。怪我だけはしないよう安全第一で稽古しましょう」
「おー!」
皆の心も一つになっていた。
その日の夜。愛美の部屋で愛美と久比人が台本合わせをやっていた。
「ねえ」
「何だよ?」
「この劇の最終部でミナにクビーがキスすることでミナが生き返るわよね?」
「それがどうした?」
「まさか本気でキスするなんて事ないわよね?」
「え? ダメなのか?」
「はぁ!? ダメに決まってんでしょ! 初めてがあんたなんて絶対に嫌っ!」
「初めて? お前キスもしたことないのか? つか、お前恋人作る気ないんだし初めてもクソもなくないか?」
「ないわよ! する前にあんたに殺されちゃったからね!……恋人は、確かにいらないけど……とにかくあんたとじゃ嫌っ、」
「お前、別にキスしたことで何か減るものじゃないだろ?」
「女の価値が減るわよ! とにかく嫌っ!」
「しかたねぇな、じゃあするフリだけにしてやるよ。鼻と鼻を合わせるニュージーランドのマオリ族の挨拶をキスっぽくする、それならいいだろ?」
「鼻と鼻……」
愛美はそれがどんなものか想像してみた。
顔が近い事には変わらない。唇を突き出せば届きそうな気がした。
「それも嫌っ!」
「じゃあどうするってんだよ? するフリってのにも限界があるぞ」
「ラップよ! ラップかけて鼻と鼻なら万が一の事はないでしょうから、それで行きましょう!」
「ラップねぇ、観客にバレなきゃいいんだが……」
「バレてもいいの! お芝居なんだから」
「じゃあ、さっそくその練習してみるか」
「え?」
愛美はまだ、心の準備ができていなかった。できるはずがなかった。しかし、久比人は台所からラップを取り、五センチほどの長さで切って、唇を覆えるくらいに折り畳んだ。
「料理もしないのにラップはあるんだな」
唇を覆うラップのかたまりを作り、久比人は言った。
「うるさいわね、ラップは色々使えるから置いてるだけよ!」
「例えばこういう使い方か」
「そんなはずないでしょ!?」
「まあ、何でもいいか。それじゃあやるぞ、オレの膝に頭乗せろ」
久比人は、正座になった。
「だからやらないわよ!」
「強情だな、練習しなきゃ上手く行かないぜ?」
「それ以前に何でキスシーンなんか作ったのよ!? 私たち健全な高校生よ!?」
「健全だからこそのキスシーンだ。観客が間違いなく沸くぜ」
「ぐうう……!」
「ほら、早く膝の上に乗れって。足が痺れてくるだろ」
「こんなこと、今回だけだからね……」
愛美は覚悟を決めた。
愛美は、久比人の膝枕に頭を乗せる。
「よし、行くぜ」
久比人は、ラップのかたまりを愛美の唇に乗せる。そして鼻と鼻を合わせるべく、顔を近付ける。
「んんんー!」
愛美は固く目をつむる。久比人の息遣いを感じる。
「やっぱり無理!」
愛美は久比人の顔を押し返した。
「何だよ、もう少しだったのに」
「ここは、魔法で生き返ったことにしない?」
「クビーは普通の人間だ。それにみだりに魔法は使うなってゼウスのおっさんに言われたばかりだろ?」
「じゃあ、奇跡的に私が生き返るとかどう?」
「刺されて殺されたってのにどんな奇跡だよ? それにそれだったらやっぱり奇跡っぽいのはキスだろ」
キスシーンからはやはり、逃れられそうになかった。
「鼻と鼻だ、本物のキスじゃない。安心しろ」
「だからそれが安心できないのよ! ラップじゃずれることがあるかもしれないかもしれないじゃない!」
あれは嫌だ、これもダメと愛美が拒否し続けるために、なかなかキスシーンが決まらなかった。
結局、鼻と鼻を合わせる案も消え、どこにも触れないキスしてるふりをすることになった。
「まったく、わがままな女だぜ……」
「悪かったわね。でもそれだけ嫌ってことよ」
「しかし、せっかく物語を作ったのに、そこまで否定されると少し傷付くな……」
「私の貞操をむちゃくちゃにしかけといて、勝手に傷付かれても慰める気にはならないわね」
キスシーンが無くなったことで、安心する愛美であった。
第八話 大団円
日時は過ぎ去って学園祭が開催された。
全校生徒思い思いの出し物を考え、露店がいくつも並んでまるで夏の祭のようになっていた。
出し物は何も露店ばかりではない。学祭の美術品を発表するクラス、合唱を行うクラスなど様々であった。
学祭の出し物が特別な愛美のクラスは、体育館を借りて、そのステージで学祭二日目に発表されることになっている。
故に一日前の今日は、役者が最後の稽古を行っていた。
「この薄汚れた娘が!」
「その顔、貧民の癖に腹が立つわ!」
愛美ことミナが仲間の貧民層から罵声を受け、鞭を打たれているシーンが練習されていた。
「お止めください、ああ、どうかお許しを……!」
愛美の演技力は、これまでの二週間でだいぶ上がっていた。
「カット」
久比人によって演技練習が仕切られていた。
「皆さんだいぶ上手くなったっすけど、まだ演技力は伸ばせるっす。やりすぎなくらいミナを罵倒して、本当に叩いてるかのように縄を床に叩きつけるっす。それじゃもう一度」
このような感覚で、久比人が弱いところを指摘し、劇を練り上げてきた。おかげで短期間で役者の演技の質が伸びていた。
「カット」
それから一時間の時間が過ぎた。
「一旦休憩しましょう。皆さんも学祭を楽しみたいでしょうすし、一時間休憩しまっしょう」
「ありがてぇぜ監督! 腹減って死にそうだったんだ」
「たこ焼き食いに行こうぜ!」
役者たちはめいめいに体育館を去っていった。
「ふう……、マナ、オレたちも休憩しようぜ」
「休憩なら、行きたいところがあるの。あんたも来なさい」
「お前から誘うなんて珍しいな、どこに行くんだ?」
「行ってからのお楽しみよ。行きましょ」
「ああ、あんまりオレから離れるなよ。この人混みだ、お前の気配を見失ったら、神格を届けられなくなるからな」
「そう言うことは早く言いなさいよ……」
「だから今言ったじゃねぇか。それで、どこに行くってんだ?」
「だから一緒に来れば分かるわ、行くわよ」
愛美は、久比人の手を取った。
「おい」
「勘違いしないでよね。あんたとはぐれないためにやってることなんだから。深い意味はないわよ」
愛美は久比人の手を引き、体育館を出た。
人混みを掻き分けて愛美は、ある露店を目指した。なかなか見つからないが愛美は注意深く探す。
やがて目的の露店にたどり着いた。場所は比較的人の少ない柔道場の前だった。
「大判焼き屋、か?」
「いらっしゃいませー!」
二人とも聞き覚えのある声で迎えられた。
「って、愛美ちゃんに久比人くん!?」
「やってるわね、可奈?」
「来てくれたんだ! さっきも霧二郎先輩が、柔道部の皆を連れて来てくれたんだー。これで柔道部員全員来てくれたことになるんだ。やぁ、ありがたいねー!」
「大判焼きくれるかしら? 私はクリーム、久比人、あんたはどうするの?」
「ボクも同じのを」
「はーい! すぐ用意しますねー」
可奈は調理を始めた。
生地を焼き、カスタードクリームを挟み、上にも生地を乗せた。焼き色が付くまで焼き上げると、トングで拾い上げ、三角形の紙袋にいれた。
「お待たせしましたー! クリーム大判二つで四百円です」
二人は財布から二百円ずつ取り出し、代金を支払った。
「ありがとう、可奈。それじゃいただくわね」
「いただきまっす、可奈さん」
愛美は一口食べてみた。素人が作ったものなので、店の味には劣るものの、とても温かく、甘さ控えめであった。
「とても美味しいわ、可奈」
「美味しいっすね」
「ホントに!? ありがとう」
「見たところ可奈しかお店にいないけど、クラスのみんなは?」
「あたしのいるここは、二号店で一号店にみんな行っちゃってて、二号店のここは十人でやってたんだー。まあ、他のみんなは今休憩中なんだけどね」
なんと可奈は、一人で店を回していた。
「二号店って、ずいぶん人気なのね? 大判焼き屋」
「お祭りの時くらいしか食べる機会はないからね。考えたらけっこうレアなお菓子だよね、大判焼きって」
そうそう、と可奈は話題を変える。
「愛美ちゃんたちのお芝居は明日だったよね? お店抜け出して観に行くね」
「大丈夫なの? 可奈の手際が無くなったらお店回らなくない?」
大丈夫、と可奈は言った。
「あたしが一時間くらい抜けるのなら別に平気だよ。クラスのみんながお店回してくれるから」
「それならいいんだけど……」
「マナさん、そろそろ練習に戻った方がよくないすか?」
学祭の雑踏を掻き分けここまで来て、可奈と話している内に一時間近く時間が過ぎていた。
「いっけない、そうだった! みんな休憩から戻っているかも! 久比人、行きましょう!」
愛美は、久比人の手を引き走り出した。
「それじゃあ、可奈、ごちそうさまねぇ」
可奈は、笑顔で手を振っていた。
──仲良いねあの二人。手まで繋いじゃって──
可奈は思うのだった。
行きと同様、雑踏を掻き分け、愛美と久比人は体育館に戻ってきた。
「ごめんみんな、遅くなった、わ……?」
「何だ、みんなまだ帰ってきてねぇじゃねぇか」
体育館は、もぬけの殻だった。
「そうみたいね……」
「そうだ、誰も見てねーし、キスシーンの練習しとかないか?」
「ここで!?」
愛美は、肩をいからせた。
「どのみち本番はこの体育館のステージでやるんだし、臨場感あっていいじゃねぇか」
久比人の言うことはその通りであったが、寮の部屋以外でキスシーンの練習をしていなかった。
「分かったわ、やるわ」
「それでこそヒロインだ。まあ、絶対に唇は当てねえから、そこは安心しな」
「当てたら正義の一本背負いだからね!」
「分かった分かった。じゃあステージに行こうぜ」
久比人が先にステージに上がる。
それに付いていくように愛美もステージに上がった。
「よし、死んだフリだ」
「えぇ……」
愛美はステージ上に、観客から顔が見えるよう横向きに寝た。
「よし、行くぜ。……おぉ、なんという無惨な……ミナ、起きてくれ、ミナ。あぁ、私はどうすれば」
この次に天の声がある。
「女に口付けをせよ」
「な、なんだ今の声は? しかし、私にできる事といったら……ってあれ? 今本当に声がしなかったか?」
「私も聞こえたわ、この声は……」
「ひょほほほ! バレてしもうたか!」
「ゼウスさん!」
「ゼウスのおっさん。何故ここに? 一般公開は明日だ。おっさんは部外者だぞ」
「ひょほほ、主らに口付けさせ、永遠の愛を誓わせようとしたのぢゃが、惜しかったわい」
油断も隙もあったものじゃない、と二人は思うのだった。
「あー、腹一杯だぜー」
休憩に出ていた役者の生徒が戻ってきた。
「ち、ちょっとゼウスさん、みんなが戻ってきます。早く天界に帰らないと……!」
「大丈夫ぢゃ、愛美。魔法でわしの姿は人間に見えんようにしてある」
「ゼウスのおっさん、あんたは部外者だ。オレの劇のネタバレになる。今日は大人しく帰ってくれ」
「ふむ、そうまで言われては仕方ないのう。では下界の時間で明日また来ることにしよう、ではな」
ゼウスは浮遊し、宙に浮かぶとその姿を消した。
「やれやれ、本当に見境無いな、ゼウスのおっさんは」
「ゼウスさんは、魔法でなんでもできるの?」
「できるぜ、なんせ全能の神だからな。特に催淫の術なんかお手のものだ。さっきもその術使われてたら、ガチでキスさせられてたかもしれないぜ?」
「ちょっとそれ、洒落にならないわよ!?」
「だから危なかったんだよ。むしろ感謝しなきゃならねぇ。術を使わなくてありがとう、おっさん。とな」
何ともむちゃくちゃな話であった。
「さて、無駄話はここまでだ。みんな戻ってきた。稽古再開だ」
※※※
学園祭一日目が終わった。次の日がいよいよ一般公開である。父兄はもちろん、他校の生徒、学校とは全く関係のない一般人がやってくる。
愛美たちの演劇は、午後二時に公開される。
現在の時刻は午前十一時である。残り、三時間前となって愛美たちは劇の総練習を行っていた。
「よし、稽古はこれで終わりにしまっしょう。後は本番に向けて最後の休憩にするっす」
体育館は、間もなく合唱を行うクラスのために空けなくてはならない。この練習が本当に最後であった。
学祭の雑踏は、昨日の何倍も大きくなっていた。
「いつもの学校とは思えねぇな。こんだけ密集してちゃすぐにはぐれちまいそうだぜ……」
久比人は愛美の手を強めに握った。
「手、離さないでよね。こんな人だらけの所、倒れでもすれば大騒ぎよ」
「とりあえず人の少ない所に行こうぜ、息が詰まっちまいそうだぜ……」
可奈のやっている露店に行こうと二人は考え、向かったが昨日と違ってこちらも人混みができていた。可奈とそのクラスメイトが忙しく働いている。
「カナは構ってる余裕はなさそうだな」
「そうね、こうなったら教室に行きましょう。そこなら人はさすがにいないでしょう」
二人は、普段通う教室に向かった。愛美が思った通り、教室には誰もいなかった。
「はぁ、一息ついたな。素人がやってるものに、わざわざ金まで払うなんて理解できねぇな。これが学園祭のパワーか」
「お祭り騒ぎが大好きなのが普通の高校生よ。まあ、私はあんまりごちゃごちゃしたのは苦手だけど」
「キスシーンの練習、結局あまりできなかったな」
主演兼監督をやっていた久比人は、自分の出る幕の練習ができていなかった。
寮で一人稽古して、台詞や動きを覚えていたが、色々あって最後のキスシーンだけ練習できずじまいであった。
「本番まで大体三時間くらいか。ここは人の気配はないし、ここで練習しねぇか?」
「ここで!?」
「監督もやってて思ったんだ。自分が書いた物語を完全なものにしたいってな。本気でキスするつもりはないが、キスシーンを完璧にこなして、観客を沸かせたいと思うんだ」
「久比人……」
「マナ頼む、キスシーン練習させてくれ」
普段は、何を考えているのか分からないポーカーフェイスの久比人だが、今は熱意に燃えているのがよく分かる表情であった。
──これに手伝えば、『慈悲の心』に繋がるのかしら?──
ゼウスに課された三つ目の選択肢、『慈悲の心』。
学園祭に来ると言っていたゼウスだが、どこかから見ているかもしてない。『慈悲の心』を示すチャンスであった。
「分かったわ……」
「マナ?」
「練習、付き合ったげるわ」
「本当か……?」
「早く、私の気が変わらない内にやるわよ!」
「よし、それじゃ、教壇の上でやろう」
二人は教壇に立った。
「じゃあ横になってくれ」
愛美は久比人に膝枕される。
「それじゃあ、行くぜ。目、閉じてくれ」
愛美は、怖かったが目をつむった。
久比人は、愛美が目を閉じたのを確認すると、唇を寸止めした。約十秒間の寸止めだったが、一分間にも及ぶキスのような気がした。
「終わったぜ。もう目を開けていいぞ」
「本当にどこにも当てなかったわね?」
「そういう約束だろう? オレは約束は守る男だ」
「練習は……」
「ん?」
「ちゃんとできた?」
愛美は、おずおずと訊ねた。
「ああ、できたぜ。これでもう不安はない。ありがとな、マナ。お互い悔いなく演じきろうぜ」
二人は立ち上がった。
演劇発表まで、残り二時間半である。
※※※
演劇、『クビーとミナ』開始まで残り三十分となった。
最後の稽古も終わり、役者たちは呼び込みを行っていた。
「劇、見ていきませんかー!?」
「体育館で二時から始まりまーす!」
演劇に興味を持った観客たちは、続々と体育館へと入っていく。
「だいぶ観客が入ってきたな」
ステージ裾で久比人が言った。
「なんだか緊張してきたわ……」
愛美は言った。柔道の試合でも感じたことのない緊張感に包まれていた。
「そう? あたしは楽しみになってきたけど」
百合子が言った。
百合子は、この劇の敵役をずっと演じてきたが、かなりノリノリで役作りをしていた。間違いなく適役であった。
「おい、あれキリーじゃねぇか?」
「霧二郎さん!?」
愛美は客席を見た。確かに、席の真ん中付近で腕組みをしてパイプ椅子に座っていた。
「お、カナもいるじゃねぇか。大判焼き屋抜け出すのに成功したみたいだな」
可奈は、霧二郎とは少し離れた席に着いていた。
「村センもじっくり見てるな。絶対成功させるしかねぇな」
「そうね、藍木くん。楽しみましょうね!」
開演まで十分を切った。
「そろそろ開演時間だ。マナ、緊張しているかもしれないが、まずは楽しもうぜ!」
「そ、そうよね。楽しむ気持ちが大事よね?」
「そうだ、楽しもうぜ」
※※※
時は一五〇〇年代、とある国。
貴族階級と貧民層が明らかに分かれた町で、貧民層は迫害を受けていた。
今日も今日とて貴族階級による迫害が行われていた。
「汚ならしい、見られているだけで貧しさが移りそうだわ! こっちを見ないでちょうだい!」
貴族の女は、貧民の男に泥玉を投げる。
「さっさと仕事をしろ! ブタ以下の存在が!」
貴族の男は、これまた貧民の女に鞭を打つ。
このような光景は、この町では日常茶飯事であった。
そんな迫害を受ける貧民層の中に一際美しい姿をした女がいた。その女の名を、ミナと言った。
ミナは、貴族階級にいてもおかしくないほどの美を誇り、それが貴族階級の女たちの嫉妬を買っていた。
「なんでそんなに綺麗なのよ、貧民の分際で!?」
「あんたなんて泥にまみれればいいのよ!」
ミナは、泥の入れられたバケツに顔を埋められた。
「っぷは!」
ミナは、泥のバケツから空気を求めて顔を上げる。
「うぐっ!」
「ほらほーら、鞭叩きよ! 味わいなさい!」
ミナは、痛みのあまり息が詰まる。
「今日はこれくらいにしておいてあげるわ。明日も明後日も、死ぬまで苦しませてあげるわ」
「……くっ!」
ミナはこのように、日常的に貴族階級の女たちから虐げられていた。泥を飲まされ、背中に鞭を打たれ、と目を覆いたくなるほどの暴行を受けていた。
ミナは、次の日も激しく鞭を打たれていた。
「や、やめ……!」
ミナは、声も出せないほどに痛め付けられていた。
一通りミナを痛め付けると、女たちは去っていった。
「……どうして、私がこんなに……?」
ミナは涙に暮れた。往来で暴行がなされているのに、誰一人助けてはくれない。同じ貧民層の人間はとばっちりを食らうのを嫌い、貴族階級は貧民層を憂さ晴らしに虐める対象にしか見ていない。
ミナが楽になる道は、早く死ぬことであった。
しかし、そんなミナに救いの手が差し出された。
「おお……なんと哀れな、美しき人よ……」
ミナに手を差しのべたのは、貴族階級の男、名をクビーと言った。
「私は美しくなどありません。醜い貧民です。私に近づいてはなりません。貧しさが移りもうしますわ」
「そなたのような美しき人から、どうして貧しさが移ろうか? 私の所へ給仕として働かせよう。一緒に来てはくれないか?」
「ありがたき幸せにございます……」
クビーは、ミナを屋敷勤めにした。
貧民と言うだけで虐げられていた生活から、ミナは解放された。それを面白くないと捉える女がいた。
クビーの婚約者、ユリカであった。
「なんであんな貧民を屋敷勤めにしたのよ!? 理解できないわ!」
ミナが貧民と言うだけで、ユリカは拒絶した。
「あの者は美しい。お前と並ぶほどにな。貧民層の者にしておくのは勿体無いのだ」
それでも分からないユリカは、ミナを虐めるようになる。
「ああ、ユリカ様。おはようございます」
屋敷の廊下でミナとユリカがすれ違った。すれちがいざまに、ユリカは、ミナに平手を打った。
「気安く声をかけないで頂戴! 汚ならしい貧民のくせに!」
ユリカは見向きもせずに過ぎ去っていく。
「ユリカ様、お茶をどうぞ」
ユリカはティーカップを手にし、口に運ぶと思いきや、ミナの頭からかけた。
「熱いっ!」
「貧民の淹れたお茶など飲めるはずがないでしょう!」
ユリカによる嫌がらせは、多岐にわたった。
殴る蹴るの暴行から、鋏で髪を切る、顔に一筋の傷をナイフで付けるなど、だんだん命を奪うようなことにまで発展していった。
当然、ユリカのこれらの行動を捨て置くクビーではなかった。
ある日ミナに暴行を働くユリカを、クビーは間に入って止めた。
「ユリカ、何故このようなひどいことをする? ミナの美に嫉妬してか?」
「よく分かっているじゃない。そうよ、貧民のくせにクビーの心を得ているのが許せなかったのよ!」
「私は弱い者を虐げるような者が嫌いだ。早々に出ていくがいい」
クビーは、ユリカとの婚約を破棄した。
「ふん、貧民をかばうクビーなんかこっちもいらない! でもただでは別れてやらない!」
ユリカは、持っていたナイフでミナの腹を刺した。
「ぐっ、あ……クビー様……」
「なんと言うことを……」
「アハハハハハ! やってやったわ! ざまあないわ! せいぜいそうやっていつまでも死体を抱き締めていればいいわ。アハハハハハハハ……!」
ユリカは去っていくのだった。
※※※
劇もいよいよ佳境に差し掛かった。
(ついにラストシーンだ。準備はいいな?)
死体になっている愛美に、久比人は小声で話しかけた。
(練習通りにやるのよ? 妙な真似したら許さないわよ?)
(分かっている、というかそんなつもりは毛頭ねぇよ。それじゃ行くぜ)
「おお……神よ、私はどうすれば?」
『女に口付けをせよ』
天の声が辺りに響いた。これは台本通りの事である。
「今の声は? ミナに口付けすればよいのか?」
「ストップ・ザ・タイム!」
突如、稲光と共に時間が停止した。
「この魔法、ゼウスのおっさんか?」
久比人は、辺りを見回した。
時間は完全に停止しており、物音一つしない。
時間が停止していたのは愛美もであった。
「マナ、おい、マナ」
「ひょほほほ、いくら呼びかけても無駄ぢゃよ!」
「ゼウスのおっさん、どういうつもりだ?」
「主ら、口付けの場面だというのにするフリをするつもりであったであろう?」
「どうしてそれを?」
「ほれ、これぢゃよ」
ゼウスは、空間に冊子を出現させた。
「それは台本じゃねぇか。それがなんだってんだ?」
「最後のページぢゃ。ミナを生き返らせたのはわしということにしとるぢゃろ? 本人登場というやつぢゃよ」
「本人登場って、あんたを呼んだ覚えはないぞ」
「そう寂しいことを言いなさんな。ミナが生き返したのはわしが本当にやったことにすれば感動間違いなしぢゃよ」
「おっさん、オレに何をさせるつもりだ?」
「率直に言おう、愛美に口付けするのぢゃ」
「はぁ?」
「わしは主らに恋人同士になってほしいのぢゃ。演技とはいい、口付けをすればいくら朴念仁のクピドでも恋心を抱くと思うてのう」
「誰が朴念仁だ。オレは二次元にしか興味がないだけだ」
「何にせよ、主が決断せねば時間停止は終わらんぞい」
これ以上時間停止が続けば、下界の時間が乱れてしまう。それは、今後の歴史、未来に影響を与える事を意味している。
「……本当にマナにキスすればいいんだな、ゼウスのおっさん?」
「約束は守ろうぞ」
「よし、分かった……」
久比人は、時間停止して動かない愛美を見る。
そして自分の唇を愛美の頬にちゅっ、と当てた。
「なんぢゃい、唇にせんのか?」
「マナに恋人ができた時に、初めてじゅなきゃ可哀想だろ? 頬にキスでもキスはキスだ。時間停止を止めてもらうぞ」
「その初めての相手が主であれば、関係ないであろう?」
「オレは二次元にしか食指が向かない。これは永遠に変わらないぜ」
「まあ、仕方なかろう。これ以上は求めぬことにしようぞ。時間停止を止めるぞ」
ゼウスは魔法を解いた。
「ムーブ・ザ・タイム!」
時間が元通り動き出した。
「ってやべぇ」
久比人は、急いでキスするフリした。観客、特に女子生徒の黄色い声が体育館中に響き渡った。
「っは!? 私は……」
演技を続ける愛美。
「まっ、……ミナ?」
あわてて演技に戻る久比人。
「私、奥様に刺され、死んだはずでは?」
「神の奇跡だ、神よ感謝いたします!」
「ミナ、婚姻を結ぶぞ。私と永遠にいて欲しい」
「クビー様……ミナはとても嬉しゅうございます……」
その後クビーとミナは結婚し、永遠の愛を誓うのだった。
劇は終わり、役者は全員手を繋いで横並びし、観覧の客に挨拶をした。
「ご覧いただき、誠にありがとうございました」
拍手喝采がわいた。
「ねえ、久比人」
「なんだマナ」
「頬っぺたに違和感を感じるんだけど、あんた何かしなかった?」
びくっ、となる久比人。
「ああ、あれだ、ゼウスのおっさんじゃねぇかな?」
「ゼウスさんが? まあ、確かに何かしそうな感じだけど……」
「と、とにかく大団円だ。劇は成功したんだ、今は喜ぼうじゃねぇか」
ゼウスの差し金で頬にキスをしたなどとは、絶対に言えない久比人であった。