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波乱の夏休み

第四話 夏の転機


 愛美にとって波乱万丈、様々な事があった一学期も終わり、夏休みがやって来た。

 約一週間の夏期講習も終わり、愛美ら生徒は本格的な休みに入っていた。ある一人の女子生徒を除いて。

 愛美と久比人と百合子が、ファミレスで勉強会を開いていた。

 百合子の成績が非常に悪く、夏期講習の試験を突破できず、再試験が行われる事になった。

「あーん、もう! 何で夏休みの宿題以外に課題があるのよ!?」

 まだ始めて十数分しかっていないが、百合子は特別課題に、難癖を付けていた。

「それは簡単な答えよ、百合子。それはひとえにあんたが勉強しないからよ」

「結構簡単な問題っすよ? 夏期講習の課題。講習自体も楽勝でしたよ」

 百合子はテーブルの上にもたれ、口を尖らせた。

「むー、愛美たち特待生に、凡人な生徒の気持ちなんか分かるもんかっての!」

「久比人はともかく、私のは努力の賜物よ。毎日毎日勉強勉強勉強で特待生をキープしてるんだから。逆に言えば百合子、あんたも勉強すれば優等生になるチャンスがあるのよ。あんたはそのチャンスを棒に振っているだけよ」

「百合子さんも努力すればいけるっすよ」

「努力ねぇ、あーん、やっぱムリムリ! あたしには難しすぎるわ!」

 百合子は課題を叩いた。

「……そんなことより、気になることがあるんだけど」

 百合子は意地悪な顔をして訊ねる。

「藍木くんたち、付き合ってるのー?」

 愛美はびくっ、となった。

「バカ言わないで、付き合ってるわけないでしょう!?」

「でも夏休み本番なのに二人一緒なんて、どう見ても付き合ってるとしか」

「同じ寮に住んでて、どうせ暇を持て余しているだろうから誘っただけよ! 悔しいけど学力も私よりコイツの方が上だし! ついでに私も勉強を見てもらおうかと思っただけよ!」

 愛美の言うことは事実だが、必死に否定しているふりをしているように、百合子には聞こえてしまった。

「ムキになるところがまた怪しいわねー。藍木くんはどうなの? 実は愛美に惚れてるとかー?」

 内心ギクッ、としたが、持ち前のポーカーフェイスで久比人は知らないふりをする。

「いやー、悪い冗談っすよ、百合子さん。ボクの婚約者は、春子ただ一人っす!」

 久比人は、天界でプレイしていたエロゲーのヒロインを自身の嫁と言った。

「春子ー? 誰それ? まさか、愛美と股掛け……?」

「はいはい、この話しはここまで。勉強を続けるわよ。久比人、百合子には英語を教えてあげて。その後に私の数学を見てもらうから」

 意味のない恋バナでうやむやになってしまう前に、愛美は勉強会に話を戻した。

「うーす、百合子さん。現在完了形が苦手みたいっすね。手取り足取り教えるっすよ」

「うん、お願い! 全然分かんないのー」

 久比人が百合子に教えている間に、愛美は自力で数学の勉強をした。

 愛美は、とにかく数学が苦手だった。中学校の初めての中間テストで赤点を取って以来ずっと目の上のたんこぶの科目であった。

 機織学院高校は、低偏差値なおかげでテストもさほど難しくない。しかし、特待生を維持するには模試でも点を取れなければならないので、実質進学校と勉強の忙しさは対して変わらなかった。

 愛美が勉強していたのは、数学Aであった。場合の数、集合、確率が主な内容である。

 愛美は、数学Ⅰはまだ理解できる方だったがAとなると途端に訳が分からなくなる。

 確率が特に分からなかった。これだけはどれほど勉強しても理解できる気がしなかった。

 確率といえば、何も数学に限ったことではない。人生にも当てはまることだと思える。

 生まれてくる場所も何億もの分母の一つだと考えられるし、よい親元に生まれるには何兆にも及ぶだろう。

 こうして確率の勉強をしていて思うのは、自分はどういう確率であの父母のもとに生まれたのか、と言うことである。

──もし、もしもあの親のところに生まれなければ……──

 自分は死ぬことはなく、幸福に生きることができたのかも知れないと思わざるを得ない。

 考えてもどうしようもない事なのは分かる。分かるが、やるせない気持ちになってしまう。

 愛美は、百合子を見る。

 ほとんど勉強ができないが、楽しそうに毎日を生きている。それはもう、羨ましいまでに。

──考えてもしょうがないか。あの子にはあの子の人生があるんだから...…──

 愛美は、人の人生の事を考えるのを止め、数学の勉強に戻るのだった。

「今日はありがとう、藍木くん、愛美。二人のおかげで再試験突破できそうだよ!」

「それはよかったっす。現在完了形がヤマでしょうから、復習もやるんすよ?」

「それなら大丈夫! haveプラス過去分詞に、forが数字、sinceが具体的内容が続くんだよね? もう覚えたよ! 藍木くん教え方上手いから」

「それだけできれば大丈夫そうっすね。ボクも教えたかいがあるっすよ」

 百合子は自信たっぷりと言った様子だった。

「それじゃあ今日は解散しましょう。百合子、再試験頑張るのよ」

「そうね、二人が教えてくれたんだし、あたしでもいけそうな気がするわ。ありがとう、それじゃ、あたしは先に帰るわね」

 百合子は、自転車にまたがった。

「寄り道せずにまっすぐ帰るのよ」

 愛美は言った。

「はーい、じゃあね!」

 百合子は帰っていった。

「……ふう、これで元のしゃべり方に戻れるぜ」

 都合三時間、転校生の藍木久比人を演じ続け、久比人は疲れを感じていた。

「あんた、なんであんなキャラやってるのよ? まあ、今更だけど」

「帰国子女っつったら日本語が苦手なイメージあるだろ? だから敬語を使った方がいいと思ったんだ」

「敬語っていっても、あんたのは砕けたものでしょ? 対して疲れないと思うけど」

「キャラ作るのが苦手なんだよ。ほら、オレってポーカーフェイスじゃん?」

「確かにあんた、笑わないし、痛くて苦しくても眉一つ動かさないわね。一体どう生きたらそうなるのかしら?」

「母ちゃんのせいが大きいな。毎日システマや軍隊格闘技の技食らいまくっていたから、慣れちまったんだな」

 クピドの母親ヴィーナスは、美の女神として名に恥じぬ美しさを誇っているが、それ以上に格闘家の面が前面に出ていた。

 何故ヴィーナスが、美の女神とは縁遠い格闘技に精通しているのか。それは彼女の美貌に言い寄ってくる男神たちから身を守るためだった。

「母ちゃん怒ると悪魔王ルシファーに変身するからな。何度骨折られるかと思ったことか」

「なんでそんな美しい女神様が悪魔になるのよ?」

「悪魔じゃねえ、悪魔王ルシファーだ」

「なんでそんなに技かけられるのよ? ヴィーナスさんあんなに腰が低いのに」

 久比人が愛美を殺めてしまった日、ヴィーナスは愛美に土下座して陳謝した。そこまでする女神が日常的に息子に体罰を下す理由が愛美には理解できなかった。

「部屋でエロゲーをしてるとすぐに技かけてたな。ほんの二十時間やっただけなのに」

「それは確実にあんたが悪いわよ。引きこもりやってちゃそりゃあ鉄拳制裁されても仕方ないわね」

「いや、でもたかだか二十時間だぜ? 勘違いしてほしくないが、天界の時間で二十時間だぜ?」

 天界と下界の時間には大きな差がある。天界の一時間は下界の一日に相当する。

「それってより悪いんじゃないかしら? まあどうでもいいけど……」

 愛美は自転車に乗った。

「帰るわよ。ここでくっちゃべってたら、寮の門限過ぎるわ」

「ああ、そうだな」

 愛美と久比人は、帰路についた。

 やがて寮に戻ると、夕食の臭いがしていた。

「ん? この臭い、今日はカレーね!」

「よく分かるなぁ、お前の鼻は犬並みか?」

「寮のカレーはすごく美味しいのよ! ああ、夕飯の時間が待ち遠しい!」

 愛美は、普段よりもテンションが上がっていた。それほどまでに愛美はカレー好きであった。

「お前、意外とお子さま舌だったんだな……」

 これまでの境遇から、どこか大人びた性格の愛美だったが、味覚は年相応かそれ以下であった。

 やがて夕食の時間がやってきた。

 大盛りに盛ったご飯の上にカレーをかけ、水も用意し、寮の食堂の席に着いた。

「いっただきまーす!」

 挨拶すると、愛美はカレーを食べ始めた。

「年頃の女の食う量とは思えないな……」

 久比人は、ご飯もカレーも並盛りにしていた。

「あら、久比人いたの? それはそうとうっさいわね。私は柔道家よ? 食べるのも稽古の内よ」

 愛美はもっともらしい事を言ってカレーを食べ続ける。

「普通逆だろ。柔道家だから減量するもんじゃねえのか?」

「私は太らない体質だから、減量は必要ないのよ! むしろこの体重を維持しなきゃいけないんだから」

 愛美の柔道の階級は五十二キログラムであるが、実際の体重は五十キログラムとニキロ余裕がある。増量する必要すらあるほどの体重であった。

「おかわりー!」

 愛美は皿を持ち、ご飯とカレーをよそった。

「ああ、美味しい。ん、あんた何してるのよ?」

 久比人は福神漬けをどかしていた。福神漬けの汁の付いたご飯もどかしていた。

「いや、オレ福神漬け嫌いなんだよ」

「美味しいのにもったいない、なんで嫌いなのよ?」

「福神漬けって名前が気にくわねぇ。ただの付け合わせの漬け物の癖に福の神の名前があるのが許せねぇ。どうせ不味いに決まってるからこうしてどかしてんだよ」

 久比人の完全な食わず嫌いであった。

「そんなに嫌いなのになんでよそいだのよ?」

「日本の様式美としてよそったんだが、やっぱり気にくわない。マナ、食うか?」

「食べないわよ、他人がスプーン付けたものなんか」

 やがて、夕食の時間は終わった。

「ごちそうさまでしたー。あぁ、美味しかったー」

 結局、愛美は三杯カレーを食べた。

「お前の体のどこにそこまで食える余裕があるんだ?」

 久比人は、開いた口が塞がらなかった。

「カレーって別腹だと思うのよ。心理学でも証明されているのよ。食べたいと思うと、脳が胃袋に空きをつくるって」

「普通それ甘いものじゃねぇのか?」

「美味しいものに変わりはないでしょ」

「あ、そうすか……」

 久比人はそれ以上は言わなかった。

「それよりも久比人、明後日から柔道部の遠征よ? ちゃんと準備してる?」

 愛美の言う通り、明後日は泊まり込みの練習試合の遠征が予定されていた。

「ああ、と言ってもオレは初心者だからな。やることはマネージャーだ」

 久比人は、母ヴィーナスに投げられ慣れていたおかげで受け身は取れるが、得意技の一つも身に付けられていなかった。

 そこで霧二郎は、久比人を初心者の部に参加させ、後はマネージャーとして、部員たちの世話役を担うことにしていた。

「それより、今度の遠征は泊まり込みだぜ? 年頃の男女が一つ屋根の下だ。もちろんキリーともな」

「部屋は男女別! あと、霧二郎さんとは何ともないって言ってるでしょ!?」

「マナがそう言ってても、キリーの方は間違いなく気があるぜ? オレは愛の神だ。見間違いはない」

 久比人は胸を張る。

「久比人、あんた確か魔法が使えたわよね? 妙な真似したら袖釣(そでつり)だからね!」

 袖釣、袖釣込み腰という技だが、その特徴は受け身の取れない、初心者にかけるべきではない危険な技である。

「袖釣か、母ちゃんの得意技だな。受け身は足を上手く使えば取れるぜ」

「ヴィーナスさんって美の女神だったわよね? なんでそんなに格闘技が得意なのよ?」

 打撃はシステマ、投げは柔道と、ヴィーナスは素手の技なら大体何でも使えた。

「オレも聞いた話だからよく知らねぇんだが、母ちゃんは基本的に美の女神らしく綺麗だろ? 母ちゃん昔は恋人をとっかえひっかえでよ、オレの父ちゃんは誰かわかんねえほどだ。でもオレを授かった時、こうしてちゃいけないって思って、男神と交わり合うことを止めたんだ」

「ヴィーナスさんが?」

 美しい女性のお手本のような女神だと言うのに、そのような過去が有ったことが愛美には信じられなかった。

「まあ、それでも言い寄ってくる男神は居続けたわけで、身を守るために下界に下りて格闘技の達人から技を教わったらしいんだよな。よく知らねぇけど」

 今は専ら久比人への折檻に使われている技だが、昔は護身のために身に付けたのが始まりであったようだった。

「そーいや、オレガキの時いじめられてて、母ちゃんが技で撃退してくれたこともあったっけ」

 今でこそヴィーナスの技の対象は久比人であるが、いじめをする不埒者を撃退する正義の使い方もあったようだった。

「……久比人は、ヴィーナスさんの事どう思ってるの?」

「何だ藪から棒に? そうだな、罰として技をかけられるけど、それ以外はいい母親だと思ってるよ」

 愛美にはかけられた事のない愛情を、久比人はかけてもらっていた。

 きっと久比人は、母親ヴィーナスから女手一つで愛を受けて育てられたのであろう。

 どこか無気力な質の久比人だが、こうして不祥事を起こした責任をとろうと一生懸命策を練っている。

 基本は厳しく、時に優しいよい母親なのだろうと愛美は考える。母親に見捨てられた愛美にとっては羨ましくさえ思ってしまう。

「久比人はヴィーナスさんが好きなのね?」

「おいおい、それじゃオレがマザコンみたいじゃねぇか」

「大丈夫よ。そうは思ってないから、それとも実は本当にマザコンとか?」

「マナ!」

 それは照れ隠しなのか、ポーカーフェイスで分からなかったが、珍しく久比人が大声を上げた。

「あはは、冗談よ。それじゃあ久比人、私は部屋に戻るわ。あんたもさっさと寝なさいよ」

「お、おう...…」

 久比人は、愛美の笑った顔を初めて見たような気がした。

──あんな顔もできるんだな──

 久比人は思うのだった。

   ※※※

 愛美たちが勉強会を開いた二日後、柔道部の遠征の日がやってきた。

 練習試合の会場は、岡森(おかもり)市にある、大武道場である。

 千関市からは電車で一時間で着く距離である。

「おお、電車って速いんだな。百年前も蒸気機関車が町を走ってたけど、断然こっちの方が速いぜ」

「電車ごときではしゃがないでよ、恥ずかしい」

「やっほー、愛美ちゃんに久比人くん!」

 可奈が愛美たちの所にやって来た。

「いやー、やっぱり遠征っていいよね。どこかこう、わくわくするよね!」

 可奈は、どこか遠足気分であった。

「可奈まではしゃがないでよ」

「だってドキドキじゃん、練習試合! それも県内の高校が集まる大型練習試合だよ? どんな強い人がいるか楽しみじゃない!?」

 可奈は、強い相手と戦える事を楽しみにしていた。

「私はお手柔らかにお願いしたいところだけどね」

「まーた、愛美ちゃんたら、謙遜しちゃって。愛美ちゃんは県二位、あたしは県一位、機高(はたこう)に黄金のツートップ揃ってるんだもの、そう簡単にやられはしないよ!」

 可奈は、勝つ気満々であった。

「そーいえば東雲さん、機織高校にはスポーツ推薦ではいったんすよね? ボクが調べたところ、県内最強校はこれから行く岡森中央高校らしいっすけど、なんで機高にしたんすか?」

「可奈でいいって、久比人くん。中央高校もよかったんだけど、愛美ちゃんが機高狙ってるって噂を聞いてね。県大会決勝で戦った愛美ちゃんと日々切磋琢磨できるほうが強くなれるような気がしたからだね」

 可奈は根っからのアスリートであった。自分より強い相手と戦って自らを鍛える、そんな選手だった。

「ねえねえ、久比人くんも県大会トップを目指してるの?」

「ボクはそんなに強くなれないっすよ。柔道始めて一ヶ月くらいですし。護身術程度にできればいいなぁと思う限りっすよ」

「夢がないなぁ久比人くん。せっかく柔道始めたのにそれじゃあもったいないよ」

「ボクは弓道の方が得意っすから。全国大会制覇しましたし。柔道は日本の代表的武道っすから、日本にいる間にやっておきたいと思ったから始めたんです」

「それいいね! そんな風に考えて柔道始めてくれたんなら、あたしも柔道家冥利に尽きるってもんだよ!」

 可奈と久比人が話し込んでいる内に、列車内アナウンスがなった。いつの間にやら岡森市に到着したようだった。

「あ、どうやら到着したみたいだね。それじゃあ愛美ちゃん、久比人くん、いい試合しようね!」

 可奈は荷物を取りに、もと座っていた席へと戻っていった。

「カナ、女にしておくのが惜しいな。あの人懐っこさ、男だったら年下の後輩キャラってところなんだけどな」

 久比人にとっては圧倒的に年下だが、愛美にとっては同い年である。

「可奈が女で残念だったわね。さあ、降りる支度しなさい。乗り過ごしちゃうわよ」

 やがて電車は岡森駅に停車し、愛美たち機織学院高校の柔道部員は電車を降りるのだった。

 岡森大道場へは、岡森駅から徒歩で十分ほどの場所に位置していた。

 岡森大道場は、柔道場のみならず、剣道場、弓道場、相撲場まである総合武道道場であった。

 愛美が中学生の時の県大会もここが会場であった。

──もう来ることはないと思ってたけど、また来ることになるなんてね──

 愛美は、懐かしさを感じていた。

「まさか、こんなにすぐにまたここに来ることになるなんてな」

 久比人は、弓道の県大会で大道場を訪れていた。そしてあっさり優勝している。

「しかしあれだな、柔道って荷物が少なくて済んでいいな。弓道の和弓は縦に長いから、天井にぶつけて、弓に傷を付けてしまいそうだからな」

 柔道で必要なのは道着一式であり、久比人の言う通り片手でも持ち運びが可能であった。

「そういやキリーはどこに行ったんだ? 電車降りてから姿を見ないが……?」

「霧二郎さんなら、参加手続きに行ってるわよ。主将は大変ね」

「そうなのか。考えたらキリーの戦っているところを見たことないな。今回見ることができるのか?」

 久比人は、霧二郎の試合をしているところを見たことがなかった。この練習試合に参加するのだとすると、久比人はともかく、愛美も高校生になってからの霧二郎の戦いぶりを初めて見ることになる。

 柔道強豪校、機織高校の主将を務める霧二郎の腕前はいか程か、愛美は少し楽しみになっていた。きっとすごい腕前になっていると、愛美は思った。

「あ、いたいた、愛美ちゃん!」

「可奈、どうしたの?」

「桜井先輩が練習試合の登録が終わったから、道着に着替えて、大道場入り口に集合だって。久比人くんも着替えて集合だって」

「そうっすか。何だか少し緊張してきたっすよ」

「練習試合は勝ち負けはあんまり気にしなくていいものだよ。自分に足りないところを知るいい機会なんだよ。だから今の全力を出し切れば意外と勝てたりするもんだよ!」

 可奈は、屈託のない笑顔を浮かべていた。それほどまでに試合が好きな選手だった。

「さっ、愛美ちゃん、更衣室に行こう。久比人くん、また後でね」

 可奈は、愛美を引き連れていった。

 女子更衣室はさほど混雑していなかった。他校の女子生徒はそんなに多くは参加していないようだった。

「愛美ちゃんってスタイルいいよね。羨ましい……」

 可奈の言う通り、愛美のスタイルは出るところが出ており、引き締まるところはきゅっ、と締まっていた。

 愛美は意外と着やせするタイプであった。

「そんないいものじゃないわよ、可奈。可奈の方がウエスト細いじゃない?」

 愛美は、胸があるぶん薄着だとウエスト周りまでが太って見えてしまうので、暑くてもしっかり着込まないといけないという悩みがあった。

「うーん、やっぱりあたし胸がないから愛美ちゃんが羨ましいよ! なに食べたらそんな胸になれるの?」

「ご飯は寮のご飯を毎日食べてるけど、ホントそれだけよ?」

「いーや、毎日牛乳一リットル飲んでるとか、努力してるに違いないよ!」

「牛乳はちょっと……」

 愛美は牛乳が苦手だった。寮の朝食に出される紙パックの牛乳も飲めず、残しているほどだった。

「えー、意外! 愛美ちゃん牛乳飲めないんだ? ちょっと弱点見つけちゃったかも?」

 可奈は意地悪そうな顔をする。

「もういいでしょ、私の話は! ほら、早く着替えないと霧二郎さんに怒られるわよ」

「いっけないそうだった! 急ぎましょう!」

 二人はそそくさと着替えを済ませるのだった。

 着替えを終え、大道場入り口に行くと、機織学院高校の部員全員が揃っていた。

「すみません、遅くなりました!」

 愛美と可奈は、同時に言った。

「二人とも、着替えはすぐ済ませるように。一体何をしていたんだ?」

 半裸の見せ合いをしていたとは到底言えない。

「き、今日の相手は強いかなーって話し込んでしまったんですよ! ね、愛美ちゃん?」

 可奈は、愛美にウインクをしてきた。話を合わせろということだった。

「そ、そうなんですよ! 私ブランクがありますし、高校の柔道にどこまで通用するかなって思いまして……」

 愛美は苦笑しつつ話した。

「ふむ、山村さんがそう言うのなら事実なのだろう。まあ、とにかく、一年生は初めての遠征で、はしゃがないように。自分たちは遊びに来たわけではないのだからな!」

 霧二郎の一喝に、愛美と可奈のみならず、部員全員が背筋を伸ばした。

「……さて、午前は初心者の部と女子選手の部だ。うちは初心者は藍木しかいないからな、他校の初心者に混ぜてもらって試合をする。藍木、あまり無理するなよ。怪我だけはしてくれるな」

「うっす!」

 久比人は、大きく返事をする。

 霧二郎が調べたところ、千関市からやって来た高校があり、千関工業高校と千関第二高校の二校であった。

「藍木、工業と二高に混ぜてもらえ。この二校はそれほど強くはないからな、初心者の君でもまずまず戦えるだろう」

「うっす、頑張るっす!」

 こうして、初心者の部から大型練習試合は開始した。

 千関市連合の初心者の部は、大した事は起こらずに終了した。工業と二高の新入部員は負けたが、久比人はなんと勝利を納めた。伊達に機織学院高校の柔道部員ではない事を示す結果となった。

「なかなかやるじゃないか、藍木。初心者と言えど相手は県ベスト八になるほどの高校だ。それに、勝つとは誇っていい結果だ」

「うっす、ありがとうございまっす」

 次は女子部員の部である。参加選手は尋、可奈、愛美そしてその他二名、水谷奏(みずたにかなで)只野美保(ただのみほ)であった。

 先鋒を愛美が、次鋒に奏、中堅に可奈が来て、副将に美保が、そして最後に大将を務めるのは尋であった。

 愛美は緊張していた。先鋒と言えば、その勝敗でチームの士気に大きく影響するポジションである。

 勝って一気に流れに乗ってしまいたい所だが、ブランクがあって果たして勝つことが出きるかどうか分からなかった。

「愛美ちゃん、緊張してる? 大丈夫、愛美ちゃんが負けてもあたしが流れを取り戻すから!」

 先鋒、次鋒と負けてしまっては、もう残す所は中堅が勝つしか団体戦では試合終了となってしまうため、団体戦においてはチームで一番強い選手が中堅に選ばれることが多い。

 故に、中堅には可奈が選ばれている。

 やがて、愛美ら機織高校女子団体戦が始まった。相手チームは宮戸(みやと)高校というまずまずの強豪校だった。

「頑張って!」

 可奈が愛美の背中を叩いて鼓舞した。

 愛美は、試合場の中心に進んだ。相手は愛美と大差ない体型の選手であった。

「始め!」

「ヤーア!」

 試合開始と同時に両者お互いに気合いを入れた。

 相手も愛美と同様のファイトスタイルであった。スピードに任せた組み手争いで、お互いなかなか掴むことができない。

 それでもなんとか掴むことができるものの、切られてしまう。

「止め!」

 審判によって試合が一時停止される。

 審判は、拳を糸巻きするようにぐるぐる回し、愛美と相手同時に指を指した。

「指導」

 なかなか決まらない組み手争いに、戦意不足とする反則を受けてしまった。

──指導貰っちゃった。何とかして取らないと……!──

「始め!」

 試合は仕切り直された。指導を受け、愛美は焦りを感じてしまっていた。

「落ち着いて、愛美ちゃん!」

 可奈が応援した。

──そうよ、私。焦っちゃダメ……!──

 久しぶりに強い相手と当たり、愛美は緊張で舞い上がっていた。

 緊張を勇気に変え、愛美は攻めた。スピードアタッカー相手には、より早く掴んだ方が勝負を制する。

 愛美は、相手の懐に入り、相手の左半身を取った。そして相手の横に足を伸ばし、取った手を回転するように引っ張った。

「ヤアアアア!」

 愛美の体落としが決まった。

「技あり!」

 審判は、手を水平に伸ばして宣言した。

 一本には僅かに届かなかったが、大きなポイントを取ることができた。

 そして愛美は、相手が起き上がる前に寝技をかけた。

 相手の股に自分の右腕を入れて下から帯を取り、左手は相手の襟を掴み、自らの胸で相手の胸を押さえつける横四方固めという技である。

「抑え込み!」

 愛美は、寝技が苦手であったが横四方固めだけは得意であり、絡み付いたら絶対に逃さない自信があった。

 カウントが進み八秒、九秒、十秒。

 十秒を刻んだところでタイマーが鳴った。

「技あり、合わせ一本、そこまで!」

 愛美の初試合は白星を飾る結果となった。先鋒として、試合の流れを引き寄せる大役も成し遂げることができた。

「やったね、愛美ちゃん!」

 可奈はハイタッチをしようとした

「ありがとう、可奈!」

 愛美は、ハイタッチに応じた。

「あたしの出番は次の次だね。こりゃあ勝ったも同然じゃないかな」

 次鋒は美保が務める。

「只野先輩、ファイト!」

「うん、行ってくるからね」

 美保は応援に応えた。

 只野美保は、機織高校二年生の生徒である。階級は五十七キロ級に属している。

 大きな可愛らしい目をした生徒である。スピードは愛美や可奈ほどはないが、見た目に反して力があり、足技が得意な選手だった。

 試合は開始早々、美保の小外掛けが決まり、一本勝ちした。

「次はあたしだね。どんな強い相手か楽しみ!」

 ガチガチに緊張していた愛美と違い、可奈は、わくわくと楽しみに試合に臨んでいった。

 可奈が当たった相手は、六十三キロ級の、可奈と比べると体重が十キロ以上も上の体格差のある相手であった。

 これに負ければ相手校は負けが確定してしまう。故に間違いなく相手校で最強の選手であろう事は想像に難くなかった。

「可奈!」

 愛美は、可奈の背中を叩いた。

「さっきのお返しだよ、大丈夫。可奈なら絶対勝てるわ!」

「ありがとう、絶対勝ってくるよ!」

 可奈は試合場に入っていった。

「始め!」

「サァコーイ!」

 可奈は気合いを入れ、持ち前のスピードで十キロ体重が上の相手に向かっていった。

 可奈は、先に引き手を取り、続けて釣り手を取った。十キロ上の相手の動きを、可奈は制したのだ。

 うまく掴むことができたが、力と重さは相手の方が圧倒的に上で、可奈はなかなか技に入れなかった。

「可奈、ファイト!」

 愛美は応援した。

 可奈はウインクして応えた。まだ応援に応える余力はあった。

 しかし、状況は膠着していたままであった。このままでは反則を取られてしまう。

 相手もいつまでも掴まれたままではいなかった。可奈の引き手を切って、自由になった手で、今度は可奈の引き手を掴んだ。

 可奈は、釣り手を掴んでいる状態であり、引き手を取られても、襟を取っているため、相手の接近をブロックしている。

──こうなったら、これだね……!──

 可奈は、襟を取っていた手を、相手の胸ぐら辺りに移動させ、取られている引き手を自分の所に持っていった。

 そして相手の腹に足を当てて、仰向けに倒れ込んだ。

「よいしょー!」

 力で可奈を圧していた相手は、不意に可奈が前方から消えたことにより、大きく体勢を崩し、前に吸い込まれるように転がった。

 可奈の巴投げが決まった瞬間だった。

「一本、それまで!」

 審判も文句無しの一本勝ちであった。

 三連勝を決めたことにより、機織学院高校の勝利も決まった。後は消化試合となった。

 奏は、六十三キロ級の選手で、中量級でありながらスピードで戦う選手であった。力もそれなりにあり、スピードとパワーどちらも兼ね備えた強者だった。

 試合は、奏の内股の巻き込み技で一本勝ちをおさめた。

 団体戦最後の大将戦は尋が出た。

 相手は七十八キロ級の重量級で、体格差はかなりあった。

 それでも尋は、相手にかじりついて、なかなか勝負は決まらなかった。

 相手の息が上がり始めた時、尋は勝負に出た。

 相手の右足を刈る、大外刈をかけた。しかし、体格差が大きいせいで相手を倒す事はできなかった。

 だが、相手の大腿部を付けたことで、有効の判定を得た。

 その後も試合に進展がなく制限時間がやってきた。

 試合は、尋の優勢勝ちとなった。これでこの団体戦は機織学院高校の完全勝利になった。

「よくやった、みんな」

 大道場の廊下で、霧二郎は、女子部員たちを褒めていた。

「山村さんの体落とし、見事だった。連絡技の横四方固めもがっちり決まっていた。素晴らしいの一言に尽きる」

 公式試合に出たことがないというのに、いきなり県レベルの試合に勝った愛美を、霧二郎は特に褒めていた。

「東雲の巴投げも見事だった。まさかあのような捨て身技も得意だとは、機高の名声は君にかかっていると言っても過言ではないだろう」

「ははー、ありがたきお言葉!」

 可奈は、褒められて素直に喜んでいた。

 霧二郎は、女子部員一人一人に講評すると、次の試合の準備に移るように言った。

「次の試合も頑張ろうね、愛美ちゃん!」

「うん……あれ……?」

 突如として、愛美の視界がぐるぐる回りだした。さらに悪いことに、視界が暗くなり始めた。

 耐えかねた愛美はその場に倒れてしまった。

「愛美ちゃん!?」

 可奈がとっさに膝枕をした。それでも激しい目眩は治まらない。

 人が倒れ、辺りはちょっとした騒ぎになった。

「誰か医務員を!」

 尋が叫んだ。

「いや、それには及ばない、自分が医務室まで運ぼう!」

 騒ぎを聞き付けた霧二郎が戻ってきた。

「ボクもご一緒するっす、担架も持ってきましたから」

 同じく騒ぎを聞いた久比人がやって来た。

「よし、それじゃあ自分が前を持つから君は後ろを頼む!」

「うっす!」

 二人は医務室まで急いだ。

「急患です!」

 霧二郎と久比人は、愛美を医務室へと連れてきた。

「どうしましたか?」

 医務室には、白いポロシャツ姿の医者が待ち受けていた。

「うちの部員なんですが、急に倒れてしまったんです!」

 霧二郎は、状況を説明する。

「その子の名前は?」

「愛美っす。山村愛美っす」

 久比人が答えた。

「ふむ、分かりました。愛美さーん、山村愛美さーん。聞こえますかー?」

 医者は愛美に呼び掛ける。

「……はい、聞こえます……」

 愛美から返答があった。どうやら意識はあるようだった。

「話せますか?」

「はい、なんとか……」

「一体どうされましたか?」

「……試合が終わった後、急に、目の前が、ぐるぐるして、そのあと、視界が、真っ暗……に、なったんです……」

 愛美はどうにか自分に起こった事を、自分の口で説明することができた。

「なるほど、では、ちょっと失礼しますよ」

 医者は愛美の手首を取った。

「脈がずいぶん弱いですね。胸の音聞かせてもらいますよ」

 医者は、首に掛けていた聴診器を耳に入れ、愛美の胸に当てて心音を聞く。

 医者は、あーでもない、こーでもないと愛美の心音を聞きながらぶつぶつ言っていた。

「先生、山村さんは?」

 沈黙に耐えかねた霧二郎は、思わず訊ねてしまった。

「心臓に雑音はありませんね、ただ、脈が弱いのが気になります。恐らく熱中症に罹っているのかと思われます」

「熱中症、ですか……」

「保冷剤と経口補水液がありますので、それで様子を見てください」

「分かりました。ありがとうございます、先生」

 霧二郎は、医者に礼を言った。

 その後愛美は、涼しい休憩所まで運ばれた。霧二郎は、今後の団体戦は愛美抜きで行うと言いに行き、この後試合のない久比人は愛美の面倒を見ることになった。

「全く、熱中症ごときで倒れるタマかよ?」

 久比人は、愛美を膝枕にし、団扇で扇いでいた。

「……うるさいわね、私だって、こんなんなるなんて思わなかったわよ……」

 愛美は弱々しく言い返す。

「バカは限界を知らずに動くから倒れる。ってところか?」

「あんた、私が復活したら、覚えてなさいよ……」

「冗談だよ。まあ、それだけ喋れるようになったってことはちっとはマシになってきたってことか?」

「そう、かもね……」

「そら、経口補水液、飲んどけ」

 久比人は、愛美の背中に手を当てて、体を起こしてやった。

「あり、がと……」

 愛美は経口補水液を飲んだ。ほんの少ししょっぱく、それでいて甘い風味が鼻へ抜ける。

「……可奈、心配してるかな? 私の事、気にして、上手く、立ち回れなく、なってなきゃいいけど」

 可奈は、とても友達思いの少女である。愛美が倒れたことを一番心配していそうだった。

「こんな時に他人の心配か? お人好しなこって。だが、カナなら問題ねぇよ。その辺スイッチ切り替えて試合に当たってるからな」

「それなら、良かった……少し眠るわ……」

「おう、寝ろ寝ろ。しばらく寝てりゃあ治るってね。オレも付いててやるからよ」

 愛美はすぐに、眠りについた。

「全く、無防備な奴だな。男と二人きり、しかも弱りきった、状態だなんて。イタズラされても、しかたないってもんだぜ」

 まっ、オレは何もしないけどな、と久比人は独り言を言う。

 久比人は、膝の上で寝息をたてる愛美を何となく見た。

 愛美を特徴付けているつり目は、今は垂れ下がっており、体調が悪いせいか、白い顔をしていた。

 久比人の好きな病弱キャラそのものになっていた。

──いやいや、ないない。三次元に興味はねぇし、熱中症なんか大病に入らねぇし──

 否定する久比人であったが、愛美の寝顔を見るたびに妙に意識してしまう。

──もしかすると、オレ、マナのこと……?──

 普段はガサツで女っ気のない愛美のことを、久比人は強く意識し始めていた。

──いや、待て、おかしいぞ? 神ならともかく人間にここまで惹き付けられるなんて──

 久比人は確信した。これは何者かによる術であると。そしてそんな術を操れるのは、ある神によるものであると。

「いるんだろ? ゼウスのおっさん」

「ひょほほほ!」

 陽気な笑い声を上げながら、ゼウスは姿を現した。

「やっぱりあんたのせいだったか。ゼウスのおっさん」

「よくぞわしの術を見破ったな? さすがは愛の神。そなたの神格には敵わぬか」

 ひょほほほ、とゼウスは笑い続ける。

「一体全体マナに何をした? これまで何度も倒れている。あんたが余計な事をしてるんじゃないのか?」

「余計なこととは人聞きの悪い。ただそなたの好きなエロゲー、ぢゃったか? それの登場人物にそなたの好きな属性に病弱があるようぢゃったからの。愛美にその属性を持たせただけぢゃよ」

「マナを病弱キャラにしただと?」

「こうでもせんとそなたは、愛美に興味を持たんぢゃろうからの。わしはそなたらに結婚して不祥事を無きものにしてもらいたいんでな」

「何度でも言うぜ、オレは三次元お断りだ。例え愛美が病弱キャラになったって、オレはなびかない」

「頑固な奴ぢゃのー。病気がちになっては、愛美は今後の人生歩むには辛いことぢゃろうて。そなたが結婚せんなら、愛美は苦しんで残りの人生を生きることになるのぢゃぞ?」

 愛美の人生は一年しか残されていない。病弱の体ではその一年、楽には生きていけないだろう。

 しかし、不祥事を不問にするには、何もクピドと愛美が結婚する必要はない。クピドの力で誰か恋人を作ってやればいい。あては一応、霧二郎がいる。彼と恋人関係にすれば、愛美の余命一年とクピドが神の座から下ろされ、存在を消されることはなくなる。

「マナの病弱設定は取り消すつもりはないのか?」

「さっきも言った通り、そなたの好きな設定を与えてやった。ぢゃから病弱の質をなくすつもりはないぞい? これから先今日みたいなことが何度か起こるぢゃろう。病弱の儚い姿に、そなたは惹かれる事ぢゃろうて。どの道時間は一年間ぢゃ。そなたが動かねば、愛美は楽には生きられんぞ」

 最早選択の余地はないように思われた。

「分かった。おっさんの余計な気遣い、受け入れよう。だが、勘違いするなよ? オレは付き合わない。これまで以上にマナに恋人を作るのに尽力する。そのためならどんな手も使う。もちろん人の命を奪うとか、そういうの以外でな」

 クピドは、下界に過干渉しない程度に干渉するつもりであった。

「ふむう、ここまでしてやればそなたの心も決まると思ったんぢゃが、仕方あるまい。そなたの慈悲の心、傍観させてもらおう」

「何? 慈悲の心……?」

「それではさらばぢゃクピド!」

 質問の間を与えることなく、ゼウスは天界へと帰っていった。

 クピドは、ゼウスが去り際に言った言葉が、頭の中を支配されていた。

「……慈悲の心」

 休憩所は、愛美の寝息だけがしていた。


第五話 神との共同生活


 夏休みも佳境に差し掛かったころ。愛美と久比人、百合子と、更に可奈が再びファミレスで勉強会を開いていた。

「まさか、可奈まで泣き付いてくるなんて思わなかったわ……」

 愛美は、本当に意外そうに言った。

「えへへ、あたしスポーツ推薦で入ったから勉強は実は苦手で...…」

 学期末考査で可奈は、赤点を二つ取ってしまっていた。科目は英語と数学という、鉄板の二科目である。

「可奈っちったら意外。武道家ってみんな頭良いと思ってたけど……」

 勝手なあだ名を付ける百合子であった。

「ところがそうでもないんだよ、百合ちゃん。日本史とか化学とか、暗記物はできるんだけど、計算だったり、文法だったり、そういうのがスッゴい苦手なんだー」

 特に突っ込むことなく、なんなら同じようにあだ名を付け、可奈は言う。

「へえー、そうなんだ。やっぱり意外ー! あたしら仲良くやれそうね!」

「そうだね! 後で連絡先交換しよ!」

「二人とも、口ばかりじゃなく手も動かし……げほっ、ごほっ!」

 愛美は、不意に咳をした。

「愛美、大丈夫?」

「平気よこのくらい。ちょっとむせただけよ。ほら、人の心配してる余裕があるなら、さっさと宿題やっちゃいなさい」

 愛美は、お茶を飲んで喉を潤した。

「愛美せんせー、質問があります!」

 まるで授業を受けているかの雰囲気で、可奈が手を挙げた。

「何かしら、英語なら教えられるけど」

「じゃあ英語! 受動態のところ!」

「はいはい、教えて上げるわ。久比人、あんたはまた百合子を教えて上げて」

「うっす。それじゃあ百合子さん、今日は数学をやりますか?」

「えぇー、本当に!? ありがとう! 数学はちんぷんかんぷんだから、助かるよー!」

 久比人の提案に、百合子は感激した。

「それで、受動態だったわね。どこがどんな風に分からないのかしら?」

「えーっと……be(ビーイー)動詞と動詞の過去分詞ってことは分かるんだけど……」

「なんだ、基本的なことは分かるみたいね?」

「うん、だけど不規則変化する動詞がよく分からなくなっちゃうんだよね」

「例えば?」

「えっと……say-said-saidみたいな、過去形と過去分詞が一緒のは何となく分かるんだけど、write-wrote-written みたいな全部変わる形が覚えられなくて、困ってるんだよね」

「なるほど、そういうパターンね。まず知っておくべきことは、不規則変化の動詞には、過去形と一緒のa-b-b型、過去分詞形のあるa-b-c型、過去形だけ変わるa-b-a型、全く変わらないa-a-a型なんてのもあるわね。教科書の巻末に書いてないかしら?」

「うーんと……」

 可奈は、パラパラとページを繰った。

「あった! ホントだ、愛美ちゃんの言った通りだよ!」

「教科書に載ってる変化表は覚えるしかないわね。何度もノートに書き付けて、終いには手の運動になるまでね」

「はーい、任せてよ! あたし暗記することだけは得意だからさ!」

 可奈はさっそく取りかかった。

 可奈が不規則変化表を暗記している間に、愛美も久比人から数学を教わることにした。

 久比人の説明は、数学教師陣には申し訳ないが、彼らよりも分かりやすいものだった。

 苦手な集合の単元も、久比人の説明を聞いて、ようやく理解することができた。

 やがて勉強会は終了した。

「藍木くんのおかげでちょっと分かったよ。ヘイホウカンセイだっけ? まさかあんな風に使うなんて思わなかったよー」

「百合子さんのお力になれて、光栄っすよ。また何かあったら、教えてあげるっす」

「ホントにー? 頼もしいな! じゃあ週一で勉強会開こーよ」

「百合子、自分の力でも勉強しなさい。聞いてばかりじゃ身に付かないわよ? 帰ったらちゃんと復習するのよ」

「や、やだなー、愛美ったら。もちろんやるわよ、明日からね!」

「ダメよ、今日帰ったらやんなさい。忘れないうちにね」

「ひーん……」

「じゃっ、あたし先に帰るね。今から駅行けば、一本早い電車に乗れるからさ!」

 可奈は、スポーツ推薦で機織学院高校に入ったが、寮には入っていなかった。

 可奈の住所は火沢(かさわ)市であり、電車で二十分の所に住んでいる。距離を考えて、そう遠くないので、毎日自宅から通っていた。

 寮に入れば、寮費がかさむので、尚更自宅通学をしていた。

「じゃあねー、みんな!」

 可奈は自転車に乗り、駅を目指して去っていった。

「じゃあ、あたしも帰るよ。二人とも気を付けてね」

 百合子も帰っていった。

 二人きりになった、愛美と久比人。

「……さて、二人とも帰ったわよ。積もる話とやらを聞かせてもらおうかしら?」

「分かってる。少し静かな場所に行くぞ」

 二人は自転車に乗り、場所を移動する。目指す先は、人の気配があまりない場所である。

 そこで丁度良い場所が、鉄依(てつい)川の河川敷の広場だった。

「よし、ここなら自然の静けさがあるし、話しをするのに丁度いいだろう」

 久比人は、自転車にブレーキをかけ、自転車から降りた。

 愛美も同様に、自転車を止める。

「あそこにしよう」

 久比人が指さしたのは、木製の休憩所だ。

 休憩所は円形の屋根の下に、同じく円形のテーブルがある。弁当等を食べるのに丁度良いテーブルだ。

 久比人は愛美に全てを話そうと、勉強会の前に愛美を誘っていた。大型練習試合の日、愛美が眠っている時にあった邂逅についてである。

「……で、話って何かしら?」

「ああ、お前練習試合の日ぶっ倒れたのは覚えているな?」

「そうね、まあ、寝てたから朧気にしか覚えてないけど……」

「その時、ゼウスのおっさんが下界に来ていたんだ」

「ゼウスさんが? 一体どうして?」

 応援でもしに来てくれたのかと一瞬思った愛美だったが、すぐにそんなはずがないと心の中で否定した。

「どうやらあのおっさん、早くオレらに恋人同士になってほしいみたいでよ、お前の体に術を仕掛けたんだよ」

「私の、体に……?」

 愛美には全く覚えのないことだった。

「最近体がおかしい、って思わないか?」

 愛美は、思い出してみれば最近貧血を起こしやすいと思った。愛美はそれを久比人に話した。

「それだ。ゼウスのおっさんはお前を病弱にしたんだ」

 今はまだ軽い貧血を起こしやすい程度で済んでいるが、術の効果が強くなると難治の病に罹る可能性があった。

「何でゼウスさんは、私を病弱にしたの?」

「オレが病弱キャラ好きだからな、エロゲーの。オレは三次元には興味ないのによ」

 愛美は、理由に納得行かなかった。

「あんたみたいな変態のために私の体をおかしくされたっての!? 冗談じゃないわよ!」

「変態とは聞き捨てならねぇな、エロゲーには感動するストーリーがいっぱいあるんだぜ。抜きゲーと一緒にしてほしくないな」

「どっちだっていいわよ、そんなもの!」

「まあいい、話を戻すぞ。このまま一年過ぎたら、オレは存在が消え、お前はウジ虫転生だ。その事は頭にあるな?」

「分かってるわよ」

「それにプラスだ。病弱の質で難病に罹って、苦しんだ挙げ句、死んだらやっぱりウジ虫転生だ。絶対に嫌だろ?」

「当たり前じゃない!」

「そうだろう? だから一つ提案があるんだ」

「提案……?」

「何も難しい事じゃねぇ。オレの側に常にいる事だ」

 それは、愛の告白のようなものだった。

「オレの側にいろって、どういうつもり? 恋人同士にでもなれってこと!?」

「いや、それはオレの方が嫌だ。お前も嫌だろ?」

「当然でしょ!」

「オレの神格が及ぶ範囲なら、ゼウスのおっさんの術をある程度消し去ることができる。大病には罹りにくくなるはずだ。トイレや風呂に入る時以外に一緒に居続ければ、神格が効く」

 それは、ほぼ四六時中一緒にいることに違いはなかった。

「一日中あんたと一緒にいるってこと? 寮の部屋にまで一緒ってこと? あんた仮にも寮生なら分かるでしょ。女子寮に男子が入ったら停学だって」

「前にお前が風邪で倒れたとき、オレが使った魔法を忘れたか? 周囲にオレを女だと認識させる魔法だ。あれがあれば問題はない」

「私には効かないんでしょ」

「そりゃそうだ、万が一オレかお前が恋におちた時、それは女同士の友情になっちまう。まあ、ないとは思うけどな」

 久比人は釘を刺す。

「働くのはたりぃが、マナと同じバイトも始める。部活も柔道部に完全にシフトする。特特待生からは外されるだろうが、寮費くらいはバイトで何とかなる……」

「どうして……」

「あん?」

「どうして私のためにそこまでしてくれるの?」

「下界の人間、それもオレの不祥事で一度殺しちまった相手が、病気に罹ってまた死ぬなんて事になって、来世はウジ虫になったらオレもやりきれないからな。消えるにしてもやれることはやりてぇんだ」

 久比人は、自らの消滅よりも、愛美の体のことを考えていた。愛美に恋人ができることが一番の目的であったが。

「……てなわけで、さっそく今晩からお前の部屋にお邪魔するぜ。ああ、オレ寝るところは、布団が敷ければどこだって眠れるから」

「本当に来るつもり!?」

「さっき言ったばかりだろ。オレから離れたら、病弱の質で大きな病気に罹る可能性がある。気持ちは分かるがこれしかお前を守る方法はないんだ」

「……あんた、私を守るとか言うのにかこつけて、何かするつもりじゃないでしょうね?」

「なにもしねぇよ。散々言ってるが、オレは三次元に興味はない。お前を女としては見ていないから安心しな」

 ここまではっきり言われて、愛美は逆に怒りを覚えた。ピチピチの高校一年生に向かって一切の興味を持たれていない事が信じられない事であったのだ。

「久比人、一発殴ってもいいかしら?」

「おいおい、一体なんたって殴られなきゃならねぇんだ? なんも悪いことはしてないだろう?」

「あんたの態度に腹が立っているのよ! 歯ぁ食い縛りなさい!」

 愛美は、固く拳を握る。

「ちょっと待てって、武道家が暴力振ったらまずいんじゃねぇのか?」

「うるさい!」

 愛美は、久比人の腹にパンチを放った。

「ぐぼっ!」

 愛美のパンチは、久比人の鳩尾を打っていた。

 急所を見事に突かれ、久比人は地面に崩れ落ちた。

「さっ、帰るわよ」

「ちょっと待ってくれ……母ちゃんのより数倍強烈で息が...…ごほっ、ごほっ……」

 久比人は、ヴィーナスからもよく腹パンを食らっていた。その理由はひとえに仕事をせず、エロゲーばかりやっていたからである。

 だがしかし、それほどパンチを食らっていたおかげで回復力もそれなりにあった。

 故に立ち上がるのも早かった。

「本気で入れたのにもう立ち上がるなんて、ゴキブリ並みの生命力ね」

「誰のせいでこうなっていると思ってるんだ、全く、いてて……それよりもゴキブリ呼ばわりは聞き捨てならねぇぞ。仮にも美の女神の息子だ、美しさは母ちゃん譲りだと自負しているぞ」

「はいはい、だったらもう大丈夫よね? さっさと帰るわよ」

 愛美は先に、自転車に乗って学生寮へと向かっていった。

「ちょっと待ってくれって」

 腹に打撃を受けた久比人は、ゆっくり立ち上がり、同じく自転車に乗って、愛美のあとを追うのだった。

 かくして、愛美と久比人の共同生活が始まろうとしていた。

   ※※※

 それから一週間後、夏休みは終わった。

「げほっげほっ……!」

「大丈夫、愛美? 風邪でも引いた?」

 百合子は、心配そうに訊ねた。

「ごほっ……大丈夫よ。ちょっと喉がイガイガするだけだから……」

「それを風邪っていうんじゃないの?」

「心配ないわ。アイツが来れば……」

「あいつ?」

 ゼウスがかけた術は、ゼウスの言う通り愛美の体をすっかり病弱にしていた。今ではもう、久比人と少しでも離れると、発作的に体のあちこちに異常を来すようになっている。

 どんな異常かというと、咳や頭痛といった風邪のような症状。下痢や便秘の消化器の不調。動悸息切れ等循環器の不良、等々様々に渡った。

 百合子には絶対に言えないが、愛美は久比人と共同生活をしており、久比人が近くにいなければ眠ることもできないでいる。

 それから、久比人は愛美と同じバイトも始めていた。愛美と同時間、同シフトで入ることで、バイト中に倒れる、といったこともなかった。

 しかし、久比人の神格で、ゼウスの術を抑えるのには久比人の体力を奪うもので、朝になかなか起きられない体になってしまった。

 今朝もまた、精神、肉体疲労で、愛美が起こしても起きなかった。

 仕方なく愛美は久比人を置いて登校したが、ゼウスの術の発作が起きてしまっている。

「ごほっ、ごほっ……!」

「本当に大丈夫、愛美? 顔が真っ青だよ? 保健室行った方がいいんじゃない?」

「……大丈夫よ、今気配を感じたから」

「気配?」

「おはようございまっす!」

 久比人が大急ぎで教室に入ってきた。遅刻ギリギリである。

「おはよう、藍木くん」

 百合子が挨拶した。

「おはようっす、百合子さん。マナさんは……?」

 愛美は、ゼウスの術が久比人の神格で打ち消されたおかげで、すっかり顔色もよくなり、風邪を引いたかのような咳も治まっていた。

 久比人との距離感が近付くにつれて、愛美は体調が良くなって行くので、これを久比人の気配と呼んでいた。

「おはよう、久比人。ちょっと顔かしてもらえるかしら?」

 愛美は、久比人の首根っこを掴み、引き寄せる。

(何で起きなかったのよ? おかげで百合子にいらぬ心配をかけたわ)

(しょうがねぇだろ、部活にバイトの掛け持ちに、神格を発動する。疲れて動けねぇっつの。神格を発動してるのってお前が思う以上に疲れるんだぞ)

(あんたがいなくちゃ、私はおちおち外も歩けないんだから、しっかりしてもらわないと困るわ)

(オレは神だから過労死はしないが、疲れるものは疲れるんだ。お前の方こそ行動を抑制しろ)

「ねえ、二人とも朝からこそこそと何話してるの?」

 百合子の言葉にギクッ、となる二人。

「な、なんでもないわよ。ねぇ久比人」

「そそそ、そうっすよマナさん」

「なんでもないなら、別にこそこそしなくてよくない? もしかして、あたしの悪口でもいってたとか……?」

「そ、そんなはずないじゃない。確かに全然勉強しないのには嫌気がさしてるけど、私たち小学生からの親友じゃない!」

「なんか突っかかる気がするけど、てか、愛美すっかり元気じゃん。まさか、藍木くんのおかげだったりする?」

「いやいや、ボクにそんな力ありませんから。マナさんは至って健康体っすよ」

「そんなこと言って、藍木くんが来てから魔法のように元気になってるじゃない。不思議な力があるんじゃないの?」

 ニヤニヤしながら、百合子は追求してくる。

「じ、実はそうなんですよ。ボク魔法が使えるんす」

 魔法の存在をバラしてしまうのか、と愛美は驚いてしまう。

「ほら、マナさんのお腹に手を当てて……」

「ちょっと、何をする気……!?」

「痛いの痛いの飛んでけー。ってね」

「…………へ?」

 愛美と百合子は、全く同じリアクションをした。

「ほ、ほら、手を当てるってだけで魔法になるんすよ」

 場は完全に白けていた。

「おーい、席付け。ホームルームを始めるぞ」

 担任の村井が教室の喧騒を静めた。

「安倍、席付け」

「あ、はーい。すみません」

 百合子は教室の前面にある自分の席に戻った。

 村井のおかげで、白けた空気と色々な事がバレてしまいそうになるのが阻止された。

 村井に感謝する久比人であった。

    ※※※

 その日の昼休み。

 愛美と久比人は、人気の少ない中庭で昼食をとっていた。

「ねえ、今日まで考えもしなかったんだけど、あんたの正体明かしてもいいんじゃないの? 愛の神ってこと……むぐっ!?」

 久比人は、愛美の口を手で塞いだ。

「大きな声でそんなこというんじゃねぇ、誰かに聞かれたらどうする」

 愛美は、久比人の手を振り払った。

「いきなり何するのよ!?」

「オレが神だって、下界の人間に知られたら色々厄介なことになるんだよ。神の力でなんでも何とかなる、とか思われたら、下界は滅びの一途を辿ることになるんだぞ」

 今の人間は基本的に怠惰である。そこに全能の存在たる神の存在を知られることになれば、人間は働く事を止め、堕落し、終には死に絶えてしまうことだろう。

「基本天界は人間の目に見えない世界だ。オレは例外だが、天界の居住者の神々も人間には見えない。オレたち神は、人間を良い方向へ導くために存在している。だからその存在を知られるような過干渉はできねぇんだ」

「あんたの言うことは大体理解したわ。でも、尚更あんたは正体を明かすべきなんじゃないかしら? あんたの神格? とやらでたくさんの恋人を作ることが慈悲の心に繋がるんじゃないかしら?」

「慈悲の心だと? ゼウスのおっさんがよく言ってる言葉だ。何故それを知っている?」

「恋人を作ることが嫌、あんたと結ばれるのも嫌で第三の選択肢として、私の慈悲の心を見せてみろって言われたのよ」

「偶然にしちゃ出来すぎてるな。オレも慈悲の心を見せろって言われてるんだ。一体どういうつもりで……?」

「私は人に親切にする事だと思っているわ。だから柔道部に入って、霧二郎さんに喜んでもらおうかと考えたのよ」

 愛美の柔道部入部によって、喜んでもらえたのは霧二郎のみならず、可奈たち女子部員たちにも喜んでもらえた。これによって慈悲の心としていた。

「キリーのために、か。確かに慈悲の心にはなっているか。だったらもう付き合ってくれればオレとしては万々歳なんだが……」

「だから、霧二郎さんにそういう気持ちはないって言ってるでしょう?」

「でもキリーには神格が効かないんだ。これはもうとっくにお前に惚れてるとしか思えないんだよな」

 ちなみに、と久比人は続ける。

「ためしにマナにもキリーと同じ神格をかけたことがあるんだが、これも効き目がなかった。まあ、お前の場合は一度死んでいるから人間として扱えないのかもしれないがな」

「あんた、いつの間に……!」

 二人が話している内に、昼休み終了十分前の予鈴がなった。

「しまった、まだ飯食い終わってねぇぞ」

「十分で食べるしかないわね!」

 二人は大急ぎで弁当をかきこむのだった。

    ※※※

 その日の夕方

「いらっしゃいませ!」

 愛美は元気に挨拶する。

「……いらっしゃいませ……」

 暗い雰囲気で、久比人は床掃除をしていた。

「おはようございます、久比人くん」

 三葉が挨拶した。

「あ、おはようございます、巴さん……」

 やはり、テンション低めに応じる久比人。

「もう、元気ないなぁ久比人くん」

「すんません、ボク笑うのがどうにも苦手で……」

 愛美のため同じバイトを始めたが、ポーカーフェイスの性質のため笑えず、暗く見えてしまう久比人であった。

 しかし業務には、ポーカーフェイスの気質を除いて、至って真面目であり、仕事も七日間出勤して覚えていた。

「あ、巴さん、床掃除終わったら品出しやりますので」

「本当? 久比人くん静かだけど、仕事が早いのは助かるわぁ。じゃあよろしくね」

 今品出しをしているのは愛美であった。愛美の方が品出しに慣れていたが、作業スピードは久比人の方が早かった。

 久比人は、床掃除を十五分で終わらせ、品出しの仕事を愛美と代わろうとした。

「マナ、品出し代わるぜ。巴さんがマナにはレジをやってほしいってよ」

「……あんた、ものすごく仕事が出来たのね。おかげで私のやることはレジ周りしか無くなったわ」

「いやいや、オレはレジできねぇから、二人で一つって感じだろ」

 久比人の神格がなければ、愛美はまともに仕事ができないだろう。そういった意味では久比人の存在は欠くことができなかった。

 更に、仕事の分野も売り場とレジとうまく分かれていたので、久比人の言うように二人で一人ぶんの仕事をしていた。

 愛美がレジを、久比人が品出しをやって、やがてバイト終了の時間がやってきた。

「愛美ちゃん、久比人くん、お疲れ様上がりでいいよ。今日もありがとうね」

「お疲れ様です三葉さん」

「お疲れっす巴さん」

「明日も二人一緒? 仲良いわねぇ。もしかして二人とも付き合ってたりするの?」

 やはりと言うべきか、三葉は訊ねてきた。

「三葉さん、こいつとはそんなんじゃないですよ!」

「そうっすよ、あり得ない事っす」

「二人そろって否定するなんて、ますます怪しいわね……?」

 三葉は微笑んだ。

「三葉さん!」

「ふふ、冗談よ。さあ二人とも、早く帰らなきゃ寮の門限過ぎちゃうわよ?」

「いっけないそうだった! それじゃあお先に失礼します、お疲れ様です! ほら、あんたも挨拶しなさい!」

「お先っす」

 二人は急いで帰路についた。

「なあマナ」

 女性認知の魔法を使い、愛美の部屋に転がり込んだ久比人が声をかけた。

「何よ?」

「バイト、辞めねぇか? 疲れて神格も出せねぇよ」

「辞めたら寮費を払えなくなるでしょ、別に良いのよ? 無理して私の生活に付いてこなくても」

「そうしたら、オレの神格を受けられなくなって、間違いなくバイト中に倒れるぜ」

 愛美には重々承知の事だった。すっかり久比人の神格無しではまともな生活を送れなくなっていた。悔しいが、愛美は完全に久比人に依存していた。

「あんたのおかげで健康に暮らせてる。悔しいけどそれは認めるわ。けれど、これ以上振り回されるのは嫌なのよ。ゼウスさんに病弱にされて、挙げ句の果てにあんたと一緒に暮らす。はっきり言ってもう嫌なのよ!」

 愛美には、一人で過ごす時間がなくなっていた。

 常に久比人と一緒にいて、恋人同士だと行く先々で思われて、恋人なんて絶対に欲しくないというのに、勘違いされるのが愛美には耐え難い事だった。

「とにかく、私はバイトを辞めるつもりはないわ。辞めるならあんた一人で辞めなさい」

「そうしたら神格が……」

「無くったってやりとげて見せるわよ。病気なんて気合いで吹き飛ばして見せるわ!」

 それは無茶な事だった。神の力で病弱にされて、それを気合いで何とかしようとするのは絶対に不可能なことだった。

「……分かったよ、オレの負けだ」

 愛美に病気で二度目の死を迎えられては、その瞬間に久比人の存在も消えてしまう。

「今日みたいに二人で一人の仕事をすれば、働くのもそれほど辛くはないしな」

「久比人……」

「泣き言言って済まなかった。母ちゃんの耳に入ったら恐ろしい目に遭うところだった。むしろ礼を言うぜ」

「ふ、ふん! 分かればいいのよ、分かれば!」

 愛美は、久比人がこれほどまでに素直にしたがったので、変な反応をしてしまった。

「……というか魔法は使えないの? あんたが今使っている魔法は。あんたが女だと周囲に認知させれば行く先々で勘違いされないと思うんだけど」

「その手があったか。……何て言うと思ったか? できないことはないんだが、魔力を使いすぎたら、こうして夜過ごすことができなくなるかもしれないんだ」

 女子寮に男子が出入りしているのがバレたら、停学になることは先述したとおりだ。

 女性認知の魔法は妄りに使うことができないのである。もしも夜中に魔法が解けるようなことがあって、見つかるようなことがあれば、二人仲良く停学で、特待生も剥奪である。

「勘違いされるのはオレも嫌だが、魔法に頼ることはできない。上手くごまかしていくしかないだろうな」

「そう、いい方法だと思ったんだけど……」

 魔法と言えど、そう上手く行かないものだ、と愛美は思った。

「それより、そろそろ眠らないか? バイトで疲れちまったよ、オレは」

 久比人は大あくびをする。時刻は夜の十一時半である。

「そうね、もう寝ましょう。明日も早いしね」

「明日もバイトかー、めんどくせぇな……」

「寮費のためよ、我慢しなさい」

「おー、……お休みマナ……」

「お休みなさい」

 それから約五分後、久比人は寝息をたて始めた。

──相変わらず、寝付きがいいわね……──

 久比人の神格なしではまともに眠れなくなった愛美は、羨ましさを感じる。

 この病弱の質は誰を恨めばいいのか、愛美は分からなくなっていた。

 ゼウスの術なので、ゼウスを恨めばいいのだろうが、久比人の病弱キャラ好きが遠因なので、やはり久比人を恨むべきなのだろうか。

 ゼウスと久比人、どちらも関り合いにならなければ今の愛美はいない。もし出会っていなければ、バイトに精を出し、勉強もして特待生として学園生活を送っていたことだろう。

 しかし、出会っていなければ、柔道部の仲間たちにも出会えなかったであろう。可奈とも友達になっていなかったに違いない。

 結局の所、久比人に殺されていなかったら、人と関わりを持つことはなかったに違いない。

 久比人のおかげで、良い意味でも悪い意味でも、灰色の学園生活に色がついた。これは揺るぎなき事実である。

 ふと愛美は、眠っている久比人の顔を覗いた。美の女神の息子であり、愛の神というだけあって、寝顔も穏やかで儚さを覚える顔をしている。

 もしも一年後、久比人と恋仲になるか、もしくは久比人の魔法で愛美に恋人ができなければ、存在が消えてしまう久比人。

 一年間で恋人ができなければ、ウジ虫に転生する愛美。

 愛美と久比人、二人が結び付く手はずをしたのはゼウスである。つまりは、ゼウスが全ての元凶と言っても違わない。

 下界の伝説では、ゼウスは神々の王であり、雷を扱うことができる最上位の神である。そのような格の高い神でありながら色恋沙汰に目がなく、これ、と目を付けた女は、どんな手を尽くしても我が物にする好色漢だ。これには姉であり妻でもある女神ヘラも困っているとのことだった。

 人一倍、もとい、神一倍色恋沙汰に目がないゼウスに目を付けられた愛美と久比人は、このまま行けば結婚させられるだろう。

──ゼウスさんには悪いけど、思惑通りにはさせないわ。三つ目の選択肢、慈悲の心で、私は私の道を築いてみせるわ!──

 愛美は、決意を新たにし、眠りにつくのだった。


第六話 愛美とヴィーナス


 季節は巡り秋がやって来た。残暑の頃も終わり、夜は少し肌寒く感じる陽気になっていた。

 そのような時季に、愛美は再び病床に臥せっていた。

 夏場にエアコンを使いすぎて寮費に電気代が上乗せされたため、ある日のバイトの日、久比人よりも一時間多く働いた日があり、その時久比人の神格が無い状態であり、ゼウスの病弱の質がその効果を発揮してしまった。

 ふらふらな状態で寮へと帰り、部屋に入った時と同時にばたりと倒れた。先に帰っていた久比人によって介抱され、現在へと至る。

「全く、だから言ったろ、神格なしで働くなって。今回は風邪みたいなモンですんだが、次はこうはいかねぇぞ?」

「ごほっ、ごほっ……! もう分かったわよ。認めたくないけど私はあんた無しには生きていけないようね……」

「愛の告白みたいなこというんじゃねぇ。どこでゼウスのおっさんが聞き耳たててるか分かったもんじゃねぇからな」

 これのどこが告白の言葉になるのか、鈍い愛美には分からなかった。

「ごほっ、ねえ、神格って持ち運びできたりしないの? 完全にあんたに、おんぶにだっこじゃまともに生活も送れやしない」

「できないことは無いぜ? それは、お前がオレを担いで歩くことだ」

「それってつまり、不可能って事……? げほっ、げほっ……」

「まあ、平たくいえばそうだな。神格ってのは神の証みたいなものだからな」

 さて、と久比人は立ち上がり台所へと向かった。

「またオレの魔法を込めた粥を作ってやる。ありがたく思えよ?」

 久比人は、慣れた手つきで米を研ぎ、鍋に水加減も丁度良く入れ、良い火力で煮込んだ。

「ほら、できたぜ。ありがたく食いな」

「ありがとう、いただくわ……」

 夏風邪を引いたあの日と同じ味がした。魔法の力のおかげで、口にする度に元気が出てくる気がする。

「ごちそうさま」

「おう、食ったならさっさと寝な。今夜はお前に多めに神格をやれるようにオレも早く寝るからよ……」

 久比人は、布団の上に腕枕で横たわった。そのまま数分後、久比人は寝息をたて始めた。

──こんな時でも寝付きがいいこと──

 愛美は、久比人に肌掛けをかけてやった。

 神格の効果か、魔法の効果か、久比人の作ったお粥を食べたとたん、愛美の体調が良くなった。

──こいつと一緒に、か……──

 久比人とたかだか小一時間離れただけで風邪を引いた。もしも一日離れることになったら、その時は肺結核にでもなるのだろうか。

 愛美は、考えただけでも恐ろしくなる。一度死んでいるとはいえ、少しずつ体力を蝕まれていく感じには恐怖を抱かざるをえない。

 久比人と一緒にいさえすれば、そんな恐怖に苛まれる必要はない。必要はないのだが、依存するのはやはり嫌だった。

──慈悲の心……──

 久比人が引き起こした不祥事の関係から抜ける方法の一つである。

 これが何なのか未だにはっきりしない。人に優しくすればいいのかと思っていた。だから、霧二郎の勧誘に応じて、柔道部へと入部した。

 バイトでは、人一倍接客を丁寧に行っている。

 だがこれらが慈悲の心に当たるのか、愛美自身にも分からないことだった。

 かわいそうな人に手をさしのべることが、慈悲の心に当たるのではないか、と今になって思い付いた。

──かわいそうな人、まさか久比人の事じゃないわよね……?──

 不祥事を起こした当人が、消滅の運命にあることがかわいそうなことなのだろうか。

 それはない、と考え直す愛美。自分を殺し、おまけに最悪な転生先にした久比人がかわいそうなはずがない。

──今考えることじゃないわね。寝よ寝よ……──

 愛美は眠るのだった。

    ※※※

 授業終わりのチャイムが鳴った。

「マナ、ちょっくらトイレ行ってくるわ」

「トイレくらい黙って行きなさいよ……」

 久比人がトイレに立った。その時だった。

「あ、あれ……?」

 愛美の視界がぐるぐる回った。激しい目眩に襲われ、起きていることができなかった。

 愛美は机に突っ伏した。それでも目眩は治まらない。

「戻ったぞ」

 久比人がトイレから帰ってきた。

「って、どうしたマナ? 眠いのか?」

 久比人が戻ったとたんに、愛美の目眩は嘘のように治った。

「あんたがトイレ行ってる間にひどい目眩がしたのよ」

「まさか、ちょっくらトイレ行っただけで神格が効かなくなったのか?」

「そう、みたいね……」

「ぶっ倒れたりしたら大変だ。マナもトイレに行く時はオレに断れ、入り口まで付いてくぜ」

 情けない話であったが、倒れる可能性は高かった。

「……恥ずかしいけど、その時はよろしく頼むわ」

 久比人の言葉に甘えるしかない愛美であった。

「それにしても、たかだかトイレで別れただけで神格が効かなくなるなんて、オレの方も神格が弱くなり始めたのかもな……」

 久比人は、自分の力が弱まっている可能性を感じた。

 長く下界にいることで、久比人は、消滅の危機に瀕していた。このまま神の証たる神格が無くなれば、久比人は存在が無くなってしまう。

「ねえ、もし神格とやらが無くなってしまったら、私はどうなるのかしら?」

 愛美は、久比人の神格によって生きている。その神格が消えてしまえばどうなるか予想はついていたが、訊ねた。

「二度目の死を迎えるだろうな。そしてウジ虫転生の後、マナも存在が消えてしまうだろうぜ」

 事態は深刻であった。一年の猶予があるはずだが、それとは問答無用で愛美は死んでしまう運命にあった。

「その神格が無くならないようにすればいい。天界の空気を浴びる事で、神格を充填すれば済むことなんだが、下界の時間で一日かかるんだ」

 神格を取り戻す方法、それは一日ですむことなのだが、同時に重い病弱の発作を発生させる可能性が高かった。

「神格さえありゃあ何とかなるのに」

「行ってきてもいいわよ?」

 久比人は驚いた。

「正気か? 一日かかるんだぞ? オレがトイレに立っただけで目眩を起こす体たらくで、一日もオレと離れてたら重い病気になるかもしれないんだぞ?」

「あんたが神格を得て、私のもとへ帰ってくれば、全てチャラでしょ? それなら天界でもなんでも行って神格をチャージしてきてくれた方がいいわ」

 愛美の言っている事は確かだが、思った以上の発作が起きれば、命の危にも発展しうる。

「大丈夫よ、あんたと離れている間ずっと寝て過ごすから。そうすれば、病気にも罹らないでしょ」

「甘いな、ゼウスのおっさんがかけた病弱の質は、一種の呪いだ。どんな薬の効果も打消しちまうんだ。当然、寝てるだけでどうにかなるもんじゃねえ」

 そうだな、と久比人は何かを考え始めた。

「屋上へ行くぞ、ここじゃ人の目がありすぎる」

「そんな、もう少しで授業始まるのに」

「いいから行くぞ、ウジ虫になりたくなかったらな」

 久比人は、愛美の腕を掴んで屋上まで引き連れた。

 そして二人は、人の気配が一切無い屋上へやって来た。

「よし、ここなら、少し本気を出しても大丈夫そうだな」

「次の授業はサボりになっちゃうじゃない。特待生外されちゃうでしょう?」

「命に関わる事なんだから仕方ないだろう? それに一回くらいサボってもテストの点さえよけりゃ、どうってことない」

「それはそうかもしれないけど……一体何をしようってのよ?」

「オレに残された神格をまとめて、お前の体の中に宿す」

「そんな事ができるの!? それで、どうするの?」

「オレの生き血を飲むんだ。大丈夫だ、オレも神のはしくれ、人間の血のような鉄臭さはない」

 思わぬ方法に愛美は身震いする。

 久比人は、どこに隠し持っていたのか、カッターナイフを取り出し、キリキリ音を立てて刃をだし、手首を切ろうとした。

「ちち、ちょっと待った!」

 愛美は、とっさに久比人の自傷行動を止めた。

「何だよ、時間無いんだぞ?」

 愛美は、血を見るのが苦手であった。自分の血も他人の血も両方見ることが得意ではなく、見ると全身の毛穴が逆立ち、目眩を起こし、最悪気絶してしまう。

「私、血だけはだめなの」

「そんなこと言って、オレが起こした事故の時バッチリ見ただろ? 自分自身の死体をよ」

「あの時はもうブルーシートにくるまれた後だったし、何より、何が起こったのか訳分からなかったし……とにかく血だけは無理なの!」

 久比人は困った。

「仕方ねぇな、それじゃ、オレ向こうで血を抜くからお前はここで待ってろ」

「嫌よ! 目の前でやられないだけで、結局は血を見せられるんでしょ!? 絶対に嫌よ!」

「見るだけじゃない、飲むんだ」

「もっと嫌よ!」

「じゃあどうするってんだよ。神格が無きゃ、お前は病気に罹るんだぞ?」

「どっちも嫌!」

 最早だだっ子のように否定する愛美に、久比人は困り果ててしまった。

 その時だった。

「こーのー……!」

 空から声がした。

「げっ、この声は……」

 久比人にとって恐ろしい声であった。

「バカ息子!」

 空から久比人に殴りかかるのは、彼の母、ヴィーナスであった。

「ぐっはあああぁぁぁ……」

 久比人は地に伏すのだった。

「ごめんなさい、うちのバカ息子がまた無理強いをして……!」

「ヴィーナスさん、お久しぶりですね……」

 愛美は苦笑して、とりあえず挨拶をした。

「うぐぐ……母ちゃん、見てたのか……?」

「あんたの行動は天界から全部お見通しよ!」

 ヴィーナスは、クピドが起こした不祥事の関係者として神としての仕事を停止させられていた。

 そのためにクピドの行動を常日頃から監視していた。

「クピド! 神の血を人の子に飲ませようなんてどういうつもり!?」

「どういうつもり何も、マナはオレが側にいなきゃ、ゼウスのおっさんが付けた病弱の質で二度目の死を迎えるんだぜ? それを防ぐのは神格が近くにあることなんだぜ。最善の選択だろ?」

 クピドは、立ち上がった。

「神格を人の子が過剰に体内に宿したら、どういう事になるか分かるでしょ!?」

 神格とは、神を神たらしめている能力の一種である。呪術の類いを無力化する浄化の力があった。

 神格の真の使い方は、魔の力に対応する事であり神のみが持つことを許されている。それ以外の、例えば神になろうという邪な目的で神格を得ようとすれば、神格の持つ効果によって浄化されて消えてなくなる。

 クピドの、血をのませようという行為は、愛美の存在を浄化させ、完全なる無に帰させる危険を孕んだものだった。

「え? マジで? マナは善意の心の持ち主だと思ったから、浄化される事はないと思ってたんだけど……」

「そんな認識でいて血を飲ませようとしていたの!? 甘い、甘すぎるわ! 急いで飛んできて正解だったわ!」

 どうやら、クピドのしようとしていた事は、愛美の存在を危ぶめるものだったらしい。

「でも母ちゃんが来たところで何も変わらないじゃないか? どのみち神格を受けないとマナは苦しむ羽目になるんだから」

「神格がありさえすれば、愛美さんは苦しまずに済むでしょ? 私があなたに変身すれば、あなたが神格を貯めてる間も他の人の子に怪しまれずに済むわ」

「そうか、その手があったか。母ちゃんは変身の名人だったもんな」

「そのために下界に下りてきたのよ」

「ちょっとすみません、本当にそんなことができるんですか?」

 愛美は、半信半疑であった。

「論より証拠だ。母ちゃん、変身してみせろよ」

「言われるまでもないわ……」

 そう言うとヴィーナスは、両手を合わせ念じた。すると光がヴィーナスの全身を包み、光の中で姿形が変化していった。

 やがて光が収まると、そこにいたのはクピドその者であった。

「久比人が二人!?」

 愛美はつい、大声を上げてしまった。

 そこにいたのは、二人のクピドであった。艶めく金髪に着崩した制服姿で、ポーカーフェイスも一緒である。

「どうかしら、この姿の時は久比人って言うんだったかしら?」

 声音も全く一緒だった。見た目だけでなく、体も完全に男のものだ。

「相変わらずすごい能力だな、母ちゃん。これなら絶対バレようがないぜ」

「そうでしょう? 伊達に美の女神はやってないわ。さっ、あなたはすぐに天界に帰ってちゃっちゃと神格を貯めてきなさい」

 クピドは、久比人の姿から元に戻り、布の衣姿に背中に羽毛のある翼を携えた姿になった。

「クピド、悔しいけど綺麗……」

 クピドの美しい姿に、愛美は思わずため息をついてしまった。久比人の時にも美しさの片鱗はあったが、クピドという本当の姿になったことで、その美しさは溢れ出んばかりとなっていた。

「おいおい、惚れたりしないでくれよ? オレの伴侶は春子だけなんだからな」

 エロゲーのヒロインの名を出され、ほんの少し揺れ動いた愛美の心は萎えた。見た目は美しくなっても中身は全く変わってはいないんだな、と愛美は思った。

「じゃあ行ってくるぜ。母ちゃん、マナを頼んだぞ」

 クピドは、翼を羽ばたかせ、空を飛んで彼方に消えていった。

「ヴィーナスさん……」

「今の私は久比人。いつも通りの話し方でいいのですよ? 私も息子になりきりますから」

「じ、じゃあそのように……久比人!」

「何だよマナ」

 ヴィーナスの演技は完璧であった。ポーカーフェイスで、いまいち考えていることが分からないところがまさに久比人であった。

 だが、目がキラキラしていた。変身が得意なヴィーナスが唯一変えられない所が輝く瞳だった。

「授業が終わったら教室に帰るわよ。特待生下ろされたら退学なんだから……」

「分かってんよ。オレも下ろされちゃ困るからな」

 言葉の返し方は、完全に久比人であった。

「……あの、ヴィーナスさん?」

「どうしました、愛美さん?」

 声音がヴィーナスに戻った。声音だけを変えるという芸当ができるようだった。

「授業が終わるまで少しお話ししませんか?」

「いいですよ、色々訊きたい事もあるでしょうし」

「クピドは、天界ではどんな奴だったんですか? 十八禁ゲームにはまる不純な奴だとは思ってますけど」

「ひどい言われようですね、まあ、仕方がないとは思いますが。昔、下界の時間で五百年前は、とても仕事熱心な子でしたわよ」

 五百年前、日本、ヨーロッパ両方戦乱の世であった。

 当時から文明の利器が好きだったクピドは、戦争に明け暮れる下界を何とかしたいと思い、自らの神格、軍神や人を恋に落とそうと、愛の弓矢を片手に世界を回っていた。

 世界を回る中、興味深い小国を見つけた。それが極東の島国、日本であった。

 ポルトガル、スペイン、中国、琉球王国としか貿易をせず、文明がそれほど進んでいなかったが、浮世絵という芸術がクピドの興味を引いた。

 クピドは、人間に変装して日本を歩いた。見た目が見た目だけに、異人と勘違いされ、時に賊に襲いかかられることがあっても、決して殺さず、神の力で無力化させてきた。

 そんな中、クピドはある出会いを果たした。戦乱の世にありながら一人、強く生きる少女と出合ったのだった。

 少女は、浮世絵師であり、筆を手に血に染まりきった各国に残された美しさを絵にしていた。

 クピドは、少女の描く絵に美を感じ、すっかり魅了されていた。

「信じられないかもしれないけど、あの子、五百年前は笑う子だったんですよ」

 ヴィーナスは言う。

 クピドは、絵師の少女と恋におちた。しかし、それは悲恋であった。

 共に各地を旅する内に、少女は病気に罹った。それは不治の病だった。

 旅することもできなくなった少女は、クピドに背負われ生家へと帰り、病床に臥せった。

 やがて病状は悪化し、少女は、最期にクピドに会えてよかった、と一言告げ、静かに息を引き取った。

 クピドは、神でありながら人間の体を治すことができなかった事を嘆いた。しかし、少女の死は運命付けられたものであり、たとえクピドに治癒する能力があったとしても、どうしようもないことであった。

 深い悲しみからクピドは、感情を失った。それが原因で、あのポーカーフェイスになったのだった。

「クピドに、そんなことが……」

 クピドの、病弱キャラが好きな理由はそこから来ているのかと、愛美は思った。

 二次元にしか恋愛対象にならないのは、人間のように死別することがないためであろう。

「ですが、このままでいるのも決していいことだとは思いません。あの子の心の傷を癒すことのできる存在が必要だと思うのです。愛美さん、それができるのは、貴女しかいないと思うのです」

「……お話を聞いて、クピドがかわいそうな神様だと言うことは分かりました。ですが、それでも恋人になろうとは思いません。私は家族というものに人生をめちゃくちゃにされてきました。恋人になって、いずれ結婚して家族を持つということが考えられないんです」

 クピドの過去を聞いても、愛美の意志は変わらなかった。

 ふと、授業終了のチャイムがなった。

「おっと、授業が終わりましたね」

 愛美は言った。

「んん……それじゃあ教室に帰るぞ」

 ヴィーナスは咳払いをして、久比人の声音に変えた。

 それから教室に戻ろうとするヴィーナスであったが、愛美は立ち尽くしていた。

「おーい、何をもたもたしてるんだ? 次の授業もサボるつもりか?」

「すみませ、……ごめん、今行くわ」

 ヴィーナスは、完全に久比人になっていた。そのために愛美は、つい呆気に取られてしまっていた。

 二人は、教室へと戻っていくのだった。

    ※※※

 授業は終わった。今日の放課後の愛美の予定は、柔道部での活動だった。もちろん、ヴィーナスも一緒である。

 ヴィーナスの神格のおかげで、愛美の体調は良好であった。これならば、稽古中に倒れるようなことはないだろう。

 それより愛美が気がかりだったのが、ヴィーナスが稽古に付いてこられるかどうかであった。

 久比人が言うには、ヴィーナスは格闘技に精通しているとの事だったが、柔道までもできるのかは分からなかった。

 一応、久比人は初心者ということで、あまり激しい稽古はしない事になっていたが、ヴィーナスも久比人レベルには動けるかは分かりかねた。

 しかし、愛美の心配は杞憂に終わることになった。

「ラッシャー!」

 ものすごい気合いと共に、ヴィーナスは、二年生の男子部員を払い腰で投げた。

「おい、今日の藍木強くないか?」

「全くだ、主将とも良い勝負しそうだ……」

「さあ、次の相手!」

「久比人、ちょっと」

 愛美はヴィーナスを呼びつけ、道場の隅に連れ込んだ。

(ちょっとヴィーナスさん)

(どうしました、愛美さん?)

(ヴィーナスさん柔道もできたんですか?)

(まあ、嗜む程度には)

 嗜む程度にしては見事な払い腰であった。おそらく全国大会レベルには達していると思われた。

(とにかくもう少し手加減を、あまり派手に立ち回られたら久比人じゃないことがバレてしまいます!)

(これでも手加減していたつもりなんですけど、仕方ないですね……)

 手加減してあのレベルである。最早オリンピック選手にもなれるレベルであった。

「山村さん藍木と何を話していたのです?」

 おり悪く、霧二郎に声をかけられた。

「いえ、なんでもありませんよ。ただ、見事な払い腰だったので褒めてたんですよ」

 愛美はとっさに言葉を繕った。

「確かに今日の藍木は動きが違うな。ちょっと乱取りに付き合ってもらおうか」

 霧二郎直々の指名を受けてしまった。

(ヴィーナスさん!)

(大丈夫ですよ、適当にやって負けてきますから)

 一応空気を読んで、負けてくるというヴィーナスであったが、霧二郎がそれを見破らないか愛美は不安であった。

「またひそひそと、自分と乱取りがそんなにしたくないか?」

「いえ、全力でぶつからせてもらうっす」

 ヴィーナスは久比人の演技をしつつ、霧二郎からの乱取りの誘いを受けた。

「うむ、それでこそ機校の選手だ。思いっきり来い!」

 かくして、機織学院高校最強の選手、霧二郎と、異種格闘家の女神ヴィーナスの乱取りが行われることになった。

 先に引き手を取ったのは霧二郎であった。もちろんこれは、ヴィーナスが手加減しての事だった。

 これに対してヴィーナスは、霧二郎の右襟を取った。ヴィーナスが左組みで取ることによって喧嘩四つの体勢になった。

 お互い、一本背負いをするのに好機である。機先を制したのはヴィーナスだった。

 ヴィーナスは、霧二郎の腕を挟み、引き寄せて一本背負いを仕掛けた。

 体を浮かされる霧二郎であったが、ヴィーナスの背中を押さえ、何とか投げから逃れた。

 霧二郎は反撃に出る。

 霧二郎は、ヴィーナスの奥襟を取り、体勢を低くさせた。そのまま引き込み、ヴィーナスの足に自らの足を掛け、回って足を上げていく。内股の巻き込み技だ。

 しかし、この技は、ヴィーナスに透かされてしまった。

──そんな、バカな……!?──

 そのまま内股透かしで投げられようというところで、ヴィーナスの演技が入った。

 内股透かしの絶好のチャンスをわざと逃し、霧二郎にもう一度内股をさせようとした。

 ヴィーナスの誘いにのり、霧二郎は再び内股をした。今度は透かされること無く、ヴィーナスは空中で弧を描いた。

 バン、と、は打ちの音を響かせてヴィーナスは畳の上に受け身を取った。試合であればこれで霧二郎の一本勝ちである。一本勝ちであるが霧二郎にとって、とても勝てたと思えない勝負だった。

「あいたー。やっぱり先輩強いっすね」

 ヴィーナスは、久比人の真似をしながら立ち上がった。

「藍木、君、手加減しただろう?」

 霧二郎は疑った。

「何を言うんすか、完全に決まってたじゃないっすか」

「喧嘩四つの一本背負いに内股透かし。内股透かしが決まっていれば君の勝ちだった」

「またまたー。そんなこと無いですってただのまぐれっすよ」

「藍木……!?」

 霧二郎は、ヴィーナスの襟を取った。

「ちょっと霧二郎さん、ストップストップ!」

「山村さん……」

 ヒートアップした霧二郎の腕を押さえ、愛美は止めに入った。

 愛美が止めたため霧二郎は、ヴィーナスを掴んでいた手を離した。

 そして愛美はヴィーナスの襟首を掴んで引き寄せる。

(手加減してって言ったじゃないですか、ヴィーナスさん!)

(簡単に負けては怪しまれるかと思いまして……)

(簡単に負けていいんですよ。クピドなんて素人同然なんですから!)

(あら、受け身は華麗に取るから、てっきり技もできるものだとばかり……)

「二人ともまたひそひそ話か。今度は何だ、自分への悪口か?」

 霧二郎の機嫌は悪いままだった。

「ちちち、違いますよ! 霧二郎さんの技をまともに受けてよく無事だったなぁって褒めてたんですよ。久比人はまだ柔道始めたばかりの素人ですし!」

「…………」

 暫し無言の時が過ぎた。愛美は霧二郎の視線に苦笑いで応じる事しかできなかった。

「ふうー……」

 やがて霧二郎はため息をついた。

「……自分としたことが、少し熱くなりすぎたようだ。そうですね、自分が負けるはずがないですね、藍木に。藍木もすまなかったな」

 霧二郎は機嫌を直した。

「自分は指導に戻ろう、山村さんは藍木の相手をお願いしよう。それでは...…」

 霧二郎は、上級組の指導、ならびに自身の稽古に戻っていった。

「はああー……」

 愛美は、大きく息をついて項垂れる。

「どうしました、愛美さん? そんなにため息をついて」

「半年分は気疲れしてしまいましたよ。喧嘩にならなくてよかったーって」

「あの少年は、私に喧嘩を売っていたのですか?」

「まさか分からなかったんですか? 私が止めなかったら間違いなく殴られていましたよ」

「殴りかかられたら、その時の返し技はいくらでもあるので、それはそれで対処できましたよ?」

「……ヴィーナスさん、ヴィーナスさんって美の女神ですよね? これじゃ武の女神ですよ……」

「美の女神だからこそ、格闘技は女神の嗜みであるべきだと思っていますよ。言い寄ってくる男神たちを撃退するためにね」

 確かに、ヴィーナスほどの美しさを持つ女神にすり寄る男神が沢山いることだろう。

 だが、だからと言って、格闘技を嗜みにするのはどうか、と愛美は思うのだった。

    ※※※

 部活が終わり、愛美とヴィーナスは寮へと帰ってきた。

 女神であるヴィーナスは、クピドと違って、特種なことをせずとも女子寮に入ることができた。ただ一つの嘘を言って。

 ヴィーナスと愛美とでついた嘘、それは彼女らが親子であると言う事だった。

 首都圏から、ヴィーナスが愛美に会いに来たという設定で寮母のおばちゃんを欺いたのであった。

 ヴィーナスは、普段のドレス姿ではなく、ジーンズにキャミソールという出で立ちでいる。彼女が女神だと誰が見抜けるか、というほどラフな格好だ。

 ヴィーナスは、様々な格闘技をやっているわりには細腕で、丸みを帯びた体つきである。出るところは出て、締まるところは締まるというスタイルの良さが目立っていた。

「へぇ、ここが愛美さんのお部屋なのね。あの子とここで二人暮らししているのですね」

「言っておきますが、クピドが勝手に転がり込んでいるだけで、変なことはしていませんから!」

「分かっているわ。大方、二次元にしか興味が持てないとでも言っているのでしょう?」

 ヴィーナスにはお見通しのようだった。

「いつもうちのバカ息子が世話になっているお礼代わりに、今日の晩御飯は私が作ってあげますね」

 しかし、愛美の部屋の冷蔵庫は、ほとんど空である。あらあら、とヴィーナスは少し困った様子を見せる。

「ご飯は寮のおばちゃんが作ってくれるから、料理は基本的にしないんです……」

 空の冷蔵庫を見られ、愛美は少し恥ずかしくなった。

「なら、こうしましょう、何が出るかしら、えい!」

 ヴィーナスは魔法を使った。空間に輪っかが出たかと思ったら、中から材料が出現した。

「わあ!?」

 愛美は驚いた。

 出てきた材料は、ひき肉に玉ねぎ、キャベツにソースであった。

「これでハンバーグが作れるわね、愛美さん、ちょっと待っててくださいね」

 ヴィーナスは、料理を始めた。

 慣れた手付きで玉ねぎを刻み、ひき肉と混ぜ合わせて捏ねて、付け合わせのキャベツも千切りにした。ヴィーナスは、すぐに焼きの行程まで進めた。

 愛美のために料理するヴィーナスを見て、愛美は思った。

──お母さん、って感じだな……──

 愛美はヴィーナスに、母性を感じた。

 愛美は、母親にご飯を作ってもらった記憶がなかった。

 米の炊き方だけ教えてもらい、後はスーパーの惣菜と、インスタントの味噌汁を食べて生きてきた。

「あの、ヴィーナスさんは、クピドにいつもご飯を作ってあげていたんですか?」

「そうね、神様もお腹は空きますからね。毎日作ってあげてましたよ。あの子も昔からハンバーグが好きだったっけ……」

 じゅーっと音を立てて、時折ひっくり返しながら、ヴィーナスはハンバーグを焼く。

「あの子、今は下界のゲームと言うものに現を抜かしていますけど、昔は仕事熱心な子だったんですよ? 天界の時間で一日に百六組の夫婦を作ったりして……」

「百六組もですか!?」

 愛美には想像もできなかった。

「でも、薔薇戦争で実績を得て、永代愛の神になって、だんだん自分の仕事に興味を無くしていって……」

 クピドは、人の幸せを見る内に、自分自身の幸せとはなにか、分からなくなっていった。その内にエロゲーの存在を知り、愛の神として、愛とはなにか知るために始めたのであった。

 カチッ、とヴィーナスはガスレンジの火を消した。

「ごめんなさいね、ご飯の前にしんみりした話をしちゃって」

「い、いえ! 話を振ったのは私の方ですから!」

 紙皿の上に盛られたハンバーグは、香ばしい匂いでとても美味しそうだった。

「さあ、食べましょう。いただきます」

「い、いただきます!」

 二人は食前の挨拶をすると、ヴィーナス作のハンバーグに箸を付けた。

 一口食べただけで、愛美は今まで食べてきたハンバーグと違うとすぐに分かった。

 料亭の料理には及ばないが、とても香しくなにより母親の手によって作られた温もりを感じた。

「これは……!?」

「どうかしら、お口に合えば良いのだけれど」

「とっても美味しいです! 寮のおばちゃんのも美味しいですが、これは何て言うか、お母さんの味です!」

 愛美は最大限の絶賛をした。

「あらうれしい、そんなに喜んでくれるなんて思わなかったわ」

「……あの、ヴィーナスさん?」

「何かしら、愛美さん?」

「ヴィーナスさんって、お母さん、って感じですよね?」

「お母さん? 確かにクピドという子供がいますけど……」

「あ、いえ、そういう訳じゃないんです! 何て言うか……そう、みんなのお母さんって感じです!」

 ヴィーナスは、ぷっ、と吹き出した。

「ご、ごめんなさい! 私上手く言えなくて!?」

「大丈夫ですよ、怒ったりしてませんから。ただ私ってそんなに母親気質だなんて、思ったことなかったから」

 ヴィーナスは、箸を置いた。

「愛美さん、クピドと無理に結婚することはありませんよ。クピドがゼウス様に課せられた試練を果たせず消える事になっても、そういう運命だと、私は受け入れられますから……」

 クピドが愛美に恋人を作れなかった時、母親であるヴィーナスも存在が消える事になっていた。

「そんな! ヴィーナスさんも消えてしまうんですか!? 一体どうして……」

「息子の起こした不祥事の責任を取るのは当たり前の事です。そう驚くことじゃありませんよ」

 愛美は納得がいかなかった。クピドはともかく、不祥事とは何の関係もないヴィーナスまでも消えることを、納得することなどできるはずがなかった。

「私にできる事は何もありません。全ては、息子があなたに恋人を作れるか否かにかかっています。何とか私にできることといったら、こうやって神格をあげることくらいです。気休め程度の事ですけどね……」

「ヴィーナスさん……」

 愛美は、何とかヴィーナスの事を助けたいと本気で思った。しかし、恋人を作る事はどうしてもできなかった。

 どうしたものかと考える愛美が思い付いたことが一つあった。

──ここで慈悲の心を使えれば……!──

 愛美が救われる三つ目の選択肢、『慈悲の心』である。

 ゼウスは言っていた。愛美の『慈悲の心』を見せれば全てを不問とすると。その『慈悲の心』を見せるべきなのは、まさに今ではないかと愛美は考えた。

 ヴィーナスが助かるためには、クピドが恋人を作ればいいのである。その相手は、何も愛美である必要はない。その辺の男女を恋仲にすればよい。

 愛美がウジ虫転生脱却の条件とは当てはまらないが、色恋沙汰に目が無いゼウスならば、本物のキューピット以上に恋人を作っていけば、それを『慈悲の心』とし、もしかするとみんな助かる事になるかもしれない。

「ヴィーナスさんは、私が助けます!」

「へ、愛美さん?」

「恋人を作るんですよ。たくさんのね!」

 愛美の『慈悲の心』が試されるのだった。

    ※※※

 次の日の朝、クピドは天界から下界に帰ってきた。

 愛美は一晩、ヴィーナスの神格を得ていた事により、病気にならずにすんだ。

 クピドが帰ってくるのと入れ違いにヴィーナスは天界へと帰っていった。

「クピド、あんたは神格で恋人を作れるんだったわよね?」

「何だ、人が帰ってくるなり藪から棒に」

 クピドは眉根を寄せる。

「できるのよね?」

「ああ、愛の弓矢ほど強力な効果はないが、人と人を惚れさせることはできるぜ。でもいきなりどうしたんだ?」

「『慈悲の心』よ。ヴィーナスさんを助けるのよ」

 クピドの顔に疑問符がたくさん浮かんだ。

「何で母ちゃんを助けるんだ? 確かにオレが消えれば母ちゃんも消えちまうけど、第一どうやって母ちゃんを助けるつもりだ? オレとマナが結婚すれば、不祥事はチャラになるが、結婚は嫌なんだろ?」

「結婚だけはいや!」

「だろ? じゃなきゃお前に恋人を作るしか方法しかないぞ?」

「それも絶対いや」

「そうだろう? このまま行けばオレたち親子は消え、お前はウジ虫転生ルートだ。他に方法なんてないんだぜ?」

「方法なら後一つ残っているわ。それが『慈悲の心』よ」

「『慈悲の心』? ゼウスのおっさんが言ってたあれか」

「そう、ゼウスさんが、私が助かるために示した道の三つ目の選択肢よ!」

「色恋沙汰に目が無いおっさんが結婚や恋愛以外の道を示すとは思えねぇが……」

 『慈悲の心』というものそれ事態がよく分からないものだった。しかし、愛美には思い付いた事があった。

「困ってる人に手をさしのべる事が『慈悲の心』なら、まさに消える運命にあるヴィーナスさんを、その運命から外れさせてあげること。そのために色恋の好きなゼウスさんの興味を引くほど恋人を作れば、喜んで私たちをそれぞれの運命から解き放ってくれるんじゃないかと思ったのよ」

 うーむ、とクピドは腕組みをして考えた。

「そう上手く行くかねぇ? ゼウスのおっさんはあくまでオレたちを結婚させる事が狙いだ。適当に恋人を作った所で上手く行くか……」

 クピドは乗り気ではなかった。

「きっと上手く行くわ! ゼウスさんに言われたもの、主の『慈悲の心』を見せてみよ、ってね」

「まあ、お前の言いたいことは分かったよ。でもどうやって恋人を作るんだ? オレが五百年ぶりに下界に来た時、恋してる人間を探すのは簡単なことじゃなかったぞ? 愛の弓矢がありゃあ誰でも恋に落とすことができるんだが……」

 愛の弓矢は、クピドが不祥事を起こした時に、ゼウスに没収されている。

「とりあえずクラスの中に片思い中の子がいないか探してみましょう。きっと一人二人はいるはずよ!」

「ふーむ、そう簡単に行くとは思えないが……」

「何であんたはそんなにやる気がないのよ? きっと大丈夫、見つかるわよ、カップル候補の一組二組!」

「仮に見つかってもゼウスのおっさんに響くかどうかは分からねぇぞ? オレは、おっさんとは長い付き合いだからこそ分かるんだ」

「とにかく学校に行くわよ! 見つけて見せるわカップル候補をね! 後でここに集合ね!」

 愛美は着替えに自室へ戻っていった。

「うーむ、無駄なことだと思うんだがなぁ……」

 クピドも制服に着替えに自室へ向かった。

    ※※※

 朝も早く、生徒の数もまばらな教室。

「さーてやるわよ! とりあえず百合子を当たってみましょ」

 しかしまだ、百合子は登校していなかった。

「やるにしてもまだ早えぇだろ。クラスメイトほとんど来てねぇだろが。昼休みあたりまで待ってみればどうだ?」

 久比人は提案する。

「いーや、始めるなら早い方がいいわ。百合子ならもうすぐ来るはず」

「おはよー」

 噂をすれば影とやらで、百合子が登校してきた。

「百合子ー! 待ってたわ!」

「えっ? 一体どうしたの愛美。朝からあんたから話しかけてくるなんて珍しいじゃない?」

「そんなことはどうでもいいわ。百合子、今彼氏募集中だったりしない?」

「突然どうしたの? まあ、彼氏はできた方が嬉しいけど……」

「募集中って事でいいわね? 気になる人はいたりしない?」

「ち、ちょっと愛美、一体どうしたのよ? いつもは色恋に興味がないくせに今日に限ってぐいぐいくるじゃない?」

「百合子に彼氏ができれば、喜ぶ人がいるのよ!」

「何それ? 一体誰が喜ぶって言うのよ?」

「うーん、それは内緒! 言っても分かってもらえないだろうし」

 愛美は、ヴィーナスの事は伏せた。

 ふと愛美は、久比人にちょんちょん、と肩をつつかれた。

(何よ?)

(なぁ、やっぱり無茶だって、こんなこと)

(無茶かどうかはやってみなきゃ分かんないでしょ?)

(やってみて無茶だろ。百合子のやつ、疑うばかりで恋心なんて微塵も持ってやしないぜ?)

(そこであんたの神格を使うんでしょうが)

(それがなぁ……)

 愛の神である久比人は、確かに人を惚れさせることができる。愛の弓矢を射てば、老婆と青年という、とてつもなく年の離れた者同士さえも恋に落とすことができる。

 しかし、神格しか使えない今、外見、中身が釣り合った者同士しか恋させる事ができない。

 つまり、クラスメイトという狭い範囲では、百合子の恋人候補を見つけるのは不可能に近いのであった。

(あんた、何でそれを早く言わないのよ!? 百合子なんて外見……はまあまあだけど中身は怠惰なダメダメよ! 幼馴染みの私が言うんだから間違いないわ)

「二人とも長々とひそひそ何話してるのよ。なんかバカにされてるような気がするんだけど……」

「そうよ、あんたがバカって話してたのよ!」

 愛美は、はばからず言いはなった。

「ちょっ、誰がバカよ!?」

 愛美は、また久比人につつかれた。またひそひそ話が始まる。

(なによ!?)

(もう一つ言い忘れてたことが。無茶な神格を使って恋人を作ったら、お前の体がどうなるか分からねぇぞ。最悪不治の病に罹るかもしれねぇぞ?)

 久比人のこの言葉により、愛美の計画は音を立てて崩れ去った。

「あー! もうっ!」

 愛美はもう、叫ぶしかできなかった。

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