クピドとの最悪なる出会い
第一話 不測の事態
強い日が照らす、夏の昼。蝉も鳴き出し、梅雨明けを感じさせる立夏の頃。
長閑な町は、パトカーや救急車、更には消防車までもが、けたたましいサイレンを鳴らし、大騒ぎとなっていた。
普段は人通りが少ない通りが、様々な人で溢れかえっている。
見通しのよい交差点に、前面がひしゃげた大型トラックと、タイヤやカゴ等の残がいが辺りに散らばった、全壊した自転車と思われる鉄屑、そして警察によって掛けられたブルーシートが全てを物語っていた。
「まだ若いのに、気の毒にねぇ……」
「はねられたのは、女子高生だってさ……」
「……オレ事故の瞬間見ちゃってさ。ホントにボーンて飛ばされて、地面にぐちゃっ、てさ……。やべぇ……マジで一生トラウマもんだぜ……」
交通事故現場に集まった野次馬たちから、様々などよめきが広がっていた。
事故現場から少し離れた所に、少年が頭を抱えていた。
「……ウソだろ? こんなんあり得ねえだろ……」
少年は、かなり浮世離れした容姿をしていた。
絹の肩掛けの衣を身に纏い、強い日差しにさらされていながらも艶めく金髪をしており、左手には洋風の弓を持っていた。
これだけでも常人とは思えない姿だが、あるものの存在が、少年をよりこの世の者以外の存在たらしめていた。
背中に鳥のような羽毛を持った翼が生えているのだ。取って付けたような物ではない。現にそれは、少年の気持ちを表すかのように、垂れ下がっていた。
「まさか。まさかだろ……まさかこの時代の車があんなに速いとか。五百年で、どんだけ進化してんだよ人間……」
口ぶりからして、この少年が事故を引き起こしたらしかった。しかし、これほど浮いた姿形をしているが、彼の周りには警察はおろか、野次馬の誰一人たりともいない。
それもそのはずで、彼の事は、誰一人たりとも存在を感じることはできなかった。ただ一人の例外を除いて。
「……あたし、死んだの……?」
事故によって死した女子高生は、見るも無惨な姿となってブルーシートにくるまれる自分の姿を見て呟く。
死んだこと自体には、すぐに得心がいった。自転車で横断歩道を渡ろうとペダルを漕ぎ出した瞬間、胸に謎の衝撃が走った。更に次の瞬間、車がクラクションを激しく鳴らしながら突っ込んできた。
痛みは感じなかった。感じるよりも先に死が訪れたからだった。
そして今、こうして自身の亡骸を見ている。死んで幽体離脱したのだと、自分でも意外なほどすんなりと理解できた。
それよりも異常に感じたのは、明らかに人外の少年がいることだった。
見た目としては、よく言われる天使といった感じであるが、イメージされるような頭の輪っかがなく、手に弓を携えている。そしてなによりも、やらかした、といった具合に額に手を当て、ずっとぶつぶつ独りごちている様子が異常だった。
「これってさー、やっぱオレのせい? でもなー……まさかこれでクビとか? いや、まさかな。でもなぁ、うーん……」
ーーこ、コイツ、一体なんなの……!?ーー
死した少女、山村愛美は、この少年の存在に混乱して、口に出せなかった。
※※※
買い物を終え、会計を済ませた客が、出入り口の自動ドアへと向かう。同時に店内に、ピリロリ、という耳に馴染んだ音が響き渡る。
「ありがとうございます!」
レジを担当したと思われる店員の声も、それに続いて聞こえた。
「ありがとうございまーす、またご利用くださーい!」
愛美は、一度作業の手を止め、その声に続けて発した。
「ふう、さて……」
愛美は、額の汗を手の甲で拭い、作業に戻ろうとする。
「愛美ちゃん」
レジをしていた女性店員がカウンターから出て、愛美へ歩み寄って声をかける。
「もう上がりでいいよ。休憩中のチーフもそろそろ戻ってくるし、後はやっておくからね」
「えっ!? もうそんな時間ですか!?」
愛美は驚き、店内の時計を見る。
時刻は、夜の八時になっていた。
愛美の下宿する寮の門限は、夜の九時までであった。これを過ぎるようなことがあれば、ただちに学校の生徒指導課へと連絡が行ってしまう。
「大変! ごめんなさい、三葉さん。品出し半端にしちゃって……」
「いいのいいの。愛美ちゃん入ったばっかりだから分からない事ばかりでしょ? 焦らないで、ゆっくりでいいよ」
三葉は微笑む。
「三葉さん……」
三葉の優しい笑顔を見て、愛美はありがたい気持ち半分、申し訳ない気持ち半分となった。
「ほら、早く帰らなきゃ。夜も遅いし、女の子一人で危ないよ?」
「大丈夫ですよ、三葉さん! 私これでも、中学生の時、柔道で県大会二位になったことがありますから!」
愛美は、華奢な見た目に反して、柔道初段の実力者であった。
「へえ、そうだったの!? 柔道ってすごく大きな人がやるイメージだったんだけど……」
三葉は驚きを隠せなかった。
「こう見えても、けっこう力に自信はあるんですよ? まあ、とはいっても、私の場合はスピードで戦ってましたけどね」
「でもすごいね、県で二位なんて。そんなに上手なら、高校の部活でもやりたいと思わない?」
愛美は少し考える。
「うーん……やりたいとは思いますけど、部活やってたらバイトができないですから、しょうがないですよ」
「そうなの。せっかく上手なのに、何だかもったいないね」
「あはは……あぁ、でも力ならその辺の男より自信ありますから、何か重い物を運ぶときには声かけてください! お力になりますよ!」
三葉は微笑んだ。
「ありがとう。頼もしいわね。じゃあ今度お願いしようかな?」
「はい、遠慮なく言ってください! あっ! いけない、急がなきゃ夕飯無くなっちゃう! それじゃ、三葉さん、お疲れ様です!」
「はーい、お疲れ様。気を付けてね」
愛美は急ぎ、帰り支度を済ませて帰路についた。
山村愛美。彼女は今年の春入学したばかりの高校生であった。
入学から僅か、二ヶ月ほどしか経っていない新入生でありながら、こうしてアルバイトで生計を立てているのには、それはそれは深い理由があった。
愛美の家は、母子家庭であった。しかしそれは、ごく最近に終わりを告げた。
母親が死んだわけではない。愛美を残し、愛人の男といずこかへと蒸発したのである。
父親については、生まれてから一度も顔を見たことがない。聞くところによると、かつては大企業に勤める管理職であったそうだが、経営に失敗して失業、それを苦に自殺したとのことだった。
多大な借金を残して死んでいった父親であったが、親族によって借金は完済され、その後母親が働く事で、愛美は女手一つで育てられた。
しかし、母親の選んだ仕事は水商売であり、次第に母親は愛美に干渉しなくなり始め、邪魔者扱いすら受けるようになっていった。
幼い頃は、何故自分には父親がいないのか、何故母親はあまり構ってくれないのか。子供らしく周囲との違いを悲しんでいたものだったが、中学生になった辺りから家族というものに疑問を抱くようになった。
母親が蒸発してからしばらく、親戚の世話になることになったが、あの母親の素行には、親族さえも見放すような有り様であった。
その上愛美は、あの母親の娘であるという理由だけで、同じく軽蔑される羽目になり、親戚の元に居場所などなかった。
頼れる親類がいないに等しく、一時は高校に入らずに中学校卒業と同時に就職しようかとも考えたが、当時の担任教師に、中卒では働き口がほとんどないと言われ、高校進学を強く薦められた。
しかし、進学するだけの費用のあてもなかった。そんな中担任から薦められた手段として、今通っている高校の特待生となり、学費を免除してもらうことだった。
幸いにも、愛美の内申点は高く、柔道で県大会二位の功績もあったため、特待生として出願できるだけの実績は十分にあった。
そして、猛勉強の末、愛美は特待生として高校に合格することができた。同時に学生寮へと入ることになったが、これまでは学校が負担してはくれなかった。
親類からは他所の子扱いされ、一切の資金援助は受けられなかった。そのため、寮の生活費を稼ぐために、こうしてアルバイトをしながら学校に通っていた。
六限目の授業終了のチャイムが鳴った。教室にいる生徒達は、めいめいに帰り支度を済ませ、これからどうしようか、などと話し合いながら解散していく。
「ふあーあ……」
愛美は人目もはばからず、大きな欠伸をする。
「どうしたの愛美? すごい眠そうじゃん」
女生徒が一人、愛美の席に近付いてきた。
「……ああ、百合子、いたの?」
「ちょっ、それひどくない!?」
「冗談よ……ふあ……」
百合子、安部百合子は、小学校から一緒の同級生であった。
きれいに切り下ろした艶めく黒髪で、化粧は一切せず、制服も指定のブレザーをしっかりと着る、という大人しい容姿の愛美と違い、百合子は今時のギャルといった風貌であった。
鮮やかな茶色に染めた髪を巻き、そこまでけばけばしくはないがよく分かる化粧をしている。制服はブラウスの裾を出し、ベージュのカーディガンを羽織り、スカートはもはや意味を成さないのではないかというほどに短い。
私立校であるため、それほど校則がきつくないが、公立校や進学校であれば即刻、生徒指導の教師に呼び出されてもおかしくない格好である。
「ねむ……昨日もバイト終わってから課題やってたからね。なんやかんやで寝たの一時半よ? もー眠くて眠くて……」
愛美は繰り返す欠伸で涙目になっていた。
「愛美ってば苦労人だよねー。課題なんてちょっとくらいサボればいいのに」
「そんなことできたらいいんだけどね。特待生外されたら、私はもう生きていけないわ……」
愛美にとって、課題をやることは絶対であり、日頃の予習も外せないことだった。
「……百合子。あんたも少しは勉強しなさいよ。この前の中間テストで泣き付いてきたじゃない? その上であの順位でしょ」
最早彼女とは腐れ縁ではあったが、この世でただ一人の信頼できる友人であったため、愛美は注意する。
「あははは……で、でもまあ、ビリじゃないし、まだ高校生になったばっかだし、多少は……ね?」
百合子は引きつった笑いを見せる。
「何が多少は、よ……下から五番目なんてなかなか取れないわよ。ほとんどビリでしょ……」
かく言う愛美はというと、全学年五位の点数を取っていた。特待生の条件として、成績は常に学年十位以内にいる必要がある。順当な結果であるといえよう。
「それに、そんな点数取ったから、補習課題出されてたでしょ? 提出は明後日だったと思うけど、終わってるの?」
百合子は、ぎくっ、という反応を見せた。
「あ、あれれ? 提出日そんな近くだったっけ……?」
「終わってないようね……でも、ある程度はやってるんでしょ?」
百合子は、苦笑いを浮かべた。
「や、やだなー。愛美ったら、あたしを驚かそうとしてるでしょ? 今月の二十二日、後十二日はあるはずだよ」
百合子はどうやら、思い違いをしているようだった。
「ほ、ほら! 黒板にも書いてあるし!」
百合子は慌てながら黒板に指差した。
黒板には縦書きで補習課題の提出日が書かれていた。『補習課題……二十二日マデ』と書かれている。
「んー?」
愛美はよく目を凝らして黒板の字を見る。
この文字列は二つに分かれている。『補習課題』で一行で『二十二日マデ』が二行目である。しかし、妙なことがあった。『補習課題』と『二十二日マデ』が少しずれて書かれている。『二十二日マデ』の上に二文字か三文字入りそうな空白がある。
「ちょっ、愛美……?」
愛美は立ち上がり、黒板へと歩み寄った。そしてよく見ると、やはり、薄れてはいるが二文字あった。
「……『補習課題村井二十二日マデ』じゃない?」
村井とは、愛美らの担任教師である。
古風な感じの年配の教師であり、担当科目は国語、主に古典を教えている先生である。そして彼にはちょっとした癖があった。
手書きのものは基本的に、昭和初期までのように、漢字か片仮名しか使わないというものだった。
そのために、黒板への提出期限の日にちも漢字、片仮名表記で行ったのだと愛美は想像できた。
「そ、そんなー!?」
百合子は黒板の前で絶叫した。教室に残っていた生徒たちの視線が彼女に集まる。
「うるさいわねぇ……みんな見てるよ?」
愛美の注意など聞けるはずもなかった。
「だってあり得ないでしょ!? 普通こんなふうに書く!? だいたいなんで先生の名前だけ消えかかってるの!?」
「それは多分これのせいね。ほら、この先生のメッセージの上のプリント。先生の名前の所にうまく擦れるようになってる。きっとこれのせいで薄れたみたいね。ていうか、『まで』が片仮名の時点でおかしいと思わなかったの?」
「……だって、だって……うわーん! 愛美、たすけてー!」
「嫌。補習なんだから、自分でやりなさい」
これに懲りて勉強するようにさせようと、愛美はすっぱりと断る。
「そ、そこをどうか! 愛美さまー、いや、愛美姫ー!」
「誰が姫よ……何を言っても助けないわよ。……ふあーあ、ダメだ、眠い……バイトの時間まで部屋で寝よ……じゃあね百合子。補習課題、ちゃんとやんなさいよ」
「ま、まってー!」
これ以上百合子を甘やかすまい、と愛美は、百合子がいくら騒ごうが無視して教室を出ようとした。
「失礼。山村さん、山村愛美さんはいますか?」
教室の出入口に、一人の男子生徒が現れ、愛美の名を呼んだ。
すらっと背が高く、肩幅の広い少年である。短く刈り込まれた髪型をしており、体型からしてスポーツをしていると思われた。
そして、ネクタイの色がクラスの男子生徒と違っており、他学年の色であった。愛美らは一年生であるため、必然的に少年は、彼女たちの上級生となる。
──うん? この人……──
愛美にはかすかに見覚えがあった。最後に見た時と比べると、背格好に大きな違いがあり、断定はできなかった。
「うわ、二年生? しかもでけー……」
「めっちゃ強そー……あんなのに呼び出しとか……」
「山村、入学早々なんかやらかしたのか?」
男子生徒の間では、愛美が上級生に喧嘩を売られているように見られていた。
「あの人、おっきくてちょっと怖いけど、よく見たらカッコよくない?」
「ホント、なんか顔がキリッとしてて、優しそうだよね」
「まさか山村さんに、クラスのみんなの前で告白……!?」
対して、女子生徒たちは、突如現れた上級生は愛美に好意を持ち、教室に他にも生徒がいるにも関わらず、男らしく堂々と告白でもするのではないかとどよめいた。
男子と女子で意見が食い違う中、当事者たる愛美は動きを見せる。
「はい? 山村は私ですけど……あの、先輩は?」
「これは失礼。自分は、桜井霧二郎。機織学院高校二年A組、柔道部の時期主将を務める者です」
霧二郎は、下級生を相手にしながらも、非常に物腰の柔らかい男である。いかにも体育会系で、武道家らしい人柄であった。
「桜井霧二郎さんって、あの霧二郎さんですか……!?」
愛美は驚かずにはいられなかった。
愛美は彼の事を知っていたが、最後に彼の事を見た時とかなり違っていた。
霧二郎を最後に見たのは、愛美が中学二年生の時である。当時の彼は、山日中学校柔道部のエースであり、県で優勝を飾り、全国大会まで出場するほどの名選手であった。
中学生時代は、五輪刈りの丸坊主であったが、今は少し見た目に気を使っているのか、少し長めに揃えたスポーツ刈りをしている。それが彼を霧二郎本人と断定できなかった要因である。
「霧二郎さんて、元山中の部長でしたよね? しかも、全階級最強とまで言われた……」
霧二郎の中学生最後の試合は、市内の男子無差別級であった。彼は当時、五十五キロ級の選手として活躍していたが、軽量級にも関わらず、半分以上も体重が上の相手が入り交じる無差別級において、その類い稀なるスピードとパワーで見事優勝した。
中学生柔道の全ての階級を前にして勝ち上がったために、市内では、全階級最強の桜井、とまで言われるようになったのだった。
「覚えていてくれましたか。いや、それを言うなら山村さんこそ。関南中学校開校以来、初の女子柔道県準優勝の快挙を成し遂げたじゃないですか」
これを聞いていた生徒たちに、驚きの声が響く。
「マジで? 山村ってそんなに強かったのか……!?」
「全然見えねぇ……」
「頭いい上に、腕っぷしも強いとかもうチートだろ……!?」
主に男子生徒の驚きの声が大きかった。
生徒たちのどよめきが止むのを待って、霧二郎は再び口を開く。
「単刀直入に申し上げます。ぜひ、機織学院柔道部にて、その力を振るってほしい。山村さんの実力ならば、すぐに主力として活躍できるでしょう」
誘ってくれるのも、過去の実績を評価してくれるのも、愛美には嬉しいことだった。普通の高校生として過ごせるならば、部活動で汗を流す青春もよかったかもしれない。
しかし、今の愛美には、その普通というものが存在していなかった。特待生を維持し続けるため、勉強を続ける必要があった。そして、人並みの生活を送るための費用も必要だった。
これら以外の事にうつつを抜かすなど、愛美には許されていなかった。
「褒めてもらえるのは嬉しいです。ですが、私の県大会二位は、ただのまぐれですよ。偶然あの時が調子がよかっただけです。私は、霧二郎さんみたいにすごい選手なんかじゃないんです」
嬉しい思いは伝えつつも、愛美はやんわりと断った。
「まぐれで制することができるほど、県大会は甘くない。それも、女子中学生の大会なら尚更だ。君自身分かるはず」
霧二郎は、愛美の言葉を謙遜とは捉えなかった。彼自身、全国大会まで進出した経験があるため、県大会を勝ち進むことの厳しさが身に染みているがために、つい口調が強くなってしまう。
「おっと、これはまた失礼。つい熱くなりすぎました。でも、これだけは分かっていただきたい。山村さんの才能を埋もれさせてしまうのは、あまりにも惜しいのです」
これほどまでに熱く考えてくれているため、愛美は更に断りづらくなった。しかし、霧二郎の期待に応える事は、やはり難しい。
「あ、あの……!」
愛美がどうするべきか悩んでいると、百合子が割って入ってきた。
「愛美、嫌がってるじゃないですか。強要は良くないと思いますよ!?」
別に嫌だとは思っていなかったが、百合子の言葉は助け舟になった。
「君は……? すまないが、今、山村さんと話しているんだ。用があるなら後にしてくれないか?」
百合子は引き下がらない。
「私は愛美の親友です! 親友が嫌がっているのを黙って見てなんていられません!」
百合子は、巨躯な上級生を相手にしながらも、怯むことなく言い放った。
「親友、とは、随分大きく出るものだな。では、親友ならば分かるだろう。彼女の才能がどれほどすごいか」
「じ、柔道の事は分からないですけど……でも、これだけは分かります。愛美は今、そんな余裕はないって!」
霧二郎は眉を寄せる。
「余裕がない? それはどういうことかな?」
「えと……実は、愛美の家は愛美とお母さんしかいなくてですね、つい最近お母さんが病気になったんです! それで、愛美はその、お母さんの手伝いをしなきゃならないんですよ!」
百合子はとっさに話を作った。
──なんてベタな……──
隣で聞いていて、愛美は心底下手な作り話だと思ってしまった。
愛美は、霧二郎という男の人となりを知っている。何事に対しても疑り深く、深く考えてから答えを出すという性分である。
この話が、愛美本人から出たのならまだしも、霧二郎にとっては初対面の百合子の話とあっては、疑われて信じてはもらえないだろうと思ってしまった。
「何、山村さんのお母様が……?」
愛美の思った通り、霧二郎は疑ったような顔つきになる。しかし、続いた言葉は、全く予想とは反していた。
「それは大変だ。どうしてそれを早く言ってくれなかったんだ。いや、自分がその暇を与えなかったせいか……」
──あれ!?──
愛美は不意に、声に出してしまいそうになったが、どうにか喉の奥に押し止めた。
「失礼、そうした理由ならば仕方ない。今日のところは身を引こう。落ち着いた頃にまた伺うとしよう。親御さんを大切に……」
霧二郎は、家族を第一に考える心優しい少年であった。故に、これ以上追求することなく、大人しく去っていった。
「なんだ、山村とあの上級生の勝負はお預けか?」
「なんかいやにすんなり帰ってったよな? まさか戦わずしてヤバイと感じたとか……?」
「こえー……絶対怒らせないようにしとこ……」
男子生徒たちは、愛美に畏怖の感情を抱いていた。
「あの先輩、どうして帰っちゃったんだろう?」
「やっぱり人前じゃ恥ずかしくなったのかな?」
「でも羨ましいなぁ、あの先輩格好いいし。そんな人に好かれるなんて……」
対して女子生徒たちは、羨望の眼差しを向けていた。
「あー、みんな、あの人とはみんなが思っているような人じゃないから!」
愛美は、様々な考えで視線を向けるクラスメートたちに一言告げた。
「さて、バイトバイト……」
「あーん、助けてよー愛美大明神!」
クラスメートの痛いほどの視線を掻い潜り、泣きついてくる百合子を無視し、愛美は教室を後にした。
※※※
それは、こごえる雪の降りしきる日だった。
「ゴホッ、ゴホッ!」
風邪を引き、布団に籠る小学生の愛美が咳き込んだ。
六畳一間の古いアパートに一人、愛美は病気に臥せっていた。古いアパートゆえにすきま風が強く、どれほど布団に籠っても寒気がひどかった。
時間はそろそろ、夜の九時になろうというところだった。それでも母親が帰ってくる様子がない。
──お母さん、早く帰ってきて...…!──
病気の愛美には、母親の一刻も早い帰りを願うしかなかった。
やがて、入り口のドアが開けられる音がした。ようやく母親が帰ってきたのだった。
「ゴホッ、お帰り、お母さん!」
「ん」
愛美の母は、コンビニに売っているおにぎりを愛美に投げて渡した。
「お母さん、何これ?」
「夕飯よ、風邪なんて寝てれば治るでしょ」
それだけ言うと、母親は再び部屋を出ようとする。
「待ってよお母さん、どこに行くの……!」
「どこでもいいでしょ。あんたから風邪貰ったら働けないからね」
「そんな、待ってよ! 一人にしないで……ゴホッ!」
愛美は布団を這い出て、母親の足に絡み付いた。
「近寄らないで、風邪が移るって言ってるでしょ!?」
母親は、愛美に平手打ちをし、愛美を引き剥がした。
「うわーん、ゴホッ、ゴホッ……! 痛いよー!」
愛美は泣きわめいた。
「うるさいっ! あんたなんかそのまま風邪で死んじゃえばいいのよ!」
母親は一言残し、ドアを開け放ち、乱暴に閉めた。
「……ひっく、お母さん……」
愛美は閉められたドアの前でむせび泣くのだった。
愛美が中学生に上がる時の事だった。
制服を買うためのお金を稼ぐため、年齢を偽り、アルバイトをしていた。
実際には小学生の身分であったが、高校生と偽っていた。
必死の思いでお金を稼いで、何とか制服を買えるだけのお金が貯まった。しかし、そのお金を母親に奪われる事があった。
「お母さん、お願い、そのお金を持っていかないで!」
「うるさいわね。あんたまだ小六でしょう。こんな大金持ってて良い分けないでしょ? これはあたしが責任持って預かっといてあげるわ」
愛美が半ば強引に持っていかれた額は、五万円であった。小学生の身としては確かに大金であったが、絶対になければならないお金だった。
愛美の稼いだお金は、母親に全てギャンブルにつぎ込まれてしまった。しかも全額すってしまい、愛美には一円たりとも残らなかった。
制服を買えなくなってしまった愛美であったが、近所のおばさんの娘のお下りをもらうことでなんとか事なきを得た。
中学校に入学した後も、愛美と母親の関係は変わらなかった。それどころか悪くなる一方で口もろくに利かないようになっていった。
そしてついに、その時はやって来た。
愛美が中学校から帰ると、テーブルの上に書きなぐられた置き手紙があった。
『あんたなんか死んじゃえ』
手紙にはそう書かれていた。
愛美はもう、母親に対して涙を流す事さえしなかった。
女手一つで育ててもらった恩も露と消えていた。
──家族なんているもんか──
愛美は、一人で生きていくことを決意したのだった。
※※※
「ん、んんう……」
愛美は眠りから覚めた。
「朝か……嫌な夢を見たわ……」
愛美は、見た夢を特に鮮明に覚えていることがあった。
『あんたなんか死んじゃえ』
中学生の時に、母親に手紙で告げられたことである。
──そうだ、あの時……──
愛美は、母親に捨てられ、同時に親族からいらない子扱いされたことを思い出した。
「……嫌な思い出ね、忘れてしまいたいわ……」
愛美には、母親の顔を僅かに思い出すことさえ虫酸が走る事だった。
「おっと、いけない時間は、と……」
愛美はスマートフォンの時計を見る。時刻は朝の八時半であった。
「いっけない! アラームかけ忘れてた! 遅刻遅刻!」
その日は日曜日であり、朝からバイトが入っていた。出勤時間は九時である。
朝食は抜きにし、頭からお湯を被って寝癖を直し、数少ない私服に着替えて、愛美は寮を出た。
愛美は自転車に乗り込むと、カチカチと変速を最大にして漕ぎ出した。
遅刻寸前とあって、愛美は大急ぎで自転車を運転していた。
バイト先のコンビニの見える交差点で、信号につかまってしまった。
イライラしながら信号が変わるのを待った。そして変わったのと同時に愛美はまた走り出した。
その瞬間であった。
「痛っ!」
愛美は胸に衝撃を受けた。それと同時の事だった。
謎の衝撃を受け、横断歩道の上で立ち止まっていた愛美に、左折する大型トラックが接近していた。
ビビーというクラクションが鳴らされたが、愛美は動くことができずにいた。
愛美は、トラックにはねられ、アスファルトに叩きつけられた。頭から叩きつけられたために、脳挫傷で即死した。辺りには血の海が広がる。
交通事故で辺りが騒然とするのだった。
※※※
人の世からは行くことができない、天界という場所。
中世ヨーロッパのような世界に神々が住んでおり、神々はそれぞれ自らの神格に応じて仕事をしていた。
天界の町外れに荘厳な宮殿があった。
部屋がいくつもあり、風呂付きの部屋など、どの部屋も神が住まうにふさわしい造りのものだった。ある一部屋を除いて。
宮殿の奥にある部屋には、愛の神クピドが住まっていたのだが、そこは荘厳な宮殿とはあるまじき部屋であった。
そこは、現代日本の家屋の部屋のようになっており、本棚には日本のマンガやライトノベルがぎっしりと詰められており、キャビネットには美少女もののフィギュアが並べられていた。
壁や天井にはアニメキャラのポスターが貼られており、いわゆるオタクの部屋であった。
そんな薄暗い部屋の主は、パソコンに向かっていた。
この、天界とは程遠い部屋の住民、クピドがしていたのは、エロゲーであった。
不規則的にマウスをカチカチ鳴らし、エロゲーに浸っている。
『お兄ちゃん、だめだよ、こんなこと……けほっ、こほ……』
『俺は知っていたんだぞ。お前の病気は治らないって』
クピドが攻略しようとしていたのは、特殊な環境下にいた実の妹であった。
『だからせめて、死ぬ前に俺の気持ちを受け取って欲しいんだ』
このゲームの兄妹は、双子であり、早くに両親を亡くしていた。
両親の死後、二人はそれぞれ父方、母方別々に引き取られていった。
親族は、優しく二人を大事に扱ってくれていたが、二人別たれた事が二人の心のわだかまりであった。
父方は九州、母方は東北と住む場所もかなり離れており、そう易々と会いに行けないのがわだかまりであった。
二人が別たれて数年後、親戚の集まりで二人は再会した。僅か十歳位の時の再会であったが、二人はその時、恋慕の情を抱いた。
もう別れたくないと感じた兄妹は、十六歳の時に、それぞれの親戚に二人で生きていくと宣言した。
兄妹の熱意に負けた親類は、親権はそのままに、兄妹の二人暮らしを認めた。
幼少期の別離のせいか、一緒に暮らすようになって異性としての意識を大きく持ってしまった。
そしてついに、二人は禁断の関係となってしまった。
つかの間の幸せはある日、妹の病によって突然の終わりを向かえた。難治の死病に罹り、余命幾ばくもなくなってしまったのである。
『……ありがとう、久比人お兄ちゃん……私、幸せだったよ……』
『……春美……? 春美ー!』
最期の行為を終えて、妹は息を引き取ったのだった。
画面の前で久比人ことクピドは、無表情でマウスから手を離した。
「……なんて感動的なんだ。今までやってきた中で断然泣けるぜ」
クピドは、こうは言うものの感動している様子はなく、涙のなの字も出ていなかった。
クピドは、かなりのポーカーフェイスであり、いくら気持ちの上では感動しても、他人から見れば全く感動しているのが分からない。
「こいつは神ゲーだ。エロゲーとしても泣きゲーとしてもな。もう他ヒロインは攻略対象外だな。こんだけ感動させられちゃあな……」
クピドは無表情のまま、余韻に浸っていた。
「こうしちゃいられない。この感動が覚めない内にサイトにレビューを書かなきゃな」
「……やってる場合かこのバカ息子ッ!」
怒号と共に、女がドアを蹴り破って部屋に入り込んできた。
「うわっ、母ちゃん……」
突然にクピドの部屋に闖入してきたのは、彼の母親であり、美の女神のヴィーナスであった。
ヴィーナスは、美の女神という神格の通り、腰元まである透き通るような金髪をしており、黄色のドレスを身に纏っている、とても美しい女神である。
「母ちゃん、いつも言ってるだろ? ドアは普通に開けてくれって」
「こんなもの、魔法でいくらでも直るわよ! あんたが私を怒らせるからでしょう!? 毎回ドアが壊れるのは!」
美の女神らしく、普段は穏和な笑みを浮かべているヴィーナスであるが、今は角のない悪魔王ルシファーといった表情であった。
「毎日毎日下界の娯楽品に熱中して! あんたの神格は何!? 愛の神でしょう!? だったら夫婦の一組でも作りなさいよッ!」
「落ち着けよ、母ちゃん。エロゲーは一種の修行だ。人間の愛の形を学ぶためのな」
「そんなもの学ばなくても神力さえあれば、男女を惚れさせられるでしょ! というか人の子を惚れさせるのがあんたの存在意義でしょッ!? そんなもの学んでどうするのよ」
「そんなものとは心外だな、母ちゃん。たしかにオレの力を使えばどんなカップルでも結婚させられる。でもそれじゃあダメだと思うんだ」
ヴィーナスは、一気にクピドに迫り、回り込みながらクピドの両手を取り、背中に足を乗せて両手を引っ張った。ドロワーズが丸見えだが構わずヴィーナスは関節技を極め続けた。
「あいてててて! 母ちゃん、ギブギブ!」
とても痛かったが、クピドの表情は変わらない。
「三日間よ」
「三日? いったい何……あででで!」
「下界の時間で三日の猶予を与えるわ。それまでに下界で十組の夫婦を作りなさい。適当に作るのはダメよ。いいわねッ!?」
ぐいっ、とヴィーナスは捻りを加えた。
「いって! 分かった、母ちゃん分かったから放してくれ……!」
「必ずこなすのよ、さもなくばこの部屋そのものを破壊するわッ!」
最早ヴィーナスの顔は、美の女神ではなく、破壊神に等しいものだった。
「分かったから、放してくれ!」
「約束を違えたら、分かっているわね?」
ヴィーナスは、ようやく拘束を解いてあげた。
「おー、痛かったー。……しかたねぇな。行くか……」
クピドは重い腰を上げる。そして魔法を使い、空間に洋弓と十本の矢が込められた矢筒を出現させ、それらを手に取った。
「ちょいと行ってくる」
天界の時間にして四、五年ぶりにクピドは、神としての職務に向かうのだった。
クピドの下り立った下界は、クピドが最後に立って約五百年も経っていた。
木造が当たり前の建物は、鉄筋コンクリート造りのものに様変わりし、地面はアスファルトで舗装されており、その上を自動で走る車が行き交っていた。
──ホントにすっかり変わっちまったんだなー。ここは確かジャパン。いや日本って言ったな──
クピドがエロゲーにハマる切っ掛けとなった極東の島国。
北東部に位置する地方都市、千関市。クピドが最近プレイしたエロゲーの舞台のモチーフになった地である。
聖地巡礼しながらカップルを探す腹積もりであった。
しかし、この千関市、地方都市と呼ぶには大変ひなびた町だった。
駅前には、大手の居酒屋があるものの、目につくのはそれくらいのものである。
駅から少し行ったところには商店街があるのだが、シャッターの目立つシャッター街だ。
クピドは空を飛び、駅から西方面の方向に向かった。
西の町外れは田園地帯になっており、いよいよ地方都市とは呼べそうに無くなってきた。
──ゲームの中と同じだ。どこもかしこも田んぼしかねぇ──
聖地巡礼もそこそこに、クピドは翼を翻し、駅方向へと戻っていった。
──んん? あれは……──
五百年前には存在していなかった、自転車にまたがり、信号待ちをしている少女が、クピドの目に入ってきた。
セミロングの髪を風になびかせており、目が少しつり上がり気味だが小顔の、クピドから見ても小綺麗な容姿をしていると思われた。
──早速一組目が見つかりそうだな。都合良く男もいりゃあいいんだが……──
横断歩道の向こう側に、この町には似つかわしくない大企業の御曹司風の男が、信号が変わるのを待っていた。
クピドは地に下りた。
「一組目、もらったぜ」
クピドは、洋弓に愛の矢をつがえた。そして狙いを付け、クピドは少女の心臓に向けて矢を射った。
矢は狂いなく少女を貫いた。後はあの御曹司風の男を見て、恋に落ちるのを待つ。それだけのはずだった。
少女がクピドの愛の矢を受けたのは、運悪く横断歩道の真ん中であった。唐突に胸に衝撃を受け、何事かと辺りを見回していた所を大型トラックに轢かれて即死した。
「…………は?」
クピドは言葉を失ってしまった。
※※※
話は冒頭に遡る。
パトカーや救急車、消防車の赤いランプが辺りを照らし、野次馬が集まる事故現場には、人間では視認でにない存在が二つあった。
一つはたった今亡くなったばかりの山村愛美の霊体、もう一つは、今もまだ一人ぶつぶつ言っている愛の神クピドであった。
「あの……」
愛美はおずおずとクピドに声をかけてみた。
クピドは一瞬顔を上げ、愛美の目を見る。しかしすぐに目を伏せてしまった。
「……ワンチャン訊いてみてもいいか?」
クピドは伏せていた目を上げてまっすぐに愛美に向いた。
「えっと、どうぞ……」
「あんだけでかくて速い車を走らせられる文明を開いてるんだ。死者を蘇生させるだけの術はあったりしねぇか?」
クピドの質問は突拍子もないものだった。
「えっと、ないと思いますよ? 私の知る限り……」
やはり愛美はおずおずと答える。
「ないかー、そうだよなぁ。いくら文明が進んでいても神までも超えられる力はないよなぁ……」
「あの、私は山村愛美って言います。あなたの名前は何て言うんですか」
「クピドだ」
「クピドって、確かキューピットの別名ですよね?」
「知ってたか。でもオレはキューピットって名前が嫌いでね。クピドって呼んでくれ。ええと……」
「山村愛美です」
「そうそう、ヤマムラマナミ……言い辛ぇな。マナでいいか?」
「呼び方はどうでも……それよりもクピドさん。一体何があったんですか? なんで私が死んでいるんですか? 何をそう落ち込んでいるんですか?」
「オレが原因でマナは死んだ。って言ったら信じてくれるか?」
「クピドさんが原因?」
クピドは、ここに至るまでの話を端的に語った。
自分は愛の神であり、下界の時間で五百年ぶりに下界に下りた事。天界で紆余曲折さまざまな事があり、五百年ぶりに仕事をしようとした事。
愛美を恋に落とそうと弓を射った所で、トラックにはねられ死亡させた事を話した。
「オレは死神じゃないからな。たとえここで死ぬ運命だとしても下界の人間に手をかける事はできない。でもオレはあんたを殺しちまった。だからもう、愛の神はクビかもしれねぇんだ」
「その割には余裕の表情ですけどね」
クピドのポーカーフェイスは、今も続いていた。
──そっか、私死んじゃったのか……──
今になって愛美は自らの死を受け入れ始めていた。
親にも親戚にも捨てられ、天涯孤独の身となっていた愛美は、ここで死ぬのも良いかと思い始めた。
「クピドさん。私誰にも愛されなくて、これから先生きててもいいことはないと思うんです。だからここで死ぬのも悪くないかなって」
「おいおい、殺しといて言うことじゃないと思うけど早まるんじゃねぇ、あんたには転生の道が……」
「クピドーー!」
突然空から、容姿はため息が出るほど美しいが、顔は悪魔王ルシファーになった女が、クピドに向かって飛びかかってきた。
「げっ、母ちゃん……!?」
クピドに母ちゃんと呼ばれた美の女神ヴィーナスが飛来し、クピドの首根っこを掴んだ。
「申し訳ありません! こんのバカ息子がとんでもない事をしてしまって!? ほら、あんたも謝んなさいッ!」
ヴィーナスは土下座をしつつ、クピドの頭を何度も地面に叩き付けた。
「いててて、母ちゃん勘弁……!」
今時珍しい、土下座をしつつ、となりにいる者の頭を地面に擦り付ける謝罪のしかたを見て、愛美はひきつった笑顔を見せた。
突然、辺りが神々しい光に包まれた。
「この光は……!?」
ヴィーナスが驚きを見せた。同時に周囲の雑踏の音が一切しなくなった。
「ひょほほほ……」
初老の男の笑い声が、光の元からした。
光に包まれ現れ出でたのは、かなり高級なローブに身を包んでいる。その外見年齢とは違ったすらりとした体型をし、顔には白髭を蓄えた男が姿を現した。
「ゼウスのおっさん……」
クピドが言うと、ヴィーナスはクピドにげんこつを加えた。
「ゼウスのおっさんはないでしょ!? ああ、申し訳ありません、ユピテル・ゼウス様!」
ヴィーナスは謝罪する。この女神様、さっきから謝ってばかりだな、と愛美はヴィーナスの苦労性ぶりに心の中で思うのだった。
ゼウスと言えば、雷を操ることのできる神々の王様だと言うことを、愛美は知り及んでいた。
「よい。わしはもう何百万年と生きておるのでな。おっさんと呼ばれても仕方ない」
ゼウスは、全く怒らず、それどころか明るく笑う穏和な老人であった。
「しかし、クピド。お主の起こしたことは立派な不祥事ぢゃ。責任は取らなくてはならんのう……」
怒ってはいないが、ゼウスはしっかりとクピドに責任を追及した。
「クピドの神格を剥奪することは構いませんわ。必要とあらば、この私ヴィーナスの神格も下ろすことも厭いませんわ!」
ヴィーナスは、すぐにでも息子共々神を辞める覚悟をしていた。
「親子そろって責任を取ろうとは、素晴らしい親子愛ぢゃな」
「おいおい母ちゃん、いきなり神を辞める事はないだろう? オレもわざとやった訳じゃないしよ」
「神を辞めるしか罪の償いにならないでしょ!」
ヴィーナスは死する覚悟さえしている。
「そうだ、薔薇戦争。あの功績に免じて今回の事は軽くならねぇかな?」
下界の時間で約五百年前、場所はイングランド。そこでは当時王位継承権を奪い合い、ランカスター家とヨーク家の内乱が勃発していた。
ランカスター家が赤い薔薇を、ヨーク家が白い薔薇をそれぞれ家紋としていたことから、後の世に薔薇戦争と呼ばれることになった。
実に三十年も続いた内乱であり、様々な策謀、激戦がなされ、血で血を洗う戦いに、イングランドの地は朱に染まった。
そんな戦乱に終止符を打ったのは、佐々木尋の婚約であった。そう、これはクピドの力によるものだったのである。
クピドは、婚約という幸せな方法で、三十年にも及んだ戦争を終結させた立役者であったのだ。
色恋沙汰の好きなゼウスは、この知らせを受け、素晴らしいと思い、クピドを生涯愛の神としての神格を与えた。
婚約させて終戦に持っていくという、考えの浮かぶ息子を育てた母、ヴィーナスも同じく称えられ、彼女もまた生涯美の女神として生きていくことを許されたのだった。
「ふうむ、確かにそんなことがあったのう……」
ゼウスは、にやけた顔を真面目なものにし、何かを考え始めた。
真面目な顔になったとたん、愛美は、ゼウスを厳粛な神々の王だと実感した。
「うむ、ではこうしよう。そこの人の子、名はなんと申す?」
いきなり神々の王から名前を訊かれ、愛美は慌ててしまった。
「ままま、愛美です! 山村愛美!」
「愛美か。よい名じゃな。ようし、愛美よ、クピドと結婚せい」
「…………え?」
愛美の口から何とも間抜けな声が洩れてしまった。
「なんだって、ゼウスのおっさん?」
「むう? 聞こえなんだか? ではもう一度申すぞ。クピド、山村愛美、そなたらは結婚するのぢゃ!」
ゼウスの顔は、元のにやけ面に戻っていた。
「おいおい、冗談じゃないぜおっさん。オレには好きな子がいるんだ」
大体、とクピドは愛美の腕を取って引き寄せる。
「つり目だし、イモい髪型だしよ。オレからすればまだまだ小便臭いガキンちょだ。そんなのと結婚するくらいなら、愛の神をクビになった方がマシだ」
愛美は、言いたい放題言われ、ピキッときた。
「何ですって!? 誰が小便臭いガキよ!? こっちから願い下げよ!」
「そうよ、バカ息子。こんなかわいい子連れてきて何が気に入らないのよ!?」
「オレの結婚相手は春美だ。それはもう三十日前から決まっているんだ」
「ゲームの中の架空の人間でしょ!? そんなのと結婚する事なんてできないでしょッ!?」
ヴィーナスは、クピドのあばらに右ストレートを放った。
「ごふっ!」
クピドは膝をついた。
「がはっ……! いくら殴ろうが極めようが、オレの想いは揺るがないぜ。いくら骨が折れようとな……ゲホッゴホッ!」
愛美もクピドも、お互い結婚するつもりはないようだった。
「ふむ、結婚が二人のためぢゃと思ったんぢゃが、仕方がない。クピド、愛美に恋人を作ってやるのぢゃ。下界の時間で一年間でな」
ゼウスの提案は、かなり条件が緩んだように思われた。
「なんだ、たったそれだけでいいのか。それなら楽勝だぜ」
「ただーし! 魔法を使ってはいかーん!」
「ああ、オレの弓矢」
ゼウスは、クピドの弓矢を没収した。
「真に愛の神を名乗るのなら、魔法に頼らずその神格のみで愛美に恋人を作ってみせい!」
「ちょっと待ってください!」
愛美が話しに割って入った。
「私、恋人なんていりませんから! 勝手に話しを進めないでください!」
「ぬう? お主は現世に生き返りたいとは思わぬのか? しかも恋人付きぢゃぞ」
「私、ひどい母親を見て育ってきました。病気になっても一度も看病されたこともなかったし、一生懸命働いて稼いだお金を持っていかれたりして、とにかくひどい親でした。結婚して子供を持ってなんて、絶対に嫌なんです!」
愛美は、思いの丈を話した。
「うーむ、そなた、よほど苦労したと見る。死者は転生できるが、神の不祥事によってそなたは死んだ。運命の外れによる死ゆえ、そなたは人に転生する事はできん。クピドが責任を取らぬ限り、そなたの来世は虫けらになるかもしれんぞ」
「む、虫けら!?」
「それが嫌ならば、クピドの力によって恋人を作るしかない。そなたの道は二つに一つぢゃ。恋人を作り、幸福に浸るか、虫けらに転生し、無惨にも殺されるかどちらかぢゃ!」
愛美は考えた。恋人のいる人生とただの虫になる来世。愛美にとってはどちらも嫌な選択肢であった。どちらかがマシと言うことはなく、どちらも同じくらい避けたい道であった。
「……分かりました」
愛美は決断した。
「現世によみがえって一人で生きていく道を探します! もう誰かに振り回されるのは嫌なんです!」
「第三の選択肢か。愛美とクピド両方が救われる道か」
「クピドはどうでもいいですが、私は私の人生を歩む。それだけです!」
「おいおい、オレの事はどうでもいいって、オレはどうすりゃいいんだよ?
「あんたこそ虫けらになればいいじゃない。あんたのせいで、私はこんな目にあっているんだから」
「そんな、オレ神をクビになるのは嫌だぜ」
「あい、分かった!」
ゼウスが大きな声を出した。
「愛美に一年くれてやるのは変わらぬがこうしよう。クピドが愛美に恋人を作るのも変わらぬ。変わるのはここからぢゃ。愛美が自分自身で生きる道を切り開く第三の選択肢ぢゃ。それは並大抵の事ではない。愛美の慈悲の心を試させてもらう。これで全て不問にしようぞ」
ゼウスは宣言する。
「私の慈悲の心って、一体何なんですか?」
「それは自分で考えい。わしはこれ以上の道は示さん。それでは愛美の死の前まで時を戻そうぞ」
「ゼウスさん、ゼウスさん!」
ゼウスは、愛美の制止を聞き入れることなく、魔法で時間を戻すのだった。
「…………はっ!? 私は……?」
愛美は自転車で横断歩道を進むところで、何かから目を覚ましたような感じがした。
バーバー、と左折しようとする大型トラックからクラクションを鳴らされた。
「あ、いけない!」
愛美は笑みを浮かべてトラック運転手に会釈して横断歩道を渡るのだった。
第二話 思いがけぬ再会
あの不思議な経験から、一週間の時がたった。
愛美には、あの経験がおぼろ気にしか残っていなかった。
──ゼウスさん、ヴィーナスさん、そしてクピド──
天界の神々が現れたことは覚えている。しかし、それが実際に経験したことだとは思えなかった。
この一週間、その事が頭を離れなかった。
「……まむら」
先生が自分を呼ぶ声が聞こえた。
「山村」
「はっ、はいっ!」
愛美は立ち上がった。授業中であったが、呼ばれているのに気が付かなかったのだ。
「山村、一体どうしたんだ? 授業中に上の空とは。お前らしくない。夏バテか?」
「あ、いえ、違います! ぼーっとしててすみませんでした!」
「うむ、まあ、お前の成績なら問題ないだろうが、授業には集中するようにな。ひとまず座りなさい」
「はい……」
クラスに小さな笑い声がした。
──一体何だったのかしら? 私の慈悲の心を、とか言われた覚えがあるけど……──
慈悲の心などと言われても、愛美にはさっぱりだった。
下校時間が迫っても愛美は、ぼーっと考え続けていた。
「愛美ー」
愛美は、はっとなった。
「百合子……」
「愛美、あんたここのところずっとそうじゃない? 本当に大丈夫?」
愛美は、百合子にまで心配をかけていた。
「……実は、一週間前の日曜日にバイトに出掛けようとした時、私トラックにはねられたのよ」
「トラックに!? それって大事故じゃない! でもそんなニュースになりそうな事故やってないし、愛美も無事じゃないの」
「そう、何故か無事なのよ。しかも全部無かったことになってるみたいなの。何か不思議な力でね……」
「不思議な力? 愛美、あんたそういうの信じない質じゃない」
「うん、そうね。こんなバカな話無いわよね。忘れることにするわ」
忘れると言った愛美であったか、到底忘れられるようなことではなかった。
忘れよう、忘れようと考える度に何か大切な事も忘れてしまうような、そんな感じがした。
「そうだ愛美、明日転校生が来るって知ってた?」
「転校生? こんな半端な時期に?」
「うん、詳しいことは分からないけど、男の子らしいわよ。イケメンかなぁ……?」
「例えイケメンだったとしても百合子は眼中にないでしょうよ」
「ああ、ひどい! あたしがかわいくないとでも言うの!?」
「そうは言ってないでしょ。まずイケメンとは限らないでしょ? 普通くらいでも狙うつもり?」
愛美はあくまで、転校生に興味がないようだった。
「いーや、あたしのセンサーが反応してるわ。転校生はイケメンだって!」
百合子は断固として転校生がイケメンだと思い込んでいた。
「はいはい、勝手に思ってなさいよ。それじゃ、私バイトだから、じゃーね」
色めく百合子は捨て置き、愛美はバイトに向かっていった。
バイトをしている時も、愛美は昨日の事が頭から離れなかった。
忘れよう忘れようと思えば思うほど、忘却することはできなかった。
仕事に集中しようとしても続かない。どうしても昨日の事が気になってしまう。
──私、どうしちゃったんだろう?──
「愛美ちゃん」
三葉が声をかけてきた。
「はっ! 三葉さん」
「どうしたの愛美ちゃん。今日の愛美ちゃん何だかぼんやりって感じだけど?」
「すみません! 昨日あまり寝てなかったからそのせいかな」
愛美はとっさに口から出任せを言った。天界の神々がやって来て、人生をやり直す事になった夢のような話をしたら、いよいよ変人扱いされてしまうことだろう。
「そうなの? 愛美ちゃんここの所毎日出勤してるじゃない。少し休んだ方がいいんじゃないかしら?」
「いえっ! 別に病気とかじゃないんで、休みなんて週一あれば十分ですよ!」
愛美は立ち上がった。
「……あれ?」
その瞬間、愛美の目の前が闇に包まれた。
「ふう……」
愛美はその場に崩れ落ちた。
「愛美ちゃん、大丈夫!?」
三葉は、愛美に駆け寄りしゃがみこんだ。
「すみ、ません、三葉さん……ちょっと立ちくらみがしちゃって」
「愛美ちゃん、やっぱり休んだ方がいいわ。店長には言っておくから、今日は帰った方がいいわ」
愛美はこれ以上強がるのは逆に迷惑だと思い、ここは帰ることにした。
「すみません、それじゃあお言葉に甘えます。お疲れ様です……」
「はい、お疲れ様。ゆっくり休んでまた元気な姿を見せてね」
愛美はバイトを早退した。まだ少しふらふらするので自転車は押して歩き、寮へと帰った。
部屋へ戻ると、すぐにベッドの上に横になった。
──本当の本当に私、どうしちゃったのかしら?──
頭に浮かぶのはやはり、天界の神々である。
三柱の神が頭をよぎる。顔ははっきり覚えているようで、しっかりとは思い出せない矛盾が愛美を襲っていた。
──転校生、か……──
ふいに愛美の頭によぎったのは、百合子が言っていた転校生の噂であった。
何故今になってそんなものの存在を思い出したかのか、それは愛美自身にも分からなかった。何故か、その者が愛美にとって欠くことのできない人になる。そんな気がした。
──いいや、私は一人で生きていくんだ。恋人なんていらない。絶対に……!──
愛美は決意を新たにすると、眠りについた。
愛美の部屋の窓から、内部を覗く者がいた。
──こりゃあ、とんでもない大仕事になりそうだぜ……めんどくせーな──
煌めく金髪に布の衣、背中に翼を生やした愛の神、クピドが部屋を覗いていた。
ゼウスによって愛の弓矢を奪われたクピドは、神格のみで愛美に恋人を作らねばならなかった。クピドの神格は愛であり、人を惚れさせる力であった。
しかし、愛の弓矢無しでは神格の力を操った経験がなく、その他の方法を使わなくてはなくなってしまった。しかも愛美は一度死んでいるため、病弱となりゼウスの言う通り一年の猶予しかなかった。
──ゼウスのおっさんめ、何とかオレとマナを結婚させるためにオレの好きな病弱キャラにしやがった。絶対オレは結婚しねぇぞ。三次元とはな──
二人に課された時間は長いようで短い一年間であったが、クピドと愛美にとっては圧倒的に短い時間となりそうであった。
※※※
一夜明けて朝がやってきた。
蝉時雨が、暑さをより増幅するような朝である。
暑さにやられそうな日であったが、愛美は回復し、通学路を自転車で走っていた。
昨日倒れたのが嘘のように体が軽く、走って当たる風が心地よい。
「おっはよー!」
愛美は元気に挨拶し、教室に入った。
「おはよー、愛美。いよいよ今日ね……!」
「まだ転校生の事期待してるの? 飽きないわねぇ……」
百合子は、今日ついにやって来る転校生を待ち望んでいた。
転校生について話しをしているのは百合子のみではなかった。クラスの女子生徒皆が色めき立っていた。対して男子生徒たちはまるで興味がない様子だった。当然と言えば当然である。
やがて、始業のチャイムが鳴った。生徒たちはめいめいに自分の席に付いていった。
そして、担任の村井が教室に入ってきた。
「おはよう皆さん」
まっ白髪で古びたジャケットを羽織り、ループタイをした出で立ちである。
「もう知ってる人も多いでしょうが、このクラスに新しい仲間が増えます。早速紹介しましょう藍木君、入ってきなさい」
村井に呼ばれ藍木と呼ばれた生徒は、とことこ歩いて教室に入ってきた。
「きゃあああああ!」
癖のある金髪に碧眼といった、絶世の美少年といった出で立ちにクラスの女子全員が沸いた。愛美を除いて。
しばらく続いた歓声が止んだのをみはかはらって、転校生は黒板に名前を書いた。
「藍木久比人っす。みんな、よろしくお願いするっす」
どこか気の抜けた挨拶であったが、女子生徒たちは再び沸いた。
「あー、あー、あー!? あんたは……!」
愛美は久比人に向けて指をさし、大声を上げた。
布の衣姿ではない。しかし、学校の制服姿でも美に満ち溢れていた。この姿を見間違うはずがなかった。
「クピド!」
「クピド? 山村、藍木とは知り合いだったのか? 彼は英国からの帰国子女だ。日本の事はよく分からんだろうからな。世話役をしてやってくれるか? 丁度隣の席が空いているな。藍木、あの席に座るといい」
「うーす」
久比人は教壇をおりて愛美の隣の席まで行き、村井に言われるがままに席に着いた。
まるで恋愛マンガのような展開であった。
「何であんたがここにいるのよ!?」
「転校してきたから」
「答えになってない!」
「転校してきたからっす」
「言い方の問題じゃない!」
「まあ、ちょっと、耳貸せ……」
愛美は言う通りにする。
「今日の放課後に全て話す。それまで転校生を案内するふりをしてくれ」
クピドは耳打ちした。
「本当になにが起こってるのか教えてくれるんでしょうね?」
愛美も耳打ちする。
「約束する。だからオレの言う通りにしてくれ」
「ねえ、山村さん、藍木君とひそひそと何を話してるのー?」
二人の様子を不審がった女子生徒が声をかけた。
「なになにー、まさか山村さん初対面なのに藍木君の事を口説いてるのー?」
愛美は、女子生徒全員から羨望の眼差しと嫉妬の眼差しを受けた。
「ちがっ! そんなんじゃないわよ!」
愛美は否定した。
「いきなりかよ……山村の奴見境ねぇな……」
対する男子生徒からは、呆れにも似た表情を向けられた。
「ボクは、日本語大好きっすから、こう言ってあげたんっす。『月が綺麗ですね』って」
久比人が言ったのは、明治大正の文豪夏目漱石が言った言葉である。それは、彼が英語を教えた際、学生が"I love you."を『我汝を愛す』という意味を取った。
しかし、本当に愛を告げたい相手に『我汝を愛す』などとは言わないと夏目漱石は言った。
その代わりに、雰囲気を付けるために『月が綺麗ですね』と言うべきだ、という英語の教師である前に、一人の小説家としてロマンチックさを醸し出した言葉である。
「おお、素晴らしい。帰国子女でありながら、夏目漱石の有名な言葉を知っているとは。しかもかの有名な彼の告白の言葉をしっているなんて」
教室全体が生徒の声に揺れた。
「こ、告白……!?」
「藍木の奴も山村が好きってことなのかよ!?」
久比人と村井の言葉と解説により、状況は愛美にとって最悪のものとなってしまった。
「もう二人とも付き合っちゃえよ!」
「そうだそうだ、ピューピュー!」
恋愛沙汰に興味がなさそうだった男子も悪乗りし始めた。
愛美は顔を真っ赤にして、久比人の襟首を掴み引き寄せた。
『なんて事言ってくれるのよ!? いらないことばかり言って!』
『ちょっと雰囲気を変えてやろうと思ったんだ。オレだってこれはちょっと予想外だぜ』
「うん、うおっほん!」
村井がわざとらしく咳払いをした。
「みんな、青春はほどほどにの。出席を取る……」
村井が点呼を取り始めると、色めき立った生徒たちは少しずつ落ち着きだした。
休み時間になった。転校生を迎えたクラスでよくある生徒たちによる質問責めがやはり起こっていた。
「藍木君ってイギリス出身なんだよね。やっぱり英語が得意なの?」
「まあ、そこそこ。訛りの強い英語は聞き取れないっすけど」
「得意なスポーツはあるのか!?」
「スポーツに入るかは分からないっすけど、弓術、弓矢が得意っすね」
「弓矢が得意? じゃあ弓道部に入らないか?」
「ボクが得意なのは洋弓で、和弓は触ったこともないっすよ?」
「それでもいいって。弓道やろうぜ!」
高校に入ってから弓道を始めた弓道部員は、半ば強引に誘った。
「藍木君、日本で何かしたいことはあるの?」
女子生徒が執拗な弓道部への勧誘を遮った。
「あー、したいことっすか。やっぱ彼女は欲しいっすね」
女子生徒の間に黄色い声がわく。
「じゃあ、今朝のホームルームのあれは本当なの? 山村さんに言った『月が綺麗ですね』って告白?」
久比人のポーカーフェイスが少し崩れた。それほどまでにあれは失態だったのである。
「あれは告白を意味する言葉だとまでは知らなくって、赤っ恥をかいたっす。日本語ってやっぱり奥が深い言葉っすね」
久比人は、何とか悪い状況を誤魔化した。
そうこうしている内にチャイムが鳴った。
「あ、授業が始まっちゃう。藍木君またね」
「弓道部入部の件考えといてくれよ!」
生徒たちは自分の席に着いていくのだった。
その後の休み時間も、生徒たちは久比人を囲み、愛美は隣の席なのに一時たりとも関わることができなかった。
四時限目の授業が終わり、昼休みの時間がやってきた。
久比人は男子生徒たちに屋上に連れていかれていった。
世話役を任されていた愛美は、朝から一度も世話などしていなかった。いや、できなかったと言う方が正しい。
今も男子に連れていかれ教室にはいない。
「あーん、みんなが羨ましーい!」
弁当を食べながら、百合子は嘆いた。
百合子の思った通り久比人はイケメンであった。女子生徒全員がそのイケメンぶり魅了され、午前中の休み時間はほとんど女子に囲まれていた。
今、男子生徒に連れていかれたのは、どうすればモテるのか、その秘訣を聞き出すためだった。
「羨ましがってるなら、あんたも入ればいいじゃない」
愛美は、弁当の卵焼きを口にした。
「席が遠いからみんなに遮られて、付け入る間もないのよ! ていうか、藍木君私の前の席になるべきでしょう! 私は安部、彼は藍木! なんであいうえお順じゃないのよ!?」
「そこは私も思うわ。そのせいで世話役なんかやらされてるんだから。まあ、人が囲っているから何もしてないけどね」
「世話役なんかずーるーいー! 愛美が羨ましいー」
「私だって代わって欲しいわよ。でもそうもいかないのよ。あいつには訊きたいことが山ほどあるんだから」
何故クピドが、藍木久比人という名で学校に来ているのか。挙げればキリがないほど訊きたいことがあった。
──夢だと思ってたけど、私は死んだはず。でもこうして生きてるし、何故かクピドがいる。何がどうなっているのかしら? 絶対に聞き出してやるんだから...…!──
愛美は、自分が納得するまで久比人から話を聞くつもりであった。
そして午後の授業も終わり、約束の放課後がやってきた。
部活やバイト、寄り道する生徒たちがいるため久比人を囲む生徒は少なくなっていた。
「じゃあね藍木君。また明日」
「うーす、さよならっす」
久比人を取り囲んでいた生徒全員が帰っていった。
「……待たせたな」
久比人は、隠れて様子を見ていた愛美に声をかけた。
愛美は、百合子と、バイトに行くふりをして別れていた。
「全部答えてもらうわよ? 私はどうなって、あんたが何でそんな姿でここにいるのか」
「分かってる、ここじゃ誰か来るかも知れねぇ、屋上に行くぞ」
二人は揃って屋上へと向かった。
屋上は、真夏にも関わらず、夕焼けとそよ風で涼しい。
「訊かせてもらうわよ。あの日以来何があったのか全てをね」
「ゼウスのおっさんの事は覚えているか?」
「ええ、厳粛なイメージとは違った陽気な神様でしょ? それにあんたのお母さんのヴィーナスさんの事も覚えているわ」
「そこまで知ってるなら話ははええな。なら単刀直入に言うぞ。本来ならお前は死んでる。今のお前はゼウスのおっさんから仮の命をもらって、事故に遭う時間の前まで戻されているんだ」
愛美は、やはりかと思った。
「ゼウスさんが私を……」
「話、進めんぞ。オレはお前に一年以内に恋人を作る。オレの力の源、愛の弓矢無しで神格だけでな。お前には誰かと、もちろん釣り合いの取れた相手と恋に落ちてもらう」
恋に落ちる相手は誰でもいいというわけではなかった。
「釣り合いの取れた、ねぇ。それもゼウスさんの趣味なのかしら?」
「半々じゃねぇかな。オレの失態の責任を取らせて、見目麗しいカップルを作る。おっさん色恋になると見境無いからな」
「でも、いくらゼウスさんの計らいがあっても、私は恋人を作るのはゴメンよ」
愛美は、断固として恋人を作るつもりはなかった。
「それは困る。お前に恋人ができなかったら、オレは愛の神の座を下ろされて、存在を消されちまうからな」
「別に、あんたがどうなろうと構わないわ。私はもう死んでいるんなら、なにも必死になることはないしね」
「マナ、お前だって無関係じゃないぜ。お前は一応転生できるけど、転生先はウジ虫だぜ」
「ウジ、虫?」
虫になるのはまだ我慢ができそうなものだが、ウジ虫となれば話しは別だった。
ウジ虫といえば、ハエの幼虫であり、不潔極まりない場所で、ぐにゃぐにゃ蠢いている虫であった。
「いやっ! それだけは死んでもいや!」
愛美は身ぶるいする。
「いや、だから、死んだあとお前はウジ虫転生ルートだ。これはゼウスのおっさんの手筈だ。お前に恋人を作らせるためのな」
愛美にとって、これは究極の選択だった。
このまま一年間恋人を作らなければ、来世はウジ虫。
それを回避するため、誰かと付き合うなど考えるだけで虫酸が走るというのに、恋人を作らなければならないという大きなジレンマ。
「……私にはこの二つの選択肢しかないの?」
「無いな。非常に残念なことにな」
「…………」
愛美はショックを受けて、押し黙ってしまった。
だが、愛美は一つ思い出した。それは三つ目の選択肢の可能性である。
──愛美の慈悲の心を見せてもらうぞい──
愛美の脳裏にゼウスの言葉が甦った。
「慈悲の心……」
「あん?」
突然の言葉に、久比人は眉根を寄せる。
「第三の選択肢に慈悲の心を見せてみろって、ゼウスさんが言っていたの」
「慈悲の心? んだそりゃ?」
久比人の疑問は増すばかりであった。
「私にも分かんないわ。でもウジ虫転生と大っ嫌いな恋をするのと比べれば、マシな道が開けるかもしれない……!」
「つってもヒントは慈悲の心だけだろ? なんのこったか分かんねぇだろ」
久比人の言うことはもっともだった。
「いいことをし続ければ、天国に逝けるってことじゃないかしら!?」
「ああ、人間が死後逝く世界はないぜ。天国なんて世界存在しないぞ?」
「ええ!? そうなの!? じゃあ死んだ人はどうなるの?」
「善人なら別人格の人間に、悪人なら存在が消える。それだけだ」
クピドら神の住まう場所は天界、愛美らの生きる世界は下界、または人間界と呼ばれていた。
「ちょっとあんた、今善人なら別人格の人間になれるって言ったわよね? それって私も善人として生きていけばウジ虫転生は免れるってことじゃない!?」
ゼウスの言っていた慈悲の心をみせよ、という言葉は善人であれ、という意味ではないかと愛美は考えた。
「まあ、そう取れなくもないか。けどオレはどうなる? お前に恋人作れなきゃ愛の神クビなんだが」
「あんたも善行を積めばいいんじゃない? 神様も転生できるんでしょ?」
「そりゃあ分かんねぇな。何千何万年の間神の不祥事はあった。けど不祥事起こした神々はすぐに消されてしまってたからな」
人間に害をなした悪神はことごとく消されていた。しかし、久比人の場合だと薔薇戦争の功績があるために、ゼウスの加護を受け、消える代わりに愛美に恋人を作る使命のもと生き長らえされている。非常にイレギュラーな事態に陥っているのだった。
「オレがこうしてここにいられるのは、ひとえにお前に恋人を作るためだからな。ホントはさっさとお前に彼氏を作って、天界でエロゲー三昧と行きたいところなんだ」
「……この変態神。とにかく私は恋人なんか絶対に作るつもりはないから。勝手に消えなさい」
吐き捨てるように言うと、愛美は踵を返した。
「お、おい、どこに行くんだよ?」
「バイトよ、あんたと違って忙しいのよ私は」
この言葉を最後に愛美は、久比人が止めるのも聞かず、屋上を去っていった。
「マナ……」
久比人は、少し冷たい風に吹かれるのだった。
※※※
愛美は今日も今日とてアルバイトに勤しんでいた。
ゼウスから受け取った仮の命のお陰で、愛美はこうして生きている。
しかし、こうして働いてはいるが、体があまり言うことをきかなくなっていた。
「愛美ちゃん、どうしたの? 顔が真っ青よ」
「嫌だなぁ三葉さん私ならこんなに元気……」
愛美は立ち上がると、強い立ちくらみを感じた。
「大丈夫!?」
「……あはは、こんな立ちくらみくらいどうってことないですよ」
愛美は、精一杯の痩せ我慢をしてみせる。
「愛美ちゃん、帰った方がいいわ。チーフには私から言っておくから」
三葉は本気で心配していた。
「三葉さん、本当に大丈夫……」
愛美はまたふらつき、品だしをしようとしていたカップ麺の山を崩してしまった。
「っ!? ごめんなさい! 今すぐ片付けますから!」
「何かあったかしら!?」
チーフが現場にやって来た。
「チーフ! すみません! ちょっとふらついて商品を崩してしまいました。今すぐにかた……!」
チーフは愛美の額に触れた。
「山村さん、熱があるじゃない。ここは私に任せて山村さんは帰って」
愛美は更に痩せ我慢してみせた。
「このくらいの熱、どうってことありませんよ」
「だめ、今日はもう帰りなさい」
チーフにまで諭されて、愛美はもう気丈にふるまう事はできなかった。
「……分かりました。後の事はお願いします……」
愛美は、非常に申し訳ない気持ちになりながらバイトを早退した。
体感的に熱は三十八度は超えているような気がした。節々が痛く、夏だというのに冬のような寒さを感じていた。
最悪の状態で、必死の思いで愛美は寮へと帰ると、ベッドの上へダイブした。寒気はとてつもなく酷く、震えが酷い。いつもならちょうどいい肌掛けだけでは足りなかった。
頭が痛く、喉も激しく痛んでいた。
「さ、寒い……ゲホッゲホッ……!」
咳はまだ空咳であった。次第に湿気を帯びた咳となるであろう。
「うう……誰か助け……」
「バカは夏風邪なら引くんだな」
来るはずもない助けを、愛美が求めた時、朦朧とする意識下でも分かる声がした。
「くっ、久比人!? 何でここに……ゲホッ!」
「あんま騒ぐな、体に障るぜ」
久比人は、クローゼットから布団を取り出し、それを愛美にかけてやった。
「早く出ていって! 女子寮に男連れ込んだなんて知られたら停学になっちゃうから!」
「それなら心配ない。オレに残された魔力で、オレの認識を女にする魔法をかけてある。体は変わってないが、第三者からは、オレは女に見えてる」
何とも面妖な魔法であった。それゆえに愛美には信じられなかった。
ふと、部屋のインターフォンがならされた。訪ねてきたのは、寮母のおばちゃんだった。
「はいはーい」
久比人がインターフォンに出てしまった。
「バカっ! なに出て……ゴホ!」
愛美はすぐに、対応を代わろうとしたが、体が言うことをきかない。
「あら、愛美ちゃんのお友達? 愛美ちゃん倒れたって聞いたけど大丈夫なの?」
「大丈夫っす。自分が世話するんで」
明らかに男が対応しているのに、女友達が代わりにインターフォンに出たようになっていた。
「お友達が一緒なら安心ね。愛美ちゃんをよろしくね」
寮母は去っていった。
「……な、大丈夫だったろ?」
本当に久比人の存在が女だと認知されているようだった。
「まあ、この魔法の本来の使い道は、オレが女の輪に入って彼氏募集中の娘を見つけて、男に紹介するって使い方なんだが、こんな使い方もできるんだな」
クピドとしての神格の魔法だった。
「さて、ちょっくら台所借りんぞ」
久比人は、そう言って冷蔵庫を開けた。中身は二リットルペットボトルのお茶とお菓子と、調味料しかなかった。
「なんだこりゃあ。こんなんじゃまともな飯も作れねぇじゃねぇか」
「ご飯はおばさんが作ってくれるから、食材はいらないのよ……」
ふーん、と返すと久比人は、シンクの下の扉を開けてみた。
「おっ、米はあるんだな。よーし、そんじゃベタだが、粥を作ってやるか。ちょっと待ってな」
久比人は、妙になれた手付きで米を研ぎ、水加減をしっかり計り、ガスレンジで煮始めた。
ぐつぐつ煮え始めると火加減を調節し、焦げ付かないように弱火で煮込む。
味付けは塩を振りかけてほのかにしょっぱい味にした。
約三十分間の料理で素朴なお粥ができあがった。
「お待たせ、できたぜ」
久比人は、丸いお盆に小さな鍋にレンゲを添えて、お粥を運んできた。
「食わせてやるか?」
「自分で食べられるわよ」
「そうか、ほれ」
久比人は、お粥のお盆を愛美に渡した。
「……いただくわ」
愛美はレンゲを手にし、お粥を掬い、口にした。
口当たりが良く、優しい塩気が鼻腔を通っていく。熱すぎず、ほどよい熱が体を暖めてくれる。
「……おいしい」
愛美は、口から思わず言葉がこぼれてしまった。
「そうだろう? 魔法を込めて作ったからな。下手な風邪薬よりも効くぜ。ゆっくり食べな」
言うと久比人は立ち上がった。
「じゃあな、オレは行くぜ。食ったらさっさと寝ろよ」
久比人は帰ろうとした。
「ま、待ちなさい!」
愛美は、鼻声で久比人を引き止めた。
「き、今日の事は感謝しとくわ……ありがとう……」
「どういたしまして。じゃあな」
久比人は去っていった。
久比人と会ってから、初めて彼から優しくされたような気がした。
いや、久比人からだけではない、他人から優しくされたこと事態が初めてな気がした。
母親は、風邪を引いても、愛美を放置するような人間だった。親戚も愛美が病気に罹っても病院にも連れていかない者たちだった。
愛美は急に、ドキドキし始めた。それは風邪から来るものではないような気がした。
──まさか、久比人に?──
いやいや、と愛美は首を横に振る。
──ただ風邪で弱ってただけよ。それ以外何があるって言うのよ!?──
愛美は再び、久比人の作ってくれたお粥を口にした。ほんのりとした塩の味がする。本当に魔法がかかっているのか、口にする度に元気が出てくる気がする。
夏なのに冬のような寒さは、お粥を食べるごとに引いていく。
やがて、お粥を食べ終えると、節々の痛みも消えていた。後は寝ていれば風邪は治りそうな気がした。
──アイツには借りができたわね。この借り、いつかかならず返さなければね……!──
もちろん、恋人を作るという方法以外である。
優しくされても、恋心までは芽生えることはない愛美だった。
※※※
愛美が夏風邪を引いて三日後。久比人の看病があったおかげで、愛美は完全に復活していた。
その日の放課後、授業の遅れを取り戻すため、百合子からノートを借りていた。
親友からの好意からノートを見せてもらっていたが、正直な所あまりいいノートではないのではないかと思っていた。しかし、予想とは反して綺麗に纏められていた。
字は少し丸いが読みやすく、マーカーがほどよく使われ、見やすいノートであった。
「あんたにしては、いいノートね」
「あっ、それひどくない? 愛美が休んでいる間きっと困るだろうなと思って一生懸命ノート取っといたんだよ」
百合子はむくれて言った。
「もちろん感謝はしてるわよ、ありがとう。けど、これくらい綺麗にノートを取っていながらテストでいい点取れないのはどうしたことかしら?」
百合子は、ぎくっ、とした。
「あ、はははは、そ、それは、書く時は必死で書くんだけどその後がぁ……」
要するに復習を怠っていると言うことだった。
「……あんたねぇ、親友のよしみで言うけど、本気で勉強しなきゃ次のテストこそ赤点よ? 危機感持ちなさいよ」
「やだなー、愛美ったら。いくらなんでも機高で赤点は取らないわよ」
機織学院高校の偏差値は、お世辞にも高いとは言えなかった。低偏差値の私立高校であり、名前を書けば入学できると噂されるほど勉強のできない生徒の溜り場だった。
愛美が特待生で学費免除なのは、この校風のお陰であった。
「あんた、部活もやってないし、バイトもしてないじゃない。少しくらい勉強する時間あるでしょ? 私は夜の八時までバイトして、その後勉強してるのよ? 私があんたの立場だったら、少しでも勉強の時間に当てるわよ」
「愛美ったら、そんなにバイトして勉強もしてのキツキツの生活してたら一気に年取っちゃうわよ? 愛美おばあちゃん、なんてね」
「誰がおばあちゃんよ。孫どころか子供もいないわよ。っていうか人生に伴侶なんていらないっての」
そう、伴侶などいらない。恋人なんていらない
。もう、一度死んでいるが、このまま生きられるとしても一人で生きていく。愛美の決意は強かった。
だがしかし、このままでいては、死後はウジ虫転生である。一人っきりで生きていく道を模索しなければ愛美によい未来はやってこない。
──慈悲の心──
ふと、またゼウスの言葉が頭に浮かんだ。
慈悲の心を持てば、ウジ虫転生を避けられるというのか。しかし愛美には、慈悲の心がなんたるかが分からない。ただ単に人に優しくすればよいのだろうか。
「百合子、私バイトまで時間あるし、勉強を教えてあげてもいいわよ?」
ひとまず浮かんだ人に優しくすることは、親友に勉強を教えることだった。
「え、急にどうしたの?」
勉強は自分の力でやるべきものと考えていて、愛美は誰かに勉強を教えることはなかった。
「どうせあんた、また泣きついてくるでしょ? だから今の内に教えてあげようと思っただけよ」
百合子にとって、ありがたい申し出であった。
「本当に教えてくれるの!? じゃあ英語を教えてよ、助動詞の使い方の辺りで!」
「助動詞ね。どの辺りが分からないの?」
「全部!」
清々しいまでの答えに、愛美は心の中でズッコケた。
「……全部ってあんたねぇ。do とcanとか基本的なのは分かるでしょ?」
「分かんない」
愛美は、心の中で二度ズッコケた。
百合子の英語力は、どうやら中学生レベルで止まっているようだった。これはもう、一からから徹底的に教えてやらねばならなかった。
初めに、助動詞とは何種類あって、どういう時に使われるのかを指導した。それから、文章中でどういう働きをするのかを教えた。
ある程度教えると、実際に教科書の問題を解かせた。
「えーと、このcanは可能性を表すから、『事故はいつでも起こりうる』って訳すんだね!」
「その通りよ。やればできるじゃない」
百合子はどうやら、ただ真面目に勉強に取り組んで来なかっただけで、こうして真剣に行えばできる頭の持ち主であったようだ。
「ありがとう愛美、なんかあたしでもできるような気がするよ!」
百合子は、自信に満ちていた。
「その意気、忘れないようにね。それじゃ、私はバイトだからもう行くわ。ちゃんと復習するのよ?」
「はーい、行ってらっしゃい!」
百合子はその後も、勉強に取り組んでいた。まさに分かれば楽しいに、はまっているようだった。
──慈悲の心って、こういうので合っているのかしら?──
親友に勉強を教える。これは好意によるものだが、ただの親切心であり、慈悲の心とまでは行かない気がする。
ううん、と愛美は一人首を横に振る。
慈悲の心は優しさを人に与えること。これに間違いはないはずだ
──困った人を見捨てない、これが慈悲の心なんだわ!──
愛美は、慈悲の心のなん足るかを再確認するのだった。
※※※
「そろそろ一ヶ月だな」
久比人が言った。
「突然なによ?」
愛美は訊ねる。
「ゼウスのおっさんがオレに使命を下した日から、ぼちぼち一ヶ月経つなぁっと思ったのさ。下界の一ヶ月はあっという間だな」
学校では、期末考査が二週間前に終わり、あとは夏休みがやって来るのを待つのみだった。
「そう言えばあんた、今更だけどどこに住んでるのよ? あんた、一ヶ月間クラスのみんなに取り巻かれてたから、聞くチャンスがなかったし」
「お前と同じさ。特待取って学生寮にただ住み、ただ飯だよ」
久比人は、クラスの弓道部員の猛烈な誘いにより、弓道部に入部していた。
和弓を扱ったことはなかったが、愛の神クピドとして弓矢を扱うことは日常茶飯事であったため、すぐに扱えるようになった。
どんな的でも一発で真ん中を射貫くその実力で、地区大会はもちろん、県大会でも優勝し、最終的に全国大会をも突破してしまった。
学業も目を見張るものがあった。
神の力によってどの科目も満点を取り、唯一古文だけ一点のがしたが学年一位をマークしていた。
愛美の特待は寮費までは免除にならなかったが、久比人は特特待生として寮費食費まで免除になっていた。
「あんたって、本当に神様だったのね……」
学生離れした偉業を、久比人はこの一ヶ月の間に成し遂げていた。見た目は無気力だが、実力は神そのものだった。
「勉強なんかしなくてもテストは満点取れるし、弓道もオレからしたら子供の遊びだ。正直退屈だぜ、毎日がよ。テレビもゲームも寮じゃ持ち込み禁止だからエロゲーもできやしねぇ。ラノベ読むくらいしか退屈しのぎがねぇのが辛すぎるぜ」
「久比人、あんた大事なこと忘れてない? 私に恋人ができなきゃ愛の神クビになって存在も消えるんじゃないの?」
「いや、分かってるよ。でも愛の弓矢なしで人間に恋させるのが大変でよ。こないだお前を看病してやった時もひっそり神格を使ったんだが、効かなかった。男の一人でも訪ねてきて、そいつに恋するように仕向けたんだが、無駄だった。いくらマナでも男友達の一人くらいいると思ったんだがな」
愛美とこうしてまともに話している男は、クラスでも久比人くらいしかいなかった。
バイトが忙しすぎて友達もろくにおらず、校内で友達と言えるのは百合子だけであった。
今まで気にする暇が無かったため考えなかったが、考えてみれば愛美は、ずいぶん寂しい学園生活を送っていた。
しかし、愛美はそれでよいと考えていた。今の内から孤独であり続け、孤独のまま人生を歩み、そして誰に看取られること無く死ぬのだ。
ゼウスから提示された、慈悲の心。まだそれがなんの事なのか分からないが、最悪な転生をすることだけは避けたい。愛美の願いはそれただひとつであった。
「あーあ、オレも消えたくねぇなぁ。どこかにいねぇもんかね? マナに相応しい男が」
危機感を持っているのかいないのか、久比人はのんきに伸びをする。
「失礼します! 山村さんはいますかっ!?」
教室のざわめきが一瞬消えるほど大きな声がした。
教室の出入り口に立っていたのは、以前にも訪れてきた上級生であった。
「き、霧二郎さん!?」
「何、キリジロー?」
「ああ、山村さん。いらっしゃいましたか」
霧二郎はまっすぐに愛美の席まで歩いてきた。
「霧二郎さん……今日はどうしたんですか?」
訊ねるまでもない用件であった。
「あれから一ヶ月余り、山村さんのお噂はかねがね……そろそろ身に余裕ができたのではないかと思い、再び参上つかまつった次第です」
柔道部入部の勧誘だった。
「あなたの才能、埋もれさせるのは非常に惜しい。ぜひ機高柔道部に来ていただきたい」
霧二郎は、大きな体だがとても腰が低い男であった。
「先輩、ちょっと山村さんと話していいっすか?」
久比人は間に入った。
「む? 君は、確か藍木久比人君。君の噂聞いているよ。成績は古文以外満点で学年一位、弓道全国優勝。人は見た目によらぬものだな。それで、今山村さんと話しているのは自分だ。後にはできないのか?」
霧二郎は眉をひそめる。
「ちょっと、ちょっとっすから」
久比人は半ば強引に愛美を引き寄せた。
(おい、誰だよあの男)
(桜井霧二郎さんっていう柔道部の主将よ)
(なんで今まで黙ってたんだよ、超優秀株じゃねえか)
(優秀株って、私は霧二郎さんをそんな風に見たこと無いし!)
「何をひそひそと話している? まさか、山村さんを弓道部に引き入れようとしているのか?」
「ちがうちがう。そんなんじゃないっすよ。絶対に柔道部に入るべきだって、説得してたんすよ」
久比人はでたらめを言った。
「はあ!?」
愛美は心の底から叫んでしまった。
「おお、同じ武道家として分かるんだな君にも! 山村さん、是非とも柔道部に!」
「いや、私にはバイトがあるので部活やってる暇は無いですから!」
愛美はとっさに断る。
「学生の身分でそんなにアルバイトに励む必要はないでしょう? 山村さんは特待生で授業料免除のはず。どうしてそこまで働かなければならないのですか?」
「寮費がかかるからですよ。母親からは捨てられ、親戚からはよその子扱い。どこからも資金提供を受けることはできないのですよ!」
「母親から捨てられた? 前来たときには山村さんは病気の母の世話をしなければならないと言っていたではないですか」
愛美はしまった、と言う顔をした。厳密には愛美本人の口からではなく、百合子がとっさに適当なことを言ったのだが。
「あれは、私の友達が勝手に言っただけで、本当は母親はいないんですよ。だから生活費は自分で稼がなきゃならないんです」
霧二郎は、怒るかと思ったら、逆に涙を流した。
「そうだったのですね。そうとも知らず無理矢理に柔道部に入部させようとして……」
突然、霧二郎が泣き始めたので、クラスにどよめきが起きた。
「そんな、泣かないでください。私は気にしてませんから」
クラスのどよめきを止めようと、愛美は必死に霧二郎を慰めた。
「ふうむ、なら山村さん、やっぱり柔道部に入ってはどうっすか? 県大会優勝以上の実績があれば寮費も免除になるかもしれないっすよ」
確かに、寮費も無料になれば、今以上にバイトに明け暮れる必要はなくなる。
ただし、実績をあげられなければ、寮費を払えず寮を追い出されてしまう。決断するのはとても難しい。
愛美には、県二位の実績があるが、それは中学生の時の話であり、高校で通用するかどうか分からない。
「……霧二郎さん、私の腕前で県で勝てるでしょうか?」
「……え?」
霧二郎は泣き止み、涙を拭いた。
「だいぶ鈍っていると思いますが、それでも通用するでしょうか?」
「約束しましょう! 山村さんなら、全国大会だって出場できますよ!」
そのために、と霧二郎は、勝つための方法を手取り足取り教えると言った。
「毎日は出席できないと思いますが、それでもいいのでしたら……」
「入部していただけますか!?」
──これも慈悲のため──
愛美には、ゼウスの言葉が甦っていた。霧二郎の嘆願によい応えをすれば、慈悲の心与えられるやも知れない、と。
「分かりました。柔道部に入部します。ああでも、週三回でお願いします」
愛美は、入部を承諾した。
「ありがとうございます、山村さん! 早速ですが、いつから来ていただけますか!?」
「えっ、そうですね……バイト先に相談しなきゃならないので、来週からでお願いします」
「かしこまりました! お待ちしております!」
霧二郎は、喜びを顔に満たし、教室を出ていった。
──これで良かったのよね……──
愛美は少し、自分の決断に自身が持てなかった。勉強にバイトの掛け持ちで今までやってきたが、ここに部活までも増えてしまった。
なかなか過酷な日々が待ち受けている気がする愛美であった。
「おいおい、あの男、オレの神格を受けてもヘラヘラしているだと?」
久比人は、愛美たちが話している間、愛の神の神格を使って、霧二郎が愛美に惚れるように仕向けていた。
「あんた、何勝手な事してくれてたのよ!?」
「あんな優秀株、この先もう現れねぇと思って神格をかけてたのに、お前を見て赤面することすらなかった」
「あんたの能力が鈍っただけなんじゃない?」
「いや、オレの能力に狂いはない。それは断言できる。可能性としてあるのはキリーは既にお前に惚れてるかだ」
愛美に続けてまたしても久比人は、妙なあだ名を霧二郎に付けていた。
──霧二郎さんが私を……!?──
愛美は何故か、悪い気はしなかった。
「もしくはキリーは男にしか興味がないかだ」
「それだけはない!」
愛美は、そうでは無い事を願うのだった。
柔道部に入部したその日、愛美はバイト先の店長にシフトの相談をしていた。
「ええ! 山村さんバイト減らしちゃうの? 一体どうして?」
「柔道部に入部しまして、その稽古の日週三回休みをもらいたいんです」
「柔道部に? 山村さん柔道なんてできるの?」
「中学校時代からやってます。初段で県大会二位になったことがあるんですよ」
「すごいじゃない! もっと早くに入ればよかったのに ずっとやりたかったんじゃないの?」
「いえ、それほどじゃあ……あー、でも柔道で実績あげて、特特待生になって寮費も免除にしてもらおうかと思いまして」
「うーんなるほど、大きな目標があるんだね。分かりました。山村さんのおかげで店が回ってたけど、週三回、山村さん抜きでも回るようにするから、店の事は気にせず頑張って!」
店長は、快諾してくれた。
「ありがとうございます、店長」
こうして愛美は、柔道部での活動も始めるのだった。
第三話 新たな生活
機織学院高校柔道部道場。
二十名の部員が活動している。
構成員は、男子部員が十五人、女子部員が愛美を含めて五人となっている。
「みんな、稽古一旦中止!」
「オーッス!」
霧二郎が叫ぶと、部員たちは一糸乱れぬタイミングで返事をし、霧二郎に向いた。
「今日は新しい仲間を紹介したい。関南中学校出身の女子学生、山村愛美さんだ」
部員の視線が一気に愛美に向いた。
柔道強豪校の部員だけあって、その視線は痛いほど鋭かった。
「ど、どうも、山村です……」
愛美はおずおずと、よろしくお願いします、と挨拶をする。すると部員たちの中でどよめきが起きた。
「山村? どこかで聞いたような名前だな」
「お前鈍いな、確か県大会二位の強者だぞ」
「えー、ホントに!? それじゃあ即戦力じゃん!」
「静かに!」
霧二郎が注意すると、部員たちのどよめきがピタリと止んだ。
「知っている人もいるだろうが、この方は中学校女子五十二キロ級県大会二位の実力者だ」
愛美は、どもども、と照れがちに頭を下げる。
「県大会二位? 見えねぇ……」
「オレより強いんじゃねぇか?」
「オレも県大会ベスト八だけど、二位とか勝てる気がしねぇ……」
男子部員たちの中からは、畏敬の声が上がった。
「山村さんが来てくれたおかげで、団体戦フルメンバーで挑めるね!」
「しかも実力もあるとか、願ったり叶ったりだよ」
「稽古付けて欲しいな……」
女子部員たちからは、喜びの声が上がった。
「さっそく山村さんには練習試合をしてもらう。もちろんお相手するのは女子部員だ」
霧二郎は、愛美を向いた。
「……と言うわけだ、山村さん。着替えてきてくれるか?」
「わ、分かりました……」
愛美は、着替えのため一旦道場を離れようとしたが、部員たちの熱い視線に緊張してうまく歩けなかった。
──いきなり試合だなんて、どうしよう...…?──
愛美は、久し振りの稽古着に着替えようとした。緊張でブラウスのボタンが上手く外せない。緊張のあまり今から辞退しようか、などとも考えてしまった。
サブバッグから、黒帯を巻いた稽古着を出した。県大会二位を取得した時に着ていた稽古着である。
──ううん、逃げちゃダメ、愛美。ここに来るまでに決心したじゃない!──
愛美は、股下をはき、上着を着て、髪を一つに束ね、そして真新しい黒帯を締めた。
──行こう……!──
愛美は、意を決して更衣室を出た。
「お待たせ……」
「よっ、真打ち登場っすか!」
思いもよらぬ声に、愛美は、ずるっ、とバランスを崩してまった。
「なー、なー、なー……!?」
「納豆すか?」
「久比人! なんであんたがここにいんのよ!?」
「自分も同じ事を言ったんだが、山村さんの活躍を見学したいと言って聞かなかったんだ」
霧二郎は言った。
愛美は思い出した。今日の放課後柔道部に行くと言っていたことを。
愛美は久比人襟首を掴み、道場の入り口まで引っ張った。
「あんた、弓道部はどうしたのよ?」
「前にも言ったが、弓道は子供の遊びだ。オレには時間に余裕があるわけじゃないからな。籍だけ置いて柔道部にも入ろうと思ってな。キリーというお前にお似合いの男もいるしな。キリーがだめでも他の男も選びたい放題だしな」
久比人の言葉は、至極全うであった。
「あんたの言うことは分かったわ。けど、柔道なんてあんたできるの? 機高の柔道部は強豪よ? 初心者お断りしてるかもしれないのに」
「母ちゃんから色々技を食らって生きてきたからな。投げ技なんざ慣れっこさ」
「そんな事で...…」
「お二人とも、お話しは終わったかな?」
「わっ! 霧二郎さん!」
「ボク柔道部にも入ろうと思いましてね。柔道のなんたるかを聞いていたんすよ」
「兼部は許可しているが、うちは厳しいぞ? 弓道で全国大会を制したんだ。弓道に集中した方がいいのではないかな?」
「いえ、日本の武道といったら、柔道っすよ。日本に来たのなら是非やっておかなくては」
霧二郎は、ふう、と一息付き、それ以上追求しなかった。
「なら好きにするといい。ただし、怪我だけはするなよ。柔道の怪我は命に関わる事があるからな」
「ありがとうっす、頑張るっす!」
「山村さんも準備運動はしっかりとね。アルバイトで体は動かしているかと思うが、久し振りの練習試合だろうからね」
霧二郎は言い残し、道場内部へと戻っていった。
「見せてもらうぜ。母ちゃんとお前、どっちが強いか、な」
久比人も道場に入っていった。
愛美は、全く、と久比人の登場に呆れた。
その後、入念な準備体操の後、愛美は畳の上に立った。
久し振りの畳の上は、とても柔らかかった。中学生時代の畳はまるでベニヤ板のような固さだったので、新鮮ささえ覚えた。
「それではこれより山村愛美さんの力試しの練習試合を始める! 両者前へ!」
愛美と対戦者は、軽く頭を下げ、畳の中央部まで進んだ。
「私、二年B組の佐々木尋。よろしくね」
対戦相手は、試合開始の挨拶で自己紹介をしてきた。
「や、山村愛美です。よろしくお願いします!」
つられて愛美も名乗った。
「始め!」
「ヤー!」
尋は気合いを込め、一気に間合いを詰めてきた。
愛美は、ひとまず間合いを空けようと後ずさりした。
尋の間合い詰めの方が大きく、愛美は襟を取られる。しかし、愛美は、尋の袖を取ろうとして伸びた手を逆に掴んだ。
尋は引き手を掴まれ、動きを制限された。柔道の試合においては、引き手を取った方が主導権を握る。
そのため尋は、掴まれた袖を振り払わんとして、手を切ろうとするが、愛美の腕はびくともしなかった。
やがて、愛美は尋の襟も掴み、技に入った。
相手の右足首を刈る小内刈りの要領で尋の股を開き、その真ん中に右足を入れ込み、片膝立ちになって引き手釣り手を引き込んだ。
瞬間的な小内刈りで体勢を崩され、死に体になった尋は、なす術無く愛美に背負われ宙を舞った。
「よいしょー!」
バタンッ! という音と共に、尋は背中から落ちた。
「一本!」
審判をしていた霧二郎は、右手をまっすぐに挙げ、愛美の勝利を宣言した。
「おおおー!」
愛美の決めた背負い投げのあまりの美しさに、部員たちは揃って歓声を上げた。
「なんて早業だ!」
「さすが県大会二位!」
「尋が負けるなんて!」
「一年生とは思えない!」
愛美は、男子部員からも女子部員からも賞賛を受けた。
「山村さん、本当に強いのね。私びっくりしちゃったわ」
尋は、年下に負けたと言うのに、妬む様子もなく、素直に愛美の強さに脱帽していた。
「ありがとうございます。つい力が入っちゃって、怪我はないですか?」
「大丈夫よ、心配してくれてありがとう」
尋は立ち上がった。
「佐々木は女子部員の中で二番目の強さだ。それをあっさり倒すとは、自分も驚きだ」
霧二郎も試合の審判をしながら、愛美の柔道の強さを推し測っていた。
「だが、まだ女子部員最強の選手がいる」
「佐々木さんが一番じゃなかったんですか!?」
愛美は驚いた。
「今日は遅れてくるそうだが、そうこうする内にやってくるだろう」
「すみません! 遅くなりました!」
女子生徒が急いで柔道場に駆け込んできた。
「やって来たな」
「えっ!? あの人は……!?」
背格好は愛美とあまり変わらないが、ショートヘアーで、いかにもスポーツをする少女といった姿をしている者だった。
そして愛美にとって、よく知っている人物であった。
「東雲さん!?」
愛美が驚くのも無理はなかった。なぜなら彼女こそが、県大会で優勝を奪い合った選手であったからだ。
「驚きましたか、山村さん。紹介するまでもないかと思うが、一応。彼女は東雲可奈。草巻北中学校からスポーツ推薦で当部に入ってきたんだ。本校柔道部女子部員で文句無しの一番の強さだ」
「桜井先輩、一体なんで私の話を……」
可奈は、まだ愛美の存在に気付いていなかった。しかし、すぐに愛美と同じく驚くことになる。
「あなたは、山村さん!?」
可奈も、愛美の事を覚えていた。
お互いに思いがけない再会であった。
「わあ、懐かしい! 元気にしてました?」
「は、はい。こうしてまた柔道ができるくらいには……」
一度死んでいて、元気のへったくれもないため、愛美は素直に元気とは答えられなかった。
「私たちで黄金のツートップが組めますね!」
「そ、そうですね。あはは……」
可奈は、とても人懐っこい性格であった。同学年であるが、柔道部では可奈の方が先に入部している上、柔道の腕も可奈の方が立つので、愛美は敬語で接していた。
「二人とも、練習試合をするつもりはないか?」
霧二郎が言った。
「いいんですか、先輩!? 山村さんとまた戦えるなんて!」
可奈は、やる気まんまんであった。しかし、愛美は。
「東雲さんと練習試合ですか!? 無理ですよ。東雲さん、私が柔道から離れてた時も稽古していたでしょうから、県大会決勝の時のようにいい勝負はできないですよ!」
「いや、きっといい勝負になる。自分が保証する。先の佐々木との戦いで分かった。山村さんは東雲相手でも渡り合えると」
「霧二郎さん……」
どうやらこの二人は、愛美の真の実力を試したいようだった。
「はあ、分かりました……」
愛美は、この一戦だけ、と練習試合をやることにした。
「お願いします、東雲さん」
「やった! こちらこそお願いします!」
実質県大会の決勝のカードになって、部員たちは沸いた。
「県大会決勝が見られるぞ」
「楽しみー、どんな試合になるんだろう?」
「二人ともファイトー!」
愛美は、県大会の時よりも緊張していた。対して可奈の方は嬉々として準備運動をしていた。
可奈の準備体操が終わると、二人は畳の上に立った。
「両者前へ」
霧二郎が再び審判を務める。
「まあ、楽しくやろーよ!」
「どうぞお手柔らかに……」
二人は軽く挨拶をした。
「始め!」
「サァコーイ!」
「ヤァー!」
愛美と可奈は、それぞれ気合いをかけ試合に臨んだ。
お互い様子見で間合いを空け、手の届かない位置を保ち続ける。
先に動きを見せたのは愛美であった。手練れが相手の試合の時は、できるだけ組手合戦を早く終わらせるのが愛美のスタイルだった。
引き手から取ろうとするが、それは読まれ、可奈に手を引かれてしまった。よろけたところを可奈に掴まれてしまう。
愛美は、投げられる前に取られた袖を切った。そして左組に取り、けんか四つになった。
愛美は、可奈の股に右足を入れ込み、肘で可奈の脇を挟み込み自分に巻き込むように体を丸めた。
「ヤアアア!」
一本背負いの巻き技であった。
渾身の技であったが、可奈には背を押され、防御されてしまった。
そのまましゃがんだ姿勢でいると、可奈に帯を取られ亀にされた。
愛美は、絞め技を食らわぬよう、腕をクロスして自分自身の襟を掴み、攻撃に備えた。
「待て!」
寝技に進展がないため、霧二郎は試合を中止する。
「始め!」
二人が試合場の中央に戻ると、試合は再開された。
(なかなかいい一本背負いだったよ)
可奈は囁いた。愛美には囁き返す余力がなかった。
(次は私の番だよ……!)
可奈は、一気に間合いを詰め、愛美の奥襟を掴んだ。同時に袖も取った。愛美を引き寄せると、愛美の太ももに自身の足をかけた。
「いよいしょー!」
気合いをかけると同時に、可奈は内股をかけた。この技が、県大会での戦いを決めた技である。
しかし、愛美は決定的な投げ技を、柳に風と受け流した。
──えっ!?──
完全に決めたと思った可奈は、そのまま体勢を崩し、畳の上に亀になった。その時だった。
ビビー、と試合終了のタイマーが鳴った。
「止め、そこまで!」
中学校以来の試合は引き分けに終わった。
「すごい! すごいよ、山村さん! 私の内股をかわすなんて!」
「そんな、まぐれですよ……」
謙遜する愛美であったが、奥襟を取られ時、県大会の時に受けた内股が来ると思い、身構えていた。結果、可奈の内股をかわすことができたのだった。
「東雲さん……」
「可奈って呼んで。私もあなたの事を愛美ちゃんって呼ぶから」
「か、可奈……」
愛美は、ぎこちなく呼んだ。
「うんうん。敬語も禁止だよ。私たちライバルで友達だからね!」
いつの間にか友達にされ、戸惑う愛美であったが、悪い気はしなかった。
「そうね、よろしく、可奈」
二人は握手するのだった。