9.だから夜這いに来たってわけ
「ひなたちゃん」
「……と、ばり……?」
暗闇の中で声が聞こえた。深夜二時。幽霊が好みそうな時間である。
眠りにつくことのない国防局。その中心にそびえ立つタワーマンションにひなたの自室はある。そこに侵入者とは。それも、死んだはずの。ひなたはベッドの中でじっと息を潜めて音を聞く。音は右から。ひなたは枕下に忍ばせていたナイフを引き抜いた。衣擦れの音は寝返りでごまかす。
とばりの声が聞こえるなんて、ありえない。
核爆弾でも落とされない限り入ることが出来ないなんて謳い文句で通っている国防局のマンションに、国防局職員以外の人間が侵入している事実も。
「僕、ますますひなたちゃんのこと気に入っちゃった」
「だから夜這いに来たってわけ」
「あっはは、人聞きが悪いよ。確かにこの状況だけ見たら、寝込みを襲ったって言えそうだけどね。僕は君に指一本触れてないでしょ」
「不法侵入、ストーカー」
幽霊だなんて非科学的なものを信じるつもりはない。だが、死んだ人間が生き返るとも思えない。
会話をしながらひなたは時間を稼ぐ。音の出どころが会話ごとに変わるせいで、まるで複数のとばりに囲まれているように思えた。片目だけをあけ、闇に慣らす。周囲を確認するも、とばりの姿は見えない。
――ありえない。
何度目かの否定。ひなたは強くナイフを握りしめ、ついで、ベッドサイドの明かりをつける準備を整える。
「おっと、部屋の明かりはつけないで。僕、今、何も着てないんだ。露出狂だと思われたくないし、さすがにお互いセクハラになっちゃうでしょ?」
思わず伸ばしていた手が止まる。何を言っているんだこいつは。
「ひなたちゃんに提案があってきたんだ」
「テロリストの仲間にはならない」
「あはっ、頑固だね。僕が死ねば、何か気持ちが変わるかと思ったんだけどなあ」
僕が死ねば?
瞬発的に生まれた苛立ちをぶつけるように、ひなたは思い切ってランプシェードの紐を引いた。目の前がパッと明滅する。見えたのはがらんどうの部屋。見慣れたローテーブルとソファ、レインボーブリッジ越しに広がる東京の夜景。それだけだ。
「わあ! やめてって言ったのに。ひなたちゃんのえっち」
頭上から声が降る。楽しんでいるような口調が癪に障る。ひなたが顔を上げるも、そこにはやはり何もない。まさか本当に幽霊? ひなたが眉をひそめると、カラカラと軽い笑い声が響いた。
「ね、ひなたちゃん。ゲームをしようよ。お互いの人生を賭けたさ」
耳元でささやかれ、ひなたは瞬時に握っていたナイフを突き刺す。だが、空を切った感覚しか得られなかった。
「しない」
苛立ちを包み隠さず返答すると、今度は逆側の耳元でとばりの声がする。
「あはっ、そんなつれないこと言わないでさ。僕は明日から、この国の人たちを殺す。そうだなあ、キリのいい数字にしようか。僕は十人殺すよ」
「は?」
「大丈夫、誰を殺すかはちゃんと予告するから。最初は……そうだね、せっかくだから総理大臣なんてどう?」
「何、言ってるの」
「全員殺せたら僕の勝ち。その間に僕を捕まえることが出来たら、ひなたちゃんの勝ち」
「やめて」
諦めが悪すぎる。ひなたが大きくナイフを振り回すと、布団から羽毛が弾け飛んだ。ぶわりと視界を覆う白い羽の隙間に、小さく黒い影が揺らめいて見える。天使のようなとばりが見えるなんて、ついに頭がおかしくなったのだろうか。ひなたは自らの指をナイフで切りつけた。痛みで思考を現実へ引き戻す。やはり、とばりの姿は見えない。
だが、
「負けた方は、勝った方のお願いを聞く。いいでしょ?」
まるで目の前にいるのではと思うほど、クリアに声だけが聞こえた。
ひなたはナイフを下ろして短く息をはいた。これ以上の抵抗は無駄だ。とばりが幽霊だろうがなんだろうが、何かのカラクリが存在していることに変わりはない。ただ、ひなたがその種を見つけられていないだけで。
見つかる予感のない今は、ひなたも受動的にならざるを得ない。とばりの提案に、のるか、のらないか。ひなたが選べるのはそれだけだ。とは言っても、断ったところでとばりは諦めないだろうけれど。
ひなたは覚悟を決める。
「わかった」
少しでも自らの願いに近づくチャンスがあるのなら、どんな手段だっていとわない。
「わたしが勝ったら、国防局へ戻ってきて」
「いいよ」
「もう一度、やり直すの」
「わかった」
とばりの声に偽りはなかった。ただ直感的にひなたがそう感じただけだ。だが、それで充分。
「僕が勝ったら、ひなたちゃんは僕と仲間になって。一緒に世界を作りなおそう」
中二病は死んでも治らないらしい。
了承を口にしたくなくて、ひなたは小さくうなずく。声に出していなくても、相手には見えている。
「交渉成立だね」
まるで良い取引をしたとでも言うように、とばりの嬉しそうな声が聞こえた。勝つつもりなのだろう。ひなたはただひと言、
「うるさい」
と返事をするにとどめた。
「それじゃ、僕はそろそろお暇するよ。夜遅くにごめんね。誰かが僕を深く埋めたからさ、抜け出すのに少し時間がかかったんだ。まだ口の中がじゃりじゃりするよ」
とばりの冗談めかした言葉に、ひなたの肩がビクリと揺れる。夕方、理一と共にとばりを埋めた。あの感覚はどう考えても本物だった。
「そんなこと、あるわけない……」
ひなたの口から無意識について出た言葉。とばりはそれをいたく気に入ったのか、嫌味のない笑い声が部屋中に響く。
ひとしきり笑ったとばりが大きく息を吸ったのが分かった。幽霊でも呼吸するらしい。ひなたは音のした方へナイフを投げつける。
「わ、危ないな」
声の抑揚から避けたのだと察知する。認識は出来ないが、ナイフを避けるということは、存在しているということ。続けざま声の方へと布団を投げる。殺傷能力こそないが包囲網になる。物体とぶつかれば形を変えて教えてくれる。だが、ひなたの予想に反して、布団は床にふわりと落下しただけ。重さゆえにスピードが遅い。それがあだとなったのか。隙は充分ついたつもりだが、とばりなら簡単に避けられるのだろう。
「風邪をひかないようにね。それじゃ、また明日」
「早く帰って」
ひなたの捨てゼリフを聞いたかどうかは分からない。返事はなかった。
「……ありえない」
ひなたは部屋中をひっくり返し、とばりの痕跡を探す。小さな血痕、髪の毛、皮膚。そうでなければ、スピーカーやミラーを。
だが、あってしかるべきものは何ひとつとして見つからなかった。
ひなたは投げたナイフを拾い上げて、その輝きに映る世界をのぞく。悪夢か、それともひなたの作り出した嫌な幻想だったのだろうか。
手始めに総理大臣からだととばりは言った。もしも本当なら、明日は大変な一日になる。
ひなたはスマートフォンへ手を伸ばす。理一に連絡を――だが、文章を打つ指が動かなかった。
夢だとは思えない。しかし、現実だと信じることもできない。
今のひなたは冷静さを欠いている。きっと悪い夢だ。明日になればわかる。
窓の外に光り輝く東京の街。ひなたはその小さな光の群れを指でなぞった。