7.嫌いな奴は自分の手で葬りたい主義なんで
「とばり! ねえ! とばりってば‼」
ひなたはとばりの体を抱きかかえる。周囲にいた人たちが騒ぎに気づいて集まりはじめ、ひなたは慌てて声を上げた。
「救急車! 救急車呼んでください!」
スマートフォンのシャッター音が耳につく。うるさい。ひなたは音の方向を睨んだ。だが、音は鳴りやまず、人々の喧騒は増していく。うるさい、うるさい。警備服を着た男たちが駆けてくるのが見える。もっと早く来てよ。仕事して。立ち入り禁止の外階段にとばりが立ち入るよりも前、そこで止めてくれなきゃ意味がなかった。
回らない思考。話かけられている気がするのに、ひなたには応えが見つからない。
うるさい、うるさい、うるさい!
腕の中で命が死んでいく。とばりの体温が海の底へと沈んでいく。
警備の男の声も、周囲のガヤも、遠くで鳴り響いている救急車やパトカーのサイレンも、全てがうるさかった。
「ひな!」
一点の曇りもなく耳を貫いた声に、ひなたはようやく我に返った。ハッと顔を上げる。さまよう焦点が、やがて、ひとりの男に吸い込まれる。
「……りぃ、くん……?」
「ひな! 何があった!」
「りぃくん……っ!」
とばりが。そう声にしたつもりが、音にはならず、ひなたはただ真っ赤になった手で理一にとばりの遺体を差し出す。理一が息を飲んだ。だが、とばりではなく、ひなただけをすぐさま立ち上がらせると、理一はひなたの頬を打つ。
「戻って来い、ひな!」
連れ戻すべきは、とばりの方だというのに。
「ひな!」
もう一度殴られた頬がジンと痛みだす。口内に血の味が滲んで、否が応でも生きていることを実感させられる。ひなたはゆっくりと理一を見つめた。
「……とばりが」
「見りゃわかる。なんでそうなった」
「とばりが、ファミレスに、来て……それで……」
サイレンの音が止む。見慣れた服装は国防局のものだとすぐに分かった。とばりを回収しに来たらしい。パトカーから出て来た男にも見覚えがあった。ひなたが小さいころ世話になった警視総監の息子だ。
彼らはひなたと理一、そして死んでいるとばりを一瞥すると、手早く野次馬を退散させた。
あたりがひと息のうちに静かになる。
とばりの遺体が無機質に救急車へと運ばれていく。国防局の職員たちによって、コンクリートに染みた血が洗い流されていく。
ひなたはただ、それを見つめていた。涙すら、流れない目で。
何もなかったかのように、夢から覚めるように、全てが日常へと巻き戻されていく。
「ひな、国防局へ戻ろう」
「とばりは……とばりは、どうなるの」
「わかんねえ。ただ、局長サンの言葉を借りるなら、ひなのために尽力すんだろ」
理一はひなたの肩をそっと抱く。いつもならセクハラだと手を払いのけるひなたも、今ばかりはその熱にすがっていたかった。
生きている。世界掌握をたくらむテロリストがこの世からあっけなく消え、幼馴染であり親友を死に追いやった自らが生きている。
その現実を受け止めるのが、ひなたの今の責務だった。
「とばりが、昨日の返事を聞きに来たの」
ポツリとひなたが呟くと、理一は小さくうなずく。肩を抱く手に力がこもったように感じるのは、ひなたの気のせいではない。
「断ったら、とばりは諦めないって言ってた」
「メンヘラかよ」
「溺愛系だってさ」
とばりの言葉を借りてみる。理一は馬鹿にしたように鼻で笑った。
「で? なんで諦めないって言ったそばから、あいつは死んでるワケ」
「戦って、決めようって」
「ハ」
理一の笑い声からは、割り切ったフリをしていることが明白に伝わった。ひなたが闇に飲まれぬよう、必死で支えてくれているのだ。ひなたは、自らの肩を震わす腕のか細い揺れを感じながら目を閉じる。
「お互いに、今日は説得を諦めるって条件で戦ったの」
鮮明に思い出せる。東京タワーに浮かぶ青年。鉄筋コンクリートの塗料と同じ色の血が彼の頬を伝った瞬間も、入り組んだ赤に夜が落ちていく瞬間も。
「とばりと戦って……とばりは、外階段から落ちた」
五階建てビルの屋上から飛び降りるのとはわけが違う。十階建てのビルから落ちた人間は百パーセント死ぬ。東京タワーは、何階建てなのだろう。
「あいつが、落ちていったんだな?」
確かめるような理一の問いに、ひなたは否定の言葉を飲み込んだ。違うと言ってしまいたかった。だが、事実はそうだ。ひなたが突き落としたわけではない。急所を狙った蹴りはかすりすらしなかったのだ。とばりは自らの判断で後方へ避け、空へと体を投げ出した。
ひなたがとばりにつけた傷は、頬をかすめた銃弾一発。とばりに触れた回数は、手の甲へ向けた一度の手刀。それだけだ。
たったそれだけで、とばりを殺しただなんて言えるほど、ひなたの神経は図太く出来ていない。ひなたは追い詰められていた。あのまま殺しあっていたら、死んでいたのはひなたの方だ。
「……賭けはひなの勝ち。あいつは、諦めたんだ。それでいいな?」
理一の声が、とばりを乗せた救急車のサイレンにかき消される。
だから、ひなたは嘘をついた。
「聞こえなかった」
ひなたの返事に苦笑した理一が、ひなたの肩を抱いていた手を離す。
「なあ」
今は何も聞きたくない。ひなたの願いなど、この男が聞き入れるはずもない。知っているから、ひなたは何も言わずに目を伏せる。
「良い案を思いついた。ひとつ、俺から提案だ」
理一はひなたの耳に手を当てた。
「先回りして、とばりの遺体を奪うってのはどうだ」
「え」
予想外の言葉。思わずひなたは顔を上げる。
「俺、とばりの死に顔拝んでねえし。世界的テロリストが死んだんだ。ちゃんと顔見とかなきゃ、実感わかねえだろ」
理一はニッと笑って見せた。
「俺、嫌いな奴は自分の手で葬りたい主義なんで」
つまり、とばりを弔ってやろうと言うのだろうか。ひなたが数度目を瞬かせると、
「行くぞ」
理一は近くに停まっていた車に乗り込む。
「……悪趣味」
ひなたが呟くと、エンジンをかけた理一が運転席の窓を開けて手招きした。迷っている暇はない。理一のような強がりは、どうあがいても口から出てこない。だが、国防局を毛嫌いするとばりを国防局の人間に引き渡すことは、とばりへの侮辱だと分かる。
敵同士でも、死んでしまっても。
彼がひなたにとって唯一の幼馴染であり、親友であった過去は消えない。
ひなたが助手席へ乗り込むと、理一は勢いよくエンジンペダルを踏みこんだ。
狙いは前を行く国防局専用の救急車。先回りして、国防局で遺体を下ろす際に奪う。思わず笑ってしまいそうになるほど単純な作戦だ。しかも、お宝が敵の死体だなんて。
「最悪」
ひなたは毒をはき出す。
そうでもしなければ、とばりの夜のように深い瞳を思い出して、自分が自分でなくなってしまいそうだった。
とばり。その名を口の中で呟く。テロリストの名であり、親友の名であるその三文字を、ひなたはひたすら噛みしめた。