6.僕以外のこと、考えてるでしょ
「なかなか……やる、ねっ!」
ひなたの銃弾がとばりの頬をかすめた。青空に張り巡らされた鮮やかな赤柱、その空中を散乱した血液に、思わずひなたの目が吸い寄せられる。外すつもりはもとよりない。だが、殺すつもりはもっとなかった。だからかもしれない。とばりが自らの手によって傷つくたび、ひなたはどうしても動揺を隠しきれずにいる。
「でも」
伸びやかに舞う右足。ひなたは咄嗟に腕で受ける。
「っ」
「よそ見はダメだよ、ひなたちゃん」
続く左ストレート、かわして引き金を引く。太ももかアキレス腱か。少しでも弾がかすれば動きは鈍る。弾道は見届けない。とばりなら避ける。だからこそ。ひなたは腰を低く下げ、足元をはらう。狙いは足だ。銃弾にしろ、打撃にしろ、まずはとばりの機動力を奪う。だが、本命の攻撃もとばりは軽やかにかわしていく。とばりの小刻みなステップが東京タワーの階段を揺らす。踊り場から欄干へ。飛び乗ったとばりにひなたは再び銃口を向けた。
チリッ――神経が灼け切れるような一瞬。銃弾がとばりと交錯する。薬莢の匂い。とばりの黒髪が宙を舞う。とばりは網目状に走る鉄筋コンクリートを器用に掴み、体を引き上げる。
「逃がさない」
ひなたは階段を駆け上がった。金属の重低音にひなたが顔を上げると、踊り場で待ち構えていたとばりの蹴りが飛んでくる。まともに喰らえば骨が折れる。迷っている暇はない。ひなたはバックステップを踏み切った。イチかバチか。背中から落ちていく感覚。落下速度と体感時間、それを上回る勘だけを頼りに、ひなたは階下の踊り場に両足をつける。着地成功、だが安堵している時間もない。すぐに顔を上げる。追撃は来なかった。
「さすが」
弾丸と同じ黒鉛色の瞳が細められる。頬から滴っていた血はすっかり乾いていた。残っているのはその痕だけ、それがやけに生々しい。
ひなたは一度息を整えた。パーカーについた汚れを払い、ゆっくりと銃を構えなおす。とばりから与えられた仕切り直しだ。情けのようで腹立たしいが、プライドは今最も余計なもの。かなぐり捨てて迎え撃つ。
再び引き金を引く。鉄筋コンクリートが派手な音楽を奏でた。柱から柱へ。柱から欄干へ。欄干から階段へ。とばりは全ての弾を避けながらひなたへと接近する。瞬間移動のようだ。
ひなたはその違和感に気を張りつめる。認識できない空白の時間が確かに存在している。とばりの動きは変則的だ。国防局で叩き込まれた動きに似ていて、けれど、どこか違う。
昨日、とばりと戦ったときほど予測が出来ない。これが彼の本領だろう。
「くっ……!」
気づけば、ひなたの銃にとばりの手が触れていた。離さない。ひなたは銃の側面を二度親指でたたく。ひなた専用ライフルに込められたキー。銃身は軽い衝撃を連続的に与えられ、その力を解放する。バツンと大きな音がして、とばりが一気にひるんだ。銃に走る大電流。銃口から放出される電子が、とばりの体を一瞬にして駆け抜けたらしかった。
「ははっ、なるほど。いいね。その機能、僕は知らなかったな」
「去年もらったからね」
「それは羨ましいよ」
とばりは手をヒラヒラと軽く振る。電流の痛みを分散させるための三度の往復、四度目、彼の手の中にナイフが現れてひなたは反射的に引き金を引いた。手品師にでもなった方が良い。ナイフに弾かれた銃弾の音を聞きながら、ひなたはそんなことを考える。
「再開だね」
とばりが突き刺すようにナイフを繰り出す。この距離感、とばりの得意なフィールドに持ち込まれた。ひなたは直感を信じて必死に避ける。重力を理解した一撃は重く、その割に速い。気を抜けば銃が使い物にならなくなる。面倒なことになった。右、左、時々上や下に、不規則に空を裂くナイフが白髪を数本ひなたから切り離す。
とばりのスピードに、ひなたは次第に追い詰められていった。読めない軌道で振りかざされるナイフ。銃とは違う、手では受け止められない。至近距離での攻防。呼吸も浅いままに避け続ける。銃身に傷が入っていくのを感じながら、ひなたは一歩、二歩と距離を取る。
「逃げてばかりじゃダメだよ、反撃しなくちゃ」
トン、ひなたの背に欄干がぶつかった。
東京タワーの外階段は狭い。広いところへ逃げようにも、地上で一般人を人質にとられてはかなわない。外階段が修復工事中であったことだけが唯一の救いだ。
「また、僕以外のこと、考えてるでしょ」
「メンヘラ」
肉薄する銀刃。
読めた――
ひなたはとばりの手の甲に手刀をたたきつける。銃で防ぐと思っていたのだろう。とばりが目を見開いた。とばりの顔へ弾かれる手。すぐさまとばりもそれを振り戻す。腕を盾に防ぐ。互いの腕が交錯する。
今!
ひなたは思い切りとばりの股間めがけて蹴りを放った。
とばりがグンと高く後方へ跳躍する。身の危険を察知した動物の本能的な動き。重力を知らぬ体。ジェットエンジンでも積んでいるのだろうかと思うほど飛び上がったとばりの口から
「あ」
と間抜けな声が漏れた。
とばりの後ろにあるものは下へと続く階段だ。着地を失敗すれば、いともたやすく体は転がり落ちていく。否。その方が良かった。
とばりの体は、すでに欄干を越えて外へと放り出されていた。
外階段の外、それはつまり空だ。空中という名の虚無の洞。翼を持たぬ人間は、途中の柱でも掴まない限り地上へと落下して死ぬ。
ひなたがそれを悟った瞬間、滞空していたとばりが笑ったように見えた。
「とばり!」
ひなたは慌てて階段を一足飛びに駆け下りる。テロリストから国を守る。それがひなたの役目だ。だが、ひなたの体はそれに反して動く。親友を助けるために。欄干から身を乗り出して手を伸ばす。真下にとばりの黒い影が見えた。
とばりの口から、穏やかな吐息が聞こえた。
「今日は、諦めるよ」
伸ばした手が空を切る。とばりはそのまま落下していく。複雑に絡み合い、幾重にも張り巡らされているはずの柱にぶつかることもなく、彼の体が地面へ吸い込まれていく。
「とばりっ! とばり‼」
ひなたは彼を殺すまいと必死に階段を駆け下りる。手すりを滑り、段差を飛ばし、時に足がもつれて転がり落ちても。彼より先に地に降り立たねばならなかった。
「とばり‼」
ひなたは工事中の看板を飛び越える。
――その先には、真っ赤に染まったコンクリートと、空から落ちたとは思えないほど美しく横たわる幼馴染の姿があった。