5.命を粗末にしちゃダメだよ
「やあ、ひなたちゃん」
「……な、んで」
ひなたの手からパフェ用の長いスプーンが落ちる。今まさに口へと運ばれようとしていたはずのイチゴと生クリームが、スプーンと共に安っぽいファミレスのテーブルに転がった。崩れたイチゴからじわりと赤が滴る。
新品のパーカーが汚れなくてよかったと思うべきだろうか。
「あーあ、もったいない。命を粗末にしちゃダメだよ、ひなたちゃん」
とばりは嫌味ひとつない笑みを浮かべて、落ちたイチゴを拾い上げる。命を粗末にしている男に言われたくない。ひなたが睨むも、とばりは気にしない。なんのためらいもなく、彼は潰れた果実を口の中へと放り込んだ。
「汚い」
「平気だよ、これくらい。三秒ルールって言うでしょ」
軽い笑い声。まるで友人のようだ。当たり前のようにひなたの前を陣取ったとばりは、硬いソファに体を預ける。とばりは転がったままのスプーンを持ち上げてパフェへと差し込むと、これまた当然といわんばかりにソフトクリームをすくいとった。
「ちょっと」
「ふぇ?」
とばりはスプーンを口にくわえたまま首をかしげる。可愛いとでも思っているのか、クソテロリストめ。ひなたは苛立ちを右手にこめて、とばりからスプーンを奪い取る。
「勝手に食べないで」
ひなたはこれ以上とばりにパフェを盗られないよう、イチゴソルベを口いっぱいに頬張る。とばりはそんなひなたに目を細めた。ムカツク。満足げなとばりに対し、ひなたの機嫌は下がっていく。おいしいパフェが台無しだ。まさか二日連続で顔を合わせることになるとは思わなかった。
「早く帰って」
「昨日の返事を聞きに来たんだ。だから、まだ帰れないかな」
「急がないって言ってたくせに」
「今日がダメなら、明日も来るよ。何度でもね」
「興味ない。だから帰って」
もう来ないでとは言えなかった。やはり、とばりを目の前にすると過去のことを思い出して胸が締め付けられる。
三年前まで、彼がひなたの世界のすべてだった。いなくなって、散々泣いた。ようやくその過去に区切りをつけたところだったのに。
「興味がないのは、僕に? それとも世界に?」
「どっちも」
「ほんとに?」
ひなたは返事の代わりに咀嚼を繰り返す。イチゴの下に潜んでいたコーンフレークが口内で乱雑な音を立てた。過去の友情も、思い出も、全部こんな風に簡単に砕けてしまえたらいいのに。ひなたはそう願わずにいられない。
「最初の質問にも答えてあげるよ?」
「必要ない」
「冷たいなあ。なんでここがわかったか、気にならないの?」
「どうせつけてたんでしょ」
「あはっ、大正解。さすがだね、気づいてたの?」
気づいていたらどこかで巻いていた。こうして前にとばりが座っていることが答えだ。昨日もそう。とばりもわかっているだろうに、わざわざ試すような問いかけに腹が立つ。
こんなに性格の悪い男だっただろうか。
落ち着かない。ひなたはパフェをスプーンですくっては戻し、かき混ぜて、弄ぶ。
「ちゃんと考えてくれた?」
とばりは両手で頬杖をついて、ひなたを真正面から見据える。それだけならば人畜無害な青年だ。世界を掌握するためのお誘いをしているだなんて誰が信じられるだろう。
――連れ戻しなさい。
局長の声が脳内に再生され、ひなたはパフェを漁る手を止める。このまま、交渉に持ち込めたなら。本当にとばりと親友に戻ることはできないのだろうか。
甘い期待が胸をうつ。ひなただって人間だ。すがれる希望にはすがりたい。
「ねえ」
ひなたが顔を上げると、とばりの真っ黒な瞳とぶつかった。飲み込まれそうなほどの夜。透き通る深淵には期待がたっぷりと込められている。ひなたは直視しないように、とばりの耳、黒髪の隙間に見えた小さなワイヤレスイヤフォンを見つめた。ひなたもよく知っている。その既視感にひなたは蓋をする。彼には何が聞こえているのだろう。
「戻ってくる気はないの」
「だから、ひなたちゃんをこうやって誘ってるんでしょ。戻る気があったら、そもそもあそこから出てないよ」
「……じゃあ、なんで、出ていったの」
とばりは静かに首を二度、横に振った。彼はついていた頬杖を解いて、ひなたの方へと手を伸ばす。不思議な感覚だ。動きは確実に認識しているはずなのに、ひなたはその手を避けることすらできない。
ひなたの白髪がすくい取られる。そっと耳にかけられた髪、とばりと色違いのイヤフォンを彼の指先がなぞる。
ギ、とソファからとばりが腰を浮かした音がよく聞こえた。とばりの顔が近づく。時が止まったかと思った。
「な」
に、の音がこぼれ落ちる前に、とばりのやわらかな黒髪がひなたの頬をくすぐった。
「内緒」
とばりはテロリストとは思えないほど美しく微笑むと、再びソファに腰を沈める。何もなかった。そう思わせるだけの自然な動き。ひなたが呆然としていると、とばりは声を上げて笑う。
「局長から言われたの?」
「……何を」
「連れ戻せって言われたんでしょ」
「違う」
嘘じゃない。局長は捕まえろと言ったのだ。ひなたがきっぱりと言い切ると、ふたりの間に不自然な数瞬が生まれる。だが、とばりはすぐに息を整える。
「嫌だって言ったら、ひなたちゃんはどうするの?」
「とばりこそ」
「僕は、欲しいものは必ず手にいれるタイプなんだ。諦めないよ」
「メンヘラじゃん」
「溺愛系って言ってほしいなあ」
「キモ」
ひなたはパフェの底をさらい、最後のひと口を放り込んで立ち上がる。伝票を取ると、とばりも一緒に席を立った。なぜついてくるのか。ひなたの怪訝な視線をとばりは気にするでもなく、後ろからひょいとひなたの手から伝票を引き抜く。またも気配なく、音もなく。
ひなたが足を止めると、店員に伝票を渡したとばりが振り返る。ひなたも細心の注意を払って足を止めたのに。とばりは気づくのか。
「やっぱり、テロリストなんだね」
ひなたの呟きに、とばりは困ったようにふっと笑う。
「交渉決裂、かな?」
「だったらどうするの」
「言ったでしょ。僕は諦めないよ。それとも、戦って決める?」
「は?」
とばりはファミレスの扉を開けると、目の前にそびえ立つ東京タワーを指さして見せた。
「ひなたちゃんが勝ったら、僕はひなたちゃんの説得を諦めて帰るよ。僕が勝ったら、ひなたちゃんは僕を連れ戻すことを諦めて帰る。今日のところはそれでどう?」
青空に輝く赤い塔。それは危険を示す色。
ひなたはチカチカと頭で警告を鳴らす理性を振り切って足を動かす。
「一生諦めて」
「それはさすがに譲れないなあ。ああ、それとも」
ピクリとひなたの指が動いた。それは本能的な動き。張りつめた空気を切り裂くための反射的なもの。
「本当に一生を賭けるほどの一戦にする?」
とばりはフッと笑みを浮かべる。
「ひなたちゃんに、その覚悟があるなら」
ひなたは人を殺せない。
とばりはそのことをわかっている。知っていて煽っている。やはり、ひなたの知っている以前のとばりではない。こんなに性格の悪い男ではなかった。間違いなく。
「行こう」
とばりはデートに誘うような口ぶりで東京タワーへと駆けていく。
どうして新しい服を買うたびに。ひなたはとばりの背中に愚痴を訴える。
彼のスピードに置いていかれぬよう、ひなたは力強くアスファルトを蹴った。