4.譲ったみたいな言い方しないで
「了輪とばりを捕まえなさい」
鋭い流し目がひなたを貫く。局長は切りそろえられたショートボブを手の甲でかき上げた。怒りがこもっているのに、なんとも洗練された動きだ。ひなたはその手を追うだけにとどめる。表情を崩したつもりはなかったが、返事をしなかったことで局長はひなたの意志を感じ取ったらしい。
「連れ戻せ、と言えばいいのかしら」
言葉を変えた局長は、ひなたのことを甘いと思っているのだろう。隣にいる理一が局長の寛大さに肩をすくめた。
「局長サンは優しいっすね」
「あら、あなたの方がよっぽどだと思うけれど」
「了輪とばりはテロリストですよ? 連れ戻すだけで良いんですか」
「愚問ね」
局長は窓の外へと視線を向ける。防弾ガラスの外、無機質な色だけが並ぶ街。そこに働く人々の流れを一瞥し、局長はゆっくりと振り返った。
「国防局はひなたのための組織よ。我々の行動や言葉ひとつであなたを動かせるなら、わたしたちはそれに尽力する」
それはすなわち、国を揺るがす事件の結末はひなた次第。常に、国にとっての正しい選択をし続けろとプレッシャーをかけているのだ。
責務を改めて実感させられ、ひなたの肩は無意識に縮み上がった。甘いと言われた方がマシだ。局長は本当に嫌なところをついてくる。
もしも、とばりが本当に国をどうにかしてしまうつもりなら?
ひなたが自ら答えを出す前に、
「ひなた」
局長が名を呼んだ。
「了輪とばりを連れ戻しなさい。あなたがそう望むなら」
これは慈悲だ。ひなたは今度こそ小さくうなずく。
チャンスは二度訪れない。これで失敗したら、局長は次こそ、捕まえろ、と言うだろう。そのことを胸に仕舞い込んで、ひなたは今与えられたものをしかと享受する。
ひなたたちの退路を塞いでいた扉が開く。用は済んだ。ひなたは局長に深く頭を下げて部屋を後にする。大げさな作動音を立てて閉まった扉に、理一が深く息をはき出した。
「満足か」
エレベーターの呼び出し端末に手をかざした理一を横目に、ひなたは非常階段の扉を押し開けた。外から流れ込んできた風がひなたの白髪をさらう。舞い上がった髪が背中をくすぐった。
「あ、おい! エレベーター、呼んだんですケド」
「うるさい」
今、エレベーターなんて密室で理一とふたりきりになるなんて耐えられない。甘いだなんだと小言を聞く気にはなれなかった。
ひなたは続く会話を脳内でシミュレートして
「階段で行く」
と背を向ける。
「了輪とばりは、テロリストだぞ」
残念ながら階段を下りていくひなたに、シミュレート通りの声が降る。理一の声はよく通る。だから嫌いだ。
わかっている。とばりはもう幼馴染でも親友でもない。テロリストだ。
「だから、連れ戻すんでしょ」
ひなたは自らに言い聞かせるようにして、階段を軽やかに跳んだ。気持ちとは裏腹なステップ。踊り場の縁へ着地し、右足を軸に体を半回転させる。しゃがみ込み、縁を両手で掴んで背中から体を外へ放り出せば、後は次の階まで落下するだけ。階下の踊り場、その縁に両足がつく。再び縁を掴む。その繰り返しだ。
射撃訓練場のある階へと体を滑り込ませ、ひなたは顔をしかめた。
最上階からエレベーターが降りてくる。いくら身体能力が発達していようと、文明の利器にはかなわない。無情なほどに明るい電子音と共にエレベーターの扉が開いた。
咄嗟に訓練場へと走り出す。
「逃げられるわけないだろ」
首根っこが後方へ引かれる。さすがのひなたも力勝負では理一に勝てない。重心が後ろへ傾く。その状態で軽くかかとを蹴られれば、人は簡単にバランスを崩す。ひなたの体はすっぽりと理一の胸元へ収まってしまった。がっしりと腕でホールドされて抜け出せない。
「なあ、ひな。ちゃんと話をしよう」
耳元の甘いささやき。ひなたの背筋に電流が走る。
これがもしも少女漫画の世界ならば、理解不能なほど派手な効果音がつけられていたことだろう。ときめきという目にも見えず、耳にも聞こえないはずの謎の感情を表すに相応しいオノマトペが。
「……りぃくん」
ひなたは呼吸を整え、理一の腕の中で体を反転させる。出来る限りゆっくりと。理一の顔を覗き込めば、ひなたの身長では自然と上目遣いになる。そのまま、自らの胸を押し当てるようにして、ひなたは理一へしなだれかかった。これには、さすがの理一も口角をひくつかせる。仕返しだ。
理一の思考が止まったであろう一瞬の隙。
「キモすぎ」
ドン。
ひなたは両手で理一の胸を強く押し出した。
肩から腕へと伝えた力は、理一の体をも傾ける。瞬間、ひなたは膝を曲げしゃがむ。緩んだ腕から脱出し、バックステップで距離をとれば、理一はあからさまに呆れたと目で訴えた。
「仕方ない、今日は俺の負けでいーよ」
「譲ったみたいな言い方しないで」
「わかったって。悪かった。とばりを連れ戻そう。あいつの家もここだもんな」
理一は訓練場へと目を向ける。廊下とガラスで区切られたそこには、三年前までとばりが使っていたブースがあった。三年前までは、ひなたの隣にはとばりがいたのだ。今は理一専用のブースになっているその場所に。
「けど、忘れんなよ」
「了輪とばりはテロリスト、でしょ」
ひなたが言葉を遮ると、理一は目を伏せた。何かを言いたげにしていたが、結局、理一は喉仏を一度上下に動かしただけだった。
「……りぃくん、わたし、甘いのかな」
ひなたは訓練場の扉に手をかざす。扉は認証完了の文字を表示させ、その鍵を開けた。
自分専用のピストルをブースの棚から引き抜いて、十メートル先の的へと照準を合わせる。数えきれないほど繰り返した動作。無意識にでも、ひなたは次の行動をとれる。
「甘いね」
――ポォン。
理一の声が軽やかな電子音にかき消された。
的の中心から数ミリ外れた場所でレーザーポインタが赤く発光している。急所を外した一撃。人を殺さないために、ひなたが会得した技術のひとつ。
「中途半端じゃ、何もかも失うぞ。生きるか死ぬか。俺たち人間には、その二択しか与えられてないんだからさ」
ひなたは引き金を引く。何度も。数発の仮想弾が的を射抜く。そのどれもが的の中心からは数ミリずつ離れていた。
「わたしは、とばりを連れ戻す」
ひなたはぐっと銃口を持ち上げ、ゆっくりと引き金に人差し指をかけた。
見えない銃弾が、ひなたの構えた銃口から音もなく解き放たれる。
的の中心に点滅する赤。ひなたは肩で息をした。
理一は軽く手をたたくと、ひなたの手から銃を抜きとる。かわりに、空になったひなたの手の甲を持ち上げた。
「……仰せのままに、お姫さま」
手の甲にあたたかな温度が触れる。理一のやわらかなその口づけを、ひなたは拒むことが出来なかった。