32.わたしは、生きるよ
「ひな」
自らの頬に触れる熱に、ひなたは目を開ける。
朝日が差し込んでいた。真っ白な天井、揺れる白いカーテンとカゴに盛り付けられたフルーツの色彩が眩しい。漂う薬品の匂いと石鹸の香りが、ここがどこかを悟らせる。
理一がひとり、ひなたの手を握っていた。
「……りぃくん」
ひなたは理一の手を握り返して、その感触を確かめる。夢じゃない。ここは、ひなたが生きるべき世界だ。
酸素マスクから供給された新鮮な空気をたっぷりと吸って、ひなたは、自らの頬に涙が伝っていると気づいた。理一がそれを拭ってくれたのだということも。
「おかえりなさいませ、お姫さま」
理一がたっぷりの愛嬌を混ぜ込んだ笑みで、ひなたの手に口づけを落とす。
お姫さまじゃない。何度言えばわかってくれるのだろう。
「セク、ハラ」
ひなたの呟きを理一は嫌味ったらしく鼻で笑い飛ばす。ムカツク。ひなたは目だけを動かして、理一を睨みつけた。まったく怖くないと理一は表情で告げてみせる。それがまた腹立たしい。
「おかえり」
「……た、だ、いま」
「一週間、眠ってた。いい夢でも見たか?」
目覚めたくないと思うほどいい夢だった。ひなたが目を伏せると、理一はそれだけで意味を察したようだ。空いている片手でひなたの髪をそっと撫でる。
「ひなが、とばりを連れ戻したんだぞ」
「うん」
「あいつも、いい顔で眠ってた」
「うん」
「ちゃんと、仲直りできたか?」
「……うん」
ひなたの目から涙がこぼれ落ちた。止めたくても、止まらない。いつもなら、泣いたりなんかしない。三年前、とばりがいなくなって以来、ずっとひなたは泣かなかった。どんなに辛いことがあっても。
でも、今だけは止められなかった。
「とばり、は」
どこにいるのか。それは聞けなかった。聞かなくても、世界が教えてくれるから。知りたくないことも、知らなくていいことも、本当はあるはずなのに。
理一も静かにうつむくだけで、答えはしない。それこそが答えだ。
とばりはもういない。
それは、ひなたが唯一犯した間違いだった。
ひなたはとばりの理を壊す力を消し去った。理を正す。自らの力を使うことで、とばりの能力を打ち消した。理を司る力なんて、この世には存在しない。それが正しい世界の在り方だから。
ひなたは、とばりの能力だけをそうしてこの世界から消すことができると信じていた。
とばりの命は間違っていない。それが正しいことだから。
けれど。
正しい世界では、死んだ人間が生き返ることはない。
だから、とばりはこの世界から消えた。生き返った人間など存在しない世界で、彼が生きていけるわけなどなかった。
ひなたの、唯一の誤算だった。
世界すら教えてくれない結末。それが、ひなたの選んだ結末。
「とばりは……ありがとう、って、言ってた」
自らの命を奪った相手に感謝するなんてバカみたい。そんなバカ相手に涙を流しているひなたは、もっとバカだ。
「……どうしてっ」
どうして、とばりを助けられなかったのだろう。どうして、とばりは死んでしまったのだろう。どうして。
声のかわりに、思いが涙となってこぼれ落ちていく。
「夜はいつか明ける。それが、世界の理なんだよ」
理一が強くひなたの手を握った。理一はもう、ひなたの涙を拭わなかった。何度も髪を撫で、ひなたの手をさすり、震える唇を噛みしめていた。
「だから、朝を迎えた俺たちにできることは、生きていくことだけだ」
「そんなの……」
言われなくたってわかっている。わかってるよ。
それでも、生きていく。
それだけが、ひなたがとばりにできる償いだ。
どんなに苦しくても、辛くても、真っ暗な夜が訪れても。ひなたは生きていく。
とばりはもうひとりのひなただ。世界の表と裏だ。世界の半分だ。だから。ひなたが生きてさえいれば、とばりだって生きていける。そういう風にできている。でも。
生きていてほしかったよ。
もう一度、隣で笑いたかった。
とばりと一緒にパフェを食べて、とばりが死ぬまでに見た方がいいと言ったピラミッドも見に行って、丘の上で星を数えて、朝までゲームしたかった。
「とばり」
とばりと一緒に、生きていきたかった。
「……っ……う、ぁぁああああああ!」
ひなたは声が枯れるまで泣いて、泣いて、泣き続けた。背中の痛みも、浅い呼吸も、不規則なバイタルセンサの音も、何もかも、気にならないくらいに。理一も気づけば泣いていた。ひなたはそれを見てもう一度泣き、けれど、泣き疲れて、最終的には涙も枯れた。
朝日が昇っていく。
病室を照らす光が広がっていって、ひなたは自然と眩しさに目を閉じる。まぶたの裏側、とばりが笑ったような気がした。
かわいい顔が台無しだよ。
そんな風に言っている気がする。誰のせいだと思っているんだと言いたくなる気持ちをこらえて、うるさい、とひなたは心の中で呟いた。
目を開いたとき、もう、とばりの姿は見えなくなっていた。
「……わたしは、生きるよ」
その背をもう追いかけることはない。
ひなたの声に、理一もまた強くうなずいた。
「ああ、生きろ。生きて、生きて、生きて、ひなが正しいと思った道で生きろ」
「今度は、りぃくんに邪魔なんかさせない、から」
ひなたの恨み言に理一は苦笑する。
だから、とばりも。
とばりも、わたしの中で生きていて。
ひなたは握っていた理一の手を離して、酸素マスクを外す。新鮮な酸素ではなく、お日さまの匂いが混ざった病室の空気が、この世界が、ひなたの肺を徐々に満たしていく。そこに、とばりはいないけれど。それでも。
「生きるよ」
ひなたはもう一度だけ自らに言い聞かせた。
とばりと出会えたこの世界を、簡単に捨ててしまうわけにはいかない。
残酷で、醜くて、ときに間違ってしまう世界でも。捕まえなくちゃいけないような悪人がそこら中にはびこっていて、無意味に人が死んでいって、正しさなんてものが何かもわからなくなってしまうような世界でも。
生きるためにあるのだから。